夏目漱石は『行人』で、奠具山にエレベーターがあり、上には茶店があって猿が飼われていることを面白くなさそうに書いている。この猿、波瀾に満ちた生涯を終えるにあたり、「私の一生は檻の中だったけれど、この和歌の浦の素晴らしい景色を毎日眺めながら過ごして、本当に幸せでした」と言って息絶えたそうだ。本当だろうか。
即位して間もない聖武天皇(24歳)は、神亀元年(724)紀伊国に行幸し、素晴らしい景色に感動し、地名「弱浜(ワカノウラ)」を「明光浦(アカノウラ)」と改め、この地が荒廃することのないように指図をし、春秋二回は遣いを出し玉津島の神、明光浦の霊を祭れと仰せられた。この時に供奉したのが山部赤人である。
その後、765年、称徳天皇が「望祀の礼」という、国を治める人が美しい自然を眺めその神々を祭るという儀式を行った。以後絶えていたこの祭祀を復興したのが10代治宝である。上にある仁井田好古(ヨシフル)の碑「望海楼碑」は称徳天皇の故事を書く。
手前に見えるのが不老橋。その先が悪評高いあしべ橋。彼方には片男波が見える。
下に降りたら、不老橋から名草山が眺められる。汀にはシオマネキがいる。悲しい男の性を思う。伽羅岩(石墨片岩)に囲まれた塩竈神社を巡ると、芭蕉の句碑「行く春をわかの浦にて追付たり」がある。その右手の小島が妹背山である。
神亀元年甲子の冬の十月五日、紀伊の国に幸す時、
山部宿禰赤人が作る歌一首 併せて 短歌
やすみしし 我ご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野(さひかの)ゆ
そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ
潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山
反歌二首
沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠りゆかば 思ほえむかも
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
『万葉集』巻6(917〜919)
奠供山から見おろす新旧不老橋。
|
(C) 本居宣長記念館
|