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解説項目索引【さ~そ】

西行庵

 西行と宣長、桜が好きな二人だが、そう簡単には結びつかない。

 語学の問題だが、歌の字余りで、聞き苦しい文字あまりの常習犯として目星を付けたのが西行と慈円である。慈円は「すべて此僧正の歌、西行が、心にまかせて、みだりによみちらしたるふりを、うらやみてよまれたりと見ゆるが多し」(『新古今集美濃の家づと』巻5)で、もとはと言えば西行が悪いと考えていた。佐竹昭広氏によれば『新古今集美濃の家づと』で、著者宣長によって、「聞ぐるし」と批評された「文字あまり」の句が10例ある。10例のうち7例までが、西行である。

 と言って敵視することもない。亡くなる享和元年、京都双林寺で、「むかし西行頓阿などのすみけることを思ひてかたへなる流れを菊の谷といふよしきゝて」の詞書で
  「いにしへの 人に契を むすび見ん すみけるあとと きくの谷水」
という歌を詠んでいる。

 また、宣長の使用した栞には
  「よしの山 こぞのし折の 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねん」
の歌が書かれていた。

  西行庵に住んだというのは似雲という歌人。但し3年は誤りか。

                               西行庵
                                          (C)本居宣長記念館

『在京日記』

 京都時代の交友は『在京日記』に生き生きと書かれている。3冊ある。面白いことにこの日記は、楽しいことしか書かれていない。
 話は飛ぶが、フランス文学者・辰野隆の遊学が、やはり楽しいことで埋められている。

 「彼の留学譚の、どこまでが本当なのかと書いたのは、もちろん嘘が臭うという意味ではない。いやな、苦しい体験もたくさんあったはずだが、それは言わない。報告しない。うーん、面白い、といってもらえそうなことだけを披露する。その、猛烈といいたいほどのサービス精神のせいで、ただもう指をくわえて羨むほかない贅沢三昧の留学生活と見えてしまう。七十何年も昔の東洋人のパリ留学となれば、それなりの傷を負わずにはすまなかったろうに。私が言いたいのはそのことだ。」『辰野隆 日仏の円形広場』出口裕弘・P72

 事情は宣長も同じであろう。利息暮らしの中からの仕送りでやっていくことは困難であったことは容易に想像がつく。
 母・勝の書簡には、

  「はおり少々間ちかひ御さ候て、少たけみしかく候まゝ、さやうニ御心へ可被下候」(宝暦5年9月20日付宣長宛)、
    「ちりめんわた入致しかけ申候、つきつき故、気ニにも入申ましくとそんし候。まつ致し進し申へく候まゝ、下着ニ被成へく候」
                                        (同年11月4日付宣長宛)
 等と書かれている。

 送ってくる着物は、寸足らずや継ぎ継ぎ、つまり継ぎ接ぎだらけのおんぼろで、気に入らなかったら下着にでも使えとは、あまりにもご無体な。
 松坂の生活、また宣長の懐も推して知るべしである。
                               『在京日記』
                                          (C)本居宣長記念館

最初の三輪参詣

 「はやくもまうでし事など思ひ出て」とあるが、宝暦7年10月4日、京都遊学を終えた宣長は松坂への帰途、大神神社に参詣した。

  「三輪にて物くひて、明神にまふつ、三輪の里より鳥居を入て、なみ木を経てやゝ山にのぼる所也、御社は、拝殿あたらしくきれい
  に見ゆ、みあらかはなくて、ただ杉ふかくしげりたる御山をさしておがみ奉る。それより三わの里にはいでず、山中をこえてさきへ
  出たり」(『在京日記』)。

   「神のみあらかはなくて。おくなる木しげき山ををがみ奉る。拝殿といふは。いといかめしくめでたきに。ねぎかんなぎなどやうの
  人々なみゐて。うちふる鈴の聲なども。所からはましてかうがうしく聞ゆ。さて本の道にはかへらで。初瀬のかたへたゞにいづる細
  道あり。山のそはづたひを行て。金屋といふ所にいづ。こはならよりはつせへかよふ大道なり」(『菅笠日記』)

  両方を比べてみても大きな違いはない。15年の時の流れの中で、新しかった拝殿は、かえって神々しさを増していた。
                                          (C)本居宣長記念館

『済世録』(さいせいろく)

 この帳簿は、宝暦8年(1758)29歳の頃から晩年に至るまで書き継いだ、患者と投薬、その薬価料に関する帳簿。自筆。38冊あったと推定されるが、今は10冊が残る。

  1. 安永7年(1778)49歳。
  2. 安永8年(1779)3月から年末まで。50歳。
  3. 安永9年(1780)51歳。
  4. 安永10年(1781)52歳。
  5. 天明2年(1782)53歳。
  6. 天明3年(1783)一部欠失。54歳。
  7. 寛政4年、5年(1792/1793)63歳、64歳。
  8. 寛政6年、7年、8年(1794/1795/1796)65歳、66歳、67歳。
  9. 寛政9年(1797)から11年(1799)一部欠失。68歳、69歳、70歳。
  10. 寛政12年(1780)から、宣長没後の文化4年(1807)まで。71歳、72歳。裏表紙に「卅八」(38)と書かれていて、併せて38冊あったことが分かる。
 
 次に、『済世録』の記載についてみてみよう。
 月日、患者名。調合した薬と数が記される。○が名前の上にあるのは初診、名前の下が治療が終わった印である。「トリメ、クタリ」、「タン、イタミ」と簡単な症状も書かれている。これを、7月と12月に集計して治療費を請求する。
  でも、なかには踏み倒す人もいる。その人は「不謝」という欄に名前を明記する。
  几帳面な人とつき合う時には、自分も几帳面にしないといけないと言うことだ。
  またよく来る人もいる。門人の村田光庸もその一人だ。
                             「済世録」表紙
                             「済世録」裏表紙
                                          (C)本居宣長記念館

斎藤彦麿(さいとう・ひこまろ)

 明和5年(1768)正月5日~嘉永7年(1854)3月12日。享年87歳。大平門人。旧姓荻野。名智明、彦麿。字可怜。通称庄(荘)九郎等。号宮川舎、葦仮庵(アシノカリホ)。三河岡崎に生まれる。その後、斎藤家を相続し、石見国浜田藩松平康任、康爵2代に仕え、陸奥棚倉、武蔵川越と転封に従って移居し、川越で病没する。「葦仮庵略年譜」には寛政3年(1791)宣長門に入るとあるが、『授業門人姓名録』には不記。あるいは私淑か。平田篤胤のために宣長像を描く。文化13年(1816)、大平より借覧した『石上私淑言』巻1、2に注を付し刊行。文政元年10月序『三哲小伝』に宣長小伝を書くが不評。刊本『万葉集玉の小琴』には天保9年(1838)の彦麿の序が付く。 


                                          (C)本居宣長記念館

坂倉茂樹(さかくら・しげき)

 宝暦13年(1763)~寛政11年(1799)8月12日。享年37歳。伊勢国白子(現在鈴鹿市)にある栗真神社神主。名は初め菅生、後に茂樹と改める。号は最初は常盤居、後に楽声舎(ササノヤ)と改める。天明4年、宣長に入門。『授業門人姓名録』に「○○坂倉大和守 茂樹」とある。白子の三樹の1人に数えられるが、特に、地元にある日本武尊陵を研究、その成果は『古事記伝』にも引かれた。また和歌を詠むことを好み師の添削をたびたびうけた。さらに神道家としても宣長の教えを守り実践した。だが惜しくも37歳という若さで、旅先の江戸で没した。 
                             「本居宣長懐紙」
【参考文献】
「伊勢白子の国学と村田橋彦同春門両翁」小山正『皇学』4-4、5-1,2。

                                          (C)本居宣長記念館

坂内川(さかないがわ)

 今は阪内川と書く。宣長が「川水すくなく潮もさゝねば、船かよはず」と言ったように流長19.5kmのこの川は水量が少ない。『伊勢参宮名所図絵』には松坂大橋付近が描かれるが、橋の架からないところを渡る人の姿も見える。源流は白猪山。笹川ともいう。
 宣長の歌を一首。

  夏笹川
 夏のよも霜かと見えて涼しきは【脇に「すみわたる」】月すみわたる【脇に「にすゝしき」】笹川のはし      『石上稿』宝暦11年 
                           魚町橋から見る坂内川

                                          (C)本居宣長記念館

 吉野を旅した宣長は、桜の宿り木をうらやましげに眺め、桜の宿り木はいいなあと歌にも詠んでいる(『菅笠日記』8日条)。桜は宣長が大好きだった花。自宅の庭にも何本も植え、春には花見にもしばしば出かけた。
 また、44歳、61歳の自画像では「山桜」がモチーフとなり、『遺言書』では奥墓に植えるよう指示し、自ら付けた諡にも「秋津彦美豆桜根大人」とある。

 桜への思いを最も直截に語るのは、
 「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、浮き世の物とも思われず」で始まる「花のさだめ」(『玉勝間』)である。その細やかな観察は抜群だ。

 桜が日本独自の花であり(これは植物学上の問題では無く、その美しさの発見という意味)、また、自分が吉野水分神社の申し子ということも宣長の桜への思いには深く係わるが、何より花そのものが好きであった。

 夥しく詠んだ桜の歌については、亡くなる前年の秋に詠んだ『枕の山』が到達点といえよう。この歌集について歌人・岡野弘彦は「「枕の山」と題する桜の歌三百首は、最晩年の心の陰影と自在さとが、伸びやかに出ていて面白い」と評するが、晩年の宣長は物狂おしい程に桜を思い、ついには同一化しようとさえする。

 【参考文献】 「本居宣長と桜伝説」鈴木淳『国文学研究資料館紀要』19号。

                              奥墓の桜
                                          (C)本居宣長記念館

酒を飲む大平

 大滝で吉野川の眺めに驚きながら、筏下りを見て、一行は酒と干飯で休憩をした。『餌袋日記』にも、「(大滝村)すこしのきたる所にて酒などのみをるほど」とあるが、まだ大平は17歳である。
 
                            大滝周辺吉野川
                                          (C)本居宣長記念館

佐佐木信綱の松阪時代(ささきのぶつなのまつさかじだい)

 鈴鹿石薬師に生まれた信綱は、明治10年12月、家族と松阪に転居した。この年、6歳。翌年1月湊町小学校に入学。同15年、11歳の3月、上 京中の父から呼ばれ東京に移居した。約4年間の松阪生活であった。その時期のことは、後年さまざまなところで回想するが、よくまとまっている『ある老歌人の思ひ出-自伝と交友の面影-』(昭和28年10月。朝日新聞社)の一節と、弟である印東昌綱の歌集『家』に寄せた序の一部は、「明治初年の松阪」に引いておいた。
 また父親弘綱の日記、『佐々木弘綱年譜-幕末・維新期歌学派国学者の日記-』(皇學館大学神道研究所、神道資料叢刊)には、最も詳細な記事が載る。

 約4年間の松阪生活であったが、この時期の最大の産物が、「松阪の一夜」の題材を得たことであったことは言うまでもない。
 本居宣長記念館では、以前は、松阪町に着いた佐々木一家は塩屋町に落ち着き、しばらくして櫛屋町に移ったと紹介していたが、弘綱の記録により、
塩屋町は誤りで、平生町真行寺にまず居を定めたと訂正する。
 「湊町はさはる事ありて」と弘綱は『年譜』に書くが、湊町とは、やがて転居する櫛屋町のことであろうか。準備が整わなかったのかもしれない。
 櫛屋町は現在の湊町。当時、湊町には長井家という大家があって、その脇から、八雲通り、油屋町に抜ける筋が櫛屋町である。一家の住んだのは長井家の並びであったことや、逗留した高畠式部の思い出も信綱の回想に詳しい。



                                          (C)本居宣長記念館

佐佐木信綱の「松坂の一夜」

 この教材の作者は佐佐木信綱であるが、これが教材用として書かれたのか、リライトしたものかははっきりしない。双璧を為す「県居の九月十三夜」は『中央公論』に発表されたが、本編はおそらく教材用であろうと推測するだけだ。
 また教科書の本となった「原文」は佐佐木の『賀茂真淵と本居宣長』(大正6年4月10日)、『増訂賀茂真淵と本居宣長』(昭和10年1月10日)に載る。両者には措辞上の修訂があるほか、一番最後の「吾が国文学史の上に、不滅の光を放ってゐるのである」(初版)が、「国学史」(増訂版)と変わっている。

【関連資料】
                                          (C)本居宣長記念館

佐佐木信綱の「松坂の一夜」 資料

 資料 『【増訂】賀茂真淵と本居宣長』
  昭和10年1月10日発行・著者佐佐木信綱・発行所湯川弘文社。175頁~177頁。

   松坂の一夜
 時は夏の半、「いやとこせ」と長閑やかに唄ひつれてゆくお伊勢参りの群も、春さきほどには騒がしからぬ 伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舗柏屋兵助の店先に「御免」といつて腰をかけたのは、魚町の小児科医で年の若い本居舜庵であつた。医師を業とはして居るものゝ、名を宣長というて皇国学の書やら漢籍やらを常に買ふこの店の顧主(とくい)であるから、主人は笑ましげに出迎へたが、手をうつて、「ああ残念なことをしなされた。あなたがよく名前を言つてお出になつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供をつれて、先ほどお立ちよりになつたに」といふ。舜庵は「先生がどうしてここへ」といつものゆつくりした調子とはちがつて、あわただしく問ふ。主人は、「何でも田安様の御用で、山城から大和とお廻りになつて、帰途(かへり)に参宮をなさらうといふので、一昨日あの新上屋へお着きになつたところ、少しお足に浮腫(むくみ)が出たとやらで御逗留、今朝はまうおよろしいとのことで御出立の途中を、何か古い本はないかと暫らくお休みになつて、参宮にお出かけになりました」。舜庵、「それは残念なことである。どうかしてお目にかかりたいが」。「跡を追うてお出でなさいませ、追付けるかもしれませぬ」と主人がいふので、舜庵は一行の様子を大急ぎで聞きとつて、その跡を追つた。湊町、平生(ひらお)町、愛宕町を通り過ぎ、松坂の町を離れて次なる垣鼻(かいばな)村のさきまで行つたが、どうもそれらしい人に追ひつき得なかつたので、すごすごと我が家に戻つて来た。
 数日の後、岡部衛士は神宮の参拝をすませ、二見が浦から鳥羽の日和見山に遊んで、夕暮に再び、松坂なる新上屋に宿つた。もし帰りにまた泊まられることがあつたらば、どうかすぐ知らせて貰ひたいと頼んでおいた舜庵は、夜に入つて新上屋からの使いを得た。樹敬寺の塔頭なる嶺松院の歌会にいつて、今しも帰つて来た彼は、取るものも取あへず旅宿を訪うた。同行の弟子の村田春郷は廿五、その弟の春海は十八の若盛で、早くも別室にくつろいでをつた。衛士は、ほの暗い行燈の下に舜庵を引見した。
 賀茂県主真淵通称岡部衛士は、当年六十七歳、その大著なる冠辞考、万葉考なども既に成り、将軍有徳公の第二子田安中納言宗武の国学の師として、その名嘖々(※さくさく)たる一世の老大家である。年老いたれども頬豊かなるこの老学者に相対せる本居舜庵は、眉宇の間にほとばしつて居る才気を、温和な性格が包んでをる三十四歳の壮年。しかも彼は廿三歳にして京都に遊学し、医術を学び、廿八歳にして松坂に帰り医を業として居たが、京都で学んだのは啻(※ただ)に医術のみでなくして、契沖の著書を読破し国学の蘊蓄も深かつたのである。
 舜庵は長い間欽慕して居た身の、ゆくりなき対面を喜んで、かねて志して居る古事記の注釈に就いてその計画を語つた。老学者は若人の言を静かに聞いて、懇ろにその意見を語つた。「自分ももとより神典を解き明らめたいとは思つてゐたが、それにはまづ漢意を清く離れて古へのまことの意を尋ね得ねばならぬ。古への意を得るには、古への言を得た上でなければならぬ。古への言を得るには万葉をよく明らめねばならぬ。それゆゑ自分は専ら万葉を明らめて居た間に、既にかく老いて、残りの齢いくばくも無く、神典を説くまでにいたることを得ない。御身は年も若くゆくさきが長いから、怠らず勤めさへすれば必ず成し遂げられるであらう。しかし世の学問に志す者は、とかく低いところを経ないで、すぐに高い処へ登らうとする弊がある。それで低いところをさへ得る事が出来ぬのである。此のむねを忘れずに心にしめて、まづ低いところをよく固めておいて、さて高いところに登るがよい」と諭した。
 夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門(かど)のみな閉ざされ果てた深夜に、老学者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律義者で、いつも遅くまで夜なべをしてをる。今夜もとんとんと桶の箍 をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
 舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳蔵の仲介で名簿(みやうぶ)をさゝげ、うけひごとをしるして、県居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾来松坂と江戸との間、飛脚の往来に、彼は問ひ此(これ)は答へた。門人とはいへ、その相会うたことは纔(※わず)かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
 今を去る百五十余年前、宝暦十三年五月二十五日の夜、伊勢国飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老学者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が国学史の上に、不滅の光を放つて居るのである。
 附言、余幼くて松阪に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの数節等をあざなひて、この小篇をものしつ。県居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、当夜宣長と同行せし者(尾張屋太右衛門)ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。
  以下、「和泉和麿の宣長評」まで十篇は、大正六年四月以前の執筆にかかる。        (※の後のふりがなは、後補)


 
                                          (C)本居宣長記念館

楽声舎(ささのや)

 坂倉茂樹の号。『万葉集』に「神楽声」で「ささ」と読む例あり。関係あるか。同家所蔵の歌合に、天明8年(1788)は「常盤居茂樹」とあり、寛政元年(1789)以降は「さゝのやのしけき」、「楽声舎茂樹」とある。寛政元年が使用の上限か。その後も坂倉家屋号として使用された。最近まで韓天寿の扁額も所蔵されたが破損により惜しくも失われた。『雅用録』寛政元年5月条に「○一、楽声屋文 茂木」とある。新しい号を付けてその文を請うたのであろう。


                                          (C)本居宣長記念館

察然和尚(さつぜんおしょう)

 元禄14年 (1701)~明和元年(1764)2月28日。64歳。詳蓮社審誉上人酉阿直入察然大和尚。母の実兄。幼児より江戸で育ち、後に江戸小石川伝通院27世となる増上寺・走誉上人の学寮・蔡華楼(サイケロウ)に預けられ修行する。入蓮社走誉上人は、10歳の宣長に血脈を受け、法名・英笑を与えた人だ。延享2年(1745)、走誉上人が71歳で増上寺大僧正に昇進されたのに伴い、察然(45歳)は蔡華楼第2世主となった。後に、文昭院殿(6代将軍家宣)御霊廟別当・真乗院の第1世主となった。また、京都遊学中の宝暦4年(1754)8月、上京した察然和尚と会ったことが『在京日記』に「廿四日、江戸真乗院審誉上人上京」と記される。この上京は、25日の知恩院宮尊峯法親王(桜町天皇養子)御入室の関係であろうか。この後、和尚は松坂に廻り、江戸に下るのだが、宣長に宛てた母の手紙には、和尚と一緒に帰省してはどうかと勧め、またその後の手紙では、土産をもらったことなども記される。


                                          (C)本居宣長記念館

去ってゆく友

 嶺松院歌会の会員で、宝暦8年夏からの『源氏物語』講釈に参加し、『明和四年撰歌百首』にも加わり、明和9年3月の吉野、飛鳥行や天明2年前山の花見等にも同道し、自坊覚性院でもしばしば花見、月見、紅葉等の歌会を開いた「戒言」だが、後年は仏道修行に専心するため歌から遠ざかっていった。寛政3年10月29日、宣長等は追悼歌会を催した。岡本保孝『音韻答問録』に語学に詳しく、宣長の音韻研究を助けたと言う伝聞を記すが真偽未詳である。

 また、大平の父・棟隆も歌から次第に遠ざかっていった人である。宣長の「八月十五夜稲懸棟隆家の会にそこにてかける文」(『鈴屋集』)に、仏道修行のために歌を詠むことも少なくなったが、大平が熱心なので、八月十五夜だけはいつも以前と同じように歌を詠むことが書かれている。


                                          (C)本居宣長記念館

猿田彦神社の宣長歌碑

 伊勢市猿田彦神社駐車場に宣長の歌碑がある。目測約4mの高さで、大きさとしては宣長の歌碑中最大。歌は宣長が二見定津に贈ったもの。

 二見(宇治土公)定津(1783~1822)は、宇治土公定静の子として当地に生まれ、伯父にあたる宇治土公定哉を嗣ぐ。寛政4年大内人に任ぜられた。通称は右兵衛。内宮権祢宜。文政5年閏正月3日没、享年40。その筆による御神号碑など全国に多い。貞幹前宮司から5代前にあたる。寛政8年(1796)2月宣長に入門。『授業門人姓名録』に圏点一。

 宣長は、寛政11年4月4日、両宮参拝の途次二見定津を訪い、その夜一宿する。宣長の『日記』に「参宮、其夜宿宇治二見左兵衛定津宅」とある。
 碑面の歌並びに筆跡は、猿田彦神社所蔵懐紙から採る。

     大御神宮に詣て玉串大内人定津ぬしの家にやとりて
     あるしによみてまゐらす、宣長
 
    神世より神の御末とつたへ来て名くはし宇治の土公わかせ

 この前年2月から4月、定津が松坂に来ていたことが、竹村茂雄の日記や、栗田土満「寛政十年伊勢日記」に見える(「岡の屋年譜考(二)」高倉一紀『皇學館大學神道研究所紀要』10号)。
 また思文閣目録(平成3年10月)に載る荒木田経雅短冊には

  「寛政十一年八月の一日の日宇治土公定津五十鈴川の歌よみて
  たうへよとこひよこすに よみて送りたりける

 五十鈴川しき浪のよるひるとなくすむをためしにいのる君か代  経雅」

 とある。
                           「猿田彦神社宣長歌碑」
                                          (C)本居宣長記念館

賛(四十四歳自画自賛像)

 賛「めつらしきこまもろこしの花よりもあかぬいろ香は桜なりけり、こは宣長四十四のとしの春みつから此かたを物すとてかゝみに見えぬ心の影をもうつせるうたそ」。

 大意「外国から渡来した珍しい花も多いが、やはり桜は見飽きることがないなあ、これは宣長が44の年の春、自画像を描こうと思い立ち、鏡に映らない心の影(姿)を詠んだ歌です」

                       「本居宣長四十四歳自画自賛像」(賛部分)
                                          (C)本居宣長記念館

30年ぶりの上京

 寛政2年(1790)61歳の宣長は、京都での御遷幸を拝見するため、東海道、鈴鹿峠を駕籠に乗って越えた。若い頃にはよくここを通ったなあと感慨も一入で、歌を詠んだ。

「わかゝしほどしばしば京に通ひしも卅年のあなたに成にけることを思ひて鈴鹿のあたりにて

  すずか川六十のおいの浪こえて八十瀬わたるも命なりけり

  年ふりしひたひの浪を鈴鹿川かはらぬ水やいかに見るらん

  命あれば六十の老の坂こへて又も鈴鹿の山路をぞふる

  あしひきの岩根こごしき鈴鹿路をかちよりゆかばゆきがてむかも

かごといふ物にのりてこゆとて也」


「ひたひの浪」とは額の皺だ。

                                          (C)本居宣長記念館

賛の歌

   
【賛の歌】

 相坂や行来も絶て深き夜にあらしぞこゆる関の杉むら、
 高行

 したふぞよ色音になれて花鳥のゆくへもしらぬ春の別を、
 常雄

 暮深き花の木間に見え染めてひかりも匂う春の夜の月、
 茂穂

 梢ふく風も音そふまつがねの岩もるし水むすぶすずしさ、元之

 暁の夢は跡なき手まくらに露吹のこす秋のはつ風、戒言

 花の雪うづむ山路を尋ねつつおいたる駒にまかせてや見む、中行

 あふと見し夢の面影かき絶て物おもはしきさよの手まくら、直見

 庭の面は桜ちりしく春風にさそはぬこけのいろぞきえゆく、宣長

 ふじの根はなかなか雲にうづもれてすそ野につもる今朝のしら雪、棟隆

 ☆宣長の歌は『鈴屋集』には出ているが、編年体の歌集『石上稿』等に載っていないので詠んだ年は不明。
   
【下には何が書いてあるのかな?】
  この絵を作成した年や経過が書かれている。

  「此絵は松坂長谷川常雄が家にもたるをうつしとれるなり、歌は鈴屋翁のかきおかれたるをかなもそのままにうつしたるなり、茂穂とあるは大平がはじめの名なり、文政十年春、七十二翁書(大平花押)」
                 
  意訳すると
 「松坂の長谷川常雄の所蔵する絵をそっくりそのままに写した。上の歌は、原本では宣長先生が書いていたが、仮名もそのままに写した。茂穂というのは大平、つまり私のことだ。文政10年(1872)春、大平。」
                                          (C)本居宣長記念館

賛(四十四歳自画自賛像)

 賛「めつらしきこまもろこしの花よりもあかぬいろ香は桜なりけり、こは宣長四十四のとしの春みつから此かたを物すとてかゝみに見えぬ心の影をもうつせるうたそ」。

 大意「外国から渡来した珍しい花も多いが、やはり桜は見飽きることがないなあ、これは宣長が44の年の春、自画像を描こうと思い立ち、鏡に映らない心の影(姿)を詠んだ歌です」

                       「本居宣長四十四歳自画自賛像」(賛部分)
                                          (C)本居宣長記念館

賛の文字

 この賛の文字は、伸びやかな書風であると同時に、宣長には珍しい大きな字(おおよそ10cm角)であることが注目される。

 だが、不思議なことに1と2の字は細部に至るまで同じである。このようなことは可能であろうか。そもそも複製を作るのならともかく、歌の文字は別に寸分違わぬものを書く必要はないし、また容易なことではない。では透き写しの可能性はないのだろうか。でも、自分の字を透写するだろうか。

 また、2の料紙は唐紙であり、透き写しは先ず無理である。方法としては臨模しかない。それでこれだけ似せられるとすると、ひょっとしたら2は本職の手になる、つまり宣長ではない、臨模の可能性が出てくる。
                                          (C)本居宣長記念館

塩崎宋恕(しおざき・そうじょ)

 宣長の友人。松坂新座町の町医師。安永9年9月13日の夜は晴れて月が清かに見えた。宣長は塩崎宋恕の「白猪楼」で観月、歌を詠む。松坂近郊の白猪山(シライサン)を眺めるのでこの名があった。

 『鈴屋集』巻6には「塩崎某が家の白猪楼の詞」を載せる。
 『日記』は「十三日、夜月清明」と簡略だが、『自選歌』巻2の詞書に

「八月十三夜はくもりたりけるに九月十三夜の月のいとさやかなりけれは」(宣長全集・18-232)

とあり、また『石上稿』に

「九月十三夜塩崎某か家の白猪楼といふ高き屋にて月を見て、高き屋の名におふ山も月影にそれとしら猪の峯そまちかき」(宣長全集・15-413)

とある。

 宋恕の名は『(明和六年)松坂町役所支配分限調帳』(『松阪市史』11-306)にも見える。『諸用帳』によれば、壱岐の出産(寛政11年6月18日)後の7月12日頃に、24匁を支払っている。あるいは産科であったか。また、『学問所建設願書下書』に宣長と名を連ねる。松阪市立歴史民俗資料館所蔵「引札」に「黒丸子引札、先師後藤友一郎直伝竹内純製、弘所勢州松坂新座町塩崎宋恕」とある。


                                          (C)本居宣長記念館

 『字音仮字用格』

 安永4年(1775)の須賀直見と自序がある。翌5年1月刊行。刊行書肆、江戸須原屋茂兵衛、松坂田丸屋正蔵、柏屋兵助、京都菊屋七郎兵衛、正本屋九兵衛、銭屋利兵衛。初版からこんな江戸や京都の本屋と仲間で出したのか疑問。

 内容は、漢字音を仮名で書く場合の同音の書き分けを、古代の用法に則して正し、仮名遣いを定めたもの。
 まず、アヤワ3行の音の違いについて「喉音三行弁」「おを所属弁」で論じ、五十音図で「お」は「ア行」に、「を」は「ワ行」に所属することを明らかにした。
 次に「字音仮名総論」の項において中国の音韻書『韻鏡』と仮名遣いの関係を説き、イヰ、エヱ、オヲ、及びこれを含むもの、ウ、フと書かれて紛れやすいものについて項目を立てその下にその仮名で書く漢字を列挙し、『韻鏡』と古文献の用例によって説明を与え、漢音、呉音の別も指摘する。

 字音仮名遣いについては、それまでも研究があったが、本書はそれを本格的に取り上げ、その説明に『韻鏡』と万葉仮名を結びつけたのは本書が最初である。また、オヲの所属を改めたことは画期的なことであった。


                                          (C)本居宣長記念館

志賀島 (しかのしま)

 現在は、福岡県東区に属する博多湾の島。面積5.78km2。海岸線総延長は11km。東西2km、南北3.5km。海の中道と呼ばれる砂嘴の先端に位置する。
 『万葉集』にも巻16の「筑前国志賀の白水郎の歌十首」など島の海人を詠む歌が多い。

 今、その白水郎(アマ)の歌の左注を要約すると、

 神亀年間、太宰府が筑前国宗像の宗形部津麻呂に対馬まで食糧を送る船頭役に任じた。津麻呂は志賀村の白水郎荒雄の所に行き、ちょっと頼みたいことがあると言うと、荒雄は、君とは住むところも違うが、船乗りとして長く一緒に仕事をしてきた。心は兄弟より篤く、君のために死ぬことがあっても平気だよと答えた。津麻呂は言った、役所から対馬まで食糧を運べと言うが、私は年をとって無理だ。だから頼みに来たのだ。代わってくれないか。荒雄は承知し、肥前国松浦県(アガタ)の美禰良久(宣長訓・ミミラク)から船出して対馬に向かったところ、突然空が曇り暴風が吹き、雨が降り、天候回復しない内に沈没してしまった。荒雄の妻や子は子牛が母牛を慕うようにこの歌を詠んだのだ。また一説に山上憶良が悲しむ家族を見て同情し思いを述べてこの歌を作ったのだという。

 『万葉集』宣長手沢本からその中の一首を引いてみる。
歌は(3863) 
    荒雄らが ゆきにし日より 志賀の海人の 大浦田沼(タヌ)は 
    さぶしかるかも

頭注
「宣云志賀ハ上古ヨリ海士ノ名高キ処ナレバ海士ノ大浦ト云フベシ、サレバ荒雄ガ去シヨリ此志賀ノ浦ハサビシク思ハルト也、田沼ハソノ浦ニアル田沼也」

 「宣」は「宣長」のこと。宣長の解釈という印。
 歌の下にも宣長の注が付く。

「荒雄ガ行テカヘラネバ妻子ガワザニハ田ヲ作リカネ、水ヲマカザレカヌル心也」

海人は漁業の外、製塩や航海に携わっていた。この島で金印が発見された。
「志賀島風景」
「漢委奴国王金印発見之処碑」

仕官した宣長・断った曙覧

 松田常憲(1895~1958)氏の詠に、

 「重く召せどいなみしは曙覧これは又
          低く召すに仕へてはぢざりし宣長 常憲」

 「五人扶持に召せば召されていなまざる
          このすなほさは君ひとりのもの 常憲」『春雷』

と言う歌がある。

 橘曙覧(タチバナノアケミ・1812~68)は越前国福井の人。田中大秀門人。宣長を敬仰し、奥墓を参詣、鈴屋を訪う。

 「楽しみは鈴屋大人の後に生まれその御諭をうくる思う時 曙覧」
                       『志濃夫廼舎歌集』


                                          (C)本居宣長記念館

色紙

 和歌などを書く方形料紙。短冊と共に宣長が好んで使用した。

  「此色紙といふものおもしろく雅なる物也、これは古歌をかく物にて、みづからの今の歌をかく物にはあらずとかやいへるなり、されど鈴屋翁はそれにかゝはらず、松坂の歌の会には、けむ題は必色紙へかきて当座はたむざくにかきたる也、今も松坂、若山にてはしかすること也、たむざくよりも一きは面白き物也」(『村田春門日記抄』文政11年12月条)

 また、「色紙は大小色々あり、凡て古歌をかく古例なるよしきけと、わか輩の中にては是を嫌はす、わかよみ歌をもかく事也、されは書体定りたる事なし云々」(『詠歌したゝめふり』城戸千楯編)とある。

  色紙に自詠を書くことは必ずしも宣長に始まるものではないが、好んで書いたこともまた事実である。宣長使用のものは、縦18~20cm、横は縦より若干短い。内曇と言う簡素なものを好んだ短冊とは対照的に、白地もあるが、大方は雲型や草花など図柄や金銀を使った装飾性の強いものが多い。

 【参考文献】
 「〈資料紹介〉城戸千楯編『詠歌したゝめふり』」鈴木淳・『鈴屋学会報』5
 
                          本居宣長色紙「水郷柳」
                                          (C)本居宣長記念館

「敷島の歌」(しきしまのうた)

 「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」

  この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。
 賛の全文は、
「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月にてづからうつしたるおのがゝたなり、
 筆のついでに、
 しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」
です。

  歌は、画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい、と言う質問があったことを想定しています。

  宣長は答えます。
「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」
 つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心なのです。
  だからこの歌は家集『鈴屋集』にも載せられなかったのです。
  たとえ個人の歌集であっても、外の歌に埋没したり、作者から離されてしまうことをおそれたのでしょう。
  独立した歌として、もとめられれば、半切にも書きました。
  また画像と一緒ならなおさら結構と、
  だから、たとえば吉川義信の描く画像などにはこの歌が書かれました。

  この歌は宣長の心の歌だったのです。


                                          (C)本居宣長記念館

「敷島の歌」その後

 この歌にはみんな関心を持った。その一人、伴信友は大平に質問をする。宣長の多く残す歌の中の一首に対しての疑問というより、師自らが自分の画像の上に選んだ特別 の歌としての質問である。
「朝日に匂ふ山桜花の御歌、凡そに感吟仕候て、本意なく候、御諭下され度候
  うるはしきよしなりと、先師いひ置かれたり」
               【『藤垣内答問録の一』】
 「敷島の歌」を大体の意味で理解して味わっていますが、本当の意味を教えて下さい、と聴いたのに対して、大平の回答は実にそっけない。「端麗・華麗ということだと宣長は言われた」。これは一首の解釈と言うより、歌の持つ雰囲気を宣長は、また大平は伝えたのであろう。

  この回答は享和3年(1803)5月28日で、信友が質問したのは、宣長没後一年余しか経っていない、享和2年暮れから3年初め頃であったと思われる。信友が藤林誠継に写させた宣長像に大平の賛(「しきしまの」の歌)を貰い、「鈴屋大人の肖像を写したる由縁」(『秋廼奈古理』所収)を書いたのが享和2年11月29日であったこともこの質問の背景にはある。

  また、その少し前であろうか、上田秋成は『胆大小心録』でこの歌を難詰している。
   田舎人の年が長じても世間を知らぬ、学問知識の片よった輩(『日本古典文学大系』の訳)の説も、また、田舎の者が聴いたら信じるだろう。京都の者が聞いたら、天皇様にかけても面目ない。知識の開けた都には通用しないはずだ。やまとだましいということを何かにつけて強調することだ。どこの国でもその国の魂というものが鼻持ちならぬものだ。自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。そこで俺は、「敷島の大和心とかなんだかんだといい加減なことをまたほざく桜花」と返してやった。喧嘩っ早いねと言って笑った。
【原文】
 「い中人のふところおやじの説も、又田舎者の聞(い)ては信ずべし。京の者が聞(け)ば、王様の不面目也。やまとだましいと云(ふ)ことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましいが国の臭気也、おのれが像の上に書(き)しとぞ。
   敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花
 とはいかにいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉也。そこで「しき嶌のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とこたへた。「いまからか」と云(う)て笑(ひ)し也。」『膽大小心録』第101条【『日本古典文学大系 上田秋成集』岩波書店】
 晩年の秋成は何事も気に食わぬことばかりであった。その頃の文章だが、誰かが宣長の画像の話をしたのであろう。それがまた疳に触った。ただ宣長の自賛像に対する反発が秋成以外にもあったであろうことは推測に固くない。

  信友、秋成この二人に始まった「しきしまの」の歌をめぐる疑問や毀誉褒貶は二百年後の現在まで続いている。とりわけ太平洋戦争頃は国威高揚のために盛んに使われ、その後の歌の評価に影を落とすことになった。

  この歌は、第5期国定国語教科書初等科国語7(昭和18年刊)「御民われ」に載せられ、国民学校初等科6年前期教材として教えられた。山中恒氏『御民ワレ ボクラ少国民第二部』【1975年11月刊、辺境社】の記述によれば、この教材は「散文 国体観念教材。五首の短歌とその解説。」といった内容である。教材の表題は、巻頭の歌
  御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらく思へば
 から採っている。また、宣長の歌は次のように紹介されている。
「敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花
  さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂をよくあらはしてゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました。まことにこの人に ふさわしい歌であります。」 『御民ワレ ボクラ少国民第二部』P312。
 文章には特別曲解はないが、現場ではどのように教えられたかわからない。ただ言えるのは、朝日に桜、この言葉が喚起するイメージは次の井上淡星の詩をそう遠く隔たるものではなかった筈である。
   特別攻撃隊を讃える歌
   忘るな昭和十六年
   極月八日大君の
   醜の御盾と出で立って
   朝日桜の若ざくら
   散った特別攻撃隊
   岩佐中佐と八烈士

  このほかに「しきしまの」の歌が武士道と結びついた例を挙げる。最初は安政4年12月7日生まれで、父は幕臣で表銃隊取締役だったと言う人の文章。他の一つは奈良女子高等師範学校教官の本からの引用だが、こちらは手元に本が無いため、正確な引用ではない旨先にお断りしておく。  
「佐久良は殊にうるはしくいさぎよき花なれば、これを我が大和心に比していへり。かの宣長が「敷島のやまと心を人とはゞ、朝日に匂ふ山桜花」の歌は何ぴとも知るところにして、藤田東湖の正気歌に「発為万朶桜」とよみしも同じ意なり。(中略)この花の特色として見るべきは、散るときのいかにもこゝちよき事なり。咲き乱れたる頃、颯と吹きくる風の一たび其の梢を払へば、花は繽粉と飛びちりて聊かも惜しむこころなきものゝ如し。そのさまは恰も武士の笑を含みて死に就くに似たり。花のたふとむべき所こゝにあり。
 「花は佐久良」山下重民、『国民雑誌』第3巻8号、明治45年4月15日刊(『風俗画報・山下重民文集』収載)。

  「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、
   敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花
 という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館。
 宣長が武士道を歌ったとはどこにも書かれていないが、いさぎよく散った桜、と述べたすぐ後で「しきしまの」の歌が引かれていれば、その延長線上で理解されてもしかたがない。この歌を散る桜のイメージでとらえたのは、私の見た限りではこの二つだが、おそらく探せばいくらもあるであろう。
                            「愛国百人一首」

                                          (C)本居宣長記念館

敷島の歌はなぜ『鈴屋集』に載らないか

 桜が好きで好きでたまらない宣長が、見つけた究極の桜の美が「敷島の歌」に凝縮されている。種類は、葉が赤く細木がまばらに混じる山桜。天気と時間は、晴れた朝日の頃。桜花は朝日の頃に限るという美意識は、『新古今集美濃の家づと』の、有家朝臣「朝日かげにほへる山のさくら花つれなくきえぬ雪かとぞ見る」評にも、
「めでたし、上句詞めでたし、桜花の、朝日にあたれる色は、こよなくまさりて、まことに雪のごと見ゆる物なり」
と見えている。

 ところが、この歌は、宣長の自画像を初め、その肖像にはよく書かれているのに、不思議なことに、自選歌集『鈴屋集』には載っていない。
 人から頼まれたら書くのだから、この歌は自信作であったはずだが、どうして歌集に載せなかったのか。
 一つの見方として、私は、宣長は自分からこの歌を離したくなかった、歌集の中に埋もれさせたくなかったのではないか。だから自分といつも一緒、つまり画像か、もしくは独立した半切などの紙にのみ書いたのではないかと考える。いかがでしょうか。


                                          (C)本居宣長記念館

四条烏丸の宣長

 賑やかな場所だなあ。ここは四条烏丸、宣長の頃も、そして今も京都の中心だ。
 ここから南西に徒歩5分。堀景山の宅跡がある。
 碑が建つ。「本居宣長先生修学之地」。
 右側面には
「先生伊勢の人、宝暦年間今より二百年前、二十三歳にして京に出て此町の堀景山に漢学を修め、近隣の武川幸順に医術を学ぶこと五年郷に帰って国学を大成す。新村出撰文並書」、左側面には「堀景山宅、綾小路室町西入南側、武川幸順宅、室町通綾小路北上。昭和二十六年西紀一九五一、先生百五十年歳記念、本居宣長遺跡顕彰会」
とある。

 宝暦2年3月、上京した宣長は、紹介者を立て、儒者堀景山に入門、同家に寄宿する。宣長23歳、景山65歳。以後、同4年10月10日、武川幸順宅に寄宿するまでここが宣長の住まいとなる。
 武川宅も室町四条の南で、堀家からは指呼の間であった。
 宣長の青春時代5年半はここが舞台となったのだ。

 享和元年(1801)、宣長最後の上京時に宿泊した場所を記念して建てられた「鈴屋大人偶講学旧址」は、脇に「大正二年六月」と書かれている。建碑の経過は残念ながらわからない。また、この碑はしばらくの間、銀行のシャッターに阻まれて見ることが出来なかったが、三菱東京UFJ銀行の新社屋が完成する2007年9月以降は外からも見ることも出来る予定と聞く。大変嬉しいことである。
                            「四条烏丸の雑踏」
                           「鈴屋大人偶講学旧址」
                                          (C)本居宣長記念館

四書五経を学ぶ

 「四書」は、『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』。「五経」は、『易経』(『周易』)、『書経』(『尚書』)、『詩経』、『礼』(『儀礼』、後に『礼記』)、『春秋』。併せて「四書五経」と言う。これが儒学の根本教典。経とは縦糸。緯度・経度の経だ。中国の歴史の縦糸である。それの注が「伝」だ。『古事記伝』の「伝」もこの意味が込められているのだろう。

 宣長が12歳の時から、まず最初に習ったのは『大学』、『中庸』、『論語』、『小学』、『孟子』など。師は岸江之仲先生。今挙げた『小学』以外の4冊を「四書」という。儒学の基本書、入門書だ。因みに、今の大学生が文学部にはいると、漢文で習うのが『大学』や『論語』のさわりだ。多くは「朱子」と言う人がつけた注釈本で読む。私も朱子の注で苦しめられた苦い経験がある。但し、宣長は素読で棒読み丸暗記だったと思われる。

 伊勢の今井田家養子時代、やっと「五経」の一部を習った。寛保2年(1749)10月2日より、正住院主につき、『易経』、『詩経』、『書経』、『礼記』の、やはり素読を習っている。『日記』には、「同年十月二日ヨリ素読、師正住院住主」。『(今井田)日記』には、「十月二日、素読学聖衆〔正住〕院、易経ヨム、詩経ヨム、書経ヨム」。さらにもう一つの『日記(万覚)』には、「正住院素読ノ覚、易経、詩経、書経、礼記以上」とある。正住院は伊勢市岡本町にあった禅宗の寺院(『宇治山田市史』下-995)だと言うこと以外は不明。『春秋』は習っていない。

 また、景山塾に寄宿した2日目、宝暦2年3月21日からは『易経』の素読に参加している。『在京日記』に「同廿一日、始素読易経」とある。景山塾では、春以後「五経」素読が行われていた。宣長は途中参加であろう。以後、『詩経』『書経』『礼記』と読み継がれた。同年11月26日夜、景山塾では『晋書』会が始まった。宣長は一人で『左伝』素読を始めたらしい。あるいは先輩か、先生の息子・蘭沢あたりが教えたのだろうか。それとも先生直々か。と言うのも、既に塾のカリキュラムでは「左伝」は宣長入塾以前に終わっていたのである。『在京日記』には、「廿六日、夜晋書会」、「廿六日、左伝素読始、先是書経読畢、自今春至今月、乃五経素読既終」とある。いずれにしても、宣長にとってこの『春秋』は、『春秋左氏伝』と言う注釈書を介してだが、重要な意味を持つことになる。



                                          (C)本居宣長記念館

時代

 宣長の生きた1730年から1801年は、天皇は114代中御門天皇、115代桜町天皇、116代桃園天皇、117代後桜町天皇、118代後桃園天皇、119代光格天皇将軍は8代吉宗、9代家重、10代家治、11代家斉である。と目まぐるしく変わられた。享保の改革から寛政の改革へ至る時期であり、中には田沼時代と呼ばれる時代があった。

 文化に目を転じると、18世紀は文化東漸期であり、地方へ拡散した時代であった。
 元禄以降、文化は漸次江戸にその中心が移っていき、約100年後の文化文政期、江戸に文化の花が開く。この時代、前半期は、地方出身者が京都や大坂で学び、江戸で職を得ると言うパターンができる。その一人が宣長の師の賀茂真淵であった。また、真淵門人でもある平賀源内もその一人だ。宝暦年間(1751~64)以後の後半期となると、江戸に独自文化が形成される。京都も伝統文化の中心地というポジションを保持する。また、全国各地で、知的好奇心に目覚めた人たちが出てきた。これは、貨幣経済が農村部にまで浸透し、数々の矛盾が生じてきたこととも関係がある。彼らの中には、宣長の学問を積極的に受け入れ、支持する人たちも出てきた。


                                          (C)本居宣長記念館

自著を勧める

 「歌書」は何を見たらよいかという質問に対する答えが、寛政11年7月25日、馬目玄鶴宛書簡に載る。新出書簡だ。

「御状致拝見候、秋暑酷之節愈御安全御座被成奉賀候、愚老依旧罷在候、乍慮外御安念可被下候、中元為御祝儀御肴料金百疋御贈恵被入御念候御儀辱致祝納候、御詠草拝見致加筆返進申候、歌書何を見申候而宜哉之旨御尋致承知候、右は此度拙作板行いたし候うひ山ぶみ一冊と申書にあらあら記し申候間御覧可被成候、先者右御礼御答迄如此御坐候、尚期後信恐惶謹言 宣長 七月廿五日 馬目玄鶴様 尚〃金原生書状致落手、此度右返書遣し申候、乍御世話御転達被下度奉頼候」[兵庫県立歴史博物館・喜田コレクション]

1幅、紙本、縦15.8cm、横38.7cm。折り目無し。
 『金銀入帳』寛政11年盆前に馬目の中元記事あり(宣長全集・19-762)。
 同12年は8月で日付と合わず。
 『うひ山ぶみ』の刊行は寛政11年5月22日に板本が出来た。
                                          (C)本居宣長記念館

質疑応答の勧め

 宣長さんの学問の出発点は、「なぜ」と言う問いかけです。この自分の中に芽生えた関心を種として育てていきます。
 だから、先生に対しても、また自分自身に対しても、納得できるまで質問をし、考えます。

 友人の荒木田経雅(ツネタダ)に対してこんなことを言っています。

 この前の麻笥(オケ)や鈴についての私の回答について、疑問点が有れば何回でも質問してきてください。このようなことは得てして何回も質疑応答を繰り返すうちに段々良い考えが出てくるものです。だから遠慮無く何回も質問してきてください。

 この質問と回答は『答問録』に載っています。

【原文】
「一、先達而申上候麻笥・鈴ノ事、御不審御座候ハハ、幾度も可被仰下候、ケ様之事ハとかく数へん往復仕り候へば、段々よき考へ出申し候物ニ御座候ヘハ、無御遠慮いく度も可被仰下候」(安永7年6月24日付 宣長差出、荒木田経雅宛書簡)


                                          (C)本居宣長記念館

質疑応答

 宣長は真淵から通信教育で勉強を教わった。質疑応答である。質疑応答は難しい。質問が的確であれば、師は優れた回答を返してくれるだろう。自分で考えることが必要だ。 
 優れた質問は、師の学問も鍛えてくれる。

「一、先達而申上候麻ケ・鈴ノ事、御不審御座候ハハ、幾度も可被仰下候、ケ様之事ハとかく数へん往復仕り候へば、段々よき考へ出申し候物ニ御座候ヘハ、無御遠慮いく度も可被仰下候」
            安永7年6月24日付荒木田経雅宛書簡。

 宣長は通信教育、そして質疑応答で門人も指導した。


                                          (C)本居宣長記念館

質問

 宣長と会った人は、康定や躬弦ならずとも、普段から疑問に思っていることを矢継ぎ早に質問をした。宣長は質問を大事にする人であった。思えば「物のあわれ」の説もそんな中から生まれてきた。

 ある日のこと、友人が、藤原俊成(シュウゼイ)の「恋せずは人は心もなからまし物のあはれもこれよりぞしる」と言う歌を示し、ここに出てくる「あわれ」という言葉には何か深い意味があるのか、と聞いた。
 この歌そのものは宣長も何度も目にしていたが、改めて考えてみると、この「あわれ」と言う一語により、和歌や『源氏物語』など物語を結ぶ一本の線がありありと浮かびあがってくることに気づいた。
 早速に、有り合わせの紙に書いたのが「阿波礼弁」(あわれべん)である。
 人の心は、嬉しいとき悲しいとき、いつも揺れ動く。その時に出る「ああ」という嘆息が、「あわれ」である。心の振幅の大きな時、その嘆息の声は歌となる。

 有名な「物のあわれを知る」説の誕生だ。
 この「物のあわれ」の発見も決して偶然ではない。一つには、京都時代からの和歌や物語についての問題意識が生み出したと言えるし、また質問を真剣に考えたことの結果とも言える。

 宣長への質問を集めたのが『答問録』である。


                                          (C)本居宣長記念館

「師の説になづまざること」

 宣長の一番大事な教えといってもよい。
 先生の説の誤りに気づいたら直しなさい。先生の説に「なづむ」ことなく先に進みなさいと言う教え。「なづむ」とは、雪や雨、また草で先に進めないことから、後に、一つのことにかかずらう意味になった。もっと後には、惚れることという意味も出てきた。

 簡単なようだが、先生の説を直すのは大変だ。何より、他の弟子たちの反発がある。だが、宣長は非常にスケールの大きな人だった。宣長の目には、自分を古典研究に導いてくれた「契沖」も、また「賀茂真淵」も恩人ではあるが、「過去の人」でもあった。
 また、「過去の人」とするのが自分の務めだし、やがて自分も「過去の人」となっていかねばならない。だからお前たちがんばれと門人を励ますのだ。

 学問の大きな流れの中では、契沖や真淵というビッグネームでも、所詮は個人、点に過ぎないと宣長は考えたようである。
 「『玉勝間』抄」で、巻2「あらたにいひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事」から「師の説になづまざる事」、「わがをしへ子にいましめおくやう」までぜひ読んでみてほしい。

 ここではその中心となる、「師の説になづまざる事」、「わがをしへ子にいましめおくやう」を載せておく。宣長の学問に対する考え方、覚悟がよくわかる。

 【資料】
  「師の説になづまざる事」
おのれ古典(イニシヘブミ)をとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかンめれど、これすなはちわが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出來たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、敎ヘられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也、大かた古ヘをかむかふる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめつくすべくもあらず、又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤リもなどかなからむ、必わろきこともまじらではえあらず、そのおのが心には、今はいにしへのこゝろことごとく明らか也、これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又人のことなるよきかむかへもいでくるわざ也、あまたの手を經(フ)るまにまに、さきざきの考ヘのうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならずなづみ守るべきにもあらず、よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふかひなきわざ也、又おのが師などのわろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者その説にまどひて、長くよきをしるごなし、師の説なりとして、わろきをしりながら、いはずつゝみかくして、よさまにつくろひをらんは、たゞ師をのみたふとみて、道をば思はざる也、宣長は、道を尊み古ヘを思ひて、ひたぶるに道の明らかならん事を思ひ、古ヘの意のあきらかならんことをむねと思ふが故に、わたくしに師をたふとむことわりのかけむことをば、えしもかへり見ざることあるを、猶わろしと、そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし、われは人にそしられじ、よき人にならむとて、道をまげ、古ヘの意をまげて、さてあるわざはえせずなん、これすなはちわが師の心なれば、かへりては師をたふとむにもあるべくや、そはいかにもあれ、

  「わがをしへ子にいましめおくやう」
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、


                                          (C)本居宣長記念館

柴田常昭(しばた・つねあき)

 寛政8年(1796)5月12日没。享年40歳前後。名、孝房(『家集』による)。後に常昭。通称、四郎右衛門。津の商人。初め、谷川士清門か。宣長に入門したのは安永3年(1774)。同門で村田橋彦や川喜田政式と親しく、七里政要・田中次郎左衛門(俳号、木茶)とも交流があった。「格別出精厚志」の中にも名前が上がる。また、芝原春房の助力を得て『詞の小車』を著す。また同7年に『美濃の家つと・折そへ疑問』で師の『新古今集美濃の家づと』と『美濃の家づと折添』説への疑義を提出、それに稲懸大平が論弁、宣長が両者の意見を判断し『美濃の家づと疑問同評論の評』を執筆した。
 最近、津の石水博物館で、家集『常昭家集』が発見された。同書は寛政2年7月、それまでの和歌を自ら整理し、更に増補したもの。

   宣長は
「此人は学問に心を入れて覚(サトリ)も深かりければ行先頼もしくおぼえけるに」
と言い、また
「去冬家業筋ニ付大ナル心労有之、夫故ノ病気之由承り申候」
と、その早すぎる死を惜しんでいる。

      宣長の追悼歌
  夏柴田常昭が身まかりけるに寄夢無情【追善勧進】
  
    さめぬるかけし頼みのいふかひもなき玉のをのみじか夜の夢


 また、寛政8年8月、桑名の帰り津の小西宅に宿った宣長は、夜、芝原春房と語らい、常昭が生きていたらきっとこの場にやってきたであろうにと悲しみ、歌を手向けている。
「かへさに春村が家に津にやどりける夜芝原春房とぶらひきて物語しけるに柴田常昭もよにあらましかば必ずこよひはきなまし物をとかなしく思ひでられてねけるつとめて

なきたまも通ふ夢路は有ものをなどてこよひも見えこざりけむ」    
                       『石上稿補遺』
 【参考文献】
 「『常昭家集』をめぐって」岡本勝・『和歌史論叢』。
 『常昭の語学研究』渡辺英二・和泉書院。


                                          (C)本居宣長記念館

芝原春房(しばはら・はるふさ)

 明和7年(1770)~文化5年(1808)4月2日(一説、1日)。享年39歳。名、春房など。通称、武次郎。後に六郎右衛門。津築地町の米穀商。寛政2年(1790)、宣長に入門。同5年、光徳寺で宣長を迎えての歌会に出席。同9年3月20日、宣長の香良洲の花見に同行。また『玉勝間』巻12に載る「われから・はまゆふ」は『伊勢物語』第65段などで知られる「われから」について四日市の漁師の話を聞いた春房が宣長に伝えたもの。師没後、春庭に入門。柴田常昭と親しく、『詞の小車』の執筆に協力。『常昭家集』には、「おのれおもひよれる事をふみにつくりて、芝原春房がもとへみせにつかはしたりけるを、かへすとて長歌よみておこせける返りごとに、よみてつかはしける長うた」という歌の前書が見え、親交の深さを思わせる。享和元年10月2日の宣長葬儀には、津の川喜田夏蔭らと参列している。また、荒木田久老と交わる。



                                          (C)本居宣長記念館

『紫文要領』(しぶんようりょう)

 奥書に、
 「右紫文要領上下二巻は、としころ丸か、心に思ひよりて、此物語をくりかへしこころをひそめてよみつゝかむかへいたせる所にして、全く師伝のおもむきにあらす、又諸抄の説と雲泥の相違也、見む人あやしむ事なかれ、よくよく心をつけて物語の本意をあちはひ、此草子とひき合せかむかへて、丸かいふ所の是非をさたむへし、必人をもて言をすつる事なかれ、かつ文章かきざまは〔な〕はたみたり也、草稿なる故にかへりみさる故也、かさねて繕写するをまつへし、是又言をもて人をすつる事なからん事をあふく、とき〔に〕宝暦十三年六月七日 舜菴 本居宣長(花押)」
とある。

 本書は、『源氏物語』研究に一区切りつけて『古事記』研究の着手しようとしてまとめていた物であろう。上下2巻で140丁(280ページ)もある本を、真淵と対面後2週間で書くとは考えられないので、それ以前の着手と推定される。真淵と会って『万葉集』の質疑を開始するべく大急ぎで完成を急いだのかもしれない。
 

                            『紫文要領』
                                          (C)本居宣長記念館

自分の作品を人に見せること 1

 「本居宣長書簡」(明和7年8月12日付谷川士清宛)に、
詠んだ歌や、また著作を見せることへの宣長の思いが語られている。
  まず歌を見せたときのこと。
  士清さんが私の歌について批評してくださったことを嬉しく思っています。
歌でも何でも、誰かに見せたときに、
ああ結構ですねえとだけ言ってそれに対しての批評をしないのは誠意に欠けていると思います。
あなたのような批評をしてくださってこそ、見せた甲斐があるというものです。
大変嬉しかったので、またまた下手くそな歌、古風も近風も、
長歌も短歌も書き連ねてお見せします。面倒に思われることでしょうが、
 一覧いただき、良いこと悪いこと思われたことを包み隠さず聞かせてください。

〔原文〕
「かんのくたり〔上の条〕さまざまの事、くはしくあげつらひの給はせし事、
かへすがへすうれしくなん思ひ給ふる。歌も何も、人に見せたるに、たゞよしとのみ物して、
わろき事いはぬは、いとまめならぬわざ也。君のしめし給へるごとくてこそ、
見せ奉しかひありけれ。これがうれしさに、又しもひがひがしき歌ども、
ふるきふり近きふり、長きみじかき、かきつらねて見せ奉る。
うるさくはおぼすとも、一わたり見給ひて、
又々もよきあしきおぼさんまゝに、つゝみ給はでしめし給へ。」


 
                                          (C)本居宣長記念館

自分の作品を人に見せること 2

� 「本居宣長書簡」(明和7年8月12日付谷川士清宛)に、
詠んだ歌や、また著作を見せることへの宣長の思いが語られている。

� ここでは、『古事記伝』執筆を隠していたことへの弁明を見てみよう。

 驚いたなあ。私が『古事記』を解釈した本を一巻見られたとのこと、
この間お会いしたときに話されましたね。
これは、まだきちんとしたものではなく、
ただ一応考えてみて、思いつきのまま書いたもので、
ごく近しい一人二人にそっと見せたのですが、
どうやって士清さんはそれをごらんになったのですか。
どう考えても不思議だなあ。

� 『古事記』はもっとも古い本で、『日本書紀』のように文章を飾ることなく
我が国の「真実の道」がどのようなものであるのか、
この本の中に書かれているので、そんな大事な本を、
中途半端な研究で読み解けるはずがありません。
たとえ解けたと思っても、そう簡単に結論を出すものではないと思います。
「古典」というものは、底がないといって良いほど奥深いもので、
何度も考えていると、前に言ったことの誤りに気づくものだ。
『日本書紀』研究を見るとそのことがよくわかりますね
(意訳:一部省略)。
そのことを考えると、後世に恥をさらすようなもので、
神様の御心にも背くことなので、今回の『記伝』執筆は、
書いたあともまた読み直して、その上でやっと見ていただけるわけで、
そこに到らぬ内はどうしてお見せすることが出来ましょう。
すでに一部をごらんになったことも、本当は不本意なことです。
ましてや私から書いたものをお見せするなどとても出来ることではありませんが、
 しかし熱心に言ってくださることのにお答えしないのも失礼なので、一冊お届けします。
決して出し惜しみをしているわけではないことをご理解下さい。

〔原文〕
「まことや、おのが『古事記』をとける物、一まき見給へるよし、
一日の御物語にうけ給はりき。これはいまだよくもとゝのへず、
たゞ一わたり考へこゝろみて、思ひうるまゝにまづかきつけおきしを、
よそならぬ一人二人に、ひそかに見せつるを
、いかにして見給ひつるにか、いといといぶかしくなん。
そもそもかの『記』は、ふるきが中のふるき書(フミ)にて、
『書紀』のやうにかざりおほき物ならず。
大よそわが御国の道のまことの有様は、かれになんそなはりにたれば、
末の代のおほろけのまなびにて、明らめしるべきわざにあらず。
たとひ明らめ知たりと思ふ共、たはやすく思ひ定むべきにあらず。
すべてふるき書は、そこひ〔底〕もなき物にて、
くりかへし思へば、思ふまにまにさきざきの誤を覚ゆるわざにし侍れば、
いともいともだいじになん侍る。
世々の名ゞたる人々の、『書紀』の神代の巻をとける説共を見るに、
とりどりにわれかしこしと思ひいへるも、みなからぶみにへつらひたる私事にて、
古への道の意(ココロ)にかなへるはひとつも見えず、誤れる事のみなるを思ふに付ては、
いとど後のかしこき人の見んことはづかしく、かつは神の御心もかしこければ、
かの注釈は、猶いく度(タビ)もいく度もかへさひ考へ定めて後こそ、人にも見せ奉るべけれ、
まだしき程にはいかでか物し侍らん。さきにかたはし見給ひしだに、心ならず思ひ給ふる物を、
まして全くはいかでかと、いとつゝましく思ひ給ふる物から、
此度も又いともねんごろに、見まほしうのたまはするを、
猶いなみ申さん はた いとかたじけなければ、
えしもつゝみはてず、又一巻見せ奉る。ゆめおしむと な おぼしそ。あなかしこ、
                            本居宣長
  八月の十二日
  谷川の君の御もとにまうす」


 
                                          (C)本居宣長記念館

『事文類聚』(じぶんるいじゅう)

 221巻48冊。宋、祝穆撰、新集・外集は元、富大用撰。泰定3年廬陵武渓書院刊本。類書。
 例えば前集は天道・天時・地理・人道・仕進・仙仏等13部に分かれ、更に天道部は、太極・天・日・月・星等18に細分、その一つ「太極」が、「群書要語」「古今事実」「古今文集」に3分割され、「夫子論太極」「荘子論太極」等を引く。この元末に刊行された珍籍は、松坂の門人須賀直見旧蔵(本箱蓋に「蓬壷堂蔵本」と記す)。直見は漢詩文を好んだことで知られる。その後、宣長の蔵書となる(『鈴屋蔵書目』文化6年9月、「仁」項「雑々之書」記載)。

 【参考文献】 井上進編『三重県公蔵漢籍目録』。

                          『事文類聚』本箱

                                          (C)本居宣長記念館

樹敬寺(じゅきょうじ)

 【宣長墓・国史跡指定・1936年9月3日】
 松阪市新町884番地。浄土宗。
 小津家(本居家)の菩提寺。村田家の菩提寺でもある。魚町宣長宅から約12分。
 宣長の家は代々熱心な浄土宗信者。菩提寺は知恩院末寺の名刹法幢山樹敬寺。境内には8つの塔頭(タッチュウ)があった。山門近くの嶺松院は宣長歌会の会場。また法樹院は、宣長の家と寺の取り次ぎを行った。

 宣長の曾祖父、祖父は熱心な浄土宗信者で、帰依した様子は『家の昔物語』に詳しい。父も「父念仏者ノマメ心」(『恩頼図』)と言われ、母の実家村田家も樹敬寺の檀家で、また実兄の察然は江戸の増上寺真乗院主を勤めた高僧である。また後年のことではあるが、母も信濃善光寺で剃髪、妹はんも30歳で出家し、末妹俊も夫死没後に剃髪する。このような環境下で育った宣長は、元文4年(1739)、10歳の時に小石川伝通院27世主走誉上人を戒師として血脈を受け法名英笑を与えられた。その後も『円光大師伝』等の書写、19歳の時には本山知恩院を参詣し、樹敬寺縁の通誉上人の墓に参詣。御座敷を拝見し大僧正より十念を授かる。同年7月には父の命日に南無阿弥陀仏を沓冠に歌を詠み、閏10月には樹敬寺で五重相伝を受け伝誉英笑道与を賜る。伊勢に養子に行く直前である。また、15歳の時には樹敬寺の秋彼岸に説教で語られた『赤穂義士伝』を覚え周囲の人を驚かした。修学の中で浄土宗や樹敬寺は大きな位置を占める。

 境内の一族の墓の中に、宣長夫婦、また春庭夫婦の墓もある。

                             宣長一族墓
                                          (C)本居宣長記念館

春庵(しゅんあん)

 宣長の号。また通称としても使用。「蕣庵」、「蕣菴」とも。宝暦5年(1755)3月3日から寛政7年(1795)2月「中衛」と改めるまで使用。改号後は「芝蘭」は使用せず。『在京日記』に「為稚髪、更名曰宣長、更号曰春菴、以春菴常相呼矣」、『本居氏系図』に「本居舜庵(舜亦書春字)」とある。「蕣」字は宝暦5年から9年までに限られるが、それ以前、以後も「春」「舜」字を併用する。短冊署名は「宣長」が大方であるが、極く稀に「舜庵」名がある。


                                          (C)本居宣長記念館

床の間の掛け軸

   鈴屋の軸というと、「県居大人之霊位」が有名だが、実はこれは特別なもので、普段は堀景山先生の書幅などが掛けてあった。床は、天井が斜めになり奥が高く設えてある。従って少し長めの軸でも掛かるようになっている。
                             宣長一族墓
 ◆「県居大人之霊位」
 読みは「あがたいのうしのれいい」。宣長自書。県居は賀茂真淵の号。大人は先生の意味。
 「あがたいのうし」と訓むことは、『玉勝間』巻6「県居大人の伝」で、本文中に「あがたゐの大人」とあり、同巻1「あがたゐのうしは古へ学びの親なる事」では、やはり本文中の「県居大人」に「ノ」の字を傍らに添えていることから明らか。
 『古事記伝』巻3のウシ、ヌシの説(宣長全集・9-127)では、「の」があれば「うし」、なければ「ぬし」となる。「県居之大人」と之の字が入らないのは「大人」の場合ウシと訓むためである。
 『文物類纂 一』に
 
「半切、虫食アリ、料紙唐紙、表装、箱書殿村安守 県居大人之霊位ト自ラ謹書シ祭祀ノ際用ヰラレシソ(天明元年十月大人十三年祭ヲ行ハレシ際ノ筆カ)」
 とある。
                             宣長一族墓
◆「春思」(シュンシ)
 読みは「紅粉ロ(土偏に盧)に当たって弱柳垂る。金花の臘酒(ロウシュ)トビを解かす。笙歌日暮れて能く客を留む。酔殺す長安の軽薄児」(『唐詩選解』荻生徂徠)。賈至(カシ)作、堀景山書。『唐詩選』収載の七言絶句。

 大意は、「紅おしろいをつけてお店に出れば、道にはしだれ柳の木が美しい。その柳にも似た私の姿。黄金の花の浮かぶ今年の新酒、さあ春のお酒の口を開けましょう。笙を吹き、歌を歌い、日の落ちるまでお客を帰さずに、長安の浮かれ男たちを酔いつぶしてみせましょうぞ」。

 題の「春思」に、楽しげに見える春の景色も自分にはちっともおもしろくないという気持ちが込められているが、宣長は、この詩に京都での楽しい日々を投影していたのだろう。
 それにしても、景山の字はすばらしい。記念館以外にこの先生の字が残されていないのは不思議だ。
◆「上皇西巡南京歌」
 読みは「剣閣重関蜀の北門、上皇の帰馬雲の如く屯す。少帝長安に紫極を開き日月双べ懸けて乾坤を照らす」(『唐詩選解』荻生徂徠)。李白作、堀景山書。『唐詩選』収載。
 玄宗皇帝が、愛妃楊貴妃を喪うものの、安禄山の乱を平定し、少帝都に凱旋するのを詠んだ詩。故郷に帰る宣長へのはなむけとして書いたのであろう。
                            「上皇西巡南京歌」
                                          (C)本居宣長記念館

『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)

 中国の経書。『春秋』という、中国春秋時代に孔子、もしくはその教示を受けた魯の史官が編纂した編年体歴史書。五経の一つ。何月に誰がどこで誰に勝った、と言う事実を書くだけなのでその後に注釈書が書かれた。その一つ、左邱明(サキュウメイ)が注をつけたのが『春秋左氏伝』。ほかの注と違って、左さんは主観的ではなく豊富な事実で経義を説く。もとは『春秋』と『左氏伝』は別の本としていたが、晋の杜預(トヨ)の『春秋経伝集解』が出来てから一緒になった。宣長手沢本もその流れに属する本だ。

 ■書誌■
 版本。宣長手沢本。30巻15冊。袋綴冊子装。薄茶表紙。
 縦28.5cm、横20.5cm。匡郭、縦22.3cm、横17.2cm。片面行数8行。
 墨付(1)76枚、(2)53枚、(3)76枚、(4)63枚、(5)56枚、(6)73枚、(7)83枚、(8)70枚、(9)70枚、(10)70枚、(11)72枚、(12)74枚、(13)65枚、(14)56枚、(15)91枚。
 外題「左伝、一之二(以下・巻数)」。
 内題「春秋経伝集解隠公第一」。
 小口「春秋、一之二(以下・巻数」。柱刻「左伝一(以下・巻数)、丁数」。
蔵書印「鈴屋之印」他。
 【奥書】
第1冊(巻2)
「右書入改点等皆是、景山先生所是正也、予以其自筆本写之云爾、本居栄貞」。
第2冊(巻4)
「右書入改点等、景山先生所是正也、本居栄貞」。
第3冊(巻6)
「右書入改点等、景山先生所是正也、本居栄貞」。
第4冊(巻8)
「右書入改点等皆是、景山先生所考正、而予以其自筆本写之云爾、宝暦三年癸酉十月卅日、本居栄貞記」。
第5冊(巻10)
「右書入改点等皆是、景山先生所考正也、予以其自筆本写之云爾、宝暦四年甲戌正月六日、本居栄貞記」。
第6冊(巻12)
「右書入改点等、我、景山屈先生所是正也、予以其自筆本写之云爾、宝暦四年閏二月十三日此一策畢、本居栄貞」。
第7冊(巻14)
「右標註改点等、我、景山屈先生所考加也、予以其自筆本写焉云爾、宝暦四年甲戌五月二日畢此一策矣、門生本居栄貞」。
第8冊(巻16)
「右標註音点等皆、景山屈先生所考正也、即以、先生自筆本写之、宝暦五年乙亥二月八日此一册畢、後学、本居栄貞謹識」。
第9冊(巻18)
「右鼇頭旁註訓点等皆是、景山先生所是正也、予以其自筆本改正之云爾、宝暦五年乙亥四月八日、本居春菴清宣長謹書」。
第10冊(巻20)
「右訓点句解旁註等皆是、景山屈先生所考正也、以自筆本写之矣、宝暦五年乙亥六月朔日、清春菴本居宣長謹識」。
第11冊(巻22)
「右句読訓点旁註鼇頭是、景山先生所考校也、以其自筆本瀉之畢、宝暦五年乙亥九月四日、清蕣菴宣長謹書」。
第12冊(巻24)
「右鼇頭旁註訓点者、景山先生所集識考正也、予今以其家蔵自筆之本書写之、宝暦五年十一月五日畢此一策矣、蕣菴清宣長謹書」。
第 13冊(巻26)
「右訓点句読旁註鼇頭者、景山屈先生所校正也、予以自筆本書附之云爾、宝暦六年二月三日畢此一策、清蕣庵本居宣長謹書」。
第14冊(巻28)
「右国読訓点句読訓点旁註皆頭是、景山屈先生所校正也、予以其家蔵自書本附之、雖一字半点不加臆断矣謹写云、宝暦六年丙子四月二日、本居宣長謹書」。
第15冊(巻30)
「右春秋左氏伝全十五本訓点国読旁註句読是校正也、予以其自書之本写之全部正畢矣、時宝暦六年丙子年六月二日、伊勢飯高春庵本居宣長謹書乎平安寓居」。
【参考】
  師の堀景山改訓本から書き入れを丹念に写す。開始は宝暦3年頃。宝暦6年(27歳)6月2日、巻15の改訓の筆写が終わる。「かれは自分の所持する和刻本『春秋経伝集解』全十五冊にわたって、その訓点の改訂を行っていた。それは本来この版本に付されていた訓点の一つひとつを胡粉で消し、その上に師景山が改め正した訓を丹念に書き入れる作業であった」『本居宣長の生涯』岩田隆著(以文社刊)。宣長の所持した漢籍類は医学書を除くと殆ど散逸したが、手沢本で唯一残ったのが本書である。歴史を重んじた景山の学風、また宣長の緻密な学習振りをよく伝える。
                             『春秋左氏伝』
                                          (C)本居宣長記念館

『衝口発』論争の仕掛け人

 藤貞幹が書いた『衝口発』は多くの人の怒りを招いた。その中でも宣長の論駁は激しかった。だが、論争には仕掛人がいる。

 史料から反論の経過を推測してみよう。
 天明5年、京都の高橋某(あるいは橋本経亮の師・高橋図南の子宗澄であろうか)から、『衝口発』を借りて読んだ渡辺重名は、内容の杜撰に驚き、先生の久老や宣長に徹底反論して貰おうと考えた。
 まず山田(伊勢市)に持ってきて久老に見せた。
 9月8日には三井高蔭が重名の書簡でこの本のことを知った。この書簡は、大平が参宮で蓬莱尚賢の所に寄った時に言付かってきたものである。そこには、高橋氏がこの本を宣長にも見てもらえと言うので連絡する。ちょっと曰くのある本らしいので、高橋氏はまず三井高蔭に見せてそれから山田や松坂でも広めるようにと言う。

 さて、一覧した久老は、稲懸大平を介して宣長に送った。
 宣長は直ちに『鉗狂人』を書き、それを大平は重名に告げ、同時刊行という久老のもまだ見ていないが出来ているのだろうと言う。今、久老の反論は残っていない。
 貞幹と重名は、同じ日野資枝の門人だ。また、高橋が高橋図南、また宗澄であるとすると、貞幹は図南に師事しているので、高橋が見せろと云った趣意もわからない。

 不思議な論争だが、これがその後、上田秋成と宣長の論争へと展開していく。

【史料】
1,宣長『鉗狂人』(ケンキョウジン)に付く度会神主正兌の序(文政2年)
「ひとりのたぶれありて、ゆゝしともかしこしともいはむかたなきたは言ども、かきはなちたる物ありけり、さるを、そのころ豊後人重名、京にものまなびしてありけるに、或人その書をみせければいたくうれたみて、かゝるふみをなむ見得はンべる、いかでこのたはわざとくうちきため給へかしと、鈴屋翁がりいひおこせたるに、うべなひていととく物せられたる此の書になむ云々」(宣長全集・8-303)

2,『三井高蔭日記』天明5年9月8日条
「宗十郎様、造酒、先刻可申上奉存候処及失念候間申上候、衝口発と申候書高橋氏より借用仕候而山田ヘ持参仕候、右之書本居大人ヘ入御覧候様ニ高橋生も被申候、少々趣意有之候書物之義ニ御座候間、高橋氏より貴家へ被指出候而山田御当所等ニも流布致候由趣ニ仕度候下略之」

3,天明5年11月12日付、荒木田久老宛大平書簡(射和文庫所蔵)
「日外は京高橋家之写 本一冊飛脚へ御出し被下早束入手本居翁へ相渡候、甚にくむへき書之由御同懐之至ニ奉存候、評論も何角多用ニて段々延引相成候、本月中ニハ相成候半と奉存候」

4,天明5年12月、渡辺重名宛大平書簡(『国学者伝記集成』P945)
「右衝口発の評、鉗狂人と申す書一巻、此度鈴屋大人述作相成候間、御約束の通早速御地へ相登せ候。右論評、先達て御約束には、山田五十槻園と鈴屋と両先生の評、一時に相登せ可申のよしに御座候所、もはや五十槻園にも、御出来とは奉察候へ共、いまだ杉(引用者注「松」か)坂へ到来無之候て待兼申候」。


                                          (C)本居宣長記念館

浄土宗(じょうどしゅう)

 宣長の家は代々熱心な浄土宗信者。菩提寺は知恩院末寺の名刹法幢山樹敬寺。塔頭法樹院が取り次ぎを行った。曾祖父、祖父はとりわけ熱心な浄土宗信者で、帰依した様子は『家の昔物語』に詳しい。父は「父念仏者ノマメ心」(『恩頼図』)、母の実家村田家も樹敬寺の檀家で、また実兄の察然は増上寺真乗院主を勤めた高僧である。又後年のことではあるが、母も善光寺で剃髪、妹はんも30歳で出家し、末妹俊も夫死没後に剃髪する。

 このような環境下で育った宣長は、元文4年(1739)、10歳、小石川伝通院27世主・走誉上人を戒師として血脈を受け法名英笑を与えられた。その後も『円光大師伝』や「浄家名目」等の書写と、修学の中で浄土宗や樹敬寺は大きな位置を占める。延享5年(1748)、19歳の時には本山知恩院を参詣し、樹敬寺縁の通誉上人の墓に参詣。御座敷を拝見し大僧正より十念を授かる。同年七月には父の命日に南無阿弥陀仏を沓冠に歌を詠み、閏10月には樹敬寺で五重相伝を受け伝誉英笑道与を賜る。この時期の信仰については『覚』の「精進」、「日々動作勒記」に詳しい。またこの前後しばしば融通念仏、十万人講等の仏事を修している。今井田家時代については分からないが、浄土宗信仰は帰宅後も続き、京都時代友人宛書簡で「少来甚だ仏を好む」(岩崎栄令宛)とも、「不佞の仏氏の言に於けるや、これを好みこれを信じこれを楽しむ」(宝暦7年上柳敬基宛)とも言う。

 その後、『古事記』研究の深化につれ仏教信仰に変化が見られる。一つの転機として考えられるのが『直霊』執筆(42歳)頃か。但し、家の宗教としての仏事を執り行うことは以前と変わることなく、日常生活に於ける寺院との関わりにも全く変化は見られない。晩年、書斎で『浄土三部経』を読誦したというのは根拠のない説であるが、旧蔵書中には『法華経』や『浄土三部経』等仏書も混じり、仏事の際には読誦することもあったと思われる。安永6年樹敬寺住職となった法誉快遵との交友や、『遺言書』での葬儀次第、また戒名「高岳院石上道啓居士」など自ら命名するなどは樹敬寺との深い信頼関係に基づくものと言える。

【参考文献】
『宣長少年と樹敬寺』山下法亮著・昭和43年9月29日。
                                          (C)本居宣長記念館

常念寺

 中町1905番地。浄土真宗。鐘楼脇の墓地に宣長門人・殿村安守の墓がある。また、土居光華の墓も本堂脇の墓地に残る。


                                          (C)本居宣長記念館

書簡

 宣長は通信教育で勉強した日本歴史上最初の人であるかも知れない。宣長は、江戸の賀茂真淵(1697~1769)から書簡で勉強を教わった。また自分の学問を普及するのに書簡を活用した。現在確認されている宣長書簡は、『本居宣長全集』収載のものが1,021通、以後に紹介されたものを含めると約1,050通余り。質問者に対して宣長は惜しみなく最新の研究成果を伝えた。

 もちろん江戸時代は、今のような郵便制度はないが、大都市は飛脚で結ばれ、また日数はかかっても村々にも届けることも出来た。宣長の記録のなかに「転達所覚」とあるのがその方法を書いたものである。
 たとえば山梨県の辻保順(作家・辻邦生氏の先祖)という門人に手紙を出すには、まず京都の近江屋喜兵衛を経由して、甲州加茂村竹下氏を中継し、保順に届く。つまり転達所とは経由地、中継地のことである。またもう一つ、街道沿いの町松阪ならではのやり方があった。参宮客を使う方法である。こちらは早くて安いので、宣長もよく利用した。

 毎年定期的に地方を回って伊勢神宮のお札を配る御師(オンシ)たちも宣長の学問の普及に寄与した。地方の檀家に神宮のお札と共に、女性にはおしろいを、農家には伊勢暦を土産とし、勉強の好きな人には、伊勢にこんな事を調べている人がいると、宣長の本を見せてやったのである。さらに興味のある人には、参宮を勧め、帰りには松坂で勉強していきなさいと、宣長への紹介状を書いたのである。

 宣長書簡の価値は、学問の最新情報が満載されていることと、もう一つ、他の資料に見られない情報〈個人情報〉が書かれている点にある。実は、『古事記伝』天覧も、また加賀前田侯からの招聘のことも、そして『古事記伝』完成も現存する第一報は書簡で残るのである。

 【参考文献】
 「日本における遠隔教育の起源-鈴屋の意義」白石克己、『鈴屋学会報』16号。


                                          (C)本居宣長記念館

食事

 「うまき物くはまほしく・・」美味い物は食べたいし、と言うのが人の真心だ、と宣長は言うが、宣長自身の食べ物への欲求は比較的乏しかったようだ。「比較的」と書いたのは、冠婚葬祭の記録で、出された料理の逐一、例えば椀の中の食材から漬け物、菓子に至るまで克明に記録しているので、書物の上での知識以上のものがあったことが容易に推測されるからだ。好みは、やはり京都風か。『玉勝間』の「伊勢国」では、松坂にはクワイ、蓮根が無いと言っている。また、来訪者が増えるに従って、諸国の名産も口にはいるようになってきた。大矢重門の「焼き鮎」、横井千秋の「守重大根」等々。例えばミカンのように、時代が進んでくると改良され、また新しい種類のものが食べられるようになることは素直に喜んでいる。
  但し、食物の中でもお米は別格である。米に対しては、一種の信仰心のようなものがあった。


 
                                          (C)本居宣長記念館

書斎の鏡

 文化元年(1804)、松坂を再訪し、奥墓参拝を済ませた飛騨の国学者田中大秀は、折から滞在中の広島の橋本稲彦と宣長遺品を拓本に採った。その中に、遺愛の鏡がある。懐中用程度の小さなものであり、文鎮兼用であったのかもしれない。
 学者と鏡、この取り合わせをいぶかしく思われるかもしれないが、実は宣長の机の近くには鏡が置かれていた。師の没後に鈴屋の書斎の整理に通った門人青木茂房は、書斎の本棚と机の傍らの鏡を歌に詠み、亡き師を偲ぶ。記念館に収蔵される『門人哀傷歌』と題した包みの中の詠草(縦17.5cm、横46.5cm)から引く。
「師の君なくなり給ひてのちもたまへりし家の書ともをとりしたためてをさめさせ置などせんとて高蔭ぬし大平ぬしとともに十一月二日ころより日ことにまゐりて見あつかふに御机のかたはらにならべて書棚のしるしにあさよひにとりいつる書と次第して入れおき給へるもあればかく思ひつゞけゝる

 あさよひに見ましゝふみをこのごろの 
             あさよひにきてみるぞかなしき

又御つくゑのわたりにおきてもてあそび給ひしかゞみを見ゐでゝ

 なき君のかげはとまらでいたづらに
              月日うつろふますかゝみ哉  茂房」
 宣長の時代、宝暦から明和にかけて日本は金属鏡からガラス鏡への過渡期であったが、その愛用の鏡が金属鏡であったことが田中大秀が残した記述と拓本により明らかとなった。高山市郷土館(高山市上一之町75番地)香木園文庫収蔵の『那岐佐能多麻』1冊は大秀自筆の文化甲子秋の松坂紀行である。

 大平による特に事実関係の添削と書き入れ多く、その松坂での見聞記事は信頼に足ると見てよい。滞在中、殿村安守から宣長遺愛の八花稜鏡を見せられた大秀は、日記に「古き鏡」と書いた。それを、大平は新しいものであると訂正(「故大人の鏡古きにあらず新鏡也」)し、本文は「めてたき鏡」に改められた。拓本の注書きもその後の加筆であろう。
 この鏡は、八花形の形から、また新しいことから、寛政6年若山からの帰りに購求したものであろう。

   「〃(銀)八匁 八花形鏡 同断【先生御懐中より】」
        (『寛政六年若山行道中小遣帳』 宣長全集・16-538)

 本居宣長と鏡、もしくは鏡的な存在、あるいは自己観察と言ってもよい、それが宣長を理解するための重要な手がかりとなると私は考えている。例えば、宣長の自画像である。四十四歳像の賛で「此かたを物すとてかゞみにみえぬ心の影をも」と鏡の使用をほのめかしているが、自画像が成立する必須条件は「鏡」の存在である。
  作家黒井千次氏によれば、
「本格的な自画像の誕生と、ガラス鏡の出現・普及とはほぼ重なり合っている」
   (『自画像との対話』文藝春秋社・1992年2月、P154)
 自画像作成は偶発的なことではない。なぜ宣長は生涯に2度の自画像を描いたのか、解決困難な問題であるが、そこに鏡があったことは間違いない。
                                          (C)本居宣長記念館

初版と再版

 宣長の本は、完成原稿として版木師に渡されるので、たとえば『言葉の玉緒』のような改訂版が出ることは例外であると思われるが、これもよく調べないといけない。少異ならあるかもしれない。
 有名なのは『玉勝間』で、これは内容の差し替えが為された。
 また『源氏物語玉の小櫛』は、刊記の「須受能屋蔵板」が「受須能屋蔵板」となっていたので再版で訂正された。本居記念館に所蔵される版木では埋め木(修正)の後が確認できる。
 実際には確認していないが、『てにをは紐鏡』にも重大な異同があるという。
 また、細井金吾の所でも書いたが、『古事記伝』版本巻5にも初版と再版の異同がある。
 この巻には「おひつぎの考」がある。つまり増補した項だ。
 例えば、『本居宣長全集』や岩波文庫の『古事記伝』では、「女嶋」、「両児嶋」、「比婆之山」と「おひつぎの考」が3項目ある。これは再版された版本を底本とするためである。初版には「女嶋」と「両児嶋」2項目で、「比婆之山」は無い。また「女嶋」と「両児嶋」も初版には「筑前ノ国人細井氏云」と情報提供者が書かれるのに、再版では「筑前国のある人」と細井の名は消え、増補された「比婆之山」が沢真風の話と明記されるだけである。
 このように一枚の版木で印刷する版本ではあるが、異同もあるのだ。


                                          (C)本居宣長記念館

庶民の日本歴史への関心

 宣長の頃、日本歴史に関心を持つ庶民が増えてきた。
 奈良本辰也氏『二宮尊徳』(岩波新書)から、関心の様子を見てみよう。

 「自分の家の墓さえ分からないのに御苦労な話だと思うかも知れない。いや、現在どころか当時は、もっともっと奇妙な行為だった。当時の人が彦九郎や君平を奇人と称したのも当然なことである。/しかし、歴史がある時期をさし示して、そこで一つの事業を行おうとするときには、こうした奇人も必要であったのだ。わたしは、彼ら(高山彦九郎や蒲生君平・引用者注)の奇妙な行動のなかに、幕府の歴史ではなくて、日本の歴史を明らかにしようとする努力がかくされていたとみてよいと思う。民衆の歴史を知る手段や方法を知らない彼らは、まず支配者の歴史から明らかにしようと考えたのであろう。」(P45)

 「すべての藩は、それ自体の経済を持って、地方々々に割拠している。また、百姓自身にしてもそうであった。彼らは、何々村の百姓としての自覚は持つが、一国の国民としての自覚は持っていなかった。多くの侍が何々藩の自覚しか持たなかったのと同様である。いってみれば、それらのことはすべて、わが国がまだ国家としての体制を持っていなかったということである。それはたしかに、さきに述べた佐久間象山や高野長英、あるいは吉田松陰、橋本左内といった先覚的な頭脳、また本多利明、佐藤信淵というような優れた学者の頭には、日本という国が一つのものとして理解されていた。(中略)(二宮に)幕府がはじめたのではなくして、ずっと以前から連綿としてつづいている国、それを自分達の歴史として把握する、そういう考え方がなかったとはいえない。それは、本居宣長が考え、また彼と同じ時代に生きた平田篤胤が強く唱道したことである。」(P118)



                                          (C)本居宣長記念館

書物

 子どもの子どもの頃からの本好きが高じて、医者、学者への道を歩むことになった宣長だが、書物を読むことが仕事となっても、やはり読書は趣味でもあった。晩年の和歌『ふみよみ百首』には、本を読むのが楽しくて仕方ない宣長の気持ちがよく表れている。
 だが、宣長は愛書家ではない。読むことが主目的だ。借りて読めばいい。読んだら貸してやればよい。その愛読するのは、『源氏物語』や『新古今集』という正統な古典であり、自分の研究対象とピッタリ重なっていた。学問が自発的なものであったことはこの点からも窺える。

 だが、それ以外にも実にさまざまな本を読んでいたようだ。特に、『宇治拾遺物語』、『今昔物語』、『古事談』などの中世の説話集や、『吾妻鏡』などの記録類、また漢籍や同時代の雑書まで幅広く読んでいた。伊勢神宮の御師・荒木田尚賢はあちこちから珍しい本を持ってきてくれる。公家の日記や漂流記などさまざまだ。持ってきてくれた本は取りあえず何でも読んだらしい。『本居宣長全集』13巻に載る『本居宣長随筆』は、稀代の読書人・宣長の読書ノートである。


                                          (C)本居宣長記念館

白猪山(しらいさん)

 宣長が友人塩崎さんの家で歌に詠んだ、「白猪山」 は、松阪市阪内町、深野町、大石町などにまたがる山で標高819.7m。合併前は、松阪市の最高峰であった。宣長の家の近くを流れる坂内川、その源流は二 説ある(『大河内の歴史』大河内地区自治会連合会)が、宣長などはこの山からと考えているし、松阪の人もみな同じ認識だ。堀坂山、局ヶ岳と共に伊勢の三峰 と呼ばれる。松阪市笹川町山村より出土し、現在東京の個人所蔵となっている小銅鐘(国重文)には次の銘文がある。

  「飯高郡上寺金/貞元二年(九七五)正月十一日/願主亥甘部子村子」  

 猪甘(イカイ)については、『古事記伝』巻40に詳しい。白猪山の名前も関係があるのだろうか。最近の歴史事典を見ると、猪甘部の飼っていた猪とは、日本の原生種の豚で、近代になり外国から入ってきた豚に駆逐され絶滅したという。
                               白猪山
                           松阪市内よりの眺望
                                          (C)本居宣長記念館

芝蘭(しらん)

 宣長の号。
宝暦3年(1753・24歳)11月より使用。『在京日記』に「此月、余号称芝蘭矣」とある。下限は宝暦五年三月三日「春庵」改号までか。
 使用例は「日本音韻開合仮字反図」、『和歌の浦』第5冊『遊仙窟』摘録の箇所等。
 「芝蘭」の語は『晋書』等に散見するが、宣長の「荘子摘腴」には『孔子家語』の「芝蘭生於深林。不以無人而不芳」を引く。


                                          (C)本居宣長記念館

白子(しろこ)

 白子は今の三重県鈴鹿市。近鉄「白子」駅は鈴鹿サーキットの玄関口として有名だ。
 ここは、江戸時代ロシアに漂着した大黒屋光太夫の故郷でもある、また、松坂と同じく紀州徳川家の勢州三領の一つ。松坂とはかかわりも深い。
 この地には宣長の高弟がいた。先駆的なのは村田橋彦、それに続くのが「白子の三樹」と言われた、橋彦の息子、村田並樹、神官・坂倉茂樹、そして一見直樹である。 


                                          (C)本居宣長記念館

白子国学略年譜

 宣長の記録と、坂倉茂樹の子孫が祀る坂倉家の霊牌や資料をもとに編んでみた。

宝暦13年(1763)


5月25日 

松坂新上屋で宣長と賀茂真淵が対面する。

 

5月26日 

賀茂真淵、白子村田橋彦宅に泊まる。

 

 この年、坂倉茂樹生まれる。

 

天明2年(1782)

 

「藤原広近神主霊、広・天明二壬寅年八月十八日、寿八十一才」※比佐女と合祀。

 

天明3年(1783)

 

この年、白子の村田橋彦、宣長に入門。但し、橋彦は天明8年入門説もある。

 

天明4年(1784)

 

この年、白子の村田並樹、一見直樹、坂倉茂樹、倉田実樹4名宣長に入門。

 

天明5年(1785) 

 

この年、一見直樹(俊徳)父七回忌で宣長歌を送る(宣長全集・15-439)。

 

天明8年(1788)

 

1月4日

坂倉茂樹、宣長を来訪。一見直樹母六十賀歌文、村田並樹から文の依頼がある(宣長全集・20-257)。

 

1月8日

白子の書簡と歌届く。24日返す(宣長全集・20-257)。

 

1月10日

村田橋彦の書簡届く。同日返事書く(宣長全集・20-257)。

 

1月16日

村田橋彦から書簡と進物届く(宣長全集・20-258)。

 

1月

坂倉茂樹から書簡、白子から詠草届く。3月中旬返事(宣長全集・20-258)。

 

1月20日

村田橋彦から書簡と珍物届く(宣長全集・20-258)。

 

3月10日

夜、村田春海、橋彦、並樹来訪。橋彦から詠草添削依頼(宣長全集・20-258)。

 

3月27日

村田橋彦の書簡届く(宣長全集・20-259)。

 

4月17日

坂倉茂樹の書簡届く(宣長全集・20-259)。

 

4月26日

村田並樹の詠草届く(宣長全集・20-260)。

 

7月20日

白子から書簡と金子届く。8月19日返事書く(宣長全集・20-261)。

 

11

坂倉茂樹『能褒野陵考』執筆。

 

12月13日

宣長、村田並樹、坂倉茂樹両名宛書簡執筆(宣長全集・17-113)、『能褒野陵考』を褒める。

 

  この年、白子の白子昌平、村田橋彦2名宣長に入門。但し、橋彦は天明3年入門説が有力。
  この年、宣長、村田橋彦に久しく無沙汰をしていると歌を送る(宣長全集・15-452)。

 

寛政元年(1789)

 

2月27日

一見直樹から「本末歌」(横物)依頼(宣長全集・20-261)。

 

3月19日

宣長、名古屋行きのため白子に立ち寄る。田鶴か屋(橋彦)、萩の屋(並樹)に寄り、同夜は並樹宅に泊まる。

 

3月29日

宣長、名古屋からの帰路、坂倉茂樹等の案内で能褒野陵、山辺御井を廻る。一見直樹宅に泊まる。

 

4月17日

宣長、白子(村田橋彦)への書簡と詠草送る(宣長全集・20-263)。

 

4月

坂倉茂樹から人麿歌を依頼される(「一、人丸賛 茂木誂 尤茂木所蔵ノ像ヲ見テヨメルヨシ端書スヘシト也」・宣長全集・20-263)。村田並樹から「本末歌」依頼される(宣長全集・20-263)。

 

5月10日

夕、一見直樹来訪。「琴之屋文」依頼される(宣長全集・20-263)。

 

5月

坂倉茂樹から「楽声屋文」依頼される(宣長全集・20-263)。

 

閏6月6日

村田並樹、坂倉茂樹、一見直樹3名宛書簡執筆(宣長全集・17-123)し、渡辺直麿から村田橋彦宛書簡の転達を依頼。この時人麿歌も届けられる。

 

8月

村田橋彦から竹の賀歌依頼で書簡届く(宣長全集・20-264)。一見直樹から掛物賛に、万葉日本琴、もしくは新歌の依頼(宣長全集・20-264)。

 

10月5日

村田橋彦へ『神代正語』を、また並樹詠草を橋彦宛に送ることを『雅用録』に記す(宣長全集・20-265)。

 

寛政2年(1790)

 

夏頃

白子昌平、渡辺重名の『馭戎慨言』序を清書する。

 

寛政3年(1791)

 

7月

坂倉茂樹、『寛政三辛亥七月楽声舎筆記』起筆。

 

9月

「藤原広丸霊、広丸・寛政三辛亥歳九月」※筆書き判読困難。藤原共近と合祀。「神道宗門」(西田長男)に「茂樹には嗣がなかったので、笠因直麿の次男の菅雄を養子に迎えた。通称を広丸といったのがこの菅雄のことである。しかしてその兄の笠因元彦にまた嗣がなかったので、今度は広丸の子が養子になって上総介直麿と称した。この直麿を称したのはもとより祖父の名乗りを受けたものである。ただし、のち故あって離縁せられ(『松阪神社文書』)云々」とあるがいかがであろう。笠因は松坂雨竜神社の神主で宣長の門人。

 

寛政4年(1792)

 

1月

坂倉茂樹、鈴屋来訪か。1月5日付七里長行宛書簡で「此間白子坂倉氏入来之節」と書く。

 

1月6日

坂倉茂樹宛、村田橋彦宛各書簡執筆。坂倉宛は来訪と年玉礼、橋彦は賀状(宣長全集・17-169・年次推定根拠薄弱)。

 

9月10日

坂倉茂樹、市見直樹両名宛書簡執筆。肖像画の件を述べる(宣長全集・17-568)。年次は小山氏の推定による。根拠は、先頃並樹が江戸に行ったと言う記述。

 

9月12日

坂倉茂樹宛書簡執筆。江戸行き恙なく済んだことを喜ぶ(宣長全集・17-184)。7月の松坂洪水が年次推定の根拠(7月13日に洪水があった)。

 

寛政6年(1794)

 

8月24日

坂倉比佐女没。「比佐女御魂、比・寛政六庚寅年八月廿四日、寿七十七才」※藤原広近と合祀。

 

寛政7年(1795)

 

1月2日

夕、一見直樹来訪(宣長全集・20-269)。

 

1月5日

坂倉茂樹来訪(宣長全集・20-269)。

 

1月29日

村田並樹来訪(宣長全集・20-269)。

 

9月20日頃

村田並樹から布目上半切50枚贈られる(宣長全集・20-341)。

 

10月7日

坂倉茂樹から短冊50枚、扇2本贈られる。

 

この年、坂倉茂樹等、紀州藩に神葬祭を願い出て許可。
 
【参考文献】西田長男「神道宗門」

 

寛政8年(1796)

 

1月8日頃

坂倉茂樹から竹の絵、梅の絵に賛の依頼(宣長全集・20-275)。

 

2月4日頃

村田橋彦、また、村田並樹、坂倉茂樹、一見直樹3名よりの依頼の件有り(宣長全集・20-276)。

 

4月17日頃

坂倉茂樹より大祓の依頼有り(宣長全集・20-278)。

 

5月28日頃

坂倉茂樹、村田橋彦より依頼有り(宣長全集・20-279)。

 

7月8日

松平康定侯に対面するため桑名に行く。四日市泊まり。

 

7月11日

桑名からの帰路、白子の村田橋彦宅に寄るか。津泊まり。

 

7月26日

村田並樹、一見直樹、坂倉茂樹3名宛書簡執筆。中元の礼と、桑名行きでは橋彦の所にだけ立ち寄ったことを詫びる。

 

9月18日頃

村田橋彦の依頼物あり(宣長全集・20-281)。

 

10月18日頃

村田橋彦の依頼物あり(宣長全集・20-282)。

 

寛政9年(1798)

 

7月22日頃

村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-288)。

 

12月頃

白子からの依頼物あり(宣長全集・20-291)。

 

12月16日

坂倉茂樹から画賛2枚依頼。ウスヒキと三番叟(宣長全集・20-291)。

 

寛政10年(1798)

 

1月10日頃

白子からの依頼物あり(宣長全集・20-292)。

 

3月20日頃

白子からの依頼物あり(宣長全集・20-293)。

 

6月16日頃

村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-296)。

 

9月3日

坂倉茂樹から画賛と長歌の依頼(宣長全集・20-297)。

 

11月3日

坂倉茂樹宛書簡執筆。「武備神社縁起」添削の件(宣長全集・17-436)。

 

寛政11年(1799)

 

1月8日頃

坂倉茂樹からの依頼物あり(宣長全集・20-301)。

 

3月11日頃

村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-302)。

 

4月12日

坂倉茂樹から亀の絵画賛依頼あり(宣長全集・20-302)。

 

8月12日

坂倉茂樹没。享年37歳。「先神主坂倉大和守従五位下藤原朝臣広善神霊、于時寛政十一己未年八月十二日歳三十七神去」。嗣がなかったので笠因直麿の次男を菅雄を養子に迎え、広丸を名乗る。また、笠因氏は実兄元彦に嗣子無く、広丸の子が養子になって上総介直麿を名乗った。

 

8月22日頃

一見直樹からの依頼物あり(宣長全集・20-304)。

 

9月8日

植松有信宛書簡で村田家不幸と坂倉茂樹死去に触れる(宣長全集・17-473)。

 

10月5日

坂倉越後守から松茸を貰う(宣長全集・20-356)。茂樹の養子であろう。

 

10月22日頃

一見直樹から文の依頼有り。11月5日には終わる(宣長全集・20-305)。或いは『日々諸用事扣』「白子一見元常琴の屋文章ノ事」(宣長全集・20-320)と同じか。

 

村田並樹、治九兵衛と名を改める(宣長全集・20-320)。

 

寛政12年(1800)

 

1月11日頃

白子からの依頼物あり(宣長全集・20-306)。

 

1月17日

一見直樹から短冊の依頼(宣長全集・20-307)。

 

享和元年(1801)

 

3月26日

一見直樹から依頼物あり(宣長全集・20-312)。また同人からの依頼物の記事『諸国文通贈答並認物扣』にあり(宣長全集・20-313/314)。


                                          (C)本居宣長記念館

白子昌平(しろこ・まさひら)

 寛政6年7月21日没。白子の人。通称弁太夫。名孝昌。天明8年入門。最初は酒倉問屋、後に木綿問屋を営む。寛政元年3月、宣長が白子の村田並木宅を来訪した時、坂倉茂樹等同地の門人たちと迎える。同年8月15日「四十八番歌合」に出詠。『馭戎慨言』序(寛政2年初夏渡辺重名撰文)を染筆。なお、安永10年10月22日に荒木田尚賢の依頼で宣長所蔵『東遊風俗歌』を写した白子昌臣も同一人であろうか。


                                          (C)本居宣長記念館

信仰

 常識的な意味での「信仰心」から見るといささか奇異に見えるが、宣長の場合は、家の宗教と個人の信仰を整然と分けていたようである。家は熱心な浄土宗であり、個人的には、特に40歳代以降は仏教から距離を置き、「小手前の安心」は無いと主張した。一方では、「毎朝拝神式」に見られるような独自の信仰の体系を作っていった。その帰結が「奥墓」と樹敬寺墓である。
 家の宗教は、慣習であり形式的なもので信仰とは別だと言う見方は、宣長にはそぐわない。宣長の信仰には、形式的なものもまた重要な位置を占めていたからだ。


                                          (C)本居宣長記念館

『新古今集美濃の家づと』

 5巻5冊、付録『美濃の家づと折添』3巻3冊。寛政2年(1790)3月、『新古今集の抄』と言う題で、美濃の門人・大矢重門の帰郷に際し、書き与えた。その後、書名を執筆の経緯を表す「家づと」に改めた(家づととはお土産のこと)。その後、再度加筆し、翌3年正月には既に稿が書き上がっていた。同年4月13日には「折添」も書き終えている。
 内容は、本編は『新古今集』から選んだ696首の注釈。「折添」は十三代集、及び『千載集』から選んだ新古今歌人の歌358首の注釈。序文は加藤磯足、大矢重門。本編跋文は尾張明倫館教授・秦鼎。

 宣長は『新古今集』を「歌の真盛り」読み上げて面白く心深くめでたき集とし、歌集最上位に置いた。講釈は、明和3年から同6年、天明7年から寛政3年まで行った。

 本集には宣長の主観的な評価が加わっているので、注釈書としての評価とは別に、論議も呼んだ。


                                          (C)本居宣長記念館

新座町

 しんざまち。古田重勝が城主だった頃、藩士が住んでいて、その後町家となったという。宣長の『伊勢州飯高郡松坂勝覧』には、「魚町下ノ丁ヨリ舟江ヤ小路 ノ方マデ行丁」とある。宣長友人で医者の塩崎宋恕が住んだ。その白猪楼に宣長も遊んだことがある。また享和元年(1801)8月宣長の養子大平がこの町に移り住んだ。この家では毎月5,15,25日に歌会が開かれた。同年9月13日、月見の歌会が開かれ宣長も出席。最後の歌会となった。歌会の後、魚町の家まで師を送ったのが服部中庸。帰り道、宣長が中庸にした話が「九月十三夜の教え」である。
 宋恕の白猪楼のあった向かい側のマンションから今も白猪山の姿がくっきり見える。



                                          (C)本居宣長記念館

『晋書』

 唐の時代、644年頃に成立した。西晋4代54年、東晋11代104年を記した正史。『世説新語』(セセツシンゴ)という逸話集や『捜神記』(ソウジンキ)という怪異小説などから引用するので批判されるが、漢学者の見方はもっと複雑だ。

 「「晋書」という中国の歴史書は、三四世紀晋王朝を特徴づける風流曠達の人物、その伝記を中心とするのであって、荻生徂徠の尊重する書物であった。堀塾での会読のテクストも、半世紀早くの元禄年間、徂徠がみずから和点を施し、柳沢吉保に刊行させた和刻の本であったろう。そうして徂徠派の対蹠であった当時の普通の朱子学、中でも厳格の派であったあった山崎闇斎の門流などからは、聖道の敵として排斥されたであろう書物が、堀塾の課本であったことは、堀景山の学風が、朱子学を標榜しつつも、徂徠に親近であったことを示す。」「鈴舎私淑言」吉川幸次郎(『本居宣長』・筑摩書房刊・P131) 


                                          (C)本居宣長記念館

新上屋の位置

 名前は有名だが、郷土史家桜井祐吉が『宝暦咄し』を見つけるまで場所が不明だった。真淵と宣長が対面した宝暦13年頃の、和歌山街道との分岐点、つまり現在の松阪駅から進んできて「よいほモール」(旧・参宮街道)と交わる所から、北西に20m。日野町 789・789-1 である。

  柏屋、新上屋の並びを記すと、
 (和歌山街道起点より北西に)
 鳥谷屋三郎右衛門
 柏屋兵助
 白塚屋勘太郎
 藪屋庄兵衛
 新上屋・芝山氏
 尾張屋太右衛門
 大和屋清右衛門
 となる(「松阪新上屋の話」山田勘蔵)。

 鳥谷は戦時中の家屋疎開で今は大通りとなってしまった。柏屋、白塚あたりが今の岩井たばこ店だという。また尾張屋の敷地はその後柏屋が購入した。
                        新上屋跡碑 ― 松阪市日野町789番地 ―
                               新上屋跡周辺

                                          (C)本居宣長記念館

壬申の乱(じんしんのらん)

 天武元年(672)壬申の年6月、天智天皇の子・大友皇子と、天皇の実弟・大海人皇子の間の皇位継承権を巡る内乱。争いは約一ヶ月に及んだ。吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、天皇崩御の後、伊賀、伊勢を経て美濃に入り、東国を固めて、別働隊は倭古京を攻め、大友皇子軍を近江国瀬田で撃ち破り、大友皇子は自害した。大海人皇子は翌年即位し天武天皇となった。

 この時、東国へ使者を出した大海人皇子に、家臣が「きっと行く手を遮られます」と言ったので、大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)等に、「駅鈴」を貰ってこい、もし貰えなかったら、志摩はすぐに報告に戻れ、恵尺は大津に行き高市皇子、大津皇子を連れて伊勢で我等に合流せよと命じた。報告は「鈴を得ず」、壬申の乱の幕は切って落とされた。

 菅笠の旅で宣長は大海人皇子とは逆のコースをたどる。伊賀から名張にかけて歩く宣長の中には『日本書紀』の記述が思い起こされていた。名張の横川、

 「いにしへなばりの横川といひけんは。これなめりかし」 (『菅笠日記』)

は、『日本書紀』に
 「横河にいたらむとするに黒雲有り、広さ十余丈にして天に経(ワタ)れり」
という記述を思い出してのことだ。

 大友皇子については、宣長の没後の門人・伴信友が『長等の山風』という著述で考証している。


                                          (C)本居宣長記念館

『神代紀髻華山蔭』(じんだいき・うずのやまかげ)

 宣長は、古伝説をそのままに伝えた『古事記』を尊重し、『日本書紀』は漢籍風の潤色が多い点を批判した。本書はその具体例を挙げて論評した本。上巻186項、下巻114項。
 寛政10年(1798・69歳)11月13日起筆、21日稿成る。12月10日清書終わる。12年春刊。内容については『本居宣長全集』(筑摩書房)解題に詳しい。
  書名は

  「斎串(イグシ)立て神酒(ミワ)据ゑ奉(マツ)祝部(カミヌシ)の雲聚(ウズ)の山蔭見れば乏しも」
              (『万葉集』巻13・3229番歌)
からとった。斎串を立てて神酒を据えてまつる神主の髪飾りのカズラを見ると心が引かれるという歌である。なお、現在は「髻華山蔭」の「山」は「玉」と読むことが一般的。「髻華山蔭」は宣長の新造語であることは西宮一民氏「本居宣長と日本書紀」(『鈴屋学会報』18号)に詳しい。

  書名に込められた意味は、

  「己今ソノ漢文漢意ノ潤色ヲワキマヘタヽシテ、此ウスノ山カケヲ見レハ、神代ノ紀ハマコトニ尊トシトノ意也」
   (初稿本)、

つまりこの手引き書で、漢意に惑わされることなく『日本書紀』神代巻を読めば、わが国の神代が一層慕わしく思えるだろうということだろう。

 今、「『古事記伝』を音読する会」では巻三を読んでいるが、ここまで読み進める中で、宣長は『日本書紀』を尊重しているのですねえ、と感想を述べられた人がいる。その通りなのです。
 西宮論文の最後の告白を引いておく。

  「私は長い間、宣長の、ことごとに「褒記貶紀」(ホウキヘンキ・古事記を褒め、日本書紀をけなすこと)の言説
  に対して、その真意を測りかねていた。しかし、宣長は、神代の「記・紀」は同じ主題で書かれたので、二つとも
  尊いと考えることから論を展開させ、「書紀」については誤解誤読を生じやすい所を説明しておくという方法をと
  ったのだと、漸く理解できたことを告白する」

 本書には、上田百樹の説も採用されているのが目を引く。
 なお、本書の最初で「記紀」の違いを説明するのに「人の像(カタ)」を写す譬えをつかうが、これは同じ頃書いていた「絵の事」(『玉勝間』巻14)と似ているのも面白い。


                                          (C)本居宣長記念館

真台寺

 松阪市新町(旧町名は大工町)。浄土真宗高田派。もとは天台宗で、松ヶ島にあったのを、松坂開府の時に移築したと伝える。その後、浄土真宗となる。四代住職は漢詩で有名な赤須真人である。 
                               真台寺山門
 ◇赤須真人
  
  正徳6年(1716)6月11日~天明8年(1788)5月29日。母は射和村竹川氏の女。 宣長より15歳年長。赤須真人は号。セキスシンジンと読むのだろうか。また猛 火とも号した。不動明王に子どもを祈願したためとも、また一説に、生まれた年 に真台寺が火災で焼失したからだともいう。彼は漢詩を得意とした。法号東海院 明了白延上人。性は磊落。行脚を好み、仏典以外の儒学の本や老荘思想にも詳し かった。また多趣味。漢詩集に『赤須真人詩集』(安永6年刊)がある。

  ◇赤須真人の自伝

  椿馬東が描いた「赤須真人寿像」には自ら賛を書き、そこに自分のプロフィー ルを詳しく記す。全文が『松阪文藝史』(桜井祐吉)に引いてある。  さて、興味関心によって当然見えるものが違ってくる。宣長さんに関心を持っ て居ると松阪は宣長さんの住む町だとなるが、当時、文学と言えば「漢文学」、 そして「漢詩文」である。漢詩に関心のある人にとって松阪は、韓天寿、郊外相 可の天啓に住む悟心、そして真台寺の赤須真人、また医者の長井元恂の住む町と なる。たとえば細合半斎がこのあたりをまわった時の『続神風集』にも、天寿を 訪ねて、帰る時間もあるので真人さんには失礼して、挨拶は長井元恂に言付けた とある。
  実は以上挙げた人の中で赤須真人だけが宣長との交友がはっきりしていない。 おそらく人口一万の狭い町、真人と宣長の接点はあったはずだが、それを明らか にするのはこれからの課題である。
 
                                          (C)本居宣長記念館

真福寺

 この寺については、宣長の概説がある(「誰が真福寺本『古事記』を持ってきたのか?」【参考資料】参照)。もう一度、少し補いながら説明しよう。

 名古屋にある北野山真福寺宝生院。寺の歴史は、鎌倉時代末の1320年頃、木曽川と長良川にはさまれた中州、尾張国中島郡内(宣長は美濃国と書いている・今の岐阜県羽島市大須付近)に、北野社が勧進された時に始まる。その神宮寺として創設されたのが真福寺である。慶長17年(1612)、徳川家康の命により、洪水などの難を避けるべく今の地に移転した。この時に、塔頭「宝生院」一寺となったが、やがて大須観音として親しまれるようになった。

 この寺には貴重な史料が残されている。中でも有名なのが、『古事記』である。 1371、72年に、真福寺の僧・賢瑜(ケンユ)が写した。3巻揃いとしては現存最古である。  
 国宝だ。
 本書の価値を見いだしたのが、尾張藩士で宣長門人・稲葉通邦(イナバ・ミチクニ)である。
 通邦は、調査にずいぶん苦労した。本書は粘葉装だが、奥書「執筆賢瑜俗老廿八歳」、「(同)廿九歳」は、糊付けの中にある。よほど丹念に調査しないと発見できない。

 次に、賢瑜の年齢から書写年代を割り出す必要がある。同じ賢瑜が写した仏書『秘蔵宝鑰』(ヒゾウホウヤク)から応安3年に27歳であることがわかり、本書の書写が応安4年、5年であることが判明したのは寛政10年春のことである。だが、このことを通邦は自分で書写した『古事記』の奥書だけに記した。
 従って宣長は、本書が現存最古であることは知らなかったはずだ。このことが一般に知れ渡るのは、明治16年以後と言われている。
 ひょっとしたら、この書写年代などについても、通邦から通報があったかもしれない。でも、きっと、ああそう、やはり古いんだね、で終わった可能性が高い。宣長にとって、大事なのは内容だ。それについて吟味は済んでいた。
                                          (C)本居宣長記念館

真福寺本『古事記』

 宣長が校合に使用した『古事記』の中に、真福寺本(シンプクジボン)と言う本がある。『古事記』の中で現在一番古い写本だ。
 校合作業が終わったのは、天明7年(1787)4月14日。
 さて、真福寺本『古事記』への宣長の評価はいかが。 『古事記伝』版本・巻1に

  「其後又、尾張国名児屋なる真福寺といふ寺【俗(ヨ)に大洲の観音といふ、】に、昔より伝へ蔵(ア)る本を写せる
  を見るに、こは余(ホカ)の本どもとは異(コト)なる、めづらしき事もをりをりあるを、字の脱(オチ)たる誤れるな
  どは、殊にしげくぞある、かゝればなほ今ノ世には、誤なき古(ヘノ)本は、在(アリ)がたきなりけり、されど右の
  本どもも、これかれ得失(ヨキアシキ)ことは互(タガヒ)に有(リ)て、見合ハ すれば、益(タスケ)となること多し」

 他の本と違う注目すべき点もあるが、字の脱落や誤写も多い。これを考えると、昔の本で誤りがないと言うことは求める方が無理なのだなあ、だけどいくつかの本を校合すると、誤っている箇所などを探したりする上で役に立つことが多い、と書かれている。

 でもよかったね。出版に間に合った。天明7年と言えば、『古事記伝』出版に向けて本格的に動き出した頃だ。巻1の諸本の所にこの本が出ていないと、後世の人は、「なんだ、真福寺本も見てないの」っていうからね。
 
                           真福寺本『古事記』

                                          (C)本居宣長記念館

神武天皇陵

 宣長が「今、かしばらと言う地名は残らないか」と問うたが、「さいふ村は、これより一里余り西南にはあるが、この辺りでは聞かない」と言う返事であった。
  この会話が、

「白檮原(カシハラ)宮・・此地名は、今世に遺らざれども、大宮所は、畝傍山の東南の麓に近き地なりしこと、書紀に著名し」(『古事記伝』巻19)

となる。

  また宣長の見た神武天皇陵は、畝傍山から500から600m離れた北東、田圃の中の1m位の山であった。上には松と桜が植わっている。おかしいよ、と宣長は思った。

 「うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに。綏靖安寧などの御陵は。さばかり高く大きなるに。これのみかくかりそめなるべきにもあらず。かたかた心得がたし。」

 この後も宣長の神武天皇陵探索は、『玉勝間』巻3「神武天皇の御陵」に詳しい。

 そして最終的には、『古事記伝』巻20の次の記述となる。
  まず、『前皇廟陵記』や『大和志』の説を引き、

「これらに云るは、四条村の一町許リ東にて、畝傍山よりは五六町も東北ノ方にあたりて、田間(タノナカ)に僅かに三四尺許リの高さなる小丘(チヒサキツカ)にて、松一木桜一木生(オヒ)てあり、誰も是レを此ノ御陵の趾と思ふめれど、決シテ是レには非ず、まづ地形(トコロノサマ)、白檮(カシノ)尾ノ上など云べき処に非ず、久しき世々を経れば、山も変て平になるなど、常のならひなれども、其もなほ其とは見ゆる物なるに、此地のさまは然らず、山とは清く離れて、其間にいさゝかも、尾の壊れたらむ蹤(アト)など思はるゝ、小高処も残らず、凡て此わたりは、元より平原(タヒラ)なりける地(トコロ)とこそ見えたれ、且(ソノウヘ)上ツ代の御陵どもを今見奉るに、有リつるまゝに全きもあり、又発(アハ゛)き壊(ソコナ)はれて、内のさまの顕露(アラハ)になれるなども多けれども、何れも何れもいと高く大キに、山の如くにて、内の石構(イハガマヘ)など、すべてすべておほろけならず、当初(ソノカミ)大キに厳しかりしほど、推計(オシハカ)られて著明(イチジル)きを、是レはさらに上ツ代の御陵のなごりとは見えず、同ジ山の辺(アタリ)にて、安寧懿徳の御陵などは、さばかり高ク大キなるに、此御陵しもかりそめなるべき理リなきをや、是レはやゝ近き代に、をこの者の、畝傍山の東北にあたりて、此ノ丘(ツカ)のたまたまあるを見付ケて、ゆくりなく是レぞと定めたるなるべし、されど白檮ノ尾ノ上とあるをも考ヘず、上代の御陵どものさまをも知ラずて、いと妄(ミダリ)なることなり」

と書いている。
  いずれも『菅笠日記』での見聞が活用されている例である。
  それにしても、小山の上に松と桜一本ずつとはまるで宣長さんの奥墓だ。

  ところで、この神武天皇陵、幕末になりまた問題となった。最終的には、奈良町奉行から幕閣の要職についた川路聖謨(カワジ・トシアキラ)の『神武御陵考』により、宣長も見た字「神武田」である事が決定され、15,062両を投じて「築造」された。


                                          (C)本居宣長記念館

信頼度抜群義信像

 宣長が坂倉茂樹に送った書簡(寛政4年(?)9月10日付坂倉茂樹、市見元常宛)の中に次の一節があります。

 【大意】
 「私の肖像をお返しいたしますので受け取ってください。また描き直しが出来て送って下されば上に賛の歌を書きます。名古屋に私の肖像をこれまでに何枚も描き、またよく似せてくれる画家がいます。もしこの人に頼むなら大平に頼んでください。大平はこれまでに何回も作る仲介をしていますのでよく分かっているはずです。それとも、また地元で別の人に頼むというなら、それでも結構です。もし大平に頼むときは詳しくは宣長に聞くようにと申し付けてください」。

 【原文】
 「一、愚老肖像此度返信申候間御落手可被成候、追而御書改出来次第被遣下候はば、賛歌相認遣可申候、名古屋に愚老が像是迄何ン枚もかきなれ能(く)似申候絵師有之候、若シ是ヘ御誂へ被成方候(間)はば大平方へ御頼可被遣候、大平是迄誂へ申候間能(く)様子存居申候、夫共思召次第其御地にても御誂可被成、いか様共可被成候、もし大平へ御頼被遣候はば委細は愚老へ尋候様に御申し越可被成候」

 茂樹が描かせた宣長像は、宣長の気に入らなくて返された。そこで宣長は名古屋に慣れた画家がいるからその人に書かせればよいと提案する。それが吉川義信です。
 坂倉家には今も義信が描いた「本居宣長像」が残っています。上のは宣長の筆で「しき嶋のやまと心を人とはゝ朝日にゝほふ山さくら花、こはおのかゝたを坂倉茂樹かうつさせたる也、歌かきてとこふまゝに書てあたふ、宣長」と書かれています。



                                          (C)本居宣長記念館

真良(しんろう)

 宣長の名前。
 初見は延享元年(1744・15歳)8月6日書写 「宗族図・母党図・妻党図・婚姻図」奥書に「延享元【甲子】年、八月六日夜、書之、小津真良」。最後の使用例は、延享3年10月27日書写『洛外指図』の「本居真良栄貞」。読み方は不明。本居清造は、「音読ナルベシ」と述べる(『本居宣長稿本全集』第1輯)。この時期宣長は「良」を「郎」と通わせて使用(『中華歴代帝王国統相承図』「小津弥四良栄貞」、『職原抄支流』「小津弥四良真良栄貞」)するので、仮に「しんろう」と読む。字義は、例えば『水戸義公行実』に「真良君也」等あり、「まことによろし」であろう。


                                          (C)本居宣長記念館

垂加神道(すいかしんとう)

 江戸時代前期の儒学者・山崎闇斎が提唱した神道説。闇斎は早くから神道に興味を持ち、吉川惟足に吉田神道を、度会延佳(ノブヨシ)に伊勢神道を学んだ。それらを集大成し、朱子学を柱として統合整理した。君臣関係を基軸とした社会秩序の維持を重視し、絶対尊皇の精神を説いた。宣長の母方村田家の村田全次は浅見絅斎の門人、その父の元次は度会延経の門人だが、両師共に闇斎派の垂加神道家である。またこの二人は、嶺松院会再興メンバーでもある。


                                          (C)本居宣長記念館

末田芳麿(すえだ・よしまろ)の訪問

 宣長の下には、諸国の人がやってきた。地方から出てきた人には、まず何よりそれが驚きであり、珍しかった。

 寛政9年(1797)4月3日、安芸国の末田芳麿が山まゆ1反を土産に来訪した(『音信到来帳』)。そして、諸国の学者参集の様子を見て肝をつぶしている。書簡での報告は、
 「同(四月)三日昼前松坂着、すぐに本居へ罷越候処、当日は歌会にてるすと申事故、たづねて早速対面仕候。其夜は本居家にて万葉講尺承大慶仕候。甚先生も御多用に相見へ申候。此節は肥後熊本よりも儒者二人寄宿被致候外に紀州遠州尾州阿州皆々学者衆ノ出会にて不怪事にてキモヲツブシ申候。夫故一向何にても頼ノマレガタク御座候。委細は帰国の上御咄可申述候。四日夜津谷川へ泊り是亦世話に罷成申夫より関へ出」
とある。この3日の歌会は、熊本から来た儒者である「高本順」の来訪を歓迎し愛宕町菅相寺で開かれた臨時の会であった。『万葉集』講釈も来訪者からの懇望によるものであったかもしれない。

 当時、宣長の所には、熊本から儒者が2人、また紀州(和歌山県)、遠州(静岡県)、尾州(尾張・愛知県)、阿州(阿波・徳島県)からも鈴屋に勉強に来ていたという。熊本の儒者とは高本順一行。紀伊国田辺は谷井新吉、長谷部敬英、阿波国は名西郡白鳥村白鳥神社神主・宮?(記録1字欠失)周防守等であった。

【参考文献】
  芳麿の書簡は末田氏所蔵。書簡2通、但し内1通は断簡。「末田芳麿の書簡について」新見吉治、『鈴屋祭記念』収載。


                                          (C)本居宣長記念館

図解

 宣長は、子供の頃から「系図」とか「地図」とかが大好きだった。ただ写すだけでなく、『大日本天下四海画図』のように自分で調べたりしてよりよいものを作ろうと試みたこともある。時には、空想の町の地図や、またその町に住む人の系図を作ったりもした(『端原氏城下絵図・系図』)。

  図解することが好きな性格は、その研究にも影響を与えた。ことばの法則を考えて、変化を図示したのが『てにをは紐鏡』、また『古事記』の神々の世界を図解したのが『天地図』である。歌の変遷を図解した「歌詞展開表」も残っている。
 また書簡でも挿し絵を入れたり、葬儀の次第や墓については、文字だけでなく『遺言書』や『山室行詠草・山室山奥墓図・山室山墓地譲渡証文案』のように図を交えて指示した。
 例えば、『本居宣長稿本全集』第2輯には次のような図解が載る。 「寛政六年和歌山城内十人扶持加増」P36・「寛政十一年和歌山城内講釈」P71・「寛政十二年和歌山城内持講」P96・「序文書判の大きさ」P168、174・「龍田周辺図」P236・「大なべ、小なべ図」P241・「神功陵」P242・「石上神宮石の垣」P243・「中山邸講筵の図」P277・「旅寓講筵の図」P312・「名古屋大火の図」P467・「寛政六年和歌山城内講筵の図」P472

 図になるような合理的なこと、また法則、また時間の流れに伴う変化を追求したことが、宣長の学問の特徴であり、その価値を高めているとも言える。
                                          (C)本居宣長記念館

『菅笠日記』の碑

◇ 1、『菅笠日記』について その3

◆ 『菅笠日記』の碑
 青山町から名張市にかけて、この日記にちなむ文学碑・歌碑が5つある。

1,「本居宣長大人菅笠日記抄」
【場所】名賀郡青山町伊勢路☆R165伊勢路を過ぎてすぐ左
「本居宣長大人菅笠日記抄、宣長、からうじて伊勢路の宿にゆきつきたるうれしさもまたいはん方なし、そこに松本のなにがしといふものの家にやどりぬ」
「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」

2,「河づらの」歌碑
【場所】名賀郡青山町下川原中山橋畔☆R165トンネル手前旧道入ってすぐ。ガードレールに阻まれ見ること困難。
「河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら 宣長」
「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」

3,「河づらの」歌碑
【場所】名賀郡青山町阿保橋畔☆R165阿保の町学校手前橋を渡ってすぐ左
「本居大人菅笠日記抄。河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら、かくいふはきのふ9こえしあほ山よりいづる阿保川のほとり也、朝川わたりて、その河べをつたひゆく、岡田別府なンどいふ里を過て左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは大村ノ神社なンどをあやまりてかくまうすにはあらじや、なほ川にそひつゝゆきゆきて阿保の宿の入口にて又わたる、昨日の雨に水まさりて橋もなければ衣かゝげてかちわたりす、水いと寒し、明和九年三月六日」
「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」
【写真】 suga2 2,阿保橋傍にある宣長の碑。

4,「いとざくら」歌碑
【場所】名張市新田、豊浜徳氏宅
「いとざくらくるしきたびもわすれけりたちよりてみるはなの木かげに、宣長六世孫本居弥生書」
「昭和五十四年四月、建之」
【写真】 suga4 4,新田、糸桜の碑。

5,「きのふ今日」歌碑
【場所】名張市安部田・鹿高神社前
「名張より又しも雨ふり出て、このわたりを物する程は、ことに雨衣もとほるばかりいみじくふる、かたかといふ所にて、きのふ今日ふりみふらずみ雲はるゝことはかたかの春の雨かな、本居宣長」
「昭和六十年三月吉日、建碑安部田区、書上出軒山、協力名張金石文研究会、米山造園、功労者坂上芳正」
 関連する碑として、後年、宣長が同行者小泉見庵に贈った歌の碑が松阪にある。
                                          (C)本居宣長記念館

『菅笠日記』図書館

◇ 1、『菅笠日記』について その5

◆ 『菅笠日記』図書館

  版本の翻字は「資料編」に載せました。ここではその参考となるいくつかの本を載せます。
テキスト
『本居宣長全集』第18巻。筑摩書房。
『新日本古典文学大系・近世歌文集、下』岩波書店。
   ※菅笠は鈴木淳校注。語釈も宣長の他の著作を引くなど、
    宣長に則した注が付けられる。
 『菅笠日記』尾崎知光、木下泰典編。和泉書院。
   ※一番手軽なテキスト。
『現代語訳 菅笠日記』三嶋健男、宮村千素著。和泉書院。
 
研  究
「「菅笠の旅路」を辿る」1~4
   (その3から、「「菅笠日記」の研究」)
  石川義夫『新潟明訓高等学校研究紀要』1972年10月~
   ※実際に宣長の足跡を探訪した記録。可能な限り旧道を辿り、
    また地元での調査を行う。
    これ以上の研究は、今後は出ないであろう。
 
随  筆
「大和路の秋成と宣長」佐藤謙三『日本文学論究』25冊
   (昭和41年3月25日)
   ※宣長と秋成の紀行を比較しながら両者の資質の違いを浮き彫りにする。
    優れた国文学者だけに随筆としては面白い。

>> 「秋成の『菅笠日記』評」

「宣長の歩いた飛鳥」和田萃『季刊・明日香風』第47号
   (平成5年7月1日)
   ※考古学の第一人者の目で見た宣長の飛鳥探索の意義を説く。
    また、古代の景観を偲ぶためにも、『菅笠日記』で近世の道筋を
    たどるのがよいと勧める。
                                          (C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第1日目

【1日目】
 夜明け夜明け前に出発。松坂から参宮街道をたどり、三渡で初瀬街道に進む。現在の近鉄伊勢中川駅近くの小川村、都を経由、まず「忘れ井」を探索する。真盛上人ゆかりの大仰、万葉ゆかりの波多の横山を経て、やがて二本木から青山峠を越えて直ぐの宿場・伊勢地に泊まる。宿屋は松本某。
 3月5日 早暁・松坂出立→市場庄→三渡(休憩)→津屋庄→小川村→都→八太→田尻→谷戸→大仰・波多の横山→小倭・二本木(昼食)→垣内→伊勢地(泊・松本宅)
                                          (C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第2日目

【2日目】
 伊勢伊勢地を夜が明けてから出発。宣長等のたどった道は、現在の国道165号線と並行したり、また離れたりして進む。七見峠辺りはゴルフ場となり、昔の道は知る由もない。宣長の意識としては、壬申の乱の際、大海人皇子侵攻のコースをほぼ逆に進んでいるつもりか。名張を経て、大和国・榛原に泊まる。
 6日 夜明け後・伊勢地出立→伊賀の中山→岡田・別府→阿保→七見峠→新田・枝垂れ桜→倉持→名張(昼食)・藤堂屋敷→鹿高→獅子舞岩→三本松→大野寺磨崖仏→榛原(泊)
                           大野寺磨崖仏
                                          (C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第3日目

【3日目】
 天気回復の兆し有り。まず駕籠で初瀬に向かう。化粧(ケハイ)坂から突然目の前に長谷寺が現れる。「あらぬ世界に来たらんこゝちす」、まったく別世界みたいだと驚き、まず腹ごしらえ。その後、回廊を上って本堂へ。下りて長谷寺境内を隈無く探索。
 境内は今も大きな変化はない。ただ、宣長の頃には、まだ小さかった「二本の杉」だが、今は大きくなっている。この杉は謡曲「玉葛」で有名だが、宣長は習っていない。その大本である『古今集』を思い浮かべたことだろう。
 黒崎では饅頭を食べる。食っても取材を忘れない。忍坂村、倉梯など古典ゆかりの土地では古典知識を総動員して見、聞き、考えながら旅は進んでいく。多武峰に入ると境内はもちろん、参道まで見事に掃き清められている。山の中なのにと驚く。社殿の美しさ、また植えられたとおぼしき何種類もの桜に喜ぶ。そこを出て、峠を越える。龍在峠からは吉野の花が見える。明け暮れ心に掛かっていただけに喜びもひとしお。最初の予定では、この日、吉野まで行く予定であったが日も暮れたので千俣で宿を借りる。宿では、竜門の滝までさほど遠くなかったと聞き悔しがる。
 7日 榛原出立→(駕篭)→西峠→角柄→吉隠(ヨナバリ)・猪養の岡・御陵→けはい坂→与喜の天神→初瀬(辰時着・朝食?)・長谷寺(道明の塔・貫之の軒端の梅・蔵王堂・産霊神・雲居坂・御堂・二本の杉跡)・定家の塔・八塩の岡・玉 葛の跡・家隆二位の塔・牛頭天王社・苔の下水・与喜の天神(長谷山口坐神社)→朱の鳥居→出雲村・黒崎村(休憩・名物饅頭)→脇本・慈恩寺→忍坂(オサカ)村→倉梯(一休み)→金福寺(倉椅柴垣宮跡・宣長単独行動?)→下居(オリイ)村・森(用明天皇陵?)→茶屋→多武の峰(鎌足墓所・十三重塔等)→手向(冬野)・茶屋→手向(竜在峠)→滝の畑→千俣(泊)

          化粧坂から見る長谷寺  
             二本の杉  
            多武峯への道 
            談山神社 
                                          
                                                   (C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第4・5日目

【4日目】   
 吉野川を渡っていよいよ吉野山。まず吉水院近くの箱屋何某に宿を取り、後醍醐天皇の吉水院、蔵王堂、勝手神社、竹林院を拝観し、急坂を登ると世尊寺。そして、いよいよ吉野水分神社である。境内に立ち参拝するが、父母のことが思い出されて、涙がこぼれる。
 8日 千俣出立→上市→吉野川(桜の渡し、船・妹山、背山)→飯貝(イガイ)→丹治(タンジ)→(吉野山口)→四手掛明神(吉野山口神社?)→(七曲)→茶屋(攻めが辻・一目千本)→銅(アカガネ)の鳥居→仁王門→箱屋某(宿・休憩、食事)→吉水院・茶屋?→蔵王堂→実城寺→桜本坊→勝手神社→竹林院→滝桜・雲井桜→世尊寺→吉野水分神社→茶屋→箱屋某(泊)


【5日目】
  この日は吉野山の徹底探索。吉野水分神社から金御峯神社、ここまでは13歳の時に来ているはずだが。ここからは西行庵に行く。宣長さんと西行の関係は、ちょっと複雑。戻って、今度は山を下り、西河で紙漉を見て、大滝村に行く。吉野川の筏流しを見ながら一杯飲み、次はせいめいが滝、滝上までよじ登ってみる。来た道を戻り、次は宮滝へと向かう。ここが吉野離宮の場所であることが分かったのは、戦後のこと。宣長さんは知るよしもない。岩の上から急流に飛び込む「岩飛び」というすさまじい芸を見て、喜佐谷を通 って箱屋に帰る。この日、宣長一行の歩いた跡を今の人が歩いてみると、当時の人の健脚ぶりがよく分かる。
  9日 箱屋某出立→竹林院→吉野水分神社→二の鳥居(修行門)・金御峯神社→けぬけの塔→茶屋(休憩?)→安禅寺・蔵王堂(東に青根が峯見える!)→苔清水→(西行庵)-(戻り)→茶屋(休憩?)→(道標・大峰山との分岐点)→(東の谷底に夏箕の里が見える!)→(東北の谷底に国栖の里が見える!)→西河(ニジコウ)・紙漉→大滝村・川を覗き、筏流しを見ながら酒と乾飯→せいめいが滝・滝上に登る→西河-(戻り・急坂登り)→分岐点→仏が峯→茶屋(休憩・鹿塩神社のことを尋ねる)→樋口(向かいは宮滝)→宮滝の柴橋・岩飛び見物→桜木の宮→喜佐谷村→高滝(象山はこの辺り?)→箱屋某(二泊目)
                           蜻蛉の滝、その1
                        蜻蛉の滝、その2 虹が架かる。
                             喜佐谷
                                          (C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第6日目

【6日目】
 宿を出た一行は、まだ参詣していない如意輪寺に参詣する。宝物を見て、山の上の後醍醐天皇陵「塔尾の御陵」に参る。石の見垣もゆがんで寂しく物哀れな場所である。宿で一休みし、吉野を出て飛鳥に向かう。吉野川を渡り土田でそば切りを食べる。汚いなと思って食べたせいか宣長だけが気分が悪くなり、壺阪寺では茶店で一人淋しく皆を待つ羽目となる。檜隈で十三重の塔を見る。聞くと宣化天皇の都の跡だそうだが、寺の名前をどう書くのかも知らぬ僧に呆れて探索中止。平田で文徳天皇陵を見る。野口でも古墳(今は天武持統天皇合葬陵とされる)を見て、こちらは石室ものぞいてみる。川原村に出て昔の川原寺、今の名前は弘福寺、そこでめのう石を見て、続いて橘寺に参る。この夜は岡で一宿。
 10日・箱屋某出立→如意輪寺→箱屋某→六田→土田・茶店(そば切り)→畑屋→壺坂寺→清水谷→土佐→檜隈・十三重塔→平田・陵墓拝見→野口・陵墓拝見→川原村・弘福寺→橘寺→岡(泊
 

            桧隈寺跡
          岡寺前の茶店  
           岡寺前の常夜灯 
          「おかげ」の文字
      昔の岡の町。『西国三十三所名所図会』














                                                   (C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第7日目

【7日目】
 ひたすら歩く、どん欲に見る、質問する、考える、そしてそれを覚える。『菅笠日記』の圧巻とも云うべき飛鳥二日目です。脚力も弱く古典の知識もない現代人の私たちはどこまで一行の後がつけるでしょうか。頑張って行きましょう。
 まずこの日は岡寺に参詣。次は酒船石。飛鳥寺では大仏の古さに驚く。近くの入鹿塚はちょっとどうかなど色々批評しながら北上。安倍の文殊院から西へ行き南下。天香具山に登り周辺を探索する。古墳では中に明かりを入れてみたり手を突っ込んだりし、夜は見瀬の家に宿る。このあたりの話を聞こうと主人を呼ぶ。主人は50歳位でひげ面の無愛想で、何かもったいを付けたようにいかめしい顔や物言いで「いでこのわたりのめいしょこうせきは」とやらかしたので、若い連中は笑いをこらえきれずにいる。聖徳太子の頃に弘法大師が作ったなど年代も何もあったものではない話で、神功皇后を「ジンニクン」と言うのには参った。そこでこの主人のあだ名は「ジンニクン」とする。充実した一日が終わる。
 11日 岡寺の宿→岡寺(龍蓋寺)・八幡社→岡→長者の酒船石(いと心得難き)→飛鳥→飛鳥寺(丈六の釈迦・古めかしく尊く見える)→入鹿塚(古そうには見えない)→飛鳥井の址(?)→飛鳥神社(飛鳥坐神社)→鎌足出生の地(?・飛鳥井か)→大原寺(藤原寺・大原明神)→上八釣村→山田村(柏に栗のなる山あり?)→荻田村(生田村)→安倍村→安倍文殊院・岩屋・奥の院岩屋→安倍晴明の宝蔵(草墓古墳)→安倍文殊院→安倍村→安倍仲麻呂塚・屋敷跡(?)→芹摘み后の七つ井(?)→戒重→(横大路)→横内→岐・地蔵堂(弘安年刊の銘がある地蔵で今700mほど離れた寺に移す)→吉備村→吉備真備墓(?)→火葬場に鳥居!→池尻村→膳夫村・荒神社→池(埴安の池)→天香具山・竜王社・干飯など食べて休息・国見をする→上の宮→南浦村・日向寺・下の宮・御鏡池・香具山文殊の寺・大官大寺址・神代伝説石(天の磐戸?)→湯篠藪→別所村・高市社(?)・高殿村→膝つき山・飛鳥川眺望→神膝村(上飛騨村)→飛鳥川を渡る→田中村→豊浦村・豊浦寺址・榎の葉井を探すが分からず・対岸に雷村→和田村→剣の池→孝元天皇陵→大軽村→古墳(見瀬丸山古墳)→見瀬村(ジンニクンの家に泊る)
             酒船石
             飛鳥大仏 
           飛鳥坐神社 
          天武・持統天皇陵
           見瀬の町並み








                                                   (C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第8日目

【8日目】
 この日は畝傍山周辺の天皇陵を探訪し、三輪山に向かう。大神神社では、大御輪寺に参拝する。ここに十一面観音が祀られているのを宣長は見ている。現在、聖林寺に祀られる仏像だ。慶応4年5月16日、廃仏毀釈を逃れ大八車で運ばれてきたという伝承がある。フェノロサが秘仏の禁を解いたというが、宣長も見たようで、秘仏はいつの頃からだろう。
 12日 見瀬村(ジンニクンの家)→久米・久米寺→懿徳天皇陵?→畝傍村→→(まなご山・まさご池・宣長按、懿徳天皇陵はこのあたりか?)→吉田村→御陰井→御陰井上御陵(安寧天皇)→大谷村→山もとに寺・すいぜい塚(綏靖天皇)→慈明寺村→四条村→松と桜が一本ずつ植わった小さな塚(神武天皇陵?)→今井→八木(昼食)→耳成山→地蔵堂→初瀬川→大神神社鳥居→大御輪寺(二王門・三重塔・堂・三輪の若宮)→大神神社(参詣)→金屋→追分→初瀬→萩原(泊)

長谷寺から伊勢方面に向かう右手に「あぶらや」の名前が見える。
(C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第9日目

【9日目】
 伊勢本街道は道が険しいと怖じ気づく一行をせせら笑うかのように戒言は、「人もみなゆくめれば。なにばかりのことかあらん。足だにもあらば。いとようこえてん」と平然と言う。そこで、帰りは道を右手にとったのだが、やはり厳しい道中であった。雨が降り、道がぬかるみ、室生寺は近いと言っても寄る気にもなれず、ゆけどもゆけども山道続き。雨風は激しく、山道では蓑や笠も飛ばされそうになる。ヘタをすると谷底に落ちそうなほど吹き付ける。この先、難所「飼坂」越えはとても無理と予定を変更し、石名原に泊まる。道の途中に桜も見えたが、それどころではなかった。歌も詠めなかった。
 ああ残念、宣長さんは何も書いていないが、この間には真福院があり、その参道には「三多気の桜」があったのに。この手前が、大阪湾と伊勢湾の分水嶺だ。
 13日・雨。榛原→石割り坂→田口→(山粕)→(鞍取峠)→桃の俣→菅野→(三多気)→石な原(泊)
             油屋前道標。「右、いせ本かい道、左あをこえみち」。
(C)本居宣長記念館

2、『菅笠日記』行程  第10日目

【10日目】
 私は気分が優れないと宣長一人籠に乗って、後はぜいぜい言いながら飼坂を越える。大平は茶店の女に気をとられ、宣長は多気で資料調査に夢中になる。その後は、一目散に松阪を目指す、と言いたいところだが、伊福田寺、伊勢山上を見て、堀坂山から眺望を楽しみ悠然と松坂に帰る。
 14日 曇りのち晴?石な原→(宣長は駕篭)→飼坂→峠の茶店・休憩→多気→真善院・北畠の八幡社・庭園→里の事行う者の家・資料閲覧・食事→真善院の前→下多気→小川→柚原→伊福田寺→与原→堀坂峠→伊勢寺→松坂
                          伊勢本街道飼坂峠付近
 
与原から堀坂峠に登る途中には「棚田」のあとがある。
石垣の上が田圃のあった場所だ。
ちょろちょろ流れる谷水がたより。
途中にはマンボも残る。
新潟明訓高校の石川義夫さんが『菅笠日記』のあとをたどって歩いた30年くらい前までは耕作していたが、今は杉林。
沢ガニが歩く。
(C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その1

◆ 書名
  「すががさのにっき」と読みます。「すげがさ」ではありません。
   自筆稿本題簽「すがゝさの日記」、版本題簽「須我笠の日記」とあります。
  また、本文一番最後に「スガヾサ」とルビがあります。 【別称】「吉野の道の日記」(『玉勝間』)

◆ 43歳の宣長
   後厄。妻勝32歳、長男春庭10歳、次男春村6歳、長女飛騨3歳。

◆ 本書の成立年
  明和9年(1772)4,5月頃か。5月7日付・谷川士清書簡に、借用を希望することが、また7月晦日付の士清
 の書簡に、借用の礼と感想が記されてい るので、帰宅後まもなく執筆されたと考えられる。刊行は、寛政7年
 (1795)。それまでは写本で流布した。
◆ 旅の持参品  
  宣長は「たいした日数の旅ではないので特に準備という程のこともないが、そわそわする」と書いているが、実際
 は、山間部を行くため、宿と言えば木賃宿。ある程度はお米や味噌なども持参したかもしれない。したがって、かな
 りの荷物となったはずだ。
  宣長自身が持っていた物としては、

  『大和国中ひとりあんない』木版1枚。正徳4(1714)刊。宣長書入。大和国(奈良県)の概略図。当時の旅はこ
  の程度の簡単な地図を頼りとしていた。

  『和州巡覧記』木版1冊。貝原益軒著。宣長書入。元禄9年(1695・益軒57歳)成立。和州(奈良県)のガイドブ
  ック。平明な表現で、地域の特色をよく伝えている。広く普及し、宣長も若い頃から愛読し、簡略だが要所に宣長
  は書き入れをしている。

  「ぬさ袋」宣長使用。袋には宣長の「うけよなほ花の錦にあく神もこころくだきし春のたむけを」の歌が付いてい
  る。また『菅笠日記』には「明日たたんとての日はつとめてより麻(ぬさ)をきざみそそくり」とある。ぬさ
  (幣)は旅の途中、峠や道に祀られている神(道祖神)ささげる物。もとは木綿(ゆう)や麻で作ったが、後世は
  布や紙が多い。
  「このたびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神かみのまにまに」菅原道真『古今集』

  「伊勢茶」これは木賃宿に泊まるための、つまり自分たちで飲むお茶でしょう。思いがけず、知り合った人へのプレ
   ゼントになりました。(但し、この人との出会いはフィクションだとする説があります) このほかに、雨具、それ
   から手帳や矢立は必携だったはずです。
                 『大和国中ひとりあんない』 『和州巡覧記』 「ぬさ袋」
(C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その2

  旅立ち

  明和9年3月5日(1772年4月7日)曇りのち雨。 『日記』には、「(明和九年三月)五日、行吉野観花、今朝発足、同伴、覚性院、小泉見庵、稲垣十助、同常松、中里新次郎也、今夕宿伊賀国伊勢地」(宣長全集・16-327)とあります。


 吉野の桜は何時が満開か

 花見で難しいことは、当日の天気と開花予想。これは昔も今も変わりない。
 天気だけはどうしようもないが、テレビもラジオもない時代、どうやって吉野の花盛りを予想したのだろうか。

  宣長は次のように書いている。

  「そもそも此山の花は、春立る日より、六十五日にあたるころほひなん、いづれのとしもさかりなると世にはいふ
  めれど、又わが国人の、きて見つるどもに、とひしにはかのあたりのさかりの程見て、こゝにものすれば、よきほ
  どぞと。これもかれもいひしまゝに、其程うかゞひつけて、いで立しもしるく、道すがらとひつゝこしにも、よき
  ほどならんと、おほくはいひつる中に、まだしからんとこそ、いひし人も有しか、かくさかり過たらんとは、かけ
  ても思ひよらざりしぞかし」『菅笠日記』8日条

 一般には、吉野の桜は立春から65日目頃が見頃という。明和9年の立春は1月2日。65日目は3月7日にあたる。また、松坂から行った人の話では、こちらの盛りを見てから行くと調度よいと教えられて、宣長一行は出発したのだが、残念ながら桜は満開を過ぎていた。
(C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その3

◆ 『菅笠日記』の碑

  青山町から名張市にかけて、この日記にちなむ文学碑・歌碑が5つある。

 1,「本居宣長大人菅笠日記抄」
 【場所】名賀郡青山町伊勢路☆R165伊勢路を過ぎてすぐ左
 「本居宣長大人菅笠日記抄、宣長、からうじて伊勢路の宿にゆきつきたるうれしさもまたいはん方なし、そこに松本のなにがしといふものの家にやどりぬ」
 「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」

 2,「河づらの」歌碑
 【場所】名賀郡青山町下川原中山橋畔☆R165トンネル手前旧道入ってすぐ。ガードレールに阻まれ見ること困難。
 「河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら 宣長」
 「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」

 3,「河づらの」歌碑
 【場所】名賀郡青山町阿保橋畔☆R165阿保の町学校手前橋を渡ってすぐ左
 「本居大人菅笠日記抄。河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら、かくいふはきのふ9こえしあほ山よりいづる阿保川のほとり也、朝川わたりて、その河べをつたひゆく、岡田別府なンどいふ里を過て左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは大村ノ神社なンどをあやまりてかくまうすにはあらじや、なほ川にそひつゝゆきゆきて阿保の宿の入口にて又わたる、昨日の雨に水まさりて橋もなければ衣かゝげてかちわたりす、水いと寒し、明和九年三月六日」
 「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」
 【写真】 suga2 2,阿保橋傍にある宣長の碑。

 4,「いとざくら」歌碑
 【場所】名張市新田、豊浜徳氏宅
 「いとざくらくるしきたびもわすれけりたちよりてみるはなの木かげに、宣長六世孫本居弥生書」
 「昭和五十四年四月、建之」
 【写真】 suga4 4,新田、糸桜の碑。

 5,「きのふ今日」歌碑
 【場所】名張市安部田・鹿高神社前
 「名張より又しも雨ふり出て、このわたりを物する程は、ことに雨衣もとほるばかりいみじくふる、かたかといふ所にて、きのふ今日ふりみふらずみ雲はるゝことはかたかの春の雨かな、本居宣長」
 「昭和六十年三月吉日、建碑安部田区、書上出軒山、協力名張金石文研究会、米山造園、功労者坂上芳正」
  関連する碑として、後年、宣長が同行者小泉見庵に贈った歌の碑が松阪にある。
(C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その4

 同行者
 旅に同行したのは次の5人と従者。

小泉見庵
 魚町宣長宅の向かいに住む医者。37歳。宣長の友人。
 元文元年(1736)~天明3年(1783)8月28日。享年48歳。見菴とも書く。名は蒙。蒙光院道徹見菴居士。名は蒙。
 蒙光院道徹見菴居士。小泉家4代。見卓の長男。
   『系譜』には、
 「字子啓、号五林、称見菴、幼名文太郎、宅辺嘗有金松樹、因名其室曰金松斎、子啓作金松斎記、性好学、及没年
  耽仏学以故恒勤知因果道理、其所著有余力稿二巻、天明三年癸卯八月廿八日没、年四十八、法名蒙光院道徹見菴
  居士。葬願證寺先営之側。妾名近、子啓死而後嫁」とある。 『勢国見聞集』には、「見菴、松坂の人。垣斎君の
  嫡男なり。名は蒙、字は子啓、五林と号す。詩文を好み、其所著紀鑑及余力稿あり」とある。
   【墓石】願証寺「小泉見菴墓、天明三年癸(卯)八月廿八日、四十八歳」  見菴は、父の後を嗣ぎ、紀州藩御目
  見得医師。本居宣長の知人、或いはその吉野飛鳥への旅の同行者として、人々に記憶されている。見菴と宣長との
  係わりについて見てみたい。
 
   商家に生まれた宣長が医を志すのに、小泉家をその手本としたとする説がある。
  城福勇氏は、「(本来学問の道に進みたかった宣長が医業を生業とすることについては)親類のなかに医者が少な
  くなかったということが、かつにも宣長にも、大きな影響を与えたことであろう。だいいち筋向かいの小泉見庵が
  そうで、彼の医業は大いに栄えていたのである」と『本居宣長』で書く。親類で医者といえば、遠縁に山村通庵が
  いる位で、決して多くはない。また、小泉家を範としたとか、同家が大いに繁栄していたという根拠を今確認する
  ことは出来ない。
   ただ確証はなくとも、息子の行く末を案じた母と宣長が、向かいの小泉家の生活を眺めていて、これならばでき
  ると考えたとしても決して不思議ではない。
   在京中の宣長を見菴が訪ねたことがある。「むかひ見菴殿先比のほり申され候」と、宝暦4年6月3日付宣長宛
  母勝書簡に見え、対面記事が『在京日記』に載る。
   だが二人の関係で最もよく知られているのは、この「菅笠の旅」であろう。宣長43歳、見菴37歳の時であった。
  参加者で、見菴以外はその後に整備される宣長の『授業門人姓名録』に名を連ねた人たち、つまり宣長の古典講釈
  や歌会のメンバーである。どうしてその中に見菴は入ったのであろうか。
   まず考えられることは、近所だったという点であろう。小泉見菴の家は、松坂町魚町上ノ丁の長谷川家に隣して
  あった。宣長に家の向かい側である。年齢も宣長が6歳年長と近い。
   ただ、吉野旅行中も見菴は、旅で知り合った尾張の人と漢詩を贈答しあっているように漢詩文を好み、和歌の宣
  長とは道を別にしたため、門人に加わることもなかったのかもしれない。つまり二人は友人だったというところ
  に、旅への参加の一因を求めることが穏当だろう。
  【写真】 「小泉見庵夫妻像」 「見庵墓石」 「歌碑」

>> 「歌碑の謎 宣長歌碑はなぜ建てられたのか」

稲懸棟隆
  中町の豆腐屋。宣長と同い年43歳。後に門人となる。息子・茂穂と参加。
>> 「鈴屋円居の図」

稲懸茂穂
  棟隆の長男。後の大平。17歳。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

戒言
  白粉町来迎寺覚性院の僧。年齢は不明。棟隆と親しかった。同い年くらいか。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

中里常雄
  中町の豪商の息子。後に長谷川の養子となる。16歳。大平の友達。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図

従者
  恐らく一人付いていったと思われる。屈強な人だろう。名前、年齢不明。
 14日、飼坂越えの条。歩く者は息も絶え絶え、従者は荷物を持っているので、これまた遅れているが、つづら折の道なのですぐそこに見えるなんて、気分が優れない宣長は駕籠に乗り、呑気なことを言っている。

【原文】「とものをのこは。荷もたればにや。はるかにおくれて。やうやうにのぼりくるを。つゞらをりのほどは。いとまぢかく。たゞここもとに見くだされたり。」 また、飯福田寺辺りで、供の人は一人先に松坂に帰る。各家に、帰ってきたから迎えにこいと触れるためだ。
【原文】「いぶたにまはりし所より。供のをのこをば。さきだてゝやりつれば。みな人の家よりむかへの人々などきあひたる」
(C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その5

◆ 『菅笠日記』図書館
  版本の翻字は「資料編」に載せました。ここではその参考となるいくつかの本を載せます。

テキスト
『本居宣長全集』第18巻。筑摩書房。
『新日本古典文学大系・近世歌文集、下』岩波書店。
  ※菅笠は鈴木淳校注。語釈も宣長の他の著作を引くなど、
   宣長に則した注が付けられる。
『菅笠日記』尾崎知光、木下泰典編。和泉書院。
  ※一番手軽なテキスト。
『現代語訳 菅笠日記』三嶋健男、宮村千素著。和泉書院。
 
研  究
「「菅笠の旅路」を辿る」1~4
  (その3から、「「菅笠日記」の研究」)
 石川義夫『新潟明訓高等学校研究紀要』1972年10月~
  ※実際に宣長の足跡を探訪した記録。可能な限り旧道を辿り、
   また地元での調査を行う。
    これ以上の研究は、今後は出ないであろう。
 
随  筆
「大和路の秋成と宣長」佐藤謙三『日本文学論究』25冊
  (昭和41年3月25日)
  ※宣長と秋成の紀行を比較しながら両者の資質の違いを浮き彫りにする。
   優れた国文学者だけに随筆としては面白い。

>> 「秋成の『菅笠日記』評」

「宣長の歩いた飛鳥」和田萃『季刊・明日香風』第47号
  (平成5年7月1日)
  ※考古学の第一人者の目で見た宣長の飛鳥探索の意義を説く。
   また、古代の景観を偲ぶためにも、『菅笠日記』で近世の道筋を
    たどるのがよいと勧める。
(C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その6

◆ 回想、菅笠の旅

 小泉見卓に送った宣長の歌に見られるように、僅か10日間の旅であったが、同行者には忘れられない思い出となった。
 5年後の安永6年2月3日宣長は旅を懐かしみ歌を詠んでいる。

   「一とせ吉野の花見にまかりし事をおもひてもろ共に物せし人の
   もとへ二月の比いひ遣はしける

     君やしる 夢かうつつか あかざりし 吉野の山の 花の旅寝は」

 また20数年後の寛政年間、『玉勝間』巻9の題を付ける時にまた旅のことを思い出している。

   「花の雪・やよひのころ、あるところにて、さくらの花の、木本にちりしけるを見て、一とせ吉野にものせし時
   も、おほくはかうやうにこそ、散ぬ るほどなりしかと、ふと思ひでられけるまゝに、

    ふみ分し 昔恋しき みよしのゝ 山つくらばや 花の白雪

    かきあつめて、例の巻の名としつ、雪の山つくられし事は、物に見えたり」

(C)本居宣長記念館

「姿は似せがたく、意は似せやすし」

 宣長の『国歌八論斥非再評の評』に出てくることば。

 「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ、然レバ姿詞ノ髣髴タルマデ似センニハ、モトヨリ意ヲ似セン事ハ何ゾカタカラン、
 コレラノ難易ヲモエワキマヘヌ人ノ、イカデカ似ルト似ヌトヲワキマヘン、試ニ予ガヨメル万葉風ノ歌ヲ万葉歌ノ
 中へ、ヒソカニマジヘテ見センニ、此再評者決シテ弁ズル事アタハジ、是ヲ名ヲ顕ハシテ、コレハ予ガ歌コレハ万
 葉歌ナリト云テ見セタラバ、必予ガ歌似セ物ナリト云ベシ」(宣長全集・2-512)

  小林秀雄はこの一節を引いて次のように述べる。

 「この宣長の冗談めかした言い方の、含蓄するところは深いのである。
 姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう、何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ。先ずそういう含意が見える。人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供にでも出来るではないか、諸君は、そう言いたいところだろう。言葉とは、ある意見を伝える為の符帳に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである。古の大義もわきまえず、古歌の詞を真似て、古歌の似せ物を作るとは笑止である、という言い方も、この根強さに由来する。しかし、よく考えてみよ、例えば、ある姿が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は実体ではないが、単なる符帳とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。万葉歌の働きは、読む者の想像裡に、万葉人の命の姿を持込むというに尽きる。これを無視して、古の大義はおろか、どんな意味合が伝えられるものではない。「万葉」の秀歌は、言わばその絶対的な姿で立ち、一人歩きをしている。その似せ物を作るのは、難しいどころの段ではなかろう。
 意は似せ易い。意には姿はないからだ。意を知るのに、似る似ぬのわきまえも無用なら、意こそ口真似しやすいものであり、古の大義を口真似で得た者に、古歌の姿が眼に入らぬのも無理はない。」
                    『本居宣長』25章(上巻306頁)
(C)本居宣長記念館

須賀直入(すが・なおいり)

 宝暦2年(1752)~文化9年(1812)。享年61歳。宣長の『授業門人姓名録』一本に門人として名前が挙がり、また青柳種信宛大友直枝書簡に「須賀直入と申ハ、本居氏江長ク同居之人ニ御座候」と書かれていて、本居家、また宣長とも密接な関わりがあった人物である。もと武部氏であったとも、文化4年頃から須賀姓を名乗ったともいうが、未だに謎に包まれたことも多い。墓は和歌山吹上寺。墓石には「伊勢、十葵薗主人、須賀直入墓、紀藩侍医兼和蘭訳学、伊勢、武部子藝甫墓、享年六十一」とある。
(C)本居宣長記念館

須賀直入書簡

 この書簡は、謎に包まれた直入の、僅かに残る自筆資料。いまだ紹介されたことがないので全文紹介する。

 「未得貴意候へ共一翰啓上仕候、厳寒之節愈御安康御座被成珍重奉存候、然ハ今年九月御さと人参宮ニ付御立寄ニ而藤垣内翁へ之御状並御贈栗相達候、其節も御返答ニ及申候事定而相達可申と奉存候。○御書中之趣、○名古屋植松随分気丈ニ被居候。毎々此方ヘハ詠草等も参申候。○古事伝(ママ)は廿四より廿九迄来春早々より売本出来候積リニ御座候。○稲彦何彼と出精のよし相聞申候。○三遠尾之社中甚出精之趣歌詠草其外著述類到来仕候。○越中之御考早承度奉存候。○江戸京九月廿九日之遠忌之会賑々敷事のよし追々便り承候事也。右九月一日御状之御答。○九月十五日御認之御書状並九月八日之御会之御詠作之品々慥ニ相達申候。先達而御返事上候通也。○故大人御霊前へ金百疋、桜画一枚梅画一枚右健亭へ相達、則其節之御返書此度上申候、御厚情之御事共忝存奉候、円山公へ宜敷御伝声可被下候。○別之桜之画社中之賛頼遣置候処いまに返却無之夫故是ハ近日上可申候。○貫之主の賛は近日出来候ハヾ上可申候。○心のぬさ点削相済申候ニ付上申候。九月廿五日懐旧之会之出詠共書林へ申付写させ上申候。御落掌可被下候。右之段迄忽々頓首 謹言/須賀直入(花押)/十二月廿日/田中君貴下/猶々藤垣内翁十月初より他行、其後彼是繁用ニ付御返答延引ニ相成申候」

 『心のぬさ』は文化4年9月8日の鈴屋大人七回忌に草した追悼の詞。また大平は門人の請いにより鳥羽にて講筵のため建正、清島、大友直枝を伴い、同年10月8日より27日まで家を留守にした(『藤垣内翁略年譜』)。また、直入が須賀姓を名乗ったのがやはりの文化4年頃と推定されている。文中の稲彦が橋本稲彦ならば文化6年6月15日に没しているので、『古事記伝』5帙の刊行は明春としているには、見込みであろうと考える。従って本書簡は文化4年と考えてもよい。

 【参考文献】
 「本居大平の生涯と業績《文学活動を中心として》」多田道夫「県民文化講座テキスト・きのくに文芸文化」第3回、昭和57年7月。
 「須賀直入伝・付伝記資料-本居家との関係を中心に-」岡中正行『帝京大学文学部紀要 国語国文』25号、平成6年1月。
(C)本居宣長記念館

須賀直見(すが・なおみ)

 寛保2年(1742)7月4日~安永5年(1776)10月8日。享年35歳。家は本町の豆腐屋「田丸屋」。童名市松。名は章峯、改め直躬、更に改め直見。通称正蔵。病弱で、家業を継がず、稲懸棟隆に譲り、別宅で薬屋や本や絵本を商う。
 嶺松院歌会の会員で、宝暦8年夏からの『源氏物語』講釈に参加するなど、宣長と早くより親しく交わる。学問は日本文学だけでなく漢文学にも造詣が深く、旧蔵した『事文類聚』はやがて宣長の蔵書となる。
 講釈を聴くだけでなく、自邸で、明和2年(1765)10月3日より月次歌会を(『石上稿』)、明和9年2月7日からは『栄華物語』会読、終了後の安永4年6月13日から『狭衣物語』会読を始め、没する直前の安永5年10月5日に終業した。また、戒言、稲懸棟隆と協力して宣長の『草庵集玉箒』を刊行した時には漢文序「題玉箒首」を執筆。また、『字音仮字用格』に序を寄せ、刊行にも「松坂本町田丸屋正蔵」として加わる。

 実は、直見は大平の師。また大平から見ると直見は祖父の異母姉の孫。父の従姉の子である。
 大平は『田丸屋系譜』で
  「性学問を好み和漢の書を博覧して詠歌の道に秀給ヘリ、本居宣長先生の高弟也」
と書く。また、直見が居たら自分が養子になることはなかったとまで言っている。

 若くして逝った弟子への宣長の哀惜の念は深く、『講後談』や『玉勝間』にも名前が載り、天明8年、菩提寺法久寺での一三回忌には宣長も出て歌を手向ける。
 絵のように小首を傾け、頬に手をやり歌を考えるのが須賀直見のおきまりのポーズだったようで、直見没後、宣長がその姿を懐かしがり歌を詠んでいる。
 
「うなかぶし歌思ひけるすがのこがその面影を忘らえぬかも」

うなかぶしは首を垂れてと言う意味。
 墓は法久寺篠田山墓園。法名「智進院本良慧菅居士」。
【参考文献】
 「須賀直見の人と歌風〈附録〉『落葉集』の翻刻」鈴木淳(『國學院大學日本文化研究所紀要』45輯)。
 
                        「鈴屋円居の図」直見アップ
(C)本居宣長記念館

少彦名社(すくなひこなしゃ)

 愛宕町。同社、また境内の薬師堂や周徳寺も今は無く、皮肉にも、付近は松阪一の盛り場となっている。ここは、宣長が「松坂学問所」建設予定地としたのはこの境内である。
 寛政6年(1794)12月、宣長は松坂医師・塩崎宋恕と連名で松坂学問所建設を紀州藩に願い出た。門人の増加に伴い、来訪者も増加したので、この際、藩で宿舎、文庫も併設した学校を建設して欲しいというのが請願の理由である。また、その中で松坂の書家・韓天寿の収集品の散逸を防ぐことも進言する。結局、時期尚早で認可されなかったし、天寿のコレクションも散逸してしまった。
                           「夜の愛宕町」
右に寿司「長の屋」が見える。
 このあたりに少彦名社があった。
(C)本居宣長記念館

 53歳の時に書斎を増築し、柱掛鈴を床の間の脇に掛けた。その鈴に因み、書斎の名前を「鈴屋」と名付けた。宣長はその鈴の音色が好きだった。先生は鈴が好きだと聞いたお弟子さんは、鈴をおみやげに持ってくる人もいた。
(C)本居宣長記念館

鈴木朖(すずき・あきら)

 明和元年(1764)~天保8年(1837)。名古屋の儒学者。名古屋西枇杷島の医者・山田重蔵の三男として生まれる。通称、常助。字、叔清。12歳で市川鶴鳴の門に学び、15歳で『張域人物誌』「文苑」に載る程の才であった。18歳で祖父の家督を継ぎ鈴木氏を名乗る。母屋から離れたところにいたので「離屋」と号す。晩年には、藩校明倫堂教授並となり、『日本書紀』や『古今集』を講じた。

 天明5年(1785)には『てにをは紐鏡』を書写、また『詞の玉緒』の抄を作ったことからも知れるように、国学、特に国語学にも造詣が深かった。
 寛政4年(1792)29歳の時、名古屋を訪れた宣長の門人となり、『馭戎慨言』序を執筆。
 同6年には松坂に来訪する。あるいは名古屋から帰郷する宣長に従ったか。『遍照寺月次歌集』にその時の文を収める。著書には、『言語四種論』、『少女巻抄注』、『離屋学訓』などがある。

 人物としても面白く、講義の謝礼は
 「菓子より砂糖、砂糖より鰹節、鰹節より金」
 と玄関に書いて貼っていたともいう。また次のような狂歌も残る。

 味噌で飲む一ぱい酒に毒はなし煤けたかかにしゃくをとらせて

 次はまじめな歌。記念館所蔵の懐紙の歌。
 「二月廿四日 同詠山暮春歌/朖/暮て行春の名ごりは夏かけてゆふ日ににほふみねのふぢなみ」

 名古屋では、昭和50年に「鈴木朖学会」が設立され、以後、離屋会館を会場に、毎年講演と研究発表を行って来たが、平成19年(2007年)の没後170年の記念行事と『文莫』30号刊行を期に、一応の終止符が打たれた。但し、学会そのものは継続し、これからも研究会や出版などを行っていく予定とのことです。

 作曲家・柴田南雄さんの五代前の景浩、号を西涯と言い、京の医師浅井図南の弟子で尾張藩典医となった人ですが、その妻リト(里登)は、鈴木朖の実姉だったそうです(『わが音楽・わが人生』岩波書店)。

 <補注>
  その後の研究により、
 「京の医師浅井図南の弟子」ではなく
 「京の医師浅井南溟の弟子」だったことが判明しました。
(C)本居宣長記念館

「鈴」ってなんだろう。

 宣長は、鈴の起源は分からないがその言葉は鳴る音から来たと考えていた。
『鈴屋答問録』に次の質問と宣長の答えが載る。

Q「鈴の起源を教えてください。またサナギというのは鈴のことですか。」(伊勢神宮・荒木田経雅)

A「「鈴」の起源は分からない。『古事記』には「鐸(ヌデ)」、また『日本書紀』には「須受(スズ)」と出てくる。「鈴」の古名を「サナギ」という説があるが典拠は知らない。『古語拾遺』の「ササナギの矛」から来たのだろうか。もしそうならササはスズと同じように鳴る音から来た言葉で、ナギは草薙のナギと同じだと考えることが出来る。」
(C)本居宣長記念館

鈴の町「松阪」

 三重県松阪市の入口、松阪インターのベルファーム、松阪駅には「鈴」がある。
 徳和駅にも松阪万古製駅鈴型看板。町にはベルタウン、カリヨンプラザ、鈴の森。道には踏み絵のような鈴の絵があり、公園には本家本元・宣長の「鈴屋」とその鈴が鎮座する。おみやげも鈴尽くし。

 保育園児の肩にも、ほら、鈴が付いている。
        
                              徳和駅
(C)本居宣長記念館

鈴屋(すずのや)

 宣長の書斎の名前。
 53歳の時、二階に増築した四畳半の書斎。天明2年(1782)10月13日、普請に掛かり、12月上旬に竣工した。8段の階段を上ると襖1枚の引き戸があり室内となる。室内は明るい。左手(東北)に押入と床。右(南西)に1間幅の中窓を取り、また正面(東南)にも小窓を設けるがこちらは閉鎖され使用せず。小窓右に低い洞床を設け、棚を釣る。壁は真土で塗り、襖には淡彩の山水を描く。床には師の忌日には自書した「県居大人之霊位」、普段は堀景山書幅等を掛けた。床の口右脇に小さな板を埋め込む。床柱は銘木(一説に南天)を、右上には桜、また正面の壁には竹等を使用し、質素ながらも趣向を凝らした作りである。押入の中などには13箱の本箱が置かれた。窓から眼下に松、棕櫚竹、榊、箭竹を植えた坪の内が、遠くは松坂城のある四五百森を眺めることが出来る。

 書斎の名前は、この部屋に掛けられた柱掛鈴に因む。その披露の会で詠まれた長歌の左注に「鈴の屋とは、三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれてはしらなどにかけおきて物むつかしきをりをり引なしてそれが音をきけばここちもすがすがしくおもほゆ、そのすずの歌は、とこのべに、わがかけていにしへしぬぶ、鈴がねのさやさや、かくて此屋の名にもおほせつかし」(『鈴屋集』巻5)とある。これ以後、宣長の屋号として家集の表題や、蔵書印、また帳簿の裏表紙などにも使用された。表記には万葉仮名書き、仮名書きもある。
 
        帳簿  
       鈴屋内部
        階段
(C)本居宣長記念館

《見学者のみなさまへ》

        
宣長さんの家のものがたり

ここは、国学者・本居宣長(1730-1801)の家です。
宣長は、12歳の時から72歳で亡くなるまで住んでいました。
宣長の昼間の仕事は医者です。薬箱を持って患者さんの所をまわります。
夕方帰ってきてから、町の人や、また全国から訪ねてくる人たちに『源氏物語』や『万葉集』など日本の古い本、
たまには中国の本も講釈していました。
夜も更けてみんなが帰ったあと、一人で『古事記』を解読し『古事記伝』を書きつづけました。
1階は上がることができます。
当時の部屋の静けさ、暗さを体感してください。
また、奥の八畳の間に静かに座って目を閉じてみてください。
この部屋は、来客との応接間ですが、宣長の勉強部屋、また大きくなってからは教室にもなりました。
受付でお渡ししたパンフレットに、
17歳の時に描いた「大日本天下四海画図」の写真が入っていますね。
幅が2メートルもある大きな地図を作成したのはきっとこの部屋でしょうね。
宣長は7人家族。奥さんと5人の子供がいました。
お母さんや子供たちはどこでお話をしたり、遊んだり、寝たりしていたのでしょうか。
53歳の時に宣長は二階を増築し、自分の勉強部屋を作りました。
窓の大きな明るい部屋です。
勉強に疲れたときにならす鈴を掛けたので、「鈴屋」という名前も付けました。
いまは、二階に上がっていただくことはできませんが、
家の向かい側、石垣の上から部屋の中をのぞくことができます。
この家は、1691年に建てられました。人間なら、もう324歳、超高齢者です。
百年ほど前に、松阪の人が町の誇りを火事などから守ろうと魚町からこの場所に移しました。
たたいたり、飛び跳ねたりせず、やさしくしてあげてください。
裏口の近くには、ごえもん風呂もあります。
そっと扉を開けて中をのぞいてください。
誰も入っていないと思いますが・・・
(C)本居宣長記念館

「鈴屋」の由来

 柱掛鈴が書斎の名前「鈴屋」の由来となった。それを詠んだ歌がある。書斎が竣工して約3ヶ月後の、天明3年(1783・宣長54歳)3月9日の歌である。
 
 「天明二年の冬、家のうちに高き屋を造りて、又の年の三月九日の日、友だちをつどへてはじめて歌の円居しける時によめる、

をとめらが、ま手にまきもつ、さく鈴の、五十鈴のすずの、鈴の屋は、しこのしきやの、丸木屋の、を屋にはあれど、しなたてる、梯ふみならし、のぼりたち、ふりさけ見れば、御城のへの、そらみつ山は、みつえさし、しじに生ひたる、はしきやし、君まつの木も、うるはしく、見かほし山ぞ、いさなとり、海のはまひに、よる浪の、いやしくしくに、とこしへに、来入つどひて、まそかがみ、見し明らめね、みやびをのとも、

鈴の屋とは、三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれてはしらなどにかけおきて物むつかしきをりをり引なしてそれが音をきけばここちもすがすがしくおもほゆ、そのすずの歌は、とこのべに、わがかけていにしへしぬぶ、鈴がねのさやさや、かくて此屋の名にもおほせつかし」(『鈴屋集』巻5)

 大平(28歳)もこの鈴を歌に詠んでいる。
  「鈴の屋の、鈴がねのよさ、紅の、こぞめの糸を、みつあひに、八ひろよりはへ、その緒さへ、ひかる小鈴の、さく鈴を、しじにぬきたれ、おく山の、真木の柱に、ながながに、取かけおきて、朝にはい、引ゆらかし、夕にはい、引ならさす、すずがねのよさ、稲懸大平」
(C)本居宣長記念館

『鈴屋翁略年譜』と『鈴屋門人姓名録』

 略年譜は伴信友編。但し、平田篤胤は、堤朝風が書いた物を信友が自著として刊行したのだと批判する。門人録は不明。略年譜は、本居清造の補訂を経て最近まで使用され、宣長研究の基礎資料となっている。門人録は杜撰な編であるが、宣長の学問の伸展を知ることが出来る。
 最初は略年譜と門人録を併せて刊行する計画もあったようだ。11月30日付本居大平書簡に関連記事が載る。

  「寒冷日々増深覚候、益御揃安健奉賀候、拙居無恙罷在候、乍憚御休意可被下候、いつそやは御染筆短冊御贈被下大悦、此間出雲清主へいろいろ返事等いたし遣候ついてに五六人短冊認有合遣候内へ貴詠も一葉入遣し申候、有郷のも遣し申候、
  一、先達而申上候通今般京にて故大人略年譜とて、著述物上木其外名古屋行、紀国行、京行なとの事つまひらかに年紀に記し候物也、伴信友編述に御座候、右に付故翁門人帳も上木いたし度申候に付、宇治山田之位階正しく記したく候、是は貴兄も大に御苦労なから何とそ急て其手筋へ御聞合早々御正し可被下候、右要のみ申上候、恐惶謹言
   十一月卅日                本居三四右衛門
  安田伝大夫様
 此間宇治久守より文通ありて京山田阿波守、江戸の腋斎なと山田に在留いろいろ雅事学事の事なとありしと申来候。以上」
  楮紙2枚継。23行。縦14.6cm、横40.8cm。(村山家旧蔵)

 書簡中の伴信友の『鈴屋翁略年譜』は、文政9年9月29日成立、12年序、跋が添う。刊行は12年から13年初頭。村田春門の『田鶴舎日記』文政13年3月20日条に「略年譜上仕立本十部出来候内、此度紀州大平より相贈」と見える。安田伝大夫広治は伊勢の御師。宣長三女能登の夫である(天保3年没)。清主は宣長門人千家俊信(天保2年没)。久守は荒木田久老次男(嘉永6年没)。山田阿波守は山田以文であろうか。腋斎は江戸の考証学者・狩谷掖(※)斎。
 書簡の年次は文政12年(1829)と推定される。まず、略年譜の稿を大平が見た文政8年冬以降であることは間違いない。次に、文中に『鈴屋翁略年譜』と併せて「故翁門人帳」も出版したいと見えるが、略年譜が既に刊行されたとは明記されない。但し、送ったとか見せたとは書かれていないのでその刊行前であろうと推定されるだけである。大平が稿を見た時期について鈴木淳氏は次のように述べる。 「『田鶴舎日記』を参酌しながら、本書(引用者注・『鈴屋翁略年譜』)が出板に至った真実の経緯を追跡することとする。

 まず本書の案文成立の時期については、文政九年四月十五日の条に、大平書簡の一節「伴信友旧冬古翁の伝記 つまびらかに認置たく、案文見せに参り御座候」を引掲してあることによって、文政八年冬のことと知られ(以下略)」  (「本居宣長伝の成立」『江戸和学論考』ひつじ書房・1997年、P570 )
 次に、11月30日があった大の月の年を見ると、文政8年は無く、以後9,10,11,12,13(天保元)、天保2,3,4(大平没)が該当する。
 最後の手がかりは「江戸の腋斎なと山田に在留」である。この前後で狩谷掖(※)斎が伊勢に来たのは文政12年9月である。この年ならば11月は大の月で、略年譜は刊行直前であり書簡文章も無理なく理解されるのではないだろうか。従ってこの書簡は文政12年のものであろう。

 「故翁門人録」の刊行については分からない。刊本はあるが、はたして大平が関与したかも疑わしい杜撰な本で、刊年も書肆も不明である。同書について、鈴木淳氏は明治2,3年頃の刊で、松坂の書肆柏屋や本居豊穎が係わったかと推定される(『本居宣長と鈴屋社中』P228)が、刊年はともかくも、基礎的な、例えば略系の誤りからは、本居家や松坂とは関係ないところで出されたように思える。参考までに石水博物館所蔵本『鈴屋門人姓名録』の所見を記す。
 『鈴屋門人姓名録』版本1冊。小本。縹色表紙。題箋「鈴屋門人姓名録 完」。蔵印「慈々斎文庫印」
 【内容】「鈴屋翁略系」・「鈴屋門人姓名録」(484名記載)・「著述書目」(49冊記載)
 【解説】略系には「享和三年(元に書入訂正)」や出身地を「奄藝(飯高に書入訂正)と言う誤りあり、著述書目には、「古事記伝」44冊、「【改訓】新刻古事記」3冊等の他、「源氏物語年紀考」1冊、「紫文要領」2冊、「疑斎弁」1冊、「玉くしけ」1冊、「玉くしけ写本」1冊等とあり。刊記など無し。

 【参考文献】
 『伴信友の思想-本居宣長の学問継承者-』森田康之助、ぺりかん社。

(C)本居宣長記念館

鈴屋衣

        
 この着物、宣長独自の衣裳で現在は「鈴屋衣」と呼ばれている。「鈴屋」と言う名前は二階の書斎を造築した53歳以後だから、まだこの時点では名前はない。
 いつ、何のために創案したのか分からないが、文献上の初出は35歳の5月で、歌会などに着用したものと思われる。

「まろが衣を見てある禅僧のなどわが宗の衣ににてはきたるぞととがめけるに

   今さらに何とがむらむから衣やまと言葉にいひなれぬるを」
                 (『石上稿』明和元年5月頃)

 禅宗の坊さんが、宣長の着物を見て、私達僧籍の着物に似ているというのでいやいやそうではありませんと断った歌である。

  この衣について、宣長の子孫である本居清造が『本居宣長稿本全集』第2輯(P99-101)でおおよそ次のようとをなこ書いている。

 44歳像、61歳像で着ているのは「鈴屋衣」と言われる着物である。歌会や講釈等で着用し、普段着ではない。材質は黒縮緬で、沙綾形の地紋がある。裏地はない。但しひこには鼠色で唐草模様のある縮緬を使い、襞がある。いわゆる居士衣の類である。

 寸法は次の通り。
一、袖たけ 一尺五寸五分
一、袖はゞ 一尺六寸六分
一、袖ぐち 一尺三寸
  但し平袖で幅二寸六分の裏(紫縮緬)が付く。
一、人形 一寸二分
一、身たけ 三尺七寸
一、ひこ幅 一尺六寸 四ツ折に畳む。
一、肩はゞ 八寸
一、後はゞ 八寸
一、前はゞ 五寸八分
一、襟はゞ 一寸九分
一、腰あげ 七分
一、襟かた 二寸

  襟肩より一尺九寸の処に、幅八分長一尺に縫紐あり。古代紫の縮緬で作ってある。また紐を縫い附けた襟の裏には、角製のこはぜとこはぜかけがある。
 禅僧からの質問と返歌や、また『キ(玉偏に幾)舜問答』に載る話を紹介する。

らんさんと和歌子さんの会話

ら ん

本物は残っていないのですか。

和歌子

宣長が着用した鈴屋衣は、現在記念館に残っていますが劣化著しく全体を広げて見る事は出来ません。ただ、布地を見る限りでは、井特画の「本居宣長七十二歳像」がかなり忠実に写しているようです。また袖口の裏地の色は濃紺で、清造さんの記述とは異なるが、七十二歳像でもやはり濃紺ですね。

ら ん

当時も「鈴屋衣」と言っていたのですか。

和歌子

寛政11年7月の「鈴屋社中通達案文」(大平筆)と言われる一通には、「正月開講之節者、例年大人十徳着用有之候」、「正月歌会始之節、大人居士衣之類御着用有之候」(本居宣長・別3-630)とあり、この「居士衣」が鈴屋衣であろうと言われています。この記述だけ見ると、学問と歌会で衣を替えていたようにも見えるが、例えば駅鈴をお土産に持ってきた松平康定侯に源氏を講釈する時には、「みやびたる衣にきかへて、初音の巻のはじめ三ひら四ひらばかり講じたる」(『伊勢麻宇手能日記』)とあり、寛政6年の吹上御殿での清信院への講釈にも、「服用ハ翁好之袖長キころも出たち也」(某人宛稲懸大平書状写し、宣長全集・16-572)と書かれていて、講釈でも着用したようです。また和歌山での御前講義や、京都での公家衆への講釈の時にも、持参し着用したことが『日記』に記されています。医者である宣長は、藩主の前では十徳が正装です。このように貴人の講釈で鈴屋衣を着用したのは、特に所望があったのかも知れません。この衣は宣長のトレードマークだったと言えるでしょう。

ら ん

身丈が3尺7寸というのはどのくらい?

和歌子

鯨尺で1尺が38cmだから、約140.6cm位かな。

ら ん

意外と短いけれど背が低かったの。

和歌子

当時の成人男子の平均身長は150cm代だったという説もあります。みな低かったようです。また、「鈴屋衣」自体、特殊な着物でそこから身長を推測することも難しいかと思います。但し、松平康定は、先の日記で「髪の結ひさまなどは早う見し絵にいとよう覚えてたけたちはすまひなどいふばかりなりかし」、髪型などは画像(61歳像でしょう)と同じで、身長は相撲取り位と書いています。これだと長身ですね。実際に宣長と会った人の証言として貴重です。

(C)本居宣長記念館

『鈴屋集』(すずのやしゅう)

 9巻9冊。宣長の歌文集。巻7までは宣長の自選。
 収録歌は、短歌約2,500首、長歌約50首、旋頭歌5首、今様3篇、文詞66篇。
 書名案には、「著書目」の『鈴屋文集』、『鈴屋歌集』の各下に「玉かつま」と記され、『玉勝間』もあったことを窺わせる。 鈴木淳氏は、本書は自費出版であること、また作者生前中に「家集」としての組織と内容を備えたものとして出版された、恐らく初の試みと評価する。
 刊行は、「近調歌部」巻1、2、3が寛政10年(1798・宣長69歳)11月9日、「古風歌・長歌部」巻4、5は寛政11年12月、「文詞部」巻6、7は寛政12年閏4月。いずれも宣長の手許に届いた日である。鈴屋蔵板で、売弘所は最初は柏屋、後に江戸の須原屋茂兵衛、京都の銭屋利兵衛、松坂の柏屋となった。
 巻1の巻首に本居春庭の「はし書」(寛政10年2月)があり、詠まれたままとなっていた父の歌を、古風と近風に分け、また並び替え、さらに詞や長歌も集めたと書く。但し、草稿などからも宣長自身が編纂したと考えた方がよい。春庭編としたのは、宣長の後継者であることの表明を宣長自らが企図したのであろう。巻7の末尾にやはり春庭の「言の葉の花ちりばめて遠き世ににほふもうれしさくら木の板」という歌を載せる。
「補遺」巻8、9は、宣長没後に本居大平が刊行し、「後書」(享和3年8月付)を添える。

【参考文献】
「『鈴屋集』の初刊本について」尾崎知光(『愛知県立大学説林』第29号・昭和56年2月刊)
「鈴屋集の開板」鈴木淳(『國學院大學日本文化研究所紀要』57輯)。
(C)本居宣長記念館

鈴屋翁(すずのやのおじ)

 宣長の号。画賛など認物で、当該作品が「俗」であるものに使用される署名。わかりやすく言うと、絵が土佐派や狩野派の伝統的な技法、画題では「宣長」だが、例えば「三番叟図」(曽和温山画)や「女と武者人形図」(月岡雪斎画・『落葉の錦』収載)、「遊女図」等、画題が庶民的で、しかも浮世絵などにはこちらを使用する。また、俳諧師・一無庵の依頼で「一無庵」という扁額を書いた時にも使用。和歌は雅で俳諧は俗だからだ。「鈴屋主人」も同じ意識であろう。
       「女と武者人形図」 月岡雪斎画
    「三番叟」曽和温山画 市史編纂室所蔵写真
(C)本居宣長記念館
       「女と武者人形図」 月岡雪斎画










(C)本居宣長記念館

鈴屋の漢籍

 安永3年(1774)から『史記』を講釈し、『古事記伝』等の執筆でも漢籍を引くことが多く、また漢籍を読むことを勧める(『玉勝間』)宣長だが、手沢本の漢籍で今も残っているのは、医学書を除くと、わずかに、門人須賀直見旧蔵『事文類集』と、師景山の説を書き入れた『春秋左氏伝』だけである。『事文類集』は元末明初の刊本であり、『春秋左氏伝』は後刷本ながら、慶長古活字版である(井上進氏)。引用には、『康煕字典』等の字書などからの再引もあるが、旧蔵中には基本書は揃っていた。『経籍』裏表紙に、『左伝』、『史記』、『楊子法言』、『五経』、『唐詩選』、『明七才子』等価格と共に記される書名は、『蔵書目』等から在京中の購入記録と推定される。これ以外にも『蔵書目』には『文選』、『白氏文集』、『周礼』、『儀礼』等が載り、蔵書の概ねが推定される。また『学業日録』には、『唐六典』(安永8年)、『十八史略』(同10年)、『論語』(天明2年)を読んだとある。これらの漢籍類は、宣長没後に処分されたものと推定される。
(C)本居宣長記念館

鈴屋訪問

 宣長が次々と研究を発表する。また宣長に逢うため全国から学者が集まる。また情報も集まる。「鈴屋」は、日本古典研究の中心地となった。また、伊勢路を行き交う人の、一つの観光スポットでもあった。『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』はその記録だ。

 最初から、街道近くに住む宣長のもとには来訪者が絶える事がなかった。早い時期、まだ宣長無名時代は、学問好きな伊勢神宮の神主などが、立ち寄ることが多かった。特に全国各地に旅する御師は、行き帰りに宣長の所に立ち寄る人もいた。蓬莱尚賢(ホウライ・ヒサカタ)はその筆頭だ。谷川士清の娘婿で、また賀茂真淵の所にも出入りしていたので、よきメッセンジャーとしての役割を果たしてくれたようだ。 『古事記』にクラゲが出てくるがこれはどんなものだい、と宣長が聞けば、この前長崎に行った時に舟の上から見ましたよ、とその報告を送ってきてくれる。こんな本知ってますかと珍しい本を届けてくれる。
 宣長が本を次々に書き有名になると、全国から訪問者がやってくる。狂歌師、俳諧師、尊皇家、浮世絵師、洋風画家、儒者、神官、藩主などなど。実に多士済々だ。
 勉強したい、とやってくる橋本稲彦のような若者がいる。
 宣長なら自分の理解者となってくれるであろうとやってきた蒲生君平ような尊皇家。
 参宮にかこつけて国を出てきた人もいる。
 中には、旅の途中で、有名な人の顔でも見ていこうか、あわよくば短冊の一枚でも貰えたら、という虫がいい人もいる。

 ところで、誰がこれらの人の取り裁きをしていたのだろう。よもや多忙な宣長ではあるまい。医者の仕事で留守も多いはずだ。
 おそらく、妻、あるいは娘が第1次審査、パスすれば、稲懸大平に取り次いで、第2次審査。この人は先生にお知らせしようとか、忙しくて会えませんと判断していたのではないだろうか。すべてのケースの検証は出来ないが、断片から想像するとこうなる。
(C)本居宣長記念館

鈴屋を詠んだ歌、俳句

 「平宣長が書斎を鈴屋といへり、そこにのぼりて
 おとにきく これの鈴の屋 いにしへを したへる心 見るやすずの屋」
      『清渚集』巻47・荒木田経雅・(『神道古典の研究』P154)

 「鈴屋
  飛行機が梅雨ぐもの上を恙なく飛びゆく音は東を指せる
  展示品のこれのいぶせき竿秤は伊勢おしろいを秤しといふ
  藍色の縞ひと条織るのれん掛けて松阪木綿店の昔を伝ふ
  柱の木に三十六個の鈴つらね倦む時鳴らせて楽しみし大人
  飾らるる大人の短冊の一枚は野分に咲ける朝がほを詠む
  鈴屋の窓の高さに松繁り日がつくる影畳に揺るる
  鈴屋を去なむと立ちて門先の石蕗の葉の光れるに遭ふ
  「芸術に正確はない」と読みてゆく処暑のこの宵虫鳴きてゐて」
      『白雪草』新見和子・昭和59年12月1日刊・短歌新聞社

 「鈴の屋の 鈴ちろと鳴り 暮るゝ春 」
       久米正雄・『俳枕(西日本)』平井照敏編・河出文庫  

 「山桜 鈴の屋は工房 古事記伝 」
       中谷孝雄・「世間虚仮(聖徳太子)」の1句
(C)本居宣長記念館

正座

 宣長の娘飛騨から聴いた話として清造さんは次のように書いている。

 「宣長ノ肖像ニツキ祖母飛騨ヨリ聴ケリトテ父ノ語リシ所次ノ如シ/宣長ノ像ハ義信有慶及ビ井特等ノ描ケルガアリサレド容貌ノ最モ能ク似タルハ六十一歳ノ自画自賛像ナリ/六十一歳ノ像ハ趺坐ノ体ニ描カレタ レドモ実際ニハ趺坐セラルヽコトナシ四十四歳ノ自画像ノ如ク正坐セラルヽガ例ナリ」(『備忘録抄』本居清造録・弥生抄)
(C)本居宣長記念館

「姓氏の話 姓氏・名乗、あれこれ」   嵐義人

 「太閣もヒデキチと読めば丁稚なり」と言うが、歴史上の姓氏・名乗には、読み方にも使い方にも複雑なところがある。
 例えば、源頼朝(ミナモトのヨリトモ)のように姓(正しくは源朝臣)の場合「の」を伴って読むが足利義政(アシカガ・ヨシマサ)のような氏の揚合(家名・苗字等)には「の」は付かない。
 また、同じ名乗字としての「朝」でも、頼朝は武家であるから「トモ」と読み、「あふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし」の歌(『拾遺集』、百人一首)で有名な中納言朝忠は公家であるゆえ「アサ」と読む。
 確かに複雑である。しかし、法則性を知っていれば、さして混乱するものではない。ただ歴史は結果の集積であるから、例外は至るところにある。豊臣は姓であるが、「トヨトミの」とは言わない。東常縁の東は家名であるが「トウの」と読み慣わしている。それでも、法則を知り、制度・慣行を知ることは、歴史とつき合う際の良き道案内となるに違いない。そんなあれこれを記してみたく筆を執った次第である。
 なおここでは、珍姓・珍名は扱わない。専門とする制度史の観点から、思いつくことを取りあげていきたい。
  一、排行をめぐって
 正倉院文書に光明皇后の署銘が残されている。その筆写にかかる『楽毅論』の末尾にある「藤三娘」であるが、言うまでもなく藤原不比等の三女であることを示している。太郎・次郎・三郎……を排行(輩行とも)と言うが(石原正明『年々随筆』など)、順序を算える範囲は日本と中国とでは異なる。わが国では兄弟間に止まるが、中国では宗族(主として小宗)、つまり同族間で行われる。先祖から算えて同じ世代の者の間で付されるから、中唐の詩人白居易(白楽天)は「白二十二郎」と称せられる。兄弟のみならず、従父兄弟、再従、三従など一族の同世代男子として二十二番目ということである。曾我兄弟は例外ではあるが、法則性を無視したものではない。兄が十郎(祐成)、弟が五郎(時致)と逆転しているが、弟の五郎は烏帽子親北条時政の実子(宗時、義時、時房、政範=『続群書類従』北条系図)の次の排行を称したものと解されている(十郎については不明であるが、和田義盛との関係を説くものもある。『続群書類従』の和田系図では八人男子がいる)。また十郎を超えたときは、那須宗高、(名字であるが「の」が入る)のように余一・余二とするのが例であるという(『年々随筆』)。
  一方、親から子へと世代が移るに従い、コ・マゴ・ヒマゴ(ヒコ)・ヤシャゴと称する親族呼称に倣った通称の付け方がある。平将門を相馬小次郎と称するが如きものである。「小次郎」は父「次郎」の嫡男の意であって、ここから逆に、将門の父良将(良持とも)が高望王の二男であること、将門に兄はいないことが分かる(系図や物語によっては父を三男とし、将門に兄を登揚させるものがある)。四郎の嫡男なら小四郎、嫡孫は孫四郎(以下、彦四郎、弥四郎……)で、四郎の次男は四郎次郎となる。六郎の揚合は、小六・孫六・彦六であるが、これは、源平合戦期から鎌倉期に当て嵌まる例が多い程度で、後世はほぼ消滅する。
  実名の付け方にも排行と関連するものがある。一字を共有し、或いは五行に配して揃える原則で、中国・朝鮮に見られ、顧炎武『日知録』には晋末に起こったとある。牧野巽博士『近世中国宗族研究』に紹介されている明代の茗州呉氏の譜を見ると、特に末二代は、まず徳を共有して日偏の文字を用い、次に存を共有して兄弟ごとに偏旁を共通にしている。
(呉氏系図)
 五行に配する例は今手許にないが、島村修治氏『世界の姓名』に載るモデル(韓国)の如き例が実際に存することは、指摘しておきたい。
(韓国の系図)
 このモデルでは、木(東)、火(列火)、土、金、水(下水)の順に共通字を持ち、且つ代を進めるごとに共通字を上・下・上・下と交互に置き換えている。
 わが国にこの使い方はない。戸田氏の「氏」、堀田氏の「一」、渡辺党の一字名など、歴代定まっているものや、藤原氏三条流などに見られる「公」と「実」を交互に用いる例が、法則性をもったものとして知られる。なお三条流の「季」は替字として用いることができる。
 (三条流の系図)
  二、官職名と東百官
 わが郷党の先人林不忘の名作に丹下左膳と称する浪人が登揚する。この「左膳」は律令官制にはない。このような律令官職名に似て非なるものを集めた擬似官職名が、「東百官」と呼ばれるものである。いま主なものを挙げれば、次の如くである。
   左門。右門。数馬。左内。求馬。左膳。伊織。頼母。要。多門。斎。小源太。左源太。
  「東百官」は「相馬百官」ともいい、伊勢貞丈 (一七一七~八四)は、その著『貞丈雑記』『安斎随筆』で、平将門が定めたというのは付会であるとしている。平将門は天慶二年(九三九)に新皇として除目を行うが、そのとき「但し孤疑すらくは暦日博士のみ」(『将門記』)とあって、暦博士を欠いたとされる。この変則的官制に目をつけ、牽強たとするのである。そして更に考証を加え、
   古記に東百官の名つきたる人は見えず、天正慶長の頃より以来の書には、東百官の名つきたる人も見えたり。古今著聞集……に松尾神主頼母……とあるは、神主の実名にて……、鎌倉将軍の時に、最早東百官の名ありしとて、右の頼母を証拠に引かん事は誤りなり。(『安斎随華』)
 としている。
  律令の官職名は、事実、江戸時代までは、一部を欠くものの行われており、『公卿補任』等で確認することができる。江戸時代、京都の公家衆が、朝臣として叙位・任官にあずかることはよく知られているが、武家においても、例えば大名の嫡子が家督に際し従五位下、某国の守に任ぜられるように、権官とはいえ確かに任官しているのである。大岡越前守しかり、吉良上野介しかりで、上野国は親王任国ゆえ、親王以外は介が国司としての最上位であり、幕末の小栗上野介も亦その故実を守っているのである。
  こうした、酒井雅楽頭、遠山左衛門尉といった官名を、一般には通称と同列に見ているが、実は叙位任官によって与えられた正式の官職名なのである。
  そこで、叙位任官に至らぬ武士は、隼人とか主計とか、任官の際に必ず付される四等官(カミ・スケ・ジョウ・サカン)名のないものを使うようになり、更に浪人などは、官職名に似た「東百官」を名乗るようになるのである。
  このほか、先祖が「左衛門尉」に任ぜられたことにより、某左衛門を名乗るとか、「兵衛尉」に任ぜられたことから某兵衛を称するといったことは、よく知られており、ここでは省略する。
  三、夫婦別氏の話
 平成三年から足かけ六年、法制審議会の民法部会が「民法改正案」を審議し、法務大臣に答申したことは耳に新しい。それに伴い、〝夫婦別姓〟に関する論議がにわかに注目を集めるようになった。
  いわゆる〝夫婦別姓〟の「姓」は、ファミリー・ネームのことで、わが国では一般に「苗字」と呼んでおり、日本の民法では「氏」と称しているので、こだわる人は夫婦別氏と称する。
  周知の如く、日本で夫婦同氏が制度化されたのは、明治三十一年(一八九八)六月公布、七月施行のいわゆる「旧民法」をもって嚆矢とする。実熊としては、それに先行する戸籍法の趣旨が、一つの戸を一つの名で呼ぼうとする要請が強く、戸主(男子)の氏名で一戸を把握する方向性が生じていたことや、江戸時代すでに一つの家において主人(男子〉と他の家族の間に主従関係に近いものが醸成されていたことも大いに関係するが、明治三十一年民法の夫婦同氏は、ドイツ法継受の結果として生じたものである。
  一方、夫婦別氏願望は、使い慣れた姓氏を変えたくないとの考えに立つか、逆に強固な家制度を背景にもつ。
  本来「姓」は中国において宗族、つまり先祖を同じくする血縁集団(男系)の指標として重視され、「同姓不婚」のタブーを強固に守ってきたのである。例えば、中華民国で四大家族の一と称ざれた宋子文の姉妹の婚姻関係を見ると、すべて宋氏以外と結婚している。
   (姉)宋靄齢=孔祥?
   (姉)宋慶齢=孫文.
   (妹)宋美齢=蒋介石
  このように厳しい男系の家族制度を社会の根幹に据える中国ではあるが、「姓」が女偏に属するように、本来は母系制社会であった可能性は頗る大きい。夏は?姓、殷は子姓であるが、周は姫姓、秦は?姓で、他にも姜、?、?など、女偏の姓は古代中国において少なくない。それが、いつの頃か男系社会に大変貌を遂げると共に、より強固な男系の血縁原理を中核とする家族制度が成立したのである。
  ともあれ、儒教文化圏といわれる東アジア、東南アジアの国々で、日本を除き夫婦別姓が原則となっているのは、この伝統によるものと解される。
  一方、キリスト教文化圏であるヨーロッパ社会は、夫婦一体の原則が貫れており、夫婦同姓が一般化していた。英語ではMr.に所有を示すsを付けたのが既婚夫人の称号であり、ミセスの次には夫の姓名を用いた(近年、名は妻の名に変ってきたが)。その夫婦同姓の原則が崩れ、ミセスがミズになったのは、一九七〇年代の国連婦人の十年に伴う女子差別撤廃運動の結果である。一九七九年に国連総会で採択された「女子差別撤廃条約」一六条には、次の規定が見える。
 一 締約国は,婚姻及び家族関係に係るすべての事項について女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし,特に,男女の平等を基礎として次のことを確保する。
   g 夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む)
  かつて明治民法に影響を与えた一七九四年プロイセン一般ラント法の婚姻に関する規定、第二部一章四節(夫婦の権利義務〈人の関係〉)では、「妻は夫の姓Nameを手に入れ」(一九二条)「夫の身分の諸権利に……-参加する」(一九三条)とされていた。一九七〇年代以前のヨーロッパでは一般的な規定であるが、一九七六年に大改正され、日本の戦後民法並みに変貌を遂げたのである。
  イスラム文化圏では、正式名は夫婦別姓であり、某(夫の名)の妻で某(父の名)の娘といった形式をとるが、簡略形としては夫の姓を最後に付す欧米型夫婦同姓的表示が一般化している。
  しかし、アジア社会で注目されるのは、姓を持たない国の存在である。わが国の誇る北アジア言語社会学者田中克彦氏は、その著『名前と人間』の中で、次のような興味深い事実を紹介している。
 モンゴル人には本人の名前だけしかなく、姓はない。ただ第一線で活躍する男に、なぜかバトバヤル(バトは「堅固な」、バヤルは「喜び」)という名が多い。……社会民主党のイデオローグとなったバトバヤル、そして日本の相撲で「旭鷲山」となったバトバヤルである。かれらは必要なばあいにはそれぞれ、自分の名の上に父親の名をつけて区別している。……オリンピックに出場した選手たちは、自分たちの名が決して呼ばれず、その都度、父親、あるいは母親の名が世界じゅうに放送されるので、その当惑は大きなものであろう。
 イスラム文化圏の中にも姓のない国があり、アフリカにもあるが、アジアではミャンマー、インドネシア、ブルネイなどは姓がなく(華人を除く)、ラオス、カンボジア、タイなども近代以前においては姓がなかった(これまた華人を除く)。日本もおそらく、文献史料のない時代は無姓の国だったのであろう。少なくとも、一度たりとも中国のような宗族を維持するための家族制度が成立し、その指標としての姓を堅時するような国でなかったことは確かである。
  四、日本的特性
 日本は隣国に姓を重視する大国・中国をもち、古来交流を続けてきたが、韓国のように中国型姓を取り入れることはなかった。
 吉田孝氏は、倭の五王は中国において「倭」を姓とする蕃王として扱われていたと指摘する(『家の名・族の名・人の名』所収「天皇と姓」)。確かに『宋書』倭国伝には「倭讃」、「倭隋」、同文帝紀には「倭王倭済」とある。また、『隋書』倭国伝に「倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤」とあるのは有名であり、『翰苑』所引「魏略」などにも同様の記述がある。絶対的立場をもつ中国王朝へ朝貢する時代にあっては、無姓を貫くことはできなかったのであろう。中国の史書に姓を持たぬ蛮夷の王がない訣けではない。その中で日本は、中国では中国の制に服した。しかし国内的には姓を徹底することはなかった。元来、天皇・皇族は常に無姓であり、前近代の史料には各時代に亘って無姓の者が登場する。要は宗族が形成されなかったのである。
 源氏の棟梁源頼朝を支えたものは坂東八平氏を中心とする源氏以外の武士団であり、藤原氏は同族といえども排斥して、近衛と九条の系統のみが摂関となる先例を墨守し、徳川氏は外様の大大名に松平の称号を与えている。中世武家社会の惣領制は、中国の宗族に比べ、きわめて小さな集団であり、時に他氏をも取り込んでいる。これが日本の家制度の規模であり性格であると見てよかろう。
 加えて、養子について見ると、宗族を基本とし姓を重視する中国では、養子は原則として同姓の者でなければならない。しかし日本では、古来異姓養子を排斥する風習はない。血の連続よりも家職の継続に重きを置いてきたのである。
 そして、養子も含め、代々同じ通称を、名乗るとか、代々同じ家号で呼ばれるとかいった、小さな家単位の継続性に日本の特徴が認められるといってよかろう。この傾向性の中に、日本の家名・名字は位置づけられるのである。
 振り返ってみれば、日本は中国の制度を学習し、取り入れた。中国には姓、実名のほか、字があり号がある。江戸の文人であり狂歌師であった蜀山人は、『詩経』に自分の氏と同じ「大田」篇を見出し、名を覃、字を子耜、号を南畝とした。つまり「大田稼多し、既に種し既に戒め、既に備え乃ち事す。我が覃耜(するどいスキ)を以て、俶て南畝に載とす」に出典を求めたのである。実名は正式文書以外には用いない(更に、名を直接呼ばぬ、諱を臣下や子孫は用いないという習俗も知られている)ので、別に字が必要となるが、字と通称とは本来重複しているようなものである。したがって両者を同時に用いることはない。これらも、何でも取り入れ、何でも融合させる日本的受容であるといえよう。
 姓氏・名乗りの原則を知ることは、歴史の入口の一つであるが、その正しい理解は、諸外国との比較も含めて、歴史学の深奥に位置する大きな問題である。この雑文からその一端が窺えたなら幸いである。
                      (引用にあたり系図は省略した)
(C)本居宣長記念館

勢州奉行(両役所)

 勢州奉行は、寛永14年(1637)に置かれた。初め職名を松坂奉行と称したが、後に勢州役、勢州奉行と改称した。勢州領の民政、農政、財政全般を司る仕事をした。松坂町奉行は承応元年(1652)頃に置かれ、大年寄、町年寄などの町役人を指図して城下町の民事、刑事などを司る仕事をした。宝暦3年(1753)から勢州奉行は松坂町奉行と御船奉行を兼務した。元禄8年(1695)以降は1人増員し、月交代で執務したために「両役衆」とも言われた。勢州奉行、今の市役所のあたりにあった。安永3年4月、御両役衆の渋谷氏の屋敷で『古今集』を講釈したこともある。寛政6年の和歌山初出府の際、まずここから呼ばれて宣長は「お呼びですか」と出向いた。『寛政六年寅年九月若山行表向諸事扣』に「十四日、両役衆より呼ニ参ル【月番花房】」とある。そして和歌山への召喚状や関係書類を渡された。
(C)本居宣長記念館

世古中行(せこ・なかゆき)

 生没年不詳。初期の門人。名雅述(マサノブ)、通称喜兵衛、屋号黒部屋。また宣長の数少ない女流門人・荒木三野の叔父。

 松坂の「黒部屋」と言えば西町の醸造家の世古恪太郎も同じ屋号。恪太郎は維新の時には勤皇の志士として活躍し、明治になってからは宮内省の仕事をしていて、正倉院を初めて開けるときに天皇の勅使として奈良に赴いた。同一家系であろうと推測されるが未だ調べていない。
(C)本居宣長記念館

世尊寺の鐘・吉野三郎

 『菅笠日記』に、

 「世尊寺。ふるめかしき寺にて。大きなるふるき鐘など有」

とある。
 世尊寺は、廃仏毀釈で今はこの吉野三郎という鐘と石灯籠を遺すだけである。
 その解説板には、
「世尊寺跡・三郎鐘(重文)。いまは標注一つが、その昔ここに寺があった所だと伝えているにすぎませんが、この上の広場が世尊寺の跡です。明治8年(1875)廃仏の難に遭って廃寺となり、本尊とつり鐘、それに石灯籠だけが残りました。本尊の釈迦如来立像(鎌倉期)は蔵王堂に安置されており、また石灯籠は水分神社の前に残されています。上の丘に残るつり鐘は、俗に吉野三郎と称される名鐘で、初めてこの鐘が造られたのは保延6年(1140)で、平忠盛が鵜飼千斤を施入した旨の銘があり、忠盛が平家全盛時代を築いた清盛の父であるだけに当時のあつい信仰の様子がしのばれます。その後このつり鐘は永暦元年(1160)寛元三年(1245)にも改鋳されているので、現存のものは今からほぼ740年前のものということになります。」

 廃仏毀釈の激しかった奈良については、それ以前の様子を宣長の日記がよく伝えている。例えば、今は聖林寺に祀られる十一面観音像もその一つである。
                           名鐘「吉野三郎」
                   上千本から眺める吉野山風景。中央やや上が蔵王堂。
(C)本居宣長記念館

銭屋の看板

 『鈴屋大人都日記』石塚龍麿著に次の記事がある。

 「(享和元年五月)十七日雨ふる、かの柏淵来てこひ奉ればおのかつくれる書ともを、ことごとくたくはひおきてまめまめしく世にひろむる書あき人は、此柏淵某になもあるを、そのよしの歌よみて、えさせよとこふままによみてあたふとかき給ひて

能理奈賀かあらはせるふみえまくほりもとめむ人はこのやとひこね

 とよみてあたへ給へれはいたくよろこへり」

 宣長が宣伝用の歌を書いてやったのだ。
 「宣長が著せる書を得たい探したいと思うならここの店にいらっしゃい」
 柏淵は京都寺町通仏光寺下ル町にあった、華箋堂銭屋利兵衛。『漢字三音考』や『鈴屋集』など宣長の版本の刊記の売弘所によく名前が載る本屋である。
(C)本居宣長記念館

千家俊信(せんけ・としざね)

 明和元年(1764)~天保2年(1831)、享年68歳。通称、清主(スガヌシ)、家号、梅廼屋。出雲国造・千家第75代俊勝の次男。若い頃から、松江などで儒学を習い、京都で朱子学者・西依成斎に入門した。西依は隠岐国造・幸生の師で駅鈴調査を依頼された人だ。この成斎からは垂加神道も学んだようで、俊信の写本や、号「葵斎」(キサイ)の「葵」(アフヒ)も「負う日」(オフヒ)に通じるとする垂加神道、橘家神道の影響ではないかとされる。天明6年、23歳の時に、橘家神道を学ぶために伊予(愛媛県)の鎌田五根に入門するが、次第に「垂加神道」や「橘家神道」から離れ、宣長の古学に引きつけられていく。

 俊信には、『出雲風土記』研究という目標があった。同書は、祖先・第25代出雲国造出雲臣広島も編纂に加わっている。天明7年(1787)2月、遠江国(静岡県)の内山真龍(賀茂真淵門・宣長知人)により『出雲風土記解』が執筆された。その真龍の刺激や勧めもあって、寛政4年(1792)10月、29歳の時に宣長に入門する。
 入門後は、大変熱心に学び、寛政7年(1795)には、松坂に100余日滞在し師の講釈を聴講、同10年にも再訪した。
 また、寛政6年には、宣長高弟の小篠敏や沢真風を出雲に招いて講釈をさせたが、これはあまり成功しなかった。自らも松坂から帰国後は、塾を開き門弟の教導に当たり、出雲への鈴屋学を広めるのに功績があった。また、山陽方面にも影響を及ぼした。著作には『訂正出雲風土記』(文化3年刊)等。また、槍術、医学、天文にも詳しかった。
 その学問には、古典研究と言うより宗教家としての色が濃いが、宣長を尊敬すること誰よりも篤く、師からの手紙33通と、『古事記伝』執筆の時に使用した筆を神体に、自邸に玉鉾神社を創祠した。

  また、宗教家としての資質があったことは次の話からも伺える。
 深夜、出雲大社を参拝し、社を右廻しお釜の社付近に到ったら、髪を振り乱した女に出会った。そのまま通り過ぎて国造家まで来たら、その女に再び出会った。俊信は一喝して、帰宅後、家の者に追わせたら、それは老狐であった。
 寛政8年(1796)頃、自分の手のひらに「建玉」、また「玉」の字が出て、周囲の祝福をうけた。
  同年12月7日の宣長宛書簡で、この「掌の玉」一件について報告するが、宣長は、「そのようなことは、決して人に知られぬように秘密としたほうがよい」と忠告した(寛政9年3月11日付)。
  だが、宗教家としての俊信にとっては、大事なことなのであった。
 その後も「建玉」と言う名前を使用し、
 また、46歳(文化6・1809)年の時の画像にも、賛に、

   「くすしくも吾手のうらに玉ちはふ神の見わさを見るがたふとさ
          これかける時、 おのがとしは四十六、出雲宿禰俊信」

 とあり、立烏帽子に狩衣姿で貴公子然とした俊信は、左の手のひらを見せている。
  この画像は、出雲文化伝承館「出雲の文人墨客」(平成24年6月2日~7月8日)展で公開されている。
  同展覧会のチラシから紹介した。誤読があるかもしれない。また、画像の下には署名落款が有るがチラシからでは判読は困難である。いずれ確認し報告したい。

 【参考文献】
 「千家俊信の立場-附その阿波の弟子」城福勇(『わが残照-阿波郷土史研究-』私家版)
 同書に依れば、俊信の伝記には、『梅舎自記抜萃』千家尊澄著、『国学の泰斗千家俊信伝』本田常吉著がある。
(C)本居宣長記念館

千家俊信からもらった図

 この図は、「金輪造営図」と呼ばれる。『玉勝間』巻13「同社金輪の造営の図」に載る。その解説に、「此図、千家国造の家なるを、写し取れり」とある。寛政7年2月20日付俊信宛書簡に「金輪造営之図御認被下、千万辱拝見仕候」とあり、俊信が写して送ってくれたことがわかる。出雲大社に現存する図とは小異がある理由は不明。あるいは2種あったのだろうか。

 一枚の平面図から地形や建造物という立体物を想像する、また系図からそこに閉じこめられた時間の流れを読み解く。「図」を解読するのを宣長は得意とした。
 それが単なる「空想」に終わらないだけの、裏付けとなる歴史の知識があったことは当然である。
 地図を見たら昔の様子から今に至る地形の変化までありありと思い浮かべられる。
 いや、地図どころか、文章を見ても、単語一つからだって宣長には時間の流れと空間の広がりを見ることが出来たのだ。宣長は子どもの頃から「図」が好きだった。系図も地図も、また図解も好きで写したり、集めたり、自分でも作成している。

 図を読み解くのも、訓練と経験がものを言う。
 それと、高いところから眺めるのが好き、という宣長さんの高所志向も役に立ったのかもしれないね。

                      「金輪造営図」(『玉勝間』板本より)
(C)本居宣長記念館

先生

 宣長の先生は、手習いが西村三郎兵衛、斎藤松菊、岸江之仲。弓が浜田瑞雪。茶の湯が山村通庵。漢籍が正住院主、堀景山。歌が法幢、森川章尹、有賀長川。医学が堀元厚、武川幸順。そして国学が賀茂真淵である。
 宣長は『法事録』に、師の没した日を記し、感謝を忘れることはなかった。だが、一方では、師の説を直すということを主張し、また実践もしていた。
(C)本居宣長記念館

『宣命抄・続紀歴朝詔詞抄』

 宣長は宣命(センミョウ)研究の重要性に早くから着目し、師・真淵からもそれはよいことに気が付いたと誉められた。以後、『古事記伝』執筆に並行し宣命研究も続ける。記念館には宣長自らの手になる宣命の校訂本が残る。丁寧な文字で校訂し、一部には訓を付す。丁付(ノンブル)から3回に分けて書写し、合綴したことが分かる。この研究が後年『続紀歴朝詔詞解』としてまとまる(寛政11年起稿、同12年再稿出来、享和元年版下出来)。
 執筆過程を説明した大野晋氏は
  「多少注釈の業に携わったことのある者ならば、この作業が流れるように進捗していることに、ある美しさを感じるであろう」
と言う。そのいかにも無理のない執筆活動を支えたのが本書である。

 記念館所蔵本の書誌は次の通りである。
 1冊・本居宣長編。袋綴冊子装。薄卵色地横縞表紙。楮紙。縦27.3cm、横18.9cm。墨付81枚。外題「宣命抄」。内題「続紀歴朝詔詞抄」。蔵印「須受能屋蔵書」。本居記念館所蔵。
 【奥書】 「天明八年戊申五月五日、本居宣長」
 
                        『宣命抄 続紀歴朝詔詞抄』
(C)本居宣長記念館

専用箱

 専用箱が遺されるのは、

    『八代集抄』、
    『類題和歌集』2種、
    『古今類句』、
    『万葉集類句』、
    『万葉集略解』、
    『うつほ物語』、
    『鈴屋全集・百首歌』、
    『三玉集類題』、
    『栄花物語』、
    『二十一代集』、
    『源氏物語』、
    『延喜式』、
    『事文類聚』の13箱。

 中には、宣長没後のものも含まれる。
(C)本居宣長記念館

戦略

 宣長の生涯には、純粋に「学ぶ歓び」を追求した人と言う側面と、師から受け継いだ学問、つまり日本の古道を解明し、外国追随の文化伝統からの軌道修正をしようとする「古学」(国学)の伝統を守り、また普及させようとするもう一つの面があった。

 二つ目の、学問普及のための戦略家としても宣長は優れていた。
 まず、著書を執筆する。著書は、文書は平明で、論理の飛躍が無く、適切な比喩と必要にして充分なだけの論証資料が用意される。
 次に、その著書を出版する。その事でより広域の読者を獲得できる。契沖や真淵の著書が多く写本で普及したのとは大きな違いだ。
 著書への疑義、批判は歓迎した。質疑応答により、一層深い読者層を開拓し、また論争を通じて「古学(国学)」の立場を鮮明にした。

 また、正統な真淵門人であることを主張し、その学統の祖として契沖を置く。国学の伝統を明確にすることは、伝統を尊ぶ宣長には重要であった。また、儒学の真似をして出来てきたとか、新興の学問と軽視される批判をかわす意味もあった。このような批判は、本質を弁えない部外者の見方であるというような扱いを宣長はしない。相手が誰であっても手を抜くことなく、誠実に、また徹底して対処した。
 そのことは門人指導でも窺える。純粋な学問を求める門人への適切な指導や特別の講釈をする一方では、今のカルチャーセンターのような講釈や歌会を通じて、和歌や物語を愛好する門人も大事にして真剣に指導した。

 政治との関与の仕方にも注意を怠らなかった。学者の務めは道を明らかにすることであり、道を行うことではないと主張し、積極的な関与を避けた。一方では、紀州徳川家との関わりを保つことで、結果として、若い学問である「古学(国学)」への旧学問やそれを擁護する旧勢力の批判をかわすことに成功した。紀州家の認知を受けた宣長学には、幕府の役人といえども口を挟むことは出来なかった。
(C)本居宣長記念館

『草庵集玉箒』(そうあんしゅうたまははき)

 頓阿(トンア)の家集『草庵集』2,000余首の中から、352首を選び、先行する注釈書『草庵集蒙求諺解』、『草庵集難注』を批判しながら注釈する。
 嶺松院和歌会に加入して、松坂の歌人グループに入った宣長は、知り合った稲懸棟隆から『草庵集』の注釈書を見せられる。それを、『梅桜草の庵の花すまひ』と言う本で論評した。それを延長したのが本書である。明和4、5年(1767、8)頃脱稿。前編5巻3冊は明和5年、後編4巻2冊、『続草庵集玉箒』は遅れて天明6年(1786)に刊行した。

 宣長は本書の刊行を賀茂真淵に報告した。ところが師は、軽く無視をする。
「草庵集之注出来の事被仰越致承知候、併拙門ニ而ハ源氏迄を見セ候て、其外ハ諸記録今昔物語なとの類ハ見セ、後世の歌書ハ禁し候ヘハ可否の論に不及候、元来後世人の歌も学もわろきハ立所の低けれハ也」(明和6年正月27日付、宣長宛真淵書簡)。
 はいそうですか、刊行したのね、でも、うちではこんな本は見ませんので、頓阿なんかだめだよ。読むんだったら源実朝だね、と言ったところだ。

 芝山持豊卿が、宣長より贈られた『草庵集玉箒』の返礼に詠んで贈った歌がある。


   本居の翁の玉はゝきといへる文に玉詠をそへて贈られしを謝して 持豊

  玉はゝき手にとりもちて先ぞおもふ草の庵にちりはあらじと
  塵をなみあけぬ暮ぬとみれば実草の庵の玉はゝきかな
  ことのはの露さへそひて玉はゝき草の庵ぞきよらなりける
(C)本居宣長記念館

『双玉紀行』

 本書は、寛政6年(1794)、本居宣長が和歌山に行った時の紀行文『紀見のめぐみ』と、同行した大平の紀行文『なくさの浜つと』を併せて刊行した本。序によれば、柏屋・山口吉房の発案。序は本居建正(文化12年正月)。袋付(見返同・製本伊勢松阪文海堂)。刊記「須受能耶蔵板/弘所/京都寺町松原/勝村次右衛門他五店」。
(C)本居宣長記念館

増上寺真乗院

 増上寺は東京都港区芝にある浄土宗の寺院。浄土宗6大本山の一つ。三縁山広度院。もとは武蔵豊島郡貝塚の光明寺という真言宗寺院であったが、明徳4年(1393)聖聡が改宗して増上寺と改名。念仏布教の中心寺院となった。徳川家康の帰依を得て徳川家菩提寺となる。
 真乗院は今は跡形もない。僅かに古地図に名前を見るだけ。現在の東京タワー下辺りか。

 宣長の叔父察然和尚は、伝通院27世走誉連察に師事し、増上寺学寮蔡華楼を相続し、文照院6代家宣廟所真乗院の別当となり、増上寺役者を勤めたが宝暦14年2月28日寂す。詳蓮社審誉と号した(『樹敬寺誌』P79)。走誉上人は同書P22参照。蔡華楼が焼失したとき、村田家より檜材を贈り、伊勢国八田の古尊仏を納めたこと『宣長少年と樹敬寺』P75に見える。走誉上人についても同書の方が詳しい。

【参考文献】
『増上寺史料集』増上寺史料編纂所、続群書類従完成会発売。全11巻。1巻は「古文書」。3巻は「山門通規」。5,6,7,巻は「浄土宗寺院由緒書」で元禄9年全国6800箇寺院を収める。
(C)本居宣長記念館

蘇民将来(そみん・しょうらい)

 「蘇民将来」は、「備後国風土記(逸文)」など説話に登場する人物。
 伊勢地方には次のような話が伝わっている。

 昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が根の国に行こうとしてミタワの国まで来たが、そこで暴風雨に遭い困っていると蘇民将来が助けてくれた。命は感謝して、疫病が流行るから気を付けろと忠告し蘇民一家は難を逃れた。

 そこで、疫病除けなどのため「蘇民将来子孫の家」と札に書いて玄関に掛ける。
 三重県度会郡二見町にある松下社は、素戔嗚尊を祀り、当地では「蘇民の森」と呼ばれている。

 『本居宣長随筆』には、谷川士清の『日本書紀通証』が引かれる。士清説の大意は「備後国風土記、ほき内伝など、宿を蘇民将来に乞うのことあり。けだし素尊(スサノオノミコト)の生民を将来に蘇朔(再び生まれ変わらせる)するの寓言なり」。
 「蘇明将来」については、各書に記載がある。例えば、本間雅彦『牛のきた道 地名が語る和牛の足跡』(未来社・ニュー・フォークロア双書)など。

  伊勢地方のしめ縄については、藤原寛「三重県下のしめ縄 上」(『(伊勢)郷土史草』24号)や、『松阪市史』など各市町村史に詳しい。ちなみに私の家(松阪市笹川町)では、将棋の駒の形の板に、表に「蘇民将来子孫之家」、裏に「急々如律令」と書いた札をしめ縄の上に飾っている。この札は何十年来使用している。宣長の家のように毎年更新では無い。
(C)本居宣長記念館
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