真淵・宣長師弟の時代に、国学は儒学と並ぶ学問の一大勢力となり、また日本古典研究の優れた研究が続々と生み出せたのは、その学問の柔軟さ、また開放的なことにあったといってよい。昔からある学問が硬直化していくなかで、自由な議論を行う新しい国学はいくらでも発展する余地があった。その発展の要因を3つ挙げてみよう。
1は、師説批判の自由である。
宣長は真淵説を批判した。ほかの門人、荒木田久老らからひんしゅくを買うほど批判した。だが、宣長は云う、これは真淵先生の教えであると。
『玉勝間』巻2「師の説になづまざる事」では、師説の訂正は「これすなはちわが師の心」であると言い、続く「わがをしへ子にいましめおくやう」は、私の説を改めて欲しいと念願する。宣長の決意表明であった。
2は、ネットワークである。
真淵は宣長に書簡で勉強を教えた。また仲間と協力して研究するように勧めた。真淵時代はまだ江戸、遠州、伊勢が中心の国学者のネットワークは、宣長時代にほぼ全国に広がる。出版とともに書簡の連絡網は密になり、宣長の「質疑応答の勧め」や「本の貸し借りの勧め」もあり、国学を全国的なものとし、また真淵や宣長に批判的な者にも参加する余地を残したと言える。
3は、出版である。
これは宣長が熱心だった。本を出せばの誰でも、どこでも、いつでも研究に参加できる。宣長は『百人一首改観抄』で契沖の学問を知り、『冠辞考』で真淵の学問を知った。全て刊行された本だ。だから、宣長も後進のために本を出そうとしたのだ。
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「師の説になづまざること」
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「通信教育」
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「議論は益有ること」
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「要注意人物」
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「質疑応答の勧め」
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「本の貸し借りの勧め」
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「契沖との出会い」
(C) 本居宣長記念館
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