『枕の山』

◇『枕の山』(マクラノヤマ)
『枕の山』は、寛政12年(1800)71歳の秋から冬、71歳の宣長が、秋の夜長、目覚めた時に詠み続けた桜の歌である。枕の上に桜の山の景色が展開するので「枕の山」だ。成立については跋文に詳しい。
 本書は、『桜花三百首』とも言い、題材は桜。花を待つ気持ちから満開へと花の生涯を詠み、さらに桜への思いを歌った歌や、桜讃歌など多様な歌を載せる。村田春海は「凡古人にも一物を三百首まで詠じ申候事は、比類も無之奉存候、・・尤初盛衰落の次序ありて、一首とても同趣なる御歌無之候は、まことに御自在なる義、大家の御作と奉存候」(享和元年10月3日付書簡)と評した。
底本には『本居宣長全集』を使用した。

>>「村田春海」
>>「三十六の窓」の「桜」
>>「三十六の窓」の「和歌」


【本文】
    まくらの山

       櫻花三百首
1 いとはやも高根の霞さき立て櫻さくへき春は来にけり
2 あらたまの春にしなれはふる雪の白きを見ても花そまたるゝ
3 春霞たつより花もいつかはと山端のみそなかめられける
4 いつしかともえ出る野への若草も櫻またるゝつまとなりつゝ
5 とくさけや櫻花見ておふなふな心やるへき春はきにけり
6 春なからまた風寒みさくら花枝にこもりて時やまつらむ
7 まつとてはさかぬさくらの梢をも見つゝそくらすあからめもせて
8 おそしとてよしや恨みし櫻花さかてやみぬる春しなけれは
9 日にそえて霞たちそふ山見れは花も咲へき時にはなりぬ
10 春くれはおよひもたゆし百千度櫻さくへき日数よむとて
11 まちわふる花はさきぬやいかならむおほつかなくもかすむ山のは
12 けふもまた見えぬ高嶺のさくら花それかとまかふ雲はゐれとも
13 花はまた咲りともなしさほ姫の衣はるさめけふもふれゝと
14 山櫻このめはるさめふりさけて見れとも見えすさくやさかすや
15 さきなはとかたらひおきし山里の花のたよりをまちそわひぬる
16 まちわひて尋ねいるかなやま櫻またさかしとは思ふものから
17 花はなとつれなかるらむさきぬやと人も見にくるやとの櫻の
18 櫻花またしきほとに見てしかなかたりて人にうらやまるへく
19 まちわひぬ櫻の花よとくさかはとくちりぬともよしや恨みし
20 待わふるこゝろは時も過ぬるをいつとて花のつれなかるらむ
21 櫻花さかむさかしはしらねとも山へゆかしき春かすみかな
22 さくら花さくときくより出立て心は山に入にけるかな
23 まちつけてはつ花見たるうれしさは物いはまほし物いはすとも
24 さくも皆神のめくみのはつ櫻一枝はまつ折てたむけむ
25 佐保姫も花まちつけしうれしさやけふは霞の袖にあまらむ
26 さくら花今は咲ぬるうれしさか見る見るもなく鶯のこゑ
27 岩か根をふむもおもえす花見むといそく心は空よりそゆく
28 遠しとも思はさらましさくらさく春の山路は八百日ゆくとも
29 岩恨ふむ山もみやこの大路よりけふはゆきよし花見にゆけは
30 さくときくところあまたの櫻花いつれの山をまつ行て見む
31 山深くしけ木かおくも尋ねみむ人にしられぬ花やにほふと
32 たゝそれとまかひしかとも櫻花さけは色なき峰のしら雲
33 梓弓とらねとはるのさくら狩山のかすみを分つゝそいる
34 おくれゐて心空なりさくら花見にとて人のゆくを見る日は
35 山とほく見にこし我をさくら花まちつけかほににほふ嬉しさ
36 やまかつは櫻さくころめつらしく見るさへ花のみやこ人かな
37 来て見れは花の中なる山里のすまひそ春はうらやまれける
38 うきこともきかて見れはや山里は花のにほひも世にまさりける
39 花見には又そきにけるをとつひも昨日もけふも同し山へに
40 あしひきの山へのさくら明日はこじいくか見るともあくよあらめや
41 思ひきやみ山のおくのこかくれにかゝる櫻の花を見むとは
42 あたらしきみやまかくれのさくら花人も来て見よ道とほくとも
43 高しとてたかねのさくらよそなから見てやはやまむ行てこそ見め
44 いとゝしく外山に咲る花みれは峯の霞のおくそゆかしき
45 櫻花里にも野にも山へにも今をさかりと咲にけるかな
46 はるはると来つるもしるく山さくら花はけふこそ盛なりけれ
47 いつれをか分て見るへきさくらはな梢あまたににほふ山へは
48 咲にほふこすゑをおほみをちこちに心うつろふ山さくらかな
49 見る花の木本ことにとまる哉めつるこゝろはひとつと思ふに
50 あかすとてをらはちるへし櫻花なほかくなから見てをやみなむ
51 あかすともをらてこそ見め一枝もやつさは花のつらしと思はむ
52 我も又えこそ過さねさくら花人のをるをはうしと見なから
53 吹風も枝なからやはさそひけるあたら櫻ををる人そうき
54 ひさかたの天路に通ふはしもかな及はぬ花の枝もをるへく
55 櫻花折てかさしておもふとち思ふことなくあそひつるかな
56 くれぬとも今しはし見む山さくら入相のかねはきかすかほにて
57 とほくともいま一たひはきても見むみ山の櫻ちらてまちてよ
58 花見つゝゆけは春日も暮にけりこゆる山路は遠からねとも
59 見てのみやたゝにかへらむ一枝は家つとゆるせ花のやまもり
60 こゝかしこ野山の花にあくかれて屋戸の櫻は見すやなりなむ
61 わか物とはつかに咲る一本もやとのさくらは殊にこそおもへ
62 こぬ人も見にもくるかにわか屋戸の櫻さきぬといさ告やらむ
63 門さして我ひとり見む見にくとも人に見せむは惜き櫻を
64 さひしさも見れはなくさむさくら花物いひかはす友ならねとも
65 散まては世のいとなみもすてて見む花の日数はいくはくもあらす
66 あくまてとみれはいよいよ見まほしき花は櫻の花にそ有ける
67 櫻花見る人ことにあはれてふ言や木陰に山とつもらむ
68 めつらしき花とはなしにさくらさく梢は先そめにかゝりける
69 玉ほこの道のゆくてのさくらはなしるもしらぬもよりつゝそ見る
70 過てゆく人さへそうき立よりて見てたにあかぬ花のこのもと
71 山人もおひこし柴にしはらくはしりうちかけて花をこそ見れ
72 道のへの田面の水に影見えて片山岸に花さきにけり
73 いたつらに櫻は見めや歌よめといはぬはかりの花のにほひを
74 行道にさくらかさしてあふ人はしるもしらぬもなつかしきかな
75 山さとの人としいへは思ひやる櫻の花のゆかりとそ見る
76 此ころはさくらの花のゆかしさに山さと人のなつかしき哉
77 かくすとてあやなくたちそ春霞人にしられぬ花のかほかは
78 かくさるゝさくらのために春も又霞をはらふみそきをやせむ
79 吹とても櫻ちらさぬ風ならは霞のためはまちもしてまし
80 うちわたす礒へに咲る櫻花浪かと見れはよせてかへらぬ
81 こく船も礒山櫻さくころは心よせてや見つゝゆくらむ
82 春の野に霞へたててなくきゝす妻や戀しき花やゆかしき
83 さかりにもなく鶯はさくら花散なむことやかねてかなしき
84 しろたへに松の緑をこきませて尾上の櫻さきにける哉
85 春の日のつねよりことにのとけきは櫻の花のためにや有らむ
86 うくひすも霞もいとゝのとけさをくはふる春の花盛かな
87 さきにほふ四方の梢に風もなく花の京はのとかなりけり
88 雲のうへの花のさかりかひさかたの空ふく風の香ににほふなる
89 へたておほみ身はしもなれは九重の雲ゐの櫻よそにこそ見れ
90 名にしおはは高根の花もまかふ色なくてや見らむ雲の上人
91 さくら花月のなき夜は梢にも衛士のたく火をたかせてしかな
92 みそらゆく月影のみかよる見れは庭の櫻もおほろなりけり
93 思うとち夜をさへ花にあかすかな晝の野山の物かたりして
94 ぬるまなき春のよなから庭さくらさけは朝いもせられさりけり
95 おき出て庭のさくらの花見ると朝食わすれて日もたけにけり
96 池水にしつく櫻の影見れは玉かとそ思ふ海ならねとも
97 さくら花水のかゝみも我なからはつかしからぬ影と見るらむ
98 雨ふれは池のかゝみもくもりけりしをれし花の影は見せしと
99 春雨のふる日は人も見にこねは思ひしをるゝ花の色かな
100 はるさめに落る雫もなつかしきさくらの花はぬれてこそ見め
101 露かゝる櫻か下の草葉さえ花さくころはなつかしきかな
102 契りおきて人まつ人も花を見てあかぬ夕はいそかれもせじ
103 しのゝめのあかぬわかれも中々にいそかれぬへき花のいろかな
104 櫻花ほのほの見ゆる暁はわかれををしむ人やなからむ
105 しぬはかり思はむ戀もさくらはな見てはしはしは忘れもやせむ
106 あちきなく春は櫻の花ゆゑに心いとなし戀はせねとも
107 こゝろから花に心をつくすかなおもひそめすは思はましやは
108 さくら花はかなき色をかくはかり思ふ心そましてはかなき
109 我心やすむまもなくつかれはて春はさくらの奴なりけり
110 此花になそや心のまとふらむわれは櫻のおやならなくに
111 鳥蟲に身をはなしてもさくら花さかむあたりになつさはましを
112 さくら花なすらひに見む色たにもあらはいとかく思はましやは
113 櫻花ふかきいろとも見えなくにちしほにそめるわかこゝろかな
114 日くらしに見ても折てもかさしてもあかぬ櫻を猶いかにせむ
115 つゆたにもうき色見せよさくら花さらはしひても思ひさまさむ
116 ありぬやと咲て散まてさくら花一春見すていさこゝろみむ
117 年を経てあひも思わぬ友なれと猶うとまれぬ花のいろ哉
118 かきたえて櫻のさかぬ世なりせは春の心もさひしからまし
119 つねよりも花さくころはあやにくに早く日数のすきもゆく哉
120 花見れは秋の日よりもみしかきを長き春日とたのみける哉
121 おなしくはとく咲出てとくちらぬ物にもかなやあかぬさくらは
122 をちこちに多き櫻のいかなれは花を見る日のすくなかるらむ
123 さくら花入ては出る月のごとちりて又明日さくものにもが
124 松にいふ十かへりの花さくらをは年にとかへりさかせてしかな
125 櫻花いろはそれかとまかふとも消ゆく雲にならはさらなむ
126 朝ことのさくらの露をうけためて世のうさはるく薬にをせむ
127 尋ね見むしなぬくすりのありときく嶋にはちらぬ花も有やと
128 花咲てちらぬさくらのたねしあらはとこよの國も行てもとめむ
129 春ことににほふ櫻の花見ても神のあやしきめくみをそおもふ
130 たくひなき櫻の花をみてもしれわか大君の國のこゝろを
131 世の人は見てもしらすやさくら花あたし國にはさかぬこゝろを
132 から國も花は千種にさくといへと櫻はかりはなしとこそきけ
133 なが國に此花ありやとから人にさくらをみせてこたへきかはや
134 から人に櫻見せなはその國にかへりてめつる花やなからむ
135 うべなれやかほもすかたもたゞ人のたねとは見えぬ花のおほ君
136 八千種とにほふが中のおやなれはうべも櫻を花といひけり
137 いにしえも花は櫻と思ひてそさくらを花と名つけおきけむ
138 世の中にたとへむ物もなかりけり春のさくらの花のにほひは
139 にほふ色を何にたとへむさくら花綾かにしきか玉かこかねか
140 寳とてこかねも玉も世にはあれと櫻の花をなににかへまし
141 咲にほふ色は此世のものとしも見えぬさくらの花さかりかな
142 のとかなる春のやよひにさけはかもいとゝ櫻のめてたかるらむ
143 見てもなほ見てもめつらし櫻花野にも山にもこゝらさけれと
144 いかにともこゝろはしらぬ心にも見れは桜はさくらなりけり
145 蓬生のせはき屋戸にもうゑなへて見まくほしきは櫻なりけり
146 人の家のひろき櫻の花園を見れはうき身のなけかれそする
147 世は清くすてたる人もすてかねて見るは櫻の花にそ有ける
148 咲にほふ春のさくらの花見てはあらふる神もあらしとそ思ふ
149 おに神もあはれと思はむ櫻花めづとは人のめには見えねと
150 ちからなき枝にはあれと天地も動かしつへき花の色かな
151 櫻花咲るやしろに中々のぬさはたむけし神はめてめや
152 あたなりとたれかいふらむ神代よりかわらす春はにほふ櫻を
153 花のいろはさらにふりせぬ櫻哉くちのこりたる老木なれとも
154 さくらはなこゝらの春をへぬれとも老たりとしも見えぬ色かな
155 おいぬれとなほこそ春はまたれけれ櫻の花の見まくほしさに
156 老ぬれと咲るさくらの色見れは春のこゝろはわかゝへりつゝ
157 友はみなかはりはてぬる老の世にあはれ昔の花のいろかな
158 わかおいのすかたやさしきさくら花むかしの春の友と見るにも
159 さく花においのすかたははつれとも見ではえあらぬ物にそ有ける
160 ともすれは涙おとして老の身のしれしれしさを花に見えなむ
161 老ぬれはもろく涙のちる我をはかなしとこそ花は見るらめ
162 はちもせてあはれうたての翁やと花は見るらむ老のやつれを
163 おいのくせ人やわらはむ櫻花あわれあわれと同し言して
164 年ことにまさる若木の花見ても嘆きもえそふ老の春哉
165 おいの世にわか木のさくら猶うゑていつまてとてか花をまたまし
166 あわれともかけても見めや櫻花なれよりさきに我はちるとも
167 しなはわれ又いつのよにめくり来てあかぬ櫻の花は見るへき
168 さくら花あかぬ此世はへたつともさかは見にこむあまかけりても
169 さくら花千年まてこそかたからめ猶百とせの春は経て見む
170 かくなからちよも八千世も見てしかな櫻もちらす我もしなすて
171 なからへて咲むかきりの春をへて櫻の花を見るよしもかな
172 かくはかりあかぬ櫻のにほふ世に命をしまぬ人もありけり
173 櫻には心もとめで後の世の花のうてなを思ふおろかさ
174 事もなくもなく櫻の花見むと春は我身のいのらるゝかな
175 人はいさわれは死なすて櫻花千世もやちよも見むとこそ思へ
176 とことはに絶せすさけよ櫻花我も萬代しなて見るへし
177 風ふけとちらてとまるにゆく物は花見る人の心なりけり
178 花さそふ風にしられぬ陰もかな櫻をうゑてのとかにを見む
179 山さくら霞のおくにかくれゐて吹来む風にありとしらるな
180 さくら花夜の間の風もしられぬを明日とて人の見にこさるらむ
181 櫻花けふまても見にこぬ人を明日とはまたすちらはちらなむ
182 枝も木もよにくちやすき櫻哉春咲花のもろきのみかは
183 かたをたにうつしおかはや櫻花にほひなくとも後も見むため
184 いかてかは風に櫻のさわくらむ柳にふくはのとけきものを
185 さほ姫のかさしの花の山さくら霞の袖にちりかゝりつゝ
186 昨日まてつもれる雪と見し花のふるにまかひてけふはちるかな
187 めてられむ藤山吹のためにとや櫻の花ははやくちるらむ
188 さくら花かくはかりとくちる物といつの神世にさためそめけむ
189 あかね色とみなせの神のみことのりいともかしこしちるなさくらよ
190 とくちると何思ふらむさくら花さかりをまたぬ人もある世に
191 ことしのみ散花のごとおもふかないつもとまらぬならひ忘れて
192 あかなくに櫻の花のちるを見て春のなけきそもえ初にける
193 さくをまちちるををしむもくるしきになそや櫻を思ひそめけむ
194 いのちあらは又来む春も見るへきも身にかへてなと花を惜まむ
195 はしめあれはをはりある世のことわりも惜き花には思はれぬかな
196 あかなくにいととくちるは世の人を歎かせむとて咲るさくらか
197 まつほとは久しかりしを咲ぬれはことそともなくちる櫻かな
198 櫻花ちるがつらきにくらふれはまちし思ひは数ならぬかな
199 さても又つひの別れをいかにせむをしき櫻はちらてありとも
200 頼まれぬうきよのさかを見せかほにはかなくもちるさくら花哉
201 さくら花さけはほとなくちる物をとはに見むごとまたれつるかな
202 ちれはまたいとゝうきよの櫻花しはしは見つゝわすれしものを
203 はかなくてちるはさくらの心にも人こそしらねかなしかるらむ
204 櫻花ちる木本に立よりてさらはとたにもいひてわかれむ
205 さくらはなよしや今年はちりぬとも又さく春を忘るなよゆめ
206 さくらしも花の命のみしかきはほかの木草にねたまれてかも
207 櫻花さてもあかぬかこゝろみに一春のこれ時はすくとも
208 ちりぬとも一重つゝちれ八重桜七日八日のほとは見るべく
209 わかれする人も櫻のちるを見は思ひうつりて花やをしまむ
210 鳥ならはもち引かけてとゝめまし散行花はせむかたもなし
211 散てゆく花の別れの鴈ならは又秋とたにまたましものを
212 吹風にそひゆく花をよふこ鳥やよよひかへせをしくやはあらぬ
213 花の枝にちるをゆるさぬ關すゑてなく鶯にもらせてしかな
214 うくひすも聲のかきりはなけやなけ我もなくそよ櫻ちるなり
215 鶯のはねにも尾にもかゝれとも涙こほらぬはなのしらゆき
216 ほかの木にふりかゝりても花の雪花としも見すちりぬと思へは
217 散花の雪しまことの雪ならは咲む春へのちかつかましを
218 雪とたにつもりて残れいとせめて惜き櫻の花のかたみは
219 雪とたに見てまし庭のさくら花うつりも行か風のまにまに
220 はかなくも我物かほに見つる哉よそに散ゆく庭のさくらを
221 櫻花ちるを惜めはよるよるの夢路にたにも残るとはみす
222 今朝見れはみな散にけり山さくらふさに手折てこしかひもなく
223 咲ことは見に来る人におくれしにちるはさきたつ花のあやなさ
224 のこりなくうつりもゆくか山櫻ちるを見にとは我はこなくに
225 ちりぬともわかうへにちれ櫻花こよひはねなむあかぬ木陰に
226 ちるさくら色はしほみてかはるとも袖につゝみてもてやいなまし
227 さくら花ちりかひくもる木本はをしむ涙そ雨とふりける
228 櫻花ちる間をたにとおもへとも涙にくれて見えすも有かな
229 散花を見れは涙にかきくれてよるかひるまか夢かうつゝか
230 花ちれはしつ心なき春の日をのとけきものとおもひける哉
231 ちるころは見るめのみかは櫻花耳にもつらき風の音かな
232 ちるらむとよるはすからにさくら花こゝろもさわく風のおとかな
233 朝またきさそはれそむる櫻花かせや夜のまにちきりおきけむ
234 草も木もなひける御世に君をおきて風にしたかふさくらなになり
235 花はしも散むものとはおもはしをこゝろつよくもさそふ風かな
236 いかにしてしはしとゝめむ心なき風にまかすはをしきさくらを
237 ひさかたの空にかけりて花ちらす山風ふせくまほろしもかな
238 山風に櫻の花のちるころは秋よりかなし春の夕くれ
239 さけはちる花のならひと思へとも猶うらめしき春の山風
240 咲花を何のあたとて山風は世にのこさしとふきはらふらむ
241 一木たに形見にのこせさくら花さそふは風のならひなりとも
242 ふかぬ日もちらてやはある櫻花なとひたすらに風をうらやむ
243 吹風よ心にまかす花ならはちるをもとめよまひはしてむを
244 程もなし春の暮なむ日まてたに櫻の花よ待てちらなむ
245 さくら花散なむ後のさひしさは何にわすれて春日くらさむ
246 何を見て来む春まては過さまし形見もてめで花のちりなは
247 夏も秋もさきなましかは櫻花ちるともかくは惜まさらまし
248 春しこは又も櫻はさきなめとちりし今年の花はかへらし
249 木の本になほ残りても櫻花散ぬる色はいふかひもなし
250 このもとにくちなは朽よちる櫻よそのつちにはなさしとそ思ふ
251 ちりはてし花の梢をけさ見れは心長くそ月はのこれる
252 散過しさくら戀しき木本にわすれ草をや植て見てまし
253 いとゝしくわすられかたき櫻かな思ひくまなくちれるものから
254 いそきしは散てくやしきさくら哉おそくはけふも見るへき物を
255 櫻花をしむかひなく散はててのこるは人のうらみなりけり
256 きのふ来て見てましものを悔しくも山の櫻は散にけるかな
257 もみち葉は散てもそれとみる物をなとて櫻の雪となりけむ
258 あかさりし櫻の花のかたみとて見るもはかなき峯の白雲
259 山里のいつともわかぬさひしさも櫻ちりぬるころの夕くれ
260 のこりても春を春ともおもほえす櫻散ての後の日数は
261 さきたちし櫻の花をしたひてや春も程なくくれてゆくらむ
262 櫻花ちりしなこりのこすゑさへあらぬ青葉にかはり行かな
263 散過し春のさくらにおくれゐて歎きの枝もしけるころ哉
264 ちりぬれはあやにめてたく見し色も夢まほろしの櫻なりけり
265 中々に夢ならませははかなくてちるともさくら又も見ましを
266 咲とみし花も月日も夢なれや散て流るゝ春の山川
267 廣き瀬に袖のせはきをいかにせむ流るゝ花をせきとゝめても
268 したはれて花の流るゝ山河に身もなけつへきこゝちこそすれ
269 の中にさくらの花ををしまぬは風と河瀬の水にそ有ける
270 たえすさく浪の花こそ水の沫と消し櫻のかた見也けれ
271 をしかりし心は猶そうつろはぬ散てほとふるさくらなれとも
272 櫻花またさくを見む春まては面影のこれあかぬ心に
273 散過し花の盛を又見せて夢はうれしき物にそ有ける
274 ちりにしを又は身ましや櫻花夢てふもののなきよなりせは
275 さくら花散し木陰に庵しめて残るわか世はへなむとそ思ふ
276 跡もなく散てう月と思ひしにうれしく残る花もありけり
277 同し色の卯花山のおそ櫻友まちつけし雪とこそ見れ
278 夏の来てうの花さけは今さらに消し櫻の雪をしそ思ふ
279 めつらしともしやとまらむ散花に山郭公なかせてしかな
280 春をおきて五月まためや時鳥櫻てふ花さくとしりせは
281 春ならは花見せましをほとゝきすさくらか枝に来つゝ鳴なり
282 をちかへりいかになかまし郭公さくら咲ころ来たらましかは
283 散そめし花おもほえて絶々に今もさくらに蛍とひかふ
284 かけり来てさくらか枝にとふ蛍散にし花の魂かあらぬか
285 山端をとゝろかしゆく鳴神も櫻はふまじ夏さけりとも
286 あつくともさくらの花のみな月にさく世なりせは風はまためや
287 櫻花きて見る春の山ならはいかにうからむ日くらしのこゑ
288 さくら花ちらしし風を秋たてはうらめつらしと人はいふなり
289 さくら花ちらしし風のやとりかとおもへはいとゝうき萩の音
290 見るほとのなきにはあらす櫻花一夜にかきる棚機おもへは
291 同しくは春のさくらの木本にさかせてしかな萩も尾花も
292 はる日さく櫻はみかともゝくさは百のつかさとにほう秋の野
293 松はあれとさくらは蟲の名にたにも聞えぬ秋の野へのさひしさ
294 櫻花かなしき秋のゆふくれにちらは命も露とけぬへし
295 さくらちるこのもとならは猶いかにあはれならましさを鹿の聲
296 くもりなき秋のもなかの月影に櫻の花を見るよしもかな
297 櫻には猶やけたれむひさかたの月のかつらの花はさくとも
298 なが屋とのかつらの花とさくらとはいつれまされり月人をとこ
299 さくを見て別れし春の面影に櫻戀しきはつ鴈のこゑ
300 立田姫さくらいろにも染分よ紅葉にましる花と見るへく
301 さくらあれはもみち見にゆく山路にも春おもほえて立とまりつゝ
302 来て見れは秋の紅葉も散にけり櫻をうしとなと恨みけむ
303 ならふかにさくらの本に菊を植て盛久しき花を見せはや
304 などとくはちりし櫻そちらされは二度にほふ菊も有けり
305 長月にさかは櫻もきくのごとちらて久しくにほひもやせむ
306 はつしくれふれはおもほゆくれなゐのうす花櫻時ならねとも
307 ちりしける春の花かと見るまてに櫻の下におけるあさしも
308 冬をあさみまてど雪たにまだ見えすまして櫻は遠き山端
309 櫻花散て流れし川風も又身にしみて千鳥なくなり
310 ほのかにもすかたを見せよ春の花峯の炭かまけふり立なり
311 夏も秋も冬も櫻のちらてあれなめつる心のかきりなけれは
312 吹風のさそはぬ年も暮ゆくか花のわかれも昨日と思ふに
313 春立て時ちかつけはさくら花いよいよとほきこその面影
314 春のきて霞をみれは櫻はな又たちかえるこそのおもかけ
315 子の日には櫻も引て植て見む松にならひて千世をふるかに


     これか名をまくらの山としもつけたることは、今年秋のな
     かはも過ぬるころ、やうやう夜長くなりゆくまゝに、老の
     ならひのあかしわひたるねさめねさめには、そこはかとなく
     思ひつゝけらるゝ事の多かる中に、春の櫻の花のことをし
     も思ひ出て、時にはあらねと此花の歌よまむと、ふとおも
     ひつきて、一ッ二ッよみ出たりしに、こよなく物まきるゝ
     やうなりしかは、よき事思ひえたりとおほえて、それより
     同しすちを二ッ三ッ、あるは五ッ四ッなと、夜ことにもの
     せしに、同しくは百首になして見はやと思ふ心なむつきそ
     めて、よむほとにほとなく数はみちぬれと、此何かしをお
     もふとて、のとかならぬ春毎のこゝろのくまくまはしも、
     つきすへくもあらて、猶とさまかくさまに思ひよらるゝは
     かなしことともを、うちもおかてよみいていてするほとに、
     又しもあまたになりぬるを、かくては二百首になしてむと
     さへ思ひなりて、なほよみもてゆくまゝに、又其数もたら
     ひぬれは、今はかくてとちめてむとするに、思ひかけさり
     し此すさみわさに、秋ふかき夜長さもわすられつゝ、あか
     しきぬる夜ころのならひは、此言草のにはかに霜枯ていと
     としく長きよは、さうさうしさの今さらにたへかたきにも
     よほされつゝ、夜を重ねて思ひなれたるすちとて、ともす
     れは有し同しすちのみ心にうかひきつゝ、歌のやうなるこ
     とともの、多くおもひつゝけらるゝか、おのつからみそ一
     もしになりては、又しも数おほくつもりて、すゝろにかく
     まてには成ぬる也、さるは、はしめより皆そのあしたあた
     に思ひ出つゝ、物にはかきつけつれは、物わすれかちにて
     もれぬるも、これかれとおほかるをは、しひてもおもひ尋
     ねす、たゝその時々、心に残れるかきりにそ有ける、ほけ
     ほけしき老の寝さめの心やりのしわさは、いとゝしく、く
     たくたしく、なほなほしきことのみにて、さらに人に見す
     へき色ふしもましらねは、枕はかりにしられてもやみぬへ
     きを、さりとてかいやりすてむこと、はたさすかにて、か
     くは書あつめたるなり、もとより深く心いれて物したるに
     はあらす、みなたゝ思ひつゝけられしまゝなる中には、い
     たくそゝろきたはふれたるやうなること、はたをりをりま
     しれるを、をしへ子とも、めつらし、おかし、けうありと
     思ひて、ひめかゝるさまをまねはむとな思ひかけそ、あな
     ものくるほし、これはたゝ
      いねかての心のちりのつもりつゝなれるまくらのやまと
     言の葉の霜の下に朽残りたるのみそよ

   寛政十二年十月十八日      本居宣長



  享和二年壬戌之夏發行

                      勢州松阪日野町
                         柏 屋 兵 助

                      京都寺町四条上ル町
         製本弘所    書林    銭 屋 利 兵 衛

                      同三条通御幸町西江入町
                       河 南 儀 兵 衛


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