midashi_o.gif 平田篤胤(ヒラタ・アツタネ)

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 厚胤(平田篤胤・没後の門人)
 安永5年(1776)8月24日〜天保14年(1843)閏9月11日。秋田藩士の子として生まれるが、20歳の時に脱藩して江戸に出て、苦学の末、平田篤隠(アツヤス)の養子となる。宣長最晩年の弟子と称するが、実はその名を知ったのは宣長没後2年後であった。宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判する『呵妄書』を執筆して学界デビューをし、その後、門人を集め講筵を開き、また旺盛に著作を執筆する。中でも「霊」の行方を説いた『霊能真柱』は、師の宣長の方法とは異なる本文の改ざんを行い、宣長説とは別の説を立て、波紋を呼んだ。文政6年(1823)上京し、著書を朝廷に献じ、また和歌山に大平を訪い、松坂に春庭を訪ね奥墓に参詣する。この時春庭から、鴨川井特が描いた『本居宣長七十二歳像』や、使用した筆を貰った。自学普及のため尾張藩や水戸藩に接近したが、天保12年(1841)年、著作が幕府の忌むところとなり、著述差し止め、国元帰還を命じられた。国では秋田藩に仕官するが、失意の内に没した。


>>「夢の中で宣長先生と会う」



(C) 本居宣長記念館


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