大淀三千風 (オオヨド・ミチカゼ)
 大淀三千風(おおよど・みちかぜ)は、1639年に飯野郡射和村(松阪市射和町)の商家に生まれた。本姓は三井。名前は友翰(ともふみ)。当時射和(いざわ)は、産業と商業で繁栄した場所であった。少年の頃から俳諧に関心をもっていたが、仕事が忙しく、一人で勉強を続けた。
 31歳の時にようやく許しを得て仕事を辞めて、姓を「大淀」(おおよど)と改め、歌枕として知られていた松島(宮城県)に行き、そのまま仙台に住む。同地では、俳諧の指導をしながら、「大矢数」(当時流行の俳諧のゲーム)に挑戦、一晩に3000句という記録を樹立、これ以後「三千風」を名乗る。また、「松島」のすばらしい景観をより多くの人に知ってもらうべく新作の謡曲を作ったり、また全国の人から俳句や歌を募集し『松島眺望集』として刊行するなど努力した。芭蕉が「奥の細道」の旅に出ることを決意したのも、三千風のこの本の影響とされている。

 仙台住まいも15年が過ぎ、45歳になった三千風は、かねてからの願いであった諸国遍歴の旅に出る。以後7年間。途中郷里の射和に戻ってはまた旅に出るという事を繰り返し、北は岩手・秋田から西は熊本・長崎まで、途中、立山、白山、富士山にも登り、旅の距離は15200に及んだ。その記録が『日本行脚文集』7巻である。

 以後も三千風の旅は続く。57歳の年の暮れ、西行の名歌  
心なき 身にも哀れは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮
の舞台とされた鴫立沢(しぎたつさわ・神奈川県大磯町)に移り住み、その再興に全力を注ぐ。家族を捨て旅を住まいとした歌人・西行(1118〜90)は、特に歌人や俳諧師の理想とされていたが、三千風もまたいつの頃からか西行に憧れていた。元禄10年を西行の五百年忌として、この時も松島と同じように謡曲を作り、詩歌を募集してそれを刊行するなど普及に努めた。

 66歳の春、射和に帰った三千風はやがて病の床につくが、気持ちのよい日には故郷の子どもたちに書の手本を書いたりしながら晩年を送る。そして3年後の1707年正月8日、旅に明け暮れた69年間の生涯を閉じた。
辞世 名聞の のりも継目も やれ紙子 をとの嵐の 庭のちりつか


>>「三千風の筆跡と作品」