三井高蔭ミツイ・タカカゲ)

 宝暦9年(1759)〜天保10年(1839)11月24日。享年81歳。幼名岩三郎、亀之助、総(宗)十郎。名は初め高照(ヒロ)、宗養。号は藁蔭舎(ワラビサシノヤ)。三井家鳥居坂家四代目。15歳から江戸店で修行。
 安永4年(1775)正月26日からの第3回『源氏物語』講釈に参加するが、入門は遅れて同8年。三重圏点。
 天明5年(1785)頃から「本居氏ノ門ニ於テ専ラ文学ヲ研究シ、特ニ作歌ニ力ヲ用フ」(「稿本三井家史料」)。この記事の裏付けとなるのが「三井高蔭日記」で、天明5年と7年の一部が残されて宣長との交流などその日常が詳記される。
 師の六十賀に参加、また、松坂を来訪した松平康定に大平と拝謁し、『源氏物語玉の小櫛』刊行を助ける。
 寛政11年3月16日の七十賀は、塩屋町の別業畑屋敷で開く。
 山室山奥墓の建造に尽力。
 文化6年、養子三井高延(後に春庭門人)を京都より迎え、天保3年、家督を譲る。
 著書に『弁玉あられ論』がある。京都の有職家・高橋家とも交渉があったらしいが詳しくは分からない。

「松坂地図」の「三井家」「畑屋敷」

「松坂地図」の「三井家」「畑屋敷」



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