富岡鉄斎の宣長像


 鉄斎美術館の学芸員が来館されるというので、
鉄斎の『近古賢哲像伝絵』(昭和19年3月31日・耕心学堂)
「本居宣長図像」でお迎えした。

 帰られて数日後に、『鉄斎研究』が届けられた。
 生涯の作品数が多いし、特別な思いを抱いておられたようなので、
何点かの宣長像を描いておられるとは思っていたが、実際に示されると、感慨も一入である。


『鉄斎研究』30号昭和52年3月)
6 「流芳百世冊」(第一冊)絹本着色 画帖2冊 各20・9×18・6 50歳代
 歌は「敷島の」。署名は「百錬写つす(印)」
 画像は、形式は六十一歳自画自賛像に倣うが顔は他の鉄斎の宣長像に比するとふくよか。

『鉄斎研究』56号(昭和56年7月)
12 「本居大人肖照」紙本淡彩 掛幅 144・4×34・0 明治16年(1883) 48歳
 上に宣長の略伝を記す。伝記に続き、「明治一新、官、金若干を其の墓に賜ひ、以て祭資に充つ。而して其の学風、海内を風靡す」とあるのは、描かれる8年前、明治8年3月21日の山室山神社創建を指すのであろう。歌は「しきしまの」。署名は「富岡百錬臨(印)(印)」
 画像は六十一歳自画自賛像に倣う。
 辰馬考古資料館所蔵。

『鉄斎研究』71号(平成8年6月)
6 「遺像在此帖」紙本墨書 各18・5×13・0 50歳代
 賛は「めつらしき」の歌に始まる「四十四歳自画自賛像」賛と同じ。署名は「鉄満写并しるす(印)」
 画像は六十一歳自画自賛像に倣うが、脇に瓶に活けた山桜が描かれる。
 清荒神清澄寺蔵。
 帖の奥書に、
「余曽て古人を尚友し、其の遺像を捜索すること、既に年有り。茲に今、其の一二を縮写す。而して概ね皆根拠有り。観る者、杜撰の看を為す莫れと云ふ。鉄崖」(同誌訓読文による)
とある。

『近古賢哲像伝絵』は、画像は六十一歳自画自賛像に倣うが、像の向きが逆になり、座った前には硯と筆、白紙の短冊1枚が置かれる。賛は略伝と「本末の歌」である。略伝は「本居大人肖照」と概ね同じだが、「明治一新」以下が無い。なお最初に、鉄斎は宣長に「特別な思いを抱いておられた」と推察したのは、ここで「本末の歌」が全部写されていることによる。


 このような鉄斎の宣長像は、おそらく宣長の画像史の画期となるものではないか。  宣長像の歴史は、自画自賛像に始まる。それをもとに吉川義信や宮脇有慶(景)などが写しを作り、より安価なものでは木版刷りとなって、大変な数が広まっていった。上田秋成が腹を立てたのも、逆に敬慕する人(島崎藤村『夜明け前』)が出てくるのも、半世紀に及ぶ普及の歴史が有ってこそである。

 近代になって宣長像は、模写の時代から脱し、歴史画として新しい歴史が始まる。前田青邨・安田靫彦・宇田荻邨などによりいろいろな作品が生まれるが、その一番最初に鉄斎を位置付けることが出来よう。

 解説に「画像は六十一歳自画自賛像に倣う」と書いたが、ここにあるのは義信らの模写ではなく、鉄斎の宣長である。自画像とその模写が津々浦々にまで広まり、神像として崇められていたものを、独自の解釈で描けたのは、読書人としての強い自負をもっていた富岡鉄斎ならではといえよう。

 

>>「浦上玉堂の琴を聴く」

2009.9.26