宣長と源氏物語展への誘い <10>   

講釈始まる 


  「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」
 これは平安時代の歌人俊成のことば。
 俊成の歌を引いて「物のあはれ」を質問するような松坂の教養人の世界ですから、
この言葉も金科玉条として生き続けていたはずです。

 それにしても『源氏物語』は五十四帖もあり、難しい。
 嶺松院メンバーの希望で宣長は講釈を開始します。
 第一回目の講釈開始は、筆まめな宣長にしては意外なことに『日記』にも書かれていません。おそらく最初は全巻講釈というつもりもないままに仲間と始めたのでしょう。
 ところが、聴衆も減ることなく年末には「葵巻」まで進んだので、年も改まったことでもあるし、
本格的に講釈しようと新たな決意で『日記』に

「十三日夜源氏物語開講、
此源氏の講談は去年の夏より始めけるが冬中に葵巻までおはりて
こよひ榊より又はじめぬ」
  宝暦9年正月13日
と書きました。
 当時の「夏」は4月から6月まで。12月まで最長でも9ヶ月。
この間に『湖月抄』本で4冊進んだことになり、かなり速いペースです。
◇「桐壺」・「帚木」・「空蝉」・「夕顔」・「若紫」・「末摘花」・「紅葉賀」・「花宴」・「葵」

 第二回目の講釈と比較してみましょう。
 明和3年7月26日「今夕源氏物語開講、自桐壺巻始」とスタートして、
 8月26日「桐壺巻」終わる。
 10月10日、「帚木巻」終わる。
 10月22日「空蝉巻」終わる。
 明和4年2月22日、「夕顔巻」終わる。
 4月10日、「若紫巻」終わる。
このように進んで「葵巻」が終わったのは1年2ヶ月後、明和4年9月30日でした。
1年2ヶ月かかっています。これが講釈の通常のペースです。

 講釈の方式について、たとえばみんながテキストを持っていたのかとか、
講釈は夜行われますが、明かりはどうしていたのかなど具体的なことは分かりません。
 宣長晩年まで引き延ばして推測してみると、
 講義の最初は「回章」という連絡通知が送られます。
正月開講には一献差し上げ、一件和やかですが、欠席の時は理由を書くようにと厳しいところもあります。
 見たら名前の右上に線を引き次にまわします。(「開講回章」)
 聴講者は第1回が9名(内、全講受講は7名、2名の内1人は脱落、1人は死去)。
 第4回は 17名に宛て通知しています。吉備の藤井高尚のように飛び入りもありました(『神の御蔭の日記』)。
 講釈は、ストーリーを追うだけでありません。
 語釈の他に、この箇所は異本がよいとか、『湖月抄』説は誤りだとか、研究色が濃かったようです(『源氏聞書』)。
 従って全員ではないにしてもテキストは持っていたはずです。これは驚くべきことです。

 推測ですが、講釈は面白かった。
 メンバーの脱落もほとんどないままに8年から10年がかりで講釈が行われたのです。
 面白くなければ続かないでしょう。
講釈のあとには雑談の時間があった。その記録が『講後談』です。

 


10/12