midashi_g.gif 吉野水分神社(ヨシノミクマリジンジャ)

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 奈良県吉野町吉野山。延喜式内社。「御子守の神」「子守明神」とも。「恩頼図」に、「御子守ノ神」と書かれる。宣長は、父定利が同社に祈誓した授かった子である(『日記』表紙裏)。このことを母から事ある毎に聞かされ育ったが、特別の信仰心が芽生えた時期は不明。『毎朝拝神式』制定の40歳頃からは毎日遙拝した。直接の参詣は、お礼参りの13歳、花見を兼ねた43歳、和歌山からの帰途の70歳の3度。参拝の感慨を述べた歌が『菅笠日記』(43歳)、「吉野百首」(70歳)に載る。

 同社は、名前の通り水を分けてくださる神である。昔は、「芳野水分峯神」として吉野山山頂青根ヶ峯(857.9m)に鎮まり、頂上から1km西北の山腹の字ヒロノに旧拝所があったといわれている。後に現在地に遷座した。
 本来、雨乞いの神(『続日本紀』)であった同社が子守の神となる過程を宣長は、ミクマリ→ミコモリ→コモリと推定する(「吉野の水分神社」『玉勝間』)。

 鳥居を潜り石の階を上り楼門がある。中に入ると、南に本殿、西に楼門と回廊、北に懸造の拝殿、東に幣殿があり、本殿と拝殿は向かい合って建つ。
 境内地は決して広くない。その中にすべてがきれいに納まっている。神社と言えば、広々した感じの所が多いが、ここは箱庭に入ったような不思議な空間である。

 慶長9年(1604)豊臣秀頼によって再興された本殿は、桁行9間、梁間2間の流造(ナガレヅクリ)の形式をとり、正面に千鳥破風を三つ並べる。檜皮葺。本来は中央に一間社隅木入春日造で、この両側に三間社流造が配置されていたのを、相の間を設けて連結し一つの屋根に納め、両側の流造に千鳥破風をつけた。だから、現在も各社殿ごとに別 々の茅負(カヤオイ)、木負(キオイ)、軒付をもっている。組物、虹梁、長押(ナゲシ)などに極彩色をほどこし、蟇股(カエルマタ)、木鼻などに桃山時代の特徴をよく表している。【国・重文】
 潜ってきた楼門も、三間一戸楼門、入母屋造、栩葺である。【国・重文】
 祭神は、天水分神(中殿)。天万栲幡千幡姫命・天津彦彦火瓊々杵命・玉依姫命(子守三女神・国宝)(右殿)。高皇産霊神・少名彦命・御子神(左殿)。

 祭神の中でも、玉依姫神像【国宝】は有名だ。この像は、二座の女神を左右に従えるので子守三女神とも呼ばれている。玉依姫の体内に「建長三年(1251)」の造像銘あり。寄木造、極彩色、左右に流れる衣文、静かな容貌。像高83cm、日本女性の平均的な座高に近い、等身大の像。拝することは出来ないが、写真はいくつかの本に載る。まことにお美しい姿である。

吉野水分神社正面鳥居

吉野水分神社正面鳥居。
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吉野水分神社本殿

 吉野水分神社本殿。


>>「毎朝拝神式」



(C) 本居宣長記念館


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