また一つ、松坂の文化資料が見つかった!
「松園管弦会之序」
文化7(1810)年、本居清嶋の長文の序だ。
内容は、後藤某の家で、中里常岳指導による管弦の会が、初めての演奏会をしたことを言祝ぐ文章である。
残念ながら、後藤某が分からない。
父が家に松を植えたことにちなみ「松園」と号したこと、
「仕えわざ」とあるので、紀州藩士と推測するなら、殿町には二軒の後藤氏がある。
その仕事の合間に、和歌や読書と雅事を好んだが、ある時、中里常岳が笛の名手だということを聞き、 熱心にその指導を願い、やがては仲間も集まり、庭の松の下で管弦の会を開くまでになった。
この、文化7年という年は、前年に清嶋の父、本居大平が家族と和歌山に転居し、 おそらくそのためであろう、長く続いた嶺松院歌会が、その歴史を閉じた、その直後となる。
松坂の管弦については、寛政6年(1794)5月17日、松坂訪問中の鈴木朖が「遍照寺歌集」に残した文章がある。
「(遍照)寺は里の東北尽くる処に在り。傍らは曠野に臨み、煙は遠林に罩、水は禾田を浸す。一望の景色、直に庭際に接す。
爽◎(土偏に豈・ガイ)閑寂、尤も雅集に宜し。
里中の管弦を善くする者、常に双日を以て、此に会し而して楽を楽しむ。蓋し洋々乎たるかな(原漢文)」
町の外にある遍照寺が水田に臨む景勝の地として雅会、とりわけ管弦の会に使われていたことを知るのである。
きっと中里もこの寺の会に集まった一人であったろう。
☆ 全文翻刻
「松園管弦会之序
後藤の何がしの庭に小高き松のあるは、父の植ゑおかれたなりとて、もていつき給ひて、
その家の名をも松園となむ名づけられける。
この松は本たちも、こなたかなたにさしかざせる枝つきも、いとおもしろく、げに常磐堅磐に栄えゆかむ。
末はたのもしき其陰には、よろしき石など所々にすゑ、庭も狭に生ひたる苔の色も、世の常ならず。
又、春は花見むとてやゝ奥まりたるところに桜などもうゑませ、このもかのもに草の真垣結ひわたし、
萩、女郎花の秋のながめもすべてしめやかに心したるさまになむありける。
さて、あるじはまめ人にて、つかへわざの暇しあれば、歌詠み、書見ることはさらにもいはず、
何くれの雅わざをも好みていそしみ給ふ人なりけり。
こゝに中里の常岳主、若きほど都に物して遊びの道の博士に笛ふくことを習ひていみじく好み給ふまゝに、
いと妙なる音を吹いだしつゝ、年経て深く悟り物し給ふ事を、
此五六年ばかり先に、この主聞きつけて、かの主の許に行きて、その笛吹わざを教へ給ひねと請れければ、
そは若きほどの戯れに吹きすさみたるにて、如何でかしか人にきかせ奉りなとせむことはと言へるを、
兎角言い唆されをれば、彼、もとより好まぬ事にしもあらざれば、うけひきて、
まつ始めに拍子うちて譜歌ふことなどせらるゝほどに、
又そをまねばむと思ふ人三四人あれば其人々と共におのれも習ひて二年三年とかくする程に、
この人々もやうやう笙の笛、篳篥、琵琶、箏の子となどをも少しづつものするを覚えければ、
いざもろともに吹あはせ引あはせみむとて、
かくて今年正月末つ方この松園に人々集ひけるに、
すのこの端近く出でて前栽を見るにひとしほの松の緑も常磐がほなりければ、
色深く 緑勝りて 松が枝に 吹く春風も のどけかりけり
おふしたて 親の植ゑおく、松なれば、梢も千代の 春ぞ栄えむ
此の頃は おほかたの 春の景色に、あくがるゝ、鶯のこゑきこへ、
そこはかとなく、梅の花の、かをるもえも、いそれされば、色よりも、香こそあはれとなどうち誦しつゝ居たるほどに、
あるじはあそび△(不読)しむべき、用意しおきて、
今日は年の初めのつどひなれば、をさまれきる、世のやすくたひらけきことぶきに、たひらかなる調べの五常万歳の曲をこそ為さまほしけれといへるに、
皆、げにもと言ひて例の吹き物、弾き物、ゐやゐやくしく取り出でて
まづ音取爪調べなどしてやがてはじめたる、
糸竹の調べも春の日なれば、ことにのどやかに、おもひなされて、ほどなくをはりぬ、
あるじもいたうよろこびて、酒など致してなにくれともてはやし給ふに、うちとけたる友とちなれば、心に残す隈無く物語りしてかへりぬ、
かくて其後は、花紅葉のをりは、例の人々円居(まとゐ)する事になむなりにける、
かくみやびわざのおかしくなりぬることし嬉しさのあまりに、柄短き筆とりて思ふまゝにかきしるしぬ
清嶋
文化七年夏六月二十日」
この年、本居清嶋(島)22歳。前年、父に従い和歌山移住のはずだが、きっと行き来していたのであろう。
この「松園管弦会之序」は縦133糎という大変長い紙に書かれ、軸装されている。
四日市の伊藤宗壽氏から平成30年11月22日寄贈された。
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「本居清島」
(C) 本居宣長記念館
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