midashi_b 宣長さんの見た 松阪祇園祭

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 本居宣長〈1730-1801〉の頃、松坂の祇園祭はどんな様子だったのでしょうか。

 今では松坂の祇園祭というと三社神輿ですが、実は宣長の頃にはずっと中断していて、再興されたのは、62歳〈寛政3年・1791)年6月1日〈現在の7月1日)、その日の宣長の「日記」には、「弥勒院〈今の八雲神社〉の神輿の修理が完成した。今日、船江から迎えが来て巡行が始まった。各町々では踊りなどもある」と書かれています。宣長には初めて見る松坂の神輿です。
 神輿巡幸が中止となったのは、宣長が生まれる前年の火事が原因でした。
 だから、子どもの頃も宣長はみていなかったのです。
 でも、修理したとあるので、神社に神輿はあったわけです。どのようにしていたのでしょうか。
 『松坂権輿雑集(まつさか・けんよ・ざっしゅう)』と言う本には、「7日から14日までは弥勒院〈八雲神社〉の拝殿に神輿を飾り置き、巫女や乙女たちが夜になると神楽を舞った。雨竜神社〈松坂神社〉や、御厨神社では獅子舞が行われた」と書かれています。巡幸せずに、飾ってあったのです。やっと修理が出来て、巡幸となりました。といってもいったん途絶えていた神輿巡幸を再開するのは時間がかかります。
 2年後の、寛政4年〈宣長63歳〉やっと準備が整い、川井町から平生町、黒田町の間を練り歩いたのです。町の人たちの喜びはいかほどだったでしょう。
 宣長も、「この事〈巡幸〉は久しく中絶していたとのことだが、やっと今年復活した」と書いています。宣長のポリシーは、「長く続けることが大事」です。伝統行事の復活、ほっと一安心でしょう。

 ところで、「船江から迎えに来た」とか、雨竜神社、御厨神社では獅子舞と書かれていますが、当時は、松坂町の総産土神は弥勒院八雲神社です。今も、八雲神社参道口には碑が立っています、八雲神社の神輿が松坂中を練っていたのです。
 さて、神輿が練る町の様子はというと、6月〈今の7月〉6日から準備が始まり、7日から14日まで8日間は、各家に提灯を灯します。風情があったでしょうね。各神社の飾り付けも行われます。新生児はかならず弥勒院八雲神社に参詣します。夜は神輿の巡幸。紀州藩士たちもその後に従います。
 ちなみに、八雲神社の拝殿「感神殿」の大きな額は、紀州徳川家10代藩主治宝公の筆です〈原本は、祇園祭前後は本居宣長記念館で公開中です!〉。
また各町では思い思いに練り物や山車に明かりを灯して町内を巡回します。この8日間、各神社は提灯を灯し、門前には屋台も出て、辻内という路上パフォーマンス、芝居も掛かります。踊りは河崎音頭やしょんがいも行われます。
 6月14日、にぎやかだった祇園祭は終わります。



(C) 本居宣長記念館


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