|
〈三千風は難しい〉〈三千風と旅〉〈穏やかさとしたたかさ〉
〈回想『日本行脚文集』の旅〉〈流行と不易 虚霊主・三千風と風羅坊・芭蕉〉
〈三千風作品の魅力〉〈ブロッケンの妖怪〉〈名所ならお任せ〉
〈風のような三千風〉
〈三千風は難しい〉

今回の展示では、所蔵者のご厚意により三千風の代表作を網羅することが出来た。
展示を一覧していただくと気づかれると思うが、三千風の作品は、自由奔放な筆跡で、内容が難しい。文学史上の評価でも、三千風作品は「難解な漢語の羅列されていて、鑑賞を妨げている」とされているが、自分で勝手に漢字を作り、読み方を決めるのだから読者はたまらない。「○□」で「タツタウ」と読む。「達道」(道徳)のことだろうか。門を縦半分に割って上下に並べてエヘン。「自在循環」はクルリクルクル。「下上し」はヒックリカヘしで上下をひっくり返すと、こんな調子である。明治の頃に『日本行脚文集』を活字にした佐藤飯人は、三千風にしか見られない独自の言葉、造字、文法の破格例を一覧にしていますがなんと14ページ約400例にも及ぶ。これでもほんの一部で、全部挙げたらそれぞれで1冊の辞典になると怒っている。
なぜこんなに難解なのか。一つは当時の俳諧に「奇をてらう」趣味があったことによる。流行だ。三千風の場合はそれに輪をかけて、仏教、儒学、神道、古典などあらゆるものを全部自分の中に吸収して(記憶)混ぜ合わせ、謡曲と俳諧で「ミチカゼ風」の味付けをし、ものすごい勢いで吐き出して文章が書かれていく。一晩に三千句を作った人だということを思い出して欲しい。
『日本行脚文集』序文冒頭の、
「無名(アザナ)を心衛門(ココロカドヲマモル)といふ独の虚霊主(ウツボギミ)」
でも、「無名」がどうして字(アザナ)か、「虚霊主」とは何かと、いくら辞書をめくっても正確な解釈は不可能。
でも感じとしては、「ちっとも有名じゃないが分をわきまえることだけは知っている、取るに足りない一人の者がいる」といったところか。
私の使う字は辞書なんかにゃ出てないよ。「フィーリング」で読むんだよ、と三千風はお墓の下でつぶやいているかもしれない。
▲ページトップへ
〈三千風と旅〉

このように難解な筆跡と作品だが、ていねいに読んでいくと実に面白い、また珍しい記事が多いことに気づく。そのいくつかを紹介したいが、その前に三千風にとって「旅」戸は何であったのかから見てみよう。
三千風は時代の先端を走り続けた。31歳で仕事を辞めて、憧れの第二の人生を歩み出す。没後300年の今、流行っている「ドッグイヤー退職」である。それからの活躍はめざましい。一晩に俳句を何句詠むかという「矢数俳諧」に挑戦し、見事3000句を達成。残念ながら5年後に西鶴が桁外れの23500句を詠み記録は破られるが、既にその時三千風は次の流行を創り出していた。「旅」である。旅と言えば、芭蕉風の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という悲壮感溢れるものを連想しがちだが、三千風の場合はもっと明るい。観光的といってもよいかもしれない。18世紀日本では庶民の旅の最初のブームがやってくるがその先陣を切ったのが三千風だ。
三千風の旅が観光的だと言うと不思議に思う人もいるだろう。確かに出立時の覚悟はすごい。「不惜身命」命を捧げる覚悟、今日を生きるという思いを胸に、山賊にあったら裸になって全部渡すし、殺すというなら命も差し出そう。船賃、宿代、茶代は決して値切るまい。このように神仏に誓った約束は全部で9か条。もし一つでも守れないなら旅は即刻中止だと心に決めた。出立前の句。
いさや霞 諸国一衣(イチエ)の 売僧坊(マイスボン)
〔意訳〕霞立つ春、さあ出立だ。私は諸国遍歴、着たきりスズメの堕落僧だ。
けふぞはや 見ぬ世の旅の 更衣(コロモガエ)
〔意訳〕今日という日がやってきた。未知の地、いやいやあの世への旅かもしれないが、さあ衣装を着替えて出立だ。
旅は辛いことも多いが、三千風の覚悟は決まっている。
無漏路(ムロジ)への 通手形(トオリテガタ)の 法語(ホウゴ)得て 有漏路(ウロジ)行脚の 関ぞ明(アキ)ぬる 『日本行脚文集』巻3
〔意訳〕仏に帰依することで煩悩から離脱するパスポートをもらったが、その境地に達するために、私は煩悩に充ち満ちた俗世を今日も旅するのだ。※有漏・無漏の漏は煩悩の意味。
脱俗への旅だから、無益な争いもしないし心は自在だ。旅を楽しむ余裕も生まれてくる
▲ページトップへ
〈穏やかさとしたたかさ〉

旅では色々なことがある。宮津(京都府)の手前で茶店の女に石を盗んだと辱めを受けたことがある。もちろん石を盗んだことはない。潔白は証明されたが、側で見ていた男は女を許すなと言う。だが三千風はそれを制して、逆に茶代を多めに出して女に感謝されその場を去る。三千風はその夜、泊めてもらった家でその体験談を語りごちそうになる。そこで三千風は言う。腹を立てずに茶代を5銭多く出したら、このようにすぐに300銭の料理となってかえってきた。だから善い行いはしなければいけないのだと。
柔和と楽しく体験を語ることで施しを受けるというしたたかさ、この二つが長い旅を支えたのである。
忍の一露 世界を家の 木ちんかな
〔意訳〕忍というたった一つのこと、それが旅に生きるわたしの、支えなのだ。
▲ページトップへ
〈回想『日本行脚文集』の旅〉

7年に及ぶ旅を回想して三千風は次のように書く。
「思い起こせば天和3年春、奥州の仙台を出発して、天和8年5月まで「大旅」を5年、まだ見落としがあると2年旅し、元禄2年まで、あわせて7年の旅を終えることができた。おおよその距離は3800余里(約15,200km)、一度もぜいたくな馬やかごに乗ることもなく、宿に困ることもなく、食べ物にも困らなかったし、一度も病気にかかることもなく、人と喧嘩することもなく、満足のうちに望みを達成することができたのもひとえに平和な時代で飢饉もなかったお蔭だと幸せを思い起こしながら感謝し、この紀行の清書をした。この旅の記録から20分の1を抜粋し紀行をまとめた。捨てるに忍びないことも多かったが、余りに分量が多くなるのも困るので、三度にわたってカットして全7巻とした。これでもまだ量が多いと思う人がいるかもしれないが、旅行中に世話になったことへの感謝の気持ちであり、この私の心が分かってくれる人のためだけに・・・。」『日本行脚文集』巻7
この7巻というボリュームにも三千風らしさが表れている。
▲ページトップへ
〈流行と不易 虚霊主・三千風と風羅坊・芭蕉〉

三千風は、「無名(アザナ)を心衛門(ココロカドヲマモル)といふ独の虚霊主(ウツボギミ)あり・・・世の稼にすら心をよせず、一生独貧の俳狂ならむ事をや思ふ」『日本行脚文集』序文
芭蕉は、「百骸九竅の中に物あり、かりに名づけて風羅坊といふ、誠にうすものゝ風に破れやすからん事をいふにやあらん、かれ狂句を好む事久し、終に生涯の謀となす」『笈の小文』
体の中にいる捕まえようのない自分の心、ただ俳諧を好むことだけは紛れもない事実だと言う認識から、二人は出発する。しかし次第に距離が離れていく。岡本勝先生は二人を比較して、三千風が「流行」(この場合は旅の体験、また出合い)を求め続けたのに対して、芭蕉は流行から不要なものをそぎ落として「不易」(普遍的なもの)へと入っていくのだと言われた。二人は6年違いだがほぼ同じ行程で仙台から敦賀までを旅する。その記録を比較すると、『日本行脚文集』は約13,800字、一方、『奥の細道』は7,344字。ほぼ二分の一に圧縮されている。その分だけ身軽になった芭蕉は時空を越えることに成功した。求めるものが違ったのだろう。
三千風は、出会った人とのリアルな体験を捨てずに書きとどめたが、これが『日本行脚文集』出版の時に幅広い読者層を獲得する要因ともなった。300年以上も前の本であるから現存する本は少ないが、当時は版を重ねたようだ。このあたりのことも計算できる人であった。
▲ページトップへ
〈三千風作品の魅力〉

『日本行脚文集』は、旅の記録であるが、その大半を占めるのは三千風がその場所で書いてやった文章や発句、またもらった文書などである。それらをつなぐ形で通過地点が記される。従って純粋な紀行文ではない。辞書など持っているはずがないのに、難解な言葉が次々と出てきて、泊めてくれた主人への感謝の言葉になり、景観讃美の文となり、また寺社の縁起にもなる。だから難解さに顔をしかめるよりも、こんな文章がすらすら書けたことに驚いて欲しい。「句商人」という言葉が当時あったそうだが、地方を回って俳諧指導する人だ。三千風もその一人でもあるが、目の前で独自の文体と筆跡で紙を埋めていく漂泊の芸術家でもあった。内容よりスピードと画面構成に目を見張って欲しい。
さて、肝心の三千風作品だが、「流行」を書きとどめただけに、当時の時代を感じさせるものが出てくる。「切支丹」や「計圭(時計)」「皐蘆(ナンバンチャ=コーヒー?)」など。
珍しいものもいくつか見ている。夏も近いことなので、怖そうなものを紹介してみよう。
新潟(新潟県三島郡寺泊町野積)では弘智法印のミイラを見た。このミイラは、「弥勒信仰」を実践した日本唯一で、また最古の入定ミイラで、三千風は二度と見るチャンスはないからと恐る恐る、爪の色から脇の下まで細かく観察した。芭蕉も見ているが『奥の細道』ではカットされた。
「戴龍山延命寺院中地蔵院九景品定」には、射和の妖怪が出てくる。「旦過乱蛍」(タンカランケイ・夜明けに蛍が乱れ飛ぶ)で、「昔からこの延命寺側の竹林には、つるべおろし、見越し入道のような妖怪がいると子どもは聞かされて育った。また産女(ウブメ)鳥だとか、樹神(コダマ)など目に見えないだけに恐ろしく思えた。不動川原には嫁入り狐、ミズチが淵の婿がねカッパには雨を降らせてくださいと祈ることもあった」、このあと三千風はその分析と批評をするのだが、それはともかく、射和と言えば「白粉(オシロイ)」、三千風にとって「射和白粉」は故郷を思い出す重要なものであったようだが、旅から帰ってきた時に「射和白粉」という文を書き、こんな句を添えている。
白粉(オシロイ)や 土朱(ヒチアケ)うばふ 雪女
雪女も欲しがる射和の白粉。良質だったのだろう。
▲ページトップへ
〈ブロッケンの妖怪〉

三千風作品には「眺望」と言う言葉がよく出るが、高いところが好きだったのだろう。さて江戸時代、松阪周辺からは不思議なほど、歩くことで名を残す人が出ている。歴史上著名な人だけでも本草家・丹羽正伯、野呂元丈、公儀隠密も兼ねた植村正勝、探検家・松浦武四郎。また書家・韓天寿は富士山など名山三つに登り「三岳道人」を名乗った。彼らの先駆はもちろん三千風である。『日本行脚文集』だけでも立山、白山、英彦山、富士山といった高峰に登っている。
山は神秘に包まれている。立山の山頂で三千風は驚くべき物を見た。西の空に朝日の影と青紫の輪が映りその中に奇妙な物が投影される、ブロッケンの妖怪だ。当時は阿弥陀の来迎と言われていたこの立山のブロッケン現象の最初の記述は三千風によって残された。
▲ページトップへ
〈名所ならお任せ〉

三千風は、名所発掘とPRでは抜群の功績を残した。田子の浦や松島、箱崎、天橋立など「本朝十二景」、射和延命寺からの九景など、名所を選び俳文を残している。『日本行脚文集』も名所発掘の旅だった。「大山」を「伯耆富士」と命名したり、川中島や島原の乱の跡、倶利伽藍峠など有名な古戦場も漏らすことなく、後世の観光に及ぼした影響は計り知れない。教養のベースが同じこともあるが「奥の細道」をたどる芭蕉が見たものは三千風と重なることは注目に値する。
名所発見・再発見の中でも有名なのが、松島(宮城県)の普及と、「鴫立沢」(神奈川県)の復興と宣伝だ。松島は景観が優れているのでこれは見ればわかるが、鴫立沢には何もない。むかし小田原の粋人が建てた庵(イオリ)が朽ち果てずに残っているだけで。これを「三夕の歌」の一つである西行の歌と結びつけようとするだけに、三千風の方法は、まず全国の俳人や著名人に呼びかけて俳句や歌を募集する。それを本にして刊行する(『松島眺望集』・『和漢田鳥集』)。当時の教養の基本中の基本である謡曲を新たに作る(『金花山』・『鴫立沢』)。鴫立沢では碑を建てることもしている。射和の「冨松の歌」の募集(「冨松八千代集」)もその手法にならったとも言えよう。
三夕(サンセキ)の歌
『新古今和歌集』に載る「秋の夕暮れ」を詠んだ三首の和歌。
寂しさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮 寂蓮
心なき 身にも哀れは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮 西行
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮 藤原定家
このうちの西行の歌が、やがて大磯(神奈川県)で詠まれたという伝承が生まれ、
名所として「鴫立沢」が成立しました。西行を慕う三千風は、その場所を復興し碑を建て、
また新作の謡曲『鴫立沢』を作って普及に努めたのです。
▲ページトップへ
〈風のような三千風〉

「奥の細道」をたどる芭蕉が、仙台で三千風を訪ねたときには、行脚の旅の途中にあり、赤穂義士の一人・大高源吾が鴫立沢の庵を訪問したときは、あいにく留守で会えず。
まるで風のような人だ。
果たして私たちは三千風さんに、会えるのだろうか
▲ページトップへ
>>「大淀三千風」
|