竹内浩三書簡1通、『伊勢文学』2冊

○ 昭和14年8月13日付小林茂三氏宛 竹内浩三書簡 1通 
           (小林茂三氏寄贈) ※平成18年12月12日寄贈

 平成18年12月12日付で、「骨のうたう」などの著名な詩を残した伊勢の戦没詩人竹内浩三の宇治山田中学時代からの旧友である小林茂三氏(明和町金剛坂在住)から、浩三自筆の新出書簡が一通(2枚。※封筒附属)本館に寄贈されました。

 本書簡には封筒(19.8×8.0)も残されており、封筒上書には「多気郡斎宮村附近金剛坂 小林茂三君」、封筒裏書には「宇治山田市吹上町 織物商[商標:カネタ] 竹内商店(「竹内商店」を墨消し「ラ・デルタ」と墨書)」と竹内浩三の自筆の宛名と昭和14年(1939)8月13日の日付が記されています。※ラ・デルタとは当時の竹内浩三のペンネーム。
 書簡自体は、「コクヨ」製原稿用紙(20字×10行)に、冒頭は「モツチヤン。オレはうれしくなつたよ。君の文をよんで…」で始まり、「…ボクたちは若いんだ。青空の下をスクラムくんだ。すすもうよ さいなら  La Delta.」 と文末を結んであり、竹内浩三の鉛筆書きの自筆です。
 書簡本文について、小林茂三氏のコメントや、同氏の著書『惜別 ー私の中の戦争と平和ー』(私家版 1996年)の中の同氏の「「未来人」、竹内浩三」(『竹内浩三全作品集 日本が見えない』(藤原書店 2001年)所収)の文章などによると、昭和14年は、浩三と茂三氏の両人が宇治山田中学卒業後の年であり、浩三は上京して浪人中の身、茂三氏は東京師範学校(現東京学芸大)に通学していたようです。

 この書簡は、茂三氏が夏休みに実家に帰省した際に、浩三から貰った手紙のようで、どうやら、茂三氏は浩三に作品の批評を頼んでおり、本資料ではその感想が述べられているようで、「君らしく細い神経の文なのでうれしかった。人の文をひひようするほどボクはえらくないからひひようはしないが、うまくかけてゐたと思つた。・・・ボクは君の少女らしい神経がすきだ。ペンネームはあまりかんしんしなかつた。茂三 MOZOOてのがいいよ。間崎だとか江波だとかいつた名があるのは、どう云つもりかしらんが外の名にした方がよくないだらうか。またあおう。きてくれ。あつて話せばいいのだが、手紙かきたくなつたのでかいた。・・・」といったような直感的な浩三のコメントが記され、お互いの切磋琢磨についても言及しています。

 また、それに続けて、「…洋子はいい友だちである、恋人ではない。…北方の蜂の発行の仕事にそろそろかかるつもりだ。第二号は東京へ行ってから第三号と一しよにわたすよ。・・・そして北方の蜂をぶんぶん青空へとばそうよ。…君は高木先生がすきなものをボクたちにたづねたとき青空だと云つたネ、青空はまつたくいい。…」とあり、当時浩三と関係のあった女性や宇治山田中学の数学教師について、さらに浩三が主宰し、茂三氏も参加していた自称文芸誌『北方の蜂』の出版事情なども記されています。

 特に、『北方の蜂』の第2号の発刊事情については、昭和14年3月の浩三が記した奥付が前掲の『竹内浩三全作品集 日本が見えない』で知られる程度で不明な点が多かったが、本書簡より、同年8月13日には刊行されており、さらに第3号の刊行準備も同時期に計画されていた(但し、第3号の現物は全く現存せず)ことや、第2号の浩三の奥付で「空はどこまでも青い」といったように青空についての記述があるが、これを記すきっかけが茂三氏のコメントであったことがわかる点で資料的にも大変貴重です。

>>浩三自筆書簡



 ○ 『伊勢文学』第7号・第10号 2冊 
       
     (中井信子氏寄贈) ※平成18年8月24日寄贈

 竹内浩三の宇治山田中学からの旧友であり、浩三の詩を最初に世に広めた人物の一人として著名な故・中井利亮氏の妻にあたる中井信子氏(伊勢市二見町在住)より、浩三の詩の発表の舞台となった同人誌『伊勢文学』で従来欠本であった第7号と第10号を寄贈していただきました。この寄贈によって本館収蔵の『伊勢文学』は創刊号から10号までが揃ったことになります。

 第7号は、横長本と外の号とは体裁を異にし、竹内浩三の詩は、「今夜はまた・・・・・」・「南からの種子」・「夜どほし風がふいてゐた」の3編が載っています。
 特に、第7号掲載の「夜どほし風がふいてゐた」の詩は、(1943・1・3)と言う日付があり、内容もこれまで知られていた同題詩(前掲『竹内浩三全作品集 日本が見えない』所収)とは大きな異同がみられ、また、第10号は戦後の『伊勢文学』同人のメンバー構成が以前と一変していることがわかる点などで資料的にも貴重です。

>>『伊勢文学』第7号掲載 竹内浩三作品 詩3編全文


2006.12.25