midashi_b 魂の行方

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 死んだら夜見国に行くかもしれない、と宣長は考えた。

「されば人の死て後のやうも、さらに人の智(サトリ)もて、一わたりのことわりによりて、はかりしるべきわざにはあらず、思ひのほかなるものにぞ有べき、これを思ふにも、皇国の神代のつたへ説(ゴト)に、夜見(ヨミノ)国にまかるといへるこそ、いといとたふとけれ、から国のことわりふかげなる、さかしき説どもは、なかなかにいとあさはかなること也かし」「人のうまるゝはじめ死て後の事」
『玉勝間』巻11 。
 ところが、篤胤は、『霊能真柱』(タマノミハシラ)で、人が死ぬと黄泉国に行くという宣長説は、先生がふと誤られただけであるという。そして、先生の魂も黄泉の国には行かず別の場所に行かれたのだ。その場所を私は確認している、と自信を持って断言する。
 篤胤が言うには、宣長先生はそこで穏やかに泰然としておられ、先だった学兄たちを集め、歌を詠み、文を作り、そして生前の自分説の洩れたところや誤った点を、再度考え直し、新しい説を立てられる。そして、自分では発表できないので、これは誰それが熱心だから彼の頭に思いつかせようと、お考えになっておられることは、間近に見るように疑う余地のないことだ。【原文・1】

 では、肝心の宣長先生の魂はどこにいると言うのか。
 篤胤は断言する。「山室山」であると。
 宣長先生は、人の霊魂が黄泉国に行くという説を訂正することが出来なかったが、だが、昔から墓は魂を鎮めるために築くのだからと、墓所を予め造って置かれた。その時の歌が「山室に」であり「今よりは」だ。これは霊魂は、予め定めたところに鎮座することが出来ることに気づかれたからで、まして山室山は、生前からここに自分の千世のすみかを決められたのだから、ここに師の霊魂が鎮座することは明白だ。そのさっぱりした気持ちを詠まれたのが「敷島の」の歌だ。その花と一体となる魂の宣長先生がどうして汚い黄泉国に往かれようか、往かれるはずはない。【原文・2】

 (魂の行方を生前決めることが出来るとするなら)私が死んだらどこに往くか、それは早くから決めてある。 「なきがらは・・」つまり遺体はどこに埋葬されても魂だけは先生の側に参ります。
今年亡くなった妻と連れ立ち、いぶかしく思うかもしれないが、可哀想にこの妻は私の国学研究を助けるところ大で、その苦労で病気になり死んだのだ。だから連れ立ってと言うのだ。それについては別に書いて置いた。 死んだら直ぐに空を飛び、先生の前に参り、生前は怠った和歌について聞かせてもらい、春は先生が植えられた桜を先生と一緒に愛で、夏は青葉を、秋は紅葉や月を見よう。冬は雪を見てゆったりとした気分で永遠の時を過ごしたい・・【原文・3】

 この篤胤の遺志を尊重し、幕末、時代が明治に代わる直前、宣長先生の奥墓前に「なきがらは」の歌碑が建立された。また、明治になって、山室山神社と言う、宣長、篤胤を祭神とする神社が奥墓の横に祀られたのもこのためである。  その歌碑も、現在の場所から、植松有信歌碑の近くに移転する計画が進行中である。このCD-ROM完成の頃にはきっと付近の景観は一新しているはずだ。

【原文・1】
「師の翁も、ふと誤りてこそ、魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、彼処(カシコ)ぞといはれつれど、老翁(オヂ)の御魂(ミタマ)も、黄泉国(ヨオツノクニ)には往坐(イデマ)さず、その坐(マ)す処(トコロ)は、篤胤(アツタネ)たしかにとめ置きつ、しづけく泰然(ユタカ)に坐まして、先だてる学兄達(マナビノイロセタチ)を、御前に侍(サモ)らはせ、歌を詠(ヨ)み文(フミ)など作(カ)き、前(サキ)に考(カンガ)へもらし、解誤(トキアヤマ)れることもあるを、新(アラタ)に考へ出(イデ)つ。こは何某(ナニガシ)が、道にこゝろの篤(アツ)かれば、渠(カレ)に幸(チハ )ひて悟らせてむなど、神議々(カムハカリハカリ)まして、現に見るが如く更に疑ふべくもあらぬ をや」

【原文・2】
「然在(シカラ)ば、老翁(ヲヂ)の御魂(ミタマ)の座(オハ)する処(トコロ)は、何処(イヅコ)ぞと云ふに、山室山(ヤマムロヤマ)に鎮座(シヅマリマ)すなり。さるは、人の霊魂(タマ)の、黄泉(ヨミ)に帰(ユク)てふ混説(マギレコト)をば、いやしみ坐(マ)せる事の多(サハ)なりし故(カラ)に、ふと正(タダ)しあへ給はざりしかど、然(シカ)すがに、上古(イニシヘ)より墓処(ハカドコロ)は、魂を鎮留(シヅメトド)むる料(タメ)に、かまふる物なることを、思はれしかば、その墓所を、かねて造(ツク)りおかして、詠(ヨ)ませる歌(ウタ)に、
  山室に ちとせの春の 宿(ヤド)しめて
          風にしられぬ 花をこそ見め
また、
  今よりは 墓無(ハカナ)き身とは 嘆かじよ
          千世の住処(スミカ)を 求め得つれば

と詠(ヨマ)れたる、此は凡て神霊(タマ)はこゝぞ住処(スミカ)と、まだき定めたる処に鎮居(シヅマリヲ)るものなる事を、悟(サト)らしゝ趣なるを、まして彼山は、老翁(ヲヂ)の世に坐(マシ)し程(ホド)、此処(ココ)ぞ吾が常磐(トコトハ)に、鎮坐(シヅマリヲ)るべきうまし山と、定置(サダメオ)き給へれば、彼処(カシコ)に坐(マ)すこと何か疑(ウタガ)はむ。その御心(ミココロ)の清々(スガスガ)しきことは、

  師木島(シキシマ)の 大倭心(ヤマトゴコロ)を 人とはゞ
          朝日(アサヒ)に匂(ニホ)ふ 山さくら花

その花なす、御心の翁(オキナ)なるを、いかでかも、かの穢(キタ)き黄泉国(ヨミノクニ)には往(イデ)ますべき」

【原文・3】
「さて、此身死(マガ)りたらむ後に、わが魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、疾(ト)く定(サダ)めおけり、そは何処(イヅコ)にといふに、

   なきがらは 何処の土に なりぬとも
          魂(タマ)は翁の もとに往(ユ)かなむ

今年先(コトシサキ)だてる妻(イモ)をも供(イザナ)ひ【かくいふを、あやしむ人の、有るべかむめれど、あはれ此女よ、予が道の学びを、助成せる功の、こゝらありて、その労より病発りて死ぬれば、如此は云ふなり、それは別に記せるものあり】
直(タダチ)に翔(カケ)りものして、翁の御前(ミマヘ)に侍居(サモラヒヲ)り、世(ヨ)に居(ヲ)る程(ホド)はおこたらむ歌のをしへを承賜(ウケタマ)はり、春は翁の植置(ウヱヲ)かしゝ、花をともども見たのしみ、夏は青山(アヲヤマ)、秋は黄葉(モミヂ)も月も見む、冬は雪(ユキ)見て徐然(ノドヤカ)に、いや常磐(トコトハ)にはべらなむ」


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