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 万事改まる3月  「宣長」誕生
 ひな祭り  

 万事改まる3月  

 3月は万事改まることが多い。江戸に向かう人、帰る人。改名もこの月が多い。参宮客も増え出す。この月の重大な出来事として、「3つの大きな出来事」以外に次のようなことがありました。

寛保元年(11歳) 3月、父・定利(46歳)、江戸に出立。最後の別れとなった。
寛保2年(12歳) 3月、実名を「栄貞」(ヨシサダ)と改める。20歳の時に読みを「ナガサダ」とする。
延享2年(16歳) 3月26日、『【伊勢州飯高郡】松坂勝覧』の稿成る。
延享3年(17歳) 3月26日、一年の滞在を終え江戸出立。
寛延元年(19歳) 3月27日、『端原氏城下絵図』起筆。
宝暦元年(22歳) 3月10日、江戸に下向。7月まで滞在し、兄死去の後始末。
宝暦9年(30歳) 3月4日、『伊勢物語』講釈を開始する。
宝暦10年(31歳) 3月、『阿毎莵知弁』成る。
宝暦12年(33歳) 3月9日、京都時代の友人・山田孟明が参宮の途次立ち寄る。この時、『冠辞考』を見せる。
明和7年(41歳) 3月、長女・飛騨初節句。祝いとして村田与三兵衛から小着物、紙雛。津の勝の実家から雛代として金100疋(1両の四分の一)、肴代など届く。
天明2年(53歳) 3月2日、伊勢の前山に花見に行く。
天明3年(54歳) 3月9日、「鈴屋」竣工初の歌会開催。『日記』に「於新二階臨時歌会、初度也」とある。
寛政13年 3月1日、和歌山から帰郷。中旬、山室山で竣工した奥墓の桜を見、28日、京都に出立する。

 「宣長」誕生  

 宝暦5年3月3日、本居栄貞は、稚髪し、名を宣長と改め、号を春庵と称し、十徳着用す。この日から宣長は医者となる。母も「そもじ殿事も、いしや相ぞくの心がけにて、名も御改、十徳、節供より著被申候由。めでたく悦申候」(3月12日付)と悦びの手紙を寄こした。
☆『在京日記』「三月三日、為稚髪、更名曰宣長、更号曰春菴常相呼矣」(宣長全集・16_44)


 ひな祭り  

 節句には挨拶回りをするのが当時の慣習だったようです。京都時代も、節句の挨拶廻りをしたようで、宝暦7年には「ひよりよし。せく(節句)。れいのごといはひ侍る、あそここゝ礼にまはる」(宣長全集・16_101)とあります。この日は、武川先生の誘いで景山先生と、高台寺春光院の花見に行きました。他に同行者は幸順、藤伯、上月氏知源尼、元周等。日暮れに帰る。因みに、この日は先生のお供で気疲れしたので、次の日は友人と花見のやり直しをしています。
 松坂での節句も見てみましょう。桃の節句、ある家に行くと、おごそかにお雛様を数多く並べて、お内裏様やお雛様に捧げ物をするなど子供たちのあでやかな遊んでいる。その横で一献頂き、詠んだ歌は、
  お内裏様など雲上人の前で頂くと、雲の上ゆえに春の朧月もおぼろでなく、また酒を満たした盃も格別、格別、 と言う一首。
【原文】
「三月三日人の家にまかりけるにいといつかしくひゝなあまたすゑなめてかけまくもかしこきおまへに物奉りなどわらはべ共のあてはかなるあそびするかたはらにて盃いたしければ
 雲のうへと 思へばけふは 出るより おぼろげならぬ 春のさか月」(安永6年・宣長48歳)


桜 桜  

>>「桜」



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