『直霊』の諸本(なおびのみたま)
「大御国は、かけまくも畏き神祖天照大御神の御あれませる大御国にて、大御神大御手に天津璽を棒持(ササゲモタ)して、万千秋の長秋に、吾御子のしろしめさむ国なりと、ことよさして賜へりしまにまに、天雲のむかぶすかぎり、谷蟆(タニグク)のさわたるきはみ、皇御孫命の大御食国とさだまりて・・」
宣長の古道観を集約的に書いた『直霊』(ナオビノミタマ)の冒頭である。
『古事記伝』巻1にも載り、単行本でも出版された。その成立過程は次のようになる。
第1稿「道テフ物ノ論」(『古事記雑考 二』)明和4年までに成立)
第2稿「道云事之論」(『古事記伝 一』自筆再稿本)
第3稿『直霊』(奥書「明和八年十月十九日」)
最終稿『直毘霊』(『古事記伝 一』刊本・奥書「明和八年十月十九日」)
また本文(約1700文字)に注を添える形式は第2稿以降採られた。
用字は、第1稿は漢字片仮名。第2稿では本文は万葉仮名、注は漢字片仮名。第3稿、最終稿は本文、注とも漢字平仮名である。
市川鶴鳴の『まがのひれ』は、第2稿への批判であり、宣長が安永3年10月16日から11月30日にかけて13回にわたり講釈したのは『直霊』である。『日記』には「十六日 自今夕直霊(ナホビノミタマ)講尺、以二六十之夜為定日」とある。
また記念館の収蔵品には軸装された『直霊』がある。これは本文のみで注は付かない。また本文は別筆で、訂正が宣長筆とされている。実は、この訂正とは、『直霊』から『直毘霊』への改訂である。
宣長の古道観を集約的に書いた『直霊』(ナオビノミタマ)の冒頭である。
『古事記伝』巻1にも載り、単行本でも出版された。その成立過程は次のようになる。
第1稿「道テフ物ノ論」(『古事記雑考 二』)明和4年までに成立)
第2稿「道云事之論」(『古事記伝 一』自筆再稿本)
第3稿『直霊』(奥書「明和八年十月十九日」)
最終稿『直毘霊』(『古事記伝 一』刊本・奥書「明和八年十月十九日」)
また本文(約1700文字)に注を添える形式は第2稿以降採られた。
用字は、第1稿は漢字片仮名。第2稿では本文は万葉仮名、注は漢字片仮名。第3稿、最終稿は本文、注とも漢字平仮名である。
市川鶴鳴の『まがのひれ』は、第2稿への批判であり、宣長が安永3年10月16日から11月30日にかけて13回にわたり講釈したのは『直霊』である。『日記』には「十六日 自今夕直霊(ナホビノミタマ)講尺、以二六十之夜為定日」とある。
また記念館の収蔵品には軸装された『直霊』がある。これは本文のみで注は付かない。また本文は別筆で、訂正が宣長筆とされている。実は、この訂正とは、『直霊』から『直毘霊』への改訂である。
(C)本居宣長記念館
長井家
長井家は松坂湊町の豪商。先祖は武士で、永正8年(1511)、京都船岡山の合戦で討ち死にしたと伝える。その後、商人となり、最初は大名貸しや郷貸しを、やがて木綿を商った。 屋号は「大和屋」。江戸大伝馬町にあった新宅「長井惣兵衛店」の様子は『江戸名所図会』にも描かれる。松坂御為替組にも加入し、藩経済の一翼を担う。
この家に宣長の次女・美濃は嫁いだ。夫の名前は尚明。婚礼の時のごちそうは『美濃婚儀録』に宣長の筆で記される。
やがて夫婦は長井の同族・大泉家を嗣ぎ、その後やはり同族の小津家に移る。
写真は、来迎寺にある「長井家先祖暦(歴)代聖霊」碑。向かって右脇に、宣長の歌と、それを染筆した本居信郷の詞が書かれる。
「草のはら 思ひこがれて たづぬれば 跡はきえせぬ 船岡の露 宣長
定規居士永正八年船岡山の戦に討死せられし事など曾祖父翁此歌の詞書に委しく物し置れたれど事長ければここにはぶきつ、万延元年八月、長井道孝主の求によりて、本居信郷書」
万延元年は西暦1860年。信郷は宣長から4代目になる。
この家に宣長の次女・美濃は嫁いだ。夫の名前は尚明。婚礼の時のごちそうは『美濃婚儀録』に宣長の筆で記される。
やがて夫婦は長井の同族・大泉家を嗣ぎ、その後やはり同族の小津家に移る。
写真は、来迎寺にある「長井家先祖暦(歴)代聖霊」碑。向かって右脇に、宣長の歌と、それを染筆した本居信郷の詞が書かれる。
「草のはら 思ひこがれて たづぬれば 跡はきえせぬ 船岡の露 宣長
定規居士永正八年船岡山の戦に討死せられし事など曾祖父翁此歌の詞書に委しく物し置れたれど事長ければここにはぶきつ、万延元年八月、長井道孝主の求によりて、本居信郷書」
万延元年は西暦1860年。信郷は宣長から4代目になる。
大伝馬町長井惣兵衛店(江戸名所図絵)
(C)本居宣長記念館
長い署名
官位のない宣長の署名を長くするのは、自分の出自を書くしかない。
宝暦から明和にかけて奥書に長い署名がいくつか見える。
宝暦元年12月上旬「伊勢意須比飯高住本居栄貞」
(『大日本天下四海画図』袋題)
宝暦2年11月21日「神風伊勢意須比飯高/華風子本居栄貞」
(『枕詞抄』※これは追記したの可能性がある)
宝暦3年10月25日「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」
(『古今集序六義考』)
宝暦3年11月19日「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」(『讃岐典侍日記』)
宝暦4年3月2日 「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」(『古今余材抄』)
宝暦5年3月末つ方「神風伊勢意須比飯高/清春庵本居宣長」
(『武者小路儀同三司謌』)
宝暦6年6月2日「伊勢飯高/春庵本居宣長」 (『春秋左氏伝』)
宝暦6年7月26日「神風伊勢意須比飯高/本居春庵清宣長」
(『日本書紀』)
宝暦7年5月9日「神風伊勢意須比飯高/蕣庵本居宣長」 (『万葉集』)
宝暦7年6月8日「神風伊勢意須比飯高/清蕣庵」
(『潅頂唯授一子之大事』)
宝暦14年正月12日「神風伊勢意須比飯高/春庵本居宣長(花押)」
(『古事記』)
明和2年2月晦日「神風伊勢意須比飯高郡/蕣庵本居宣長(花押)」
(『紫家七論』)
伊勢人としての自覚の表れであろうか。
京都から帰郷後はほとんど使われなくなり、署名はシンプルになっていく。
宝暦から明和にかけて奥書に長い署名がいくつか見える。
宝暦元年12月上旬「伊勢意須比飯高住本居栄貞」
(『大日本天下四海画図』袋題)
宝暦2年11月21日「神風伊勢意須比飯高/華風子本居栄貞」
(『枕詞抄』※これは追記したの可能性がある)
宝暦3年10月25日「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」
(『古今集序六義考』)
宝暦3年11月19日「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」(『讃岐典侍日記』)
宝暦4年3月2日 「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」(『古今余材抄』)
宝暦5年3月末つ方「神風伊勢意須比飯高/清春庵本居宣長」
(『武者小路儀同三司謌』)
宝暦6年6月2日「伊勢飯高/春庵本居宣長」 (『春秋左氏伝』)
宝暦6年7月26日「神風伊勢意須比飯高/本居春庵清宣長」
(『日本書紀』)
宝暦7年5月9日「神風伊勢意須比飯高/蕣庵本居宣長」 (『万葉集』)
宝暦7年6月8日「神風伊勢意須比飯高/清蕣庵」
(『潅頂唯授一子之大事』)
宝暦14年正月12日「神風伊勢意須比飯高/春庵本居宣長(花押)」
(『古事記』)
明和2年2月晦日「神風伊勢意須比飯高郡/蕣庵本居宣長(花押)」
(『紫家七論』)
伊勢人としての自覚の表れであろうか。
京都から帰郷後はほとんど使われなくなり、署名はシンプルになっていく。
(C)本居宣長記念館
長崎
海外に開かれた窓であった長崎。宣長の所にも長崎からの情報はもたらされた。
中でも有名なのが、小篠敏のアルファベット図であり、またオランダ人が発音した五十音の報告である。報告は『玉勝間』巻2「五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事」に見ることが出来る。また上田秋成との論争『呵刈葭』など一連の論争でも、宣長が偏狭な排外主義者ではなかったことが窺える。
また、春庭が写した『長崎の図』が本居宣長記念館には収蔵される。 来訪者の中にも長崎人はいる。近藤羊蔵は氷砂糖などを持って2度来訪している。寛政12年正月3日には長崎でも有名な画家・石崎融思もやってきた。
中でも有名なのが、小篠敏のアルファベット図であり、またオランダ人が発音した五十音の報告である。報告は『玉勝間』巻2「五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事」に見ることが出来る。また上田秋成との論争『呵刈葭』など一連の論争でも、宣長が偏狭な排外主義者ではなかったことが窺える。
また、春庭が写した『長崎の図』が本居宣長記念館には収蔵される。 来訪者の中にも長崎人はいる。近藤羊蔵は氷砂糖などを持って2度来訪している。寛政12年正月3日には長崎でも有名な画家・石崎融思もやってきた。
(C)本居宣長記念館
中里常岳(なかざと・つねおか)
宝暦10(1760)頃~文化10(1813)3月17日没(享年54歳位)。
中里家は、松坂本町の富商。
通称大三郎、新三郎。号橿の屋。常岳は、中町に住するか。
実兄は長谷川常雄。弟は常秋、常国、常季。「中里五兄弟」と呼ばれ、全員が、宣長に入門した。
常岳は、宣長のもとには10代前半から通っていたか、安永2(1773)年以前入門43人の一人である。
☆ 常岳は新古今風が好みか
『鈴屋文集』下に「中里常岳が問ひけることに答へたる詞」が載る。
大意は、まず常岳の言うことはもっともなことで、好きでないことをやっても仕方がないものだ。
だが貴下は優秀で、何でも器用にこなす。とりわけ歌を詠むことでは、古風も近風も巧みに詠まれる。
その中でも、私の見る所、どうも「新古今」風が好みのようだ。ここに絞ったらどうだろうか。
「新古今集」を真似ることは容易なことではないが、新古今の歌人も自分も同じ人だと思って、 志を高く持ち、怠ることなく努めたら、結構良い所までいけるものだ、と励ます。
☆ 管弦趣味
宣長が、何でも器用にこなすと評した常岳だが、特に好んだのが、笛である。
「中里常岳が笛吹くことを好みて其師の家より浪龍丸といふ古き横笛を伝はり得たるに、
その家の庭なる橿(かし)の木を思ひよせて寿たる歌、
そのやど(家)の名を橿屋(かしのや)となむいへば
絶えせじな 吹く笛の名に 宿の名の 橿もなみたつ(並み立つ・浪龍) 音(ね・根)は長き世に」
『鈴屋集』巻3 ※『石上稿』寛政9年条
また、本居清嶋の「松園管弦会之序」に、
「こゝに中里の常岳主、若きほど都に物して遊びの道の博士に笛ふくことを習ひていみじく好み給ふまゝに、
いと妙なる音を吹いだしつゝ、年経て深く悟り物し給ふ事を、
此五六年ばかり先に、この主(後藤松園)聞きつけて、かの主の許に行きて、その笛吹わざを教へ給ひねと請れければ、
そは若きほどの戯れに吹きすさみたるにて、如何でかしか人にきかせ奉りなどせむことはと言へるを、
兎角言い唆されをれば、彼もとより好まぬ事にしもあらざれば、うけひきて、
まづ始めに拍子うちて譜歌ふことなどせらるゝほどに、
又そをまねばむと思ふ人三四人あれば其人々と共におのれも習ひて」
とあり、松坂の後藤家(松園)で、常岳を中心に管弦の会が立ち上がり、
やがては演奏会まで行われるほど盛んになっていく様子が描かれている。
中里家は、松坂本町の富商。
通称大三郎、新三郎。号橿の屋。常岳は、中町に住するか。
実兄は長谷川常雄。弟は常秋、常国、常季。「中里五兄弟」と呼ばれ、全員が、宣長に入門した。
常岳は、宣長のもとには10代前半から通っていたか、安永2(1773)年以前入門43人の一人である。
☆ 常岳は新古今風が好みか
『鈴屋文集』下に「中里常岳が問ひけることに答へたる詞」が載る。
大意は、まず常岳の言うことはもっともなことで、好きでないことをやっても仕方がないものだ。
だが貴下は優秀で、何でも器用にこなす。とりわけ歌を詠むことでは、古風も近風も巧みに詠まれる。
その中でも、私の見る所、どうも「新古今」風が好みのようだ。ここに絞ったらどうだろうか。
「新古今集」を真似ることは容易なことではないが、新古今の歌人も自分も同じ人だと思って、 志を高く持ち、怠ることなく努めたら、結構良い所までいけるものだ、と励ます。
☆ 管弦趣味
宣長が、何でも器用にこなすと評した常岳だが、特に好んだのが、笛である。
「中里常岳が笛吹くことを好みて其師の家より浪龍丸といふ古き横笛を伝はり得たるに、
その家の庭なる橿(かし)の木を思ひよせて寿たる歌、
そのやど(家)の名を橿屋(かしのや)となむいへば
絶えせじな 吹く笛の名に 宿の名の 橿もなみたつ(並み立つ・浪龍) 音(ね・根)は長き世に」
『鈴屋集』巻3 ※『石上稿』寛政9年条
また、本居清嶋の「松園管弦会之序」に、
「こゝに中里の常岳主、若きほど都に物して遊びの道の博士に笛ふくことを習ひていみじく好み給ふまゝに、
いと妙なる音を吹いだしつゝ、年経て深く悟り物し給ふ事を、
此五六年ばかり先に、この主(後藤松園)聞きつけて、かの主の許に行きて、その笛吹わざを教へ給ひねと請れければ、
そは若きほどの戯れに吹きすさみたるにて、如何でかしか人にきかせ奉りなどせむことはと言へるを、
兎角言い唆されをれば、彼もとより好まぬ事にしもあらざれば、うけひきて、
まづ始めに拍子うちて譜歌ふことなどせらるゝほどに、
又そをまねばむと思ふ人三四人あれば其人々と共におのれも習ひて」
とあり、松坂の後藤家(松園)で、常岳を中心に管弦の会が立ち上がり、
やがては演奏会まで行われるほど盛んになっていく様子が描かれている。
(C)本居宣長記念館
中山美石(なかやま・うまし)
安永4年(1775)10月10日~天保14年(1843)8月6日 享年69歳。大平門人。通称、弥助。号、梅園(ウメゾノ)。三河吉田藩士。文化2年(1805)8月の大平が吉田(現在の豊橋市)に来訪時に入門。同9年、藩主の命で執筆中の自著『後撰集新抄』に師の序を貰う。また同書を藩主へ献上した際には師の大平にも賜物があった。同14年、藩校時習館教授となり特命で国学を研究。気難しい性格であったが、学識は豊かで講筵も巧みで、代々の藩主の信任を得る。大平、内遠からも信頼され、義門の春庭批判の件で尽力し、大平末子楠吉(永平)を天保6年4月より10年正月まで預かり訓育した。著書に『梅園文集』、『三河国吉田領風俗大概』等があり、また、鈴木朖の『少女巻抄注』への書き入れが残る。
【参考文献】
「中山美石年譜考証」藤井隆『文莫』12号。
【参考文献】
「中山美石年譜考証」藤井隆『文莫』12号。
(C)本居宣長記念館
流れるように進む出版作業
『出雲国造神寿後釈』でもそうだが、書き始めたら流れるように滞ることなく執筆が進行し、また同時進行で出版作業も進められる。一応書いてしばらく時間を置いて考える、そんなことは宣長さんには必要なかったのかな。
『大祓詞後釈』と同時進行した出版作業は『美濃の家づと折添』、『出雲国造神寿後釈』、『新古今集美濃の家づと』、『古事記伝』、『馭戎慨言』、『玉勝間』、ほぼ完了していた本では『菅笠日記』がある。
既に稿が成っていたにしても、出版となると版下を書かねば成らず、見直しも必要だ。
宣長はいつも「最終目標」を目指している。目標達成のために、一つ一つを方付けて進むというやり方もあるが、宣長は常に複数の仕事を同時進行する方法を採った。それが互いに上手く連携を取り、粗製濫造とならないところが宣長の特質である。
『大祓詞後釈』と同時進行した出版作業は『美濃の家づと折添』、『出雲国造神寿後釈』、『新古今集美濃の家づと』、『古事記伝』、『馭戎慨言』、『玉勝間』、ほぼ完了していた本では『菅笠日記』がある。
既に稿が成っていたにしても、出版となると版下を書かねば成らず、見直しも必要だ。
宣長はいつも「最終目標」を目指している。目標達成のために、一つ一つを方付けて進むというやり方もあるが、宣長は常に複数の仕事を同時進行する方法を採った。それが互いに上手く連携を取り、粗製濫造とならないところが宣長の特質である。
(C)本居宣長記念館
名古屋
宣長の生涯で、京都が学問形成期の重要地点なら、学問普及の最重要地点は名古屋であるといってもよい。
先ず田中道麿の登場である。篤学で、万葉の鬼とまで言われた道麿が入門することで、宣長学は新たな展開を見せる。道麿は自分の門人を、結果として宣長に譲る。その中には、大館高門、加藤磯足や横井千秋もいたという。この人たちの加入で、門人層が厚みを増し、『古事記伝』を始め著作の出版が次々に具体化した。その時最先端で活躍したのが版木師・植松有信であり、書肆永楽屋東四郎であった。また、千秋は宣長に『古今集遠鏡』の執筆を依頼したり、また尾張徳川家への仕官を画策したりするが、人見◎邑等の妨害でことは成就しなかった。
次に、宣長と名古屋の係わりを略年譜で示そ。
先ず田中道麿の登場である。篤学で、万葉の鬼とまで言われた道麿が入門することで、宣長学は新たな展開を見せる。道麿は自分の門人を、結果として宣長に譲る。その中には、大館高門、加藤磯足や横井千秋もいたという。この人たちの加入で、門人層が厚みを増し、『古事記伝』を始め著作の出版が次々に具体化した。その時最先端で活躍したのが版木師・植松有信であり、書肆永楽屋東四郎であった。また、千秋は宣長に『古今集遠鏡』の執筆を依頼したり、また尾張徳川家への仕官を画策したりするが、人見◎邑等の妨害でことは成就しなかった。
次に、宣長と名古屋の係わりを略年譜で示そ。
安永6年(1777) 48歳
7月20日 田中道麿来訪し初めて対面する。道麿感動して帰る。
び
安永9年(1780) 51歳
1月 田中道麿再び来訪、門人となる。
天明4年(1784) 55歳
10月4日 田中道麿、名古屋の常瑞寺で没す。享年61歳。大館高門入門する。
天明5年(1785) 56歳
名古屋の横井千秋入門する。年の暮れより『古事記伝』出版計画が具体化する。
天明6年(1786) 57歳
10月14日 『古事記伝』巻2版下を名古屋の版木師に送る。
10月23日 『古事記伝』巻19手見せ彫り柏屋から届く。
天明7年(1787) 58歳
4月14日 真福寺本『古事記』で校合。
寛政元年(1789) 60歳
3月 名古屋行き。春庭、大平同行。目的は講義と、『古事記伝』刊行に尽力している横井、鈴木真実らと対面。版木師・植松有信入門。帰路、鈴鹿山辺の御井、能煩野等探索。宣長の講義を聴き名古屋の人感動する。
寛政3年(1791) 62歳
春頃 春庭(29歳)眼病にかかる。
8月10日 春庭、眼病治療のため尾張国馬嶋・明眼院へ行く。
11月10日 春庭帰宅。
寛政4年(1792) 63歳
閏2月22日 『古事記伝』第2帙(巻6~11)刊行。
3月5日 名古屋行き。吉川義信宣長像を描くか。
3月27日 帰宅。春庭も同行し、明眼院で再治療し4月23日帰宅。
12月3日 紀州侯に仕官(五人扶持)。
寛政5年(1793) 64歳
1月18日 『玉勝間』起稿。
1月24日 『古事記伝』巻34脱稿。『古事記』中巻部分の注が完成。
3月10日 上京。大坂、名古屋を経て4月29日帰宅。各所で講義。京都では芝山持豊卿に対面する。
9月中旬 『古今集遠鏡』稿本既に成る。
寛政6年(1794) 65歳
3月29日 名古屋行き。同所で講釈をし4月26日帰宅。名古屋門人・鈴木朖も同道するか。
5月17日 遍照寺歌会。鈴木朖出席し、会の様子を漢文で記録する。
7月20日 田中道麿来訪し初めて対面する。道麿感動して帰る。
び
安永9年(1780) 51歳
1月 田中道麿再び来訪、門人となる。
天明4年(1784) 55歳
10月4日 田中道麿、名古屋の常瑞寺で没す。享年61歳。大館高門入門する。
天明5年(1785) 56歳
名古屋の横井千秋入門する。年の暮れより『古事記伝』出版計画が具体化する。
天明6年(1786) 57歳
10月14日 『古事記伝』巻2版下を名古屋の版木師に送る。
10月23日 『古事記伝』巻19手見せ彫り柏屋から届く。
天明7年(1787) 58歳
4月14日 真福寺本『古事記』で校合。
寛政元年(1789) 60歳
3月 名古屋行き。春庭、大平同行。目的は講義と、『古事記伝』刊行に尽力している横井、鈴木真実らと対面。版木師・植松有信入門。帰路、鈴鹿山辺の御井、能煩野等探索。宣長の講義を聴き名古屋の人感動する。
寛政3年(1791) 62歳
春頃 春庭(29歳)眼病にかかる。
8月10日 春庭、眼病治療のため尾張国馬嶋・明眼院へ行く。
11月10日 春庭帰宅。
寛政4年(1792) 63歳
閏2月22日 『古事記伝』第2帙(巻6~11)刊行。
3月5日 名古屋行き。吉川義信宣長像を描くか。
3月27日 帰宅。春庭も同行し、明眼院で再治療し4月23日帰宅。
12月3日 紀州侯に仕官(五人扶持)。
寛政5年(1793) 64歳
1月18日 『玉勝間』起稿。
1月24日 『古事記伝』巻34脱稿。『古事記』中巻部分の注が完成。
3月10日 上京。大坂、名古屋を経て4月29日帰宅。各所で講義。京都では芝山持豊卿に対面する。
9月中旬 『古今集遠鏡』稿本既に成る。
寛政6年(1794) 65歳
3月29日 名古屋行き。同所で講釈をし4月26日帰宅。名古屋門人・鈴木朖も同道するか。
5月17日 遍照寺歌会。鈴木朖出席し、会の様子を漢文で記録する。
(C)本居宣長記念館
なぜ正座をしないのですか
どうして普段しなかった趺坐のスタイルでこの像を描いたのだろう。
以前、ローレンス・マルソー氏は記念館での講演で、このスタイルの類似する先行事例として、挿絵の建部綾足像を挙げられたが、実はこの鏡を左前方に置いた形で描き、趺坐し両手を袖に隠すという形式は、例えば杉山杉風描く芭蕉像など、近世肖像画では間々見られる。だから、モデルとなる絵があったことは充分考えられる。
だがそれ以上に、点景を廃した時の画像の安定感からこのスタイルを選択したと考えた方がよいと思う。その選択は正しく、堂々たる自信に満ちた宣長像が完成したのである。
以前、ローレンス・マルソー氏は記念館での講演で、このスタイルの類似する先行事例として、挿絵の建部綾足像を挙げられたが、実はこの鏡を左前方に置いた形で描き、趺坐し両手を袖に隠すという形式は、例えば杉山杉風描く芭蕉像など、近世肖像画では間々見られる。だから、モデルとなる絵があったことは充分考えられる。
だがそれ以上に、点景を廃した時の画像の安定感からこのスタイルを選択したと考えた方がよいと思う。その選択は正しく、堂々たる自信に満ちた宣長像が完成したのである。
(C)本居宣長記念館
夏目甕麿(なつめ・みかまろ)
安永2年(1773)5月5日~文政5年(1822)5月5日。遠江浜名郡白須賀の名主で酒造業を営む家に生まれた。名は英積。通称、小八、嘉右衛門。号、萩園など。寛政2年(1790)名主職を継ぎ、同9年、内山真龍に、同10年、本居宣長に、また享和元年には本居春庭に入門する。文化11年(1814)隠居。文政元年、『鈴屋大人都日記』などの出版費用を負担。同2,3年近畿の山陵研究をするが、同5年伊丹の昆陽池で水死。船から月を取ろうとしたのだという。墓は三河吉田普門寺、摂津伊丹正覚院。子供が加納諸平。交友のあった人で異色は司馬江漢。弟子は八木美穂など。
(C)本居宣長記念館
七見峠
霧に煙った七見峠を越えて、宣長一行は、旧青山町(今の伊賀市)から、名張市新田へと進む。峠の名前は、阿保の七里が見えるからだという。だが、決して高い峠ではない。今はゴルフ場になっていて旧道をたどることは出来ない。
それから23年後。寛政7年(1795)4月末、悲しみに打ちひしがれた春庭兄弟もここを通る。失明した春庭の治療のために、切畑村へ行くのは、春庭と弟・春村、妹・飛騨である。春庭の歌が残る。
「ふる雨に名のみ七見の峠にてそこともみえぬ阿保のむらむら 春庭 此峠を七見峠と云は阿保の七村を見おろすによりていふといへり」
見えぬのは雨のせいだけではなかったはずだ。
それから23年後。寛政7年(1795)4月末、悲しみに打ちひしがれた春庭兄弟もここを通る。失明した春庭の治療のために、切畑村へ行くのは、春庭と弟・春村、妹・飛騨である。春庭の歌が残る。
「ふる雨に名のみ七見の峠にてそこともみえぬ阿保のむらむら 春庭 此峠を七見峠と云は阿保の七村を見おろすによりていふといへり」
見えぬのは雨のせいだけではなかったはずだ。
「七見峠の道」
(C)本居宣長記念館
らんさんと和歌子さんの会話
ら ん 人が集まっているけど、これはなに?
和歌子 「鈴屋円居の図」と呼ばれている絵で、明和年間の宣長とその仲間です。厳密に言えばこの名称は問題があるけど、わかるかな。
ら ん わからないよ。
和歌子 「鈴屋」は本来書斎の名前なの。書斎を増築したのは天明2年(1782)。明和年間は1764年から72年までだから、「鈴屋」は存在しなかったことになるでしょう。
ら ん じゃあ、どう呼ぶの?
和歌子 実は松阪市魚町の旧家にね、このもとになった絵が伝わっているの。それの名前は「明和年間本居社中歌仙像」で、長いけどこちらの方が正確ね。
でも「鈴屋円居の図」は文政10年(1813)に大平が昔を懐かしんで写させたもの。宣長先生の若かった頃は楽しかったなあ。でもみんな死んじゃったなあ・・・と言う気持ちで写したのだから、広い意味ではまちがいではないの。だって須賀直見は「鈴屋」増築以前に亡くなっているけど、「鈴屋門人」って呼んでいるのと同じでしょ。「鈴屋」というのは宣長先生の代名詞なのよ。
ら ん この人たち変な服着ているね。
和歌子 違う服着た人がいるでしょ。
ら ん 色かな。
和歌子 色ではなくって形。
ら ん よくわからないけど、黒い色の二人かな。
和歌子 そう。正面を向いている人、髪の毛ないでしょ
和歌子 「鈴屋円居の図」と呼ばれている絵で、明和年間の宣長とその仲間です。厳密に言えばこの名称は問題があるけど、わかるかな。
ら ん わからないよ。
和歌子 「鈴屋」は本来書斎の名前なの。書斎を増築したのは天明2年(1782)。明和年間は1764年から72年までだから、「鈴屋」は存在しなかったことになるでしょう。
ら ん じゃあ、どう呼ぶの?
和歌子 実は松阪市魚町の旧家にね、このもとになった絵が伝わっているの。それの名前は「明和年間本居社中歌仙像」で、長いけどこちらの方が正確ね。
でも「鈴屋円居の図」は文政10年(1813)に大平が昔を懐かしんで写させたもの。宣長先生の若かった頃は楽しかったなあ。でもみんな死んじゃったなあ・・・と言う気持ちで写したのだから、広い意味ではまちがいではないの。だって須賀直見は「鈴屋」増築以前に亡くなっているけど、「鈴屋門人」って呼んでいるのと同じでしょ。「鈴屋」というのは宣長先生の代名詞なのよ。
ら ん この人たち変な服着ているね。
和歌子 違う服着た人がいるでしょ。
ら ん 色かな。
和歌子 色ではなくって形。
ら ん よくわからないけど、黒い色の二人かな。
和歌子 そう。正面を向いている人、髪の毛ないでしょ
ら ん うん。全然無いね。
和歌子 実はお坊さん。着ているのは墨染め衣。
原本では袈裟だってすぐに分かるわよ。
和歌子 実はお坊さん。着ているのは墨染め衣。
原本では袈裟だってすぐに分かるわよ。
「明和年間本居社中
歌仙像」 戒言アップ
歌仙像」 戒言アップ
和歌子 向かって左の黒い人は、これが宣長先生。着ているのは「十徳」、描いてあるとほとんど羽織と変わらないけど。昔のお医者さんはこれを着ていたの。
さて、緑や薄い水色の着物、これはお公家さんたちが着た「狩衣」という着物だろうと言われているの。頭に被っているのは「風折烏帽子」。
ら ん じゃあこの人たち貴族なの!
和歌子 ううん。松坂の商店主さんよ。
ら ん ???
和歌子 歌を詠むときに、まず形からってわけ。和歌は『万葉集』の時代には庶民も詠んでいたけど、平安時代になってお公家さんの専有物化して洗練されたでしょ。宣長たちの理想としたのはその時代の和歌。だから格好も似せたわけ。
ら ん 「姿は似せがたく、意は似せやすし」ね。
和歌子 とんでもないこと知ってるね。
ら ん 大学の入試問題で出たのよ。
ねえ、松坂の商店主さんたちは歌を詠むときいつもこんな着物着たの?
和歌子 正月の歌会の時くらいだと思うよ。
ら ん 和歌会の規定はないの。
和歌子 ずっと後、宣長先生が亡くなる直前には、普段の講釈や歌会は羽織、袴着用。正月の講釈(年始開講)は先生は十徳。他は麻裃。正月の歌会は先生が居士衣で、それぞれ身分相応の礼服、また麻裃とか袴に決められたけど。
ら ん 狩衣って本当に着てたの?
和歌子 宣長やお坊さんの着物を描き分けているから、本当かもしれないわよ。松坂の商人って江戸で稼いで、遊びは京都風だから、理想は京都よ。
ら ん 宣長さんも京都が好きだもんね。
和歌子 そうよ。
ら ん 何か紙を持っているわね。
和歌子 歌を書く懐紙でしょうね。自分の歌か人の歌を眺めて考えているのかしら。
ら ん よそ見している人もいるよ。描かれている人の名前はわかるの?
和歌子 上の歌が対応しているからわかるのよ。向かって右から村坂高行、長谷川常雄、稲懸茂穂(大平)、竹内元之、戒言、世古中行、須賀直見、宣長、稲懸棟隆。みんな嶺松院歌会のメンバーよ。
さて、緑や薄い水色の着物、これはお公家さんたちが着た「狩衣」という着物だろうと言われているの。頭に被っているのは「風折烏帽子」。
ら ん じゃあこの人たち貴族なの!
和歌子 ううん。松坂の商店主さんよ。
ら ん ???
和歌子 歌を詠むときに、まず形からってわけ。和歌は『万葉集』の時代には庶民も詠んでいたけど、平安時代になってお公家さんの専有物化して洗練されたでしょ。宣長たちの理想としたのはその時代の和歌。だから格好も似せたわけ。
ら ん 「姿は似せがたく、意は似せやすし」ね。
和歌子 とんでもないこと知ってるね。
ら ん 大学の入試問題で出たのよ。
ねえ、松坂の商店主さんたちは歌を詠むときいつもこんな着物着たの?
和歌子 正月の歌会の時くらいだと思うよ。
ら ん 和歌会の規定はないの。
和歌子 ずっと後、宣長先生が亡くなる直前には、普段の講釈や歌会は羽織、袴着用。正月の講釈(年始開講)は先生は十徳。他は麻裃。正月の歌会は先生が居士衣で、それぞれ身分相応の礼服、また麻裃とか袴に決められたけど。
ら ん 狩衣って本当に着てたの?
和歌子 宣長やお坊さんの着物を描き分けているから、本当かもしれないわよ。松坂の商人って江戸で稼いで、遊びは京都風だから、理想は京都よ。
ら ん 宣長さんも京都が好きだもんね。
和歌子 そうよ。
ら ん 何か紙を持っているわね。
和歌子 歌を書く懐紙でしょうね。自分の歌か人の歌を眺めて考えているのかしら。
ら ん よそ見している人もいるよ。描かれている人の名前はわかるの?
和歌子 上の歌が対応しているからわかるのよ。向かって右から村坂高行、長谷川常雄、稲懸茂穂(大平)、竹内元之、戒言、世古中行、須賀直見、宣長、稲懸棟隆。みんな嶺松院歌会のメンバーよ。
ら ん 次は宣長さんね。
和歌子 でも原本とは少し顔が違うの。
ら ん へえー、若い。
和歌子 どちらが近いかはわからないけど、大平のは自分の心の中の先生像で少し理想化されているかもしれません。着物は十徳といって医者としての正装であることは先程言ったとおりです。鈴屋衣はまだ着てないですね。でももうあったはずですけど。
和歌子 どちらが近いかはわからないけど、大平のは自分の心の中の先生像で少し理想化されているかもしれません。着物は十徳といって医者としての正装であることは先程言ったとおりです。鈴屋衣はまだ着てないですね。でももうあったはずですけど。
「鈴屋円居の図」
宣長アップ
宣長アップ
ら ん 稲懸棟隆は大平のお父さんね。
和歌子 棟隆は享保15年正月19日に生まれました。宣長先生と同い年です。本姓は山口氏。通称は安次郎。十兵衛。稲懸家の養子となり、須賀直見から譲られた豆腐の道具で豆腐屋を開業しました。なかなか学問もあり面白い人で、本町の家も凝った造りで、宣長の文章が遺っています。寛政12年に亡くなりました。享年は71歳です。
ら ん 宣長さんって豆腐が好きだったて聞いたけどほんと?
和歌子 先生は普段から粗食で、好きだったというのは本当みたいよ。
でもその事と棟隆とは関係があるかしら?
ら ん 豆腐のお得意さんが魚町の本居春庵さんなんてね。
和歌子 「もののあわれ」って知ってるでしょう。実はね、宣長先生は、自分が「もののあわれ」と言うことを考えだしたは、松坂の歌会で知り合った人からの質問がきっかけだったと言っているの。私は、質問者はどうも棟隆だった気がするの。確証はないけど。でもね、宣長が松坂に帰ってきて、歌会で知り合った人の中で、歌の学問「歌学」面で一番影響を受けたのがこの棟隆みたいよ。最初に『草庵集』という本を持ってきて論評しろと言ったのも彼よ。宣長も自分で写した『源氏論議』を贈呈したりしているし。
ら ん こうやって集まって歌を詠むのね。
和歌子 そう宣長先生は集まることが好きだったみたい。書斎で一人で考える時間も長かったけど、みんなでワイワイガヤガヤも結構多かったようね。
ら ん それでよく勉強できたはね。頭よかったんだ。
和歌子 頭はよかったとは思うけれど、このように集まることをむしろ学問にまでつないでいける、つまり「集まる」ことを積極的に活用するところに宣長先生の学問のポイントがあるのよ。
和歌子 ところで今度は私が聞きたいのだけど、らんさんはどうしてこの絵に興味を持ったの?
ら ん 江戸時代、「集合図」とでも言うのかな、例えば俳諧だとか儒学とかで一つのグループを描くというモチーフがあったの。中でも有名なのが「芝蘭堂新元会図」(早稲田大学図書館所蔵)といって、ウニコール(一角獣)の絵を前に大槻玄沢等たくさんの蘭学者が楽しくやっている絵だけど、このような「集合図」にはまったく同時代の人を集めた場合と、時代を無視して同じ学問や流派に属する人を集めた物、更に同時代だけども実際には集まってないもの、つまり架空図もあるの。古くから「群仙図」とか。公卿や歌仙を描く画題というのはあるけど、江戸時代の中頃には随分流行したみたい。ちょっと面白いかな、調べてみようかな、なんて思ったの。
和歌子 確かに宣長先生だけでなく、あの頃の人ってよく集まるし、また「名所図絵」等図解の流行ともまんざら無関係ではないかもしれないわね。
ら ん 図解するって面白いね。
(C)本居宣長記念館
名前
宣長は、26歳までは「宣長」ではない。実は、これは宣長に限った話ではない。多くの歴史上の人物は、一番活躍した時期の名前で総称される。
昔の人、特に男性には名前がたくさんある人が多い。
一方、男性に比べて女性はあまり改めない。例えば、宣長の奥さんは「たみ」で結婚後「勝」(カツ)となるが、せいぜいこれ位だ。飛騨や美濃など、ずっとそのままだ。
さて、宣長の場合だが、幼名は富之助、その後、弥四郎と改める。これが通称となり、更に健蔵と改める。名は栄貞(ヨシサダ、後にナガサダ)、26歳で医者になってから宣長と名乗った。号は舜庵(春庵、蕣庵)、仕官してからは中衛。この他にもある。TPOとでも言ったらいいのだろうか、年齢や名乗る場面に応じて様々使い分けている。
姓も最初は「小津」だが、後にはこれは屋号だからと、「本居」に改め、さらに出自を表す本姓は、「清原」、後に「平」を使用する。
栄貞や宣長という名は諱(イミナ)とも言い、普段は余り使わない。まして、人が呼ぶ時には失礼だからと通称や号を使用する。「宣長」とは自分で名乗ることはあるが、他人からは「春庵様」、あるいは「鈴屋大人」などと呼ばれる。
宣長から離れて、名前について一般的な解説書はたくさんあるが、ここでは比較的分量が短く内容の充実する「姓氏の話 姓氏・名乗、あれこれ」を許可を得て掲出する。著者は、法制史家・嵐義人先生である。
この中で「の」を入れるか否かのことが話題となっている。宣長の場合は、「平宣長」の時は「タイラの」(文詞や祝詞など)、また「本居宣長」は、「氏の揚合(家名・苗字等)には「の」は付かない」という原則からはずれるが、たとえば『手向草』序など、「モトオリの」と入れて読んでいたようである。
昔の人、特に男性には名前がたくさんある人が多い。
一方、男性に比べて女性はあまり改めない。例えば、宣長の奥さんは「たみ」で結婚後「勝」(カツ)となるが、せいぜいこれ位だ。飛騨や美濃など、ずっとそのままだ。
さて、宣長の場合だが、幼名は富之助、その後、弥四郎と改める。これが通称となり、更に健蔵と改める。名は栄貞(ヨシサダ、後にナガサダ)、26歳で医者になってから宣長と名乗った。号は舜庵(春庵、蕣庵)、仕官してからは中衛。この他にもある。TPOとでも言ったらいいのだろうか、年齢や名乗る場面に応じて様々使い分けている。
姓も最初は「小津」だが、後にはこれは屋号だからと、「本居」に改め、さらに出自を表す本姓は、「清原」、後に「平」を使用する。
栄貞や宣長という名は諱(イミナ)とも言い、普段は余り使わない。まして、人が呼ぶ時には失礼だからと通称や号を使用する。「宣長」とは自分で名乗ることはあるが、他人からは「春庵様」、あるいは「鈴屋大人」などと呼ばれる。
宣長から離れて、名前について一般的な解説書はたくさんあるが、ここでは比較的分量が短く内容の充実する「姓氏の話 姓氏・名乗、あれこれ」を許可を得て掲出する。著者は、法制史家・嵐義人先生である。
この中で「の」を入れるか否かのことが話題となっている。宣長の場合は、「平宣長」の時は「タイラの」(文詞や祝詞など)、また「本居宣長」は、「氏の揚合(家名・苗字等)には「の」は付かない」という原則からはずれるが、たとえば『手向草』序など、「モトオリの」と入れて読んでいたようである。
(C)本居宣長記念館
奈良
宣長と奈良の関わりは飛鳥、吉野が中心で、北の方、例えば平城京一帯はあまり知られていない。
宝暦7年(1757)10月3日、京都遊学を終えた宣長は帰郷のため清兵衛と供2人を伴い京を出立し、木津川を渡り、般若坂を越え大和に入る。奈良ではまず東大寺に参詣した。大きさでは京都の方が大きいが、再興間もない奈良の大仏はきれいで、また場所も景色のよいところと感想を述べている。また春日大社では、灯籠の数や、近くの木にいた猿の数に驚き、また鹿と戯れている。興福寺は享保2年(1717)の大火で焼失したままであったが、猿沢の池周辺の景色には「えもいはずすぐれたる景色也」と驚き、「我がみかど六十余国のうちに、此興福の南大門を出たる所の光景にならぶ所はなしとかや」と書き、南大門があったならさぞ立派な景色であろうと嘆いている。
翌日はまだ暗い内に出立し、提灯の明かりで軒下の鹿を見て驚き、もっとゆっくり奈良をみたいものだと嘆息。その後、三輪で昼を食べて、三輪明神、長谷寺に参詣、初瀬に泊った。
次の奈良訪問は、享和元年(1801)の和歌山からの帰途で、2月26日、大坂から立田山を越えて奈良に入った。法隆寺を参詣し、奈良に出て春日大社、東大寺、興福寺に参詣。その夜は奈良泊まり。次の日は眉間寺に参詣するが、この時の関心は専ら古墳である。石上神宮に参詣し、長谷を経て大和に別れを告げた。
宝暦7年(1757)10月3日、京都遊学を終えた宣長は帰郷のため清兵衛と供2人を伴い京を出立し、木津川を渡り、般若坂を越え大和に入る。奈良ではまず東大寺に参詣した。大きさでは京都の方が大きいが、再興間もない奈良の大仏はきれいで、また場所も景色のよいところと感想を述べている。また春日大社では、灯籠の数や、近くの木にいた猿の数に驚き、また鹿と戯れている。興福寺は享保2年(1717)の大火で焼失したままであったが、猿沢の池周辺の景色には「えもいはずすぐれたる景色也」と驚き、「我がみかど六十余国のうちに、此興福の南大門を出たる所の光景にならぶ所はなしとかや」と書き、南大門があったならさぞ立派な景色であろうと嘆いている。
翌日はまだ暗い内に出立し、提灯の明かりで軒下の鹿を見て驚き、もっとゆっくり奈良をみたいものだと嘆息。その後、三輪で昼を食べて、三輪明神、長谷寺に参詣、初瀬に泊った。
次の奈良訪問は、享和元年(1801)の和歌山からの帰途で、2月26日、大坂から立田山を越えて奈良に入った。法隆寺を参詣し、奈良に出て春日大社、東大寺、興福寺に参詣。その夜は奈良泊まり。次の日は眉間寺に参詣するが、この時の関心は専ら古墳である。石上神宮に参詣し、長谷を経て大和に別れを告げた。
(C)本居宣長記念館
南海の鎮(しずめ)・和歌山城
「和歌山は南海の鎮」とは10代藩主治宝の言葉だが、その拠点が和歌山城である。
天正13年(1585)、鉄砲で最後まで抵抗した雑賀(サイカ)衆を屈服(この時には氏郷も従軍している)させた秀吉が、自ら縄張りを指揮し、城造り名人の藤堂高虎らに築城させた。その後、秀吉の弟秀長が貰い、家臣桑山重晴に城代を勤めさせた。慶長5年(1600)年には浅野幸長(ヨシナガ)が入城。そして元和5年(1619)、家康の10番目の子ども頼宣(ヨリノブ)が自ら志願し西国の平和を守るため入城した。これが紀州徳川家初代南龍公である。因みに、松坂の黒田新田の開発なども南龍公の時。
だが、その和歌山城も、幕末に落雷で天守炎上、再現されたものの太平洋戦争でまた燃え、今、当時の建物は、岡口門と追廻門を遺すだけである。ただ、宣長当時の城の様子は『紀伊国名所図会』に載っている。上には「鈴屋集、名草山より仰ぎみて、はろばろと わかの浦わの 磯山に つきのよろしき 若山の御城 本居宣長」と書かれている。
天正13年(1585)、鉄砲で最後まで抵抗した雑賀(サイカ)衆を屈服(この時には氏郷も従軍している)させた秀吉が、自ら縄張りを指揮し、城造り名人の藤堂高虎らに築城させた。その後、秀吉の弟秀長が貰い、家臣桑山重晴に城代を勤めさせた。慶長5年(1600)年には浅野幸長(ヨシナガ)が入城。そして元和5年(1619)、家康の10番目の子ども頼宣(ヨリノブ)が自ら志願し西国の平和を守るため入城した。これが紀州徳川家初代南龍公である。因みに、松坂の黒田新田の開発なども南龍公の時。
だが、その和歌山城も、幕末に落雷で天守炎上、再現されたものの太平洋戦争でまた燃え、今、当時の建物は、岡口門と追廻門を遺すだけである。ただ、宣長当時の城の様子は『紀伊国名所図会』に載っている。上には「鈴屋集、名草山より仰ぎみて、はろばろと わかの浦わの 磯山に つきのよろしき 若山の御城 本居宣長」と書かれている。
(C)本居宣長記念館
『紀伊国名所図会』「和歌山城」
新玉津嶋神社(にいたまつしまじんじゃ・京都市下京区玉津島町)
堀景山の住居から約5分室町通りを南下し、松原通りを烏丸通側、つまり東側に折れてすぐにある。今は小祠だが、この社は藤原定家の父俊成が自邸内に祀ったという由緒があり、元禄年間には国文学者北村季吟が祠官を勤めた。若き日の松尾芭蕉が、藩主の用向きでここを訪れ、季吟の弟子になったと言うエピソードも伝えられる。
石柱「北村季吟先生遺蹟、昭和三十一年十一月建之、新村出書、某」。
宣長は宝暦2年9月22日、『史記』会の後、和歌を習うため、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門する。但し、本人不在で子息に会う。帰路、対面する。
森河章尹は、寛文10年6月18日生。若い時から新玉津嶋社司であった北村季吟に学び、同社に奉仕、元文5年11月24日正六位下に叙せられ、寛延元年12月26日対嶋守に任じ、宝暦12年10月22日(筑摩版全集補注では6月18日)卒。享年93歳。(『文学遺跡巡礼・国学篇第二輯』・P186頁)。
石柱「北村季吟先生遺蹟、昭和三十一年十一月建之、新村出書、某」。
宣長は宝暦2年9月22日、『史記』会の後、和歌を習うため、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門する。但し、本人不在で子息に会う。帰路、対面する。
森河章尹は、寛文10年6月18日生。若い時から新玉津嶋社司であった北村季吟に学び、同社に奉仕、元文5年11月24日正六位下に叙せられ、寛延元年12月26日対嶋守に任じ、宝暦12年10月22日(筑摩版全集補注では6月18日)卒。享年93歳。(『文学遺跡巡礼・国学篇第二輯』・P186頁)。
「新玉津嶋神社」
(C)本居宣長記念館
『にいまなび』
宣長の長男、春庭が13歳の時に写した。春庭には最初の写本である。
本書は、賀茂真淵が、万葉主義の立場から歌を論じ、また、具体的に古学(国学)の学習法を説く。「皇朝のいにしへを尽くして後に神代の事をばうかがひつべし」という一節は、宣長宛書簡でも「人代を尽て神代をうかゞふべく」(明和6年5月9日付)と強調される所である。春庭の学問の第一歩に相応しい本である、
記念館本の書誌は、本居春庭写。袋綴冊子装。薄卵色地刷毛目表紙。寸法、縦26.8cm、横17.9糎。10行。墨付16枚。外題(題簽・宣長筆)「にひまなび」。内題無。蔵書印「鈴屋之印」。
【奥書】
「明和二年七月十六日に賀茂真淵かしるしぬ」。「安永四年乙未九月十九日課男健蔵写之、本居宣長」。
因みに版本は、寛政12年に荒木田久老の「五十槻園蔵版」として刊行した。
本書は、賀茂真淵が、万葉主義の立場から歌を論じ、また、具体的に古学(国学)の学習法を説く。「皇朝のいにしへを尽くして後に神代の事をばうかがひつべし」という一節は、宣長宛書簡でも「人代を尽て神代をうかゞふべく」(明和6年5月9日付)と強調される所である。春庭の学問の第一歩に相応しい本である、
記念館本の書誌は、本居春庭写。袋綴冊子装。薄卵色地刷毛目表紙。寸法、縦26.8cm、横17.9糎。10行。墨付16枚。外題(題簽・宣長筆)「にひまなび」。内題無。蔵書印「鈴屋之印」。
【奥書】
「明和二年七月十六日に賀茂真淵かしるしぬ」。「安永四年乙未九月十九日課男健蔵写之、本居宣長」。
因みに版本は、寛政12年に荒木田久老の「五十槻園蔵版」として刊行した。
(C)本居宣長記念館
賑やか
歌会、講釈、また四季には行楽に出かけ、静かな山林より賑やかな場所の方を好み、京都は四条烏丸あたりを好んだ。宣長はほかの人といるのが好きだった。人からの質問を大事にし、そこから自分の学問の領域を広げていった。
また、宣長は教えることに倦むことがなかった。生涯に行った添削の数は膨大なものであったと思われる。だが、そのような集団の中でも、「個」の自覚があった。これは「連続と個」にも通じる。奥座敷での講釈や歌会を終えて人々が帰った後、宣長は一人「鈴屋」に上がって机に向かうのであった。奥座敷の宣長も、鈴屋の宣長もいる。
「世々の物しり人、又今の世に学問する人などもみな、すみかは、里とほく静かなる山林を、住みよくこのましくするさまにのみ言ふなるを、われはいかなるにか、さらにさはおぼえず、たゞ人げしげくにぎはゝしきところの、好ましくて、さる世ばなれしたるところなどは、さびしくて、こころもしをるゝやうにぞおぼゆる。」
『玉勝間』13の巻「しづかなる山林をすみよしといふ事」の一節。知識人の間では静かな所を住処とする事が常識であった。しかし宣長は、本当にそれで満足できるのかと自問する。既成の価値観に頼らず、自分の考えで判断をするのが宣長の態度であった。
また、宣長は教えることに倦むことがなかった。生涯に行った添削の数は膨大なものであったと思われる。だが、そのような集団の中でも、「個」の自覚があった。これは「連続と個」にも通じる。奥座敷での講釈や歌会を終えて人々が帰った後、宣長は一人「鈴屋」に上がって机に向かうのであった。奥座敷の宣長も、鈴屋の宣長もいる。
「世々の物しり人、又今の世に学問する人などもみな、すみかは、里とほく静かなる山林を、住みよくこのましくするさまにのみ言ふなるを、われはいかなるにか、さらにさはおぼえず、たゞ人げしげくにぎはゝしきところの、好ましくて、さる世ばなれしたるところなどは、さびしくて、こころもしをるゝやうにぞおぼゆる。」
『玉勝間』13の巻「しづかなる山林をすみよしといふ事」の一節。知識人の間では静かな所を住処とする事が常識であった。しかし宣長は、本当にそれで満足できるのかと自問する。既成の価値観に頼らず、自分の考えで判断をするのが宣長の態度であった。
(C)本居宣長記念館
西依成斎(にしより・せいさい)
元禄15年(1702)閏8月12日~寛政9年(1797)閏7月4日。享年96歳。名正固、後に周行。通称、門平、後に儀平、儀兵(平)衛。肥後国(熊本県)玉名郡に生まれ、前原丈軒、京都で若林強斎に学ぶ。
寛保2年、京都の小野鶴山(強斎女婿)の弟子となり、鶴山が若狭小浜藩に招かれた後は、強斎の家塾「望楠軒書院」の講主を務めた。
また、二条宗基の知遇を得て、二条家の学舎の創建に関わった。
弟子に古賀精理がいる。
隠岐国造・幸生も門人で、その関係で駅鈴調査を依頼された。
谷川士清とも交友があり『日本書紀通証』の序を書くが不採用となった(「士清をめぐる人々」北岡四良)。
宣長門人・千家俊信も最初は成斎の門人であった。
また、寛政12年(1800)6月に来訪した興田吉従も最初は成斎の門人であった。
享和元年に宣長門にはいるが、その間の事情について、宣長は次のようなことを書いている。
「西依儀兵衛高弟奥(興)田十左衛門吉従ト云ハ、若狭ノ儒者ニテ当時西依ガ京ノ宅ニアリテ、カノ学ヲ伝フ、コレモ垂加流ナリシガ、後尺ヲ見テソノ非ヲサトリ当時モツハラ古学ニナレル由也」
(『文通諸子居住所并転達所姓名所書』・宣長全集・20-336)。
寛保2年、京都の小野鶴山(強斎女婿)の弟子となり、鶴山が若狭小浜藩に招かれた後は、強斎の家塾「望楠軒書院」の講主を務めた。
また、二条宗基の知遇を得て、二条家の学舎の創建に関わった。
弟子に古賀精理がいる。
隠岐国造・幸生も門人で、その関係で駅鈴調査を依頼された。
谷川士清とも交友があり『日本書紀通証』の序を書くが不採用となった(「士清をめぐる人々」北岡四良)。
宣長門人・千家俊信も最初は成斎の門人であった。
また、寛政12年(1800)6月に来訪した興田吉従も最初は成斎の門人であった。
享和元年に宣長門にはいるが、その間の事情について、宣長は次のようなことを書いている。
「西依儀兵衛高弟奥(興)田十左衛門吉従ト云ハ、若狭ノ儒者ニテ当時西依ガ京ノ宅ニアリテ、カノ学ヲ伝フ、コレモ垂加流ナリシガ、後尺ヲ見テソノ非ヲサトリ当時モツハラ古学ニナレル由也」
(『文通諸子居住所并転達所姓名所書』・宣長全集・20-336)。
(C)本居宣長記念館
入学式
また4月は入学式の季節です。宣長さんの時代はどうだったのでしょうか。
「毎月の宣長さん」1月「正月は入学の季節」をごらん下さい。
「毎月の宣長さん」1月「正月は入学の季節」をごらん下さい。
◇ 正月は入学の季節
正月は寺入りの季節である。宣長は手習いを元文2年(8歳)8月から開始しているが、翌3年春(正月か)には西村三郎兵衛に、12歳の正月26日からは斎藤松菊に入門した。
明和7年正月10日、長男・春庭(8歳)、寺入り。師匠前川与平次。入門料銀札8匁等。
明和9年正月16日、次男・春村(6歳)、寺入り。入門料銀札8匁等。
安永6年正月12日、長女・飛騨(8歳)、寺入り。師匠本町家城惣兵衛妻。入門料銀札5匁等。
安永9年正月13日、次女・美濃(8歳)、寺入り。師匠本町家城惣兵衛妻か。入門料銀札5匁 等。
天明3年正月16日、三女・能登(8歳)、寺入り。入門料銀札5匁等。
正月は寺入りの季節である。宣長は手習いを元文2年(8歳)8月から開始しているが、翌3年春(正月か)には西村三郎兵衛に、12歳の正月26日からは斎藤松菊に入門した。
明和7年正月10日、長男・春庭(8歳)、寺入り。師匠前川与平次。入門料銀札8匁等。
明和9年正月16日、次男・春村(6歳)、寺入り。入門料銀札8匁等。
安永6年正月12日、長女・飛騨(8歳)、寺入り。師匠本町家城惣兵衛妻。入門料銀札5匁等。
安永9年正月13日、次女・美濃(8歳)、寺入り。師匠本町家城惣兵衛妻か。入門料銀札5匁 等。
天明3年正月16日、三女・能登(8歳)、寺入り。入門料銀札5匁等。
(C)本居宣長記念館
「鐸」と「鐘」
銅で出来た「鐸(ヌデ)」を銅鐸と言います。
弥生時代の青銅製品で、一種の「鐘」です。ではどうして「鐸」なんて難しい字を書くのでしょう。
鐘は、お寺の梵鐘のように、外側を叩いて音を鳴らします。
鐸は、中に「舌(ゼツ)」がぶら下がっていてこれで叩くのです。お寺の堂塔の隅に下がる「風鐸」も同じものです。
松阪市笹川町山村からは、昔この辺りで朝廷の命で猪を飼っていた人が寄進した高さ16.5cmという小さな鐘が出土しました。貞元2年(977)の銘文がある大変古いものです。その出土地に立つと今もかなたに「白猪山」を眺めることが出来ます。
弥生時代の青銅製品で、一種の「鐘」です。ではどうして「鐸」なんて難しい字を書くのでしょう。
鐘は、お寺の梵鐘のように、外側を叩いて音を鳴らします。
鐸は、中に「舌(ゼツ)」がぶら下がっていてこれで叩くのです。お寺の堂塔の隅に下がる「風鐸」も同じものです。
松阪市笹川町山村からは、昔この辺りで朝廷の命で猪を飼っていた人が寄進した高さ16.5cmという小さな鐘が出土しました。貞元2年(977)の銘文がある大変古いものです。その出土地に立つと今もかなたに「白猪山」を眺めることが出来ます。
「飯高郡上寺鐘」
(C)本居宣長記念館
野井安定(のい・やすさだ)の訪問
鈴屋訪問の醍醐味の一つは、宣長の新作を見ることにある。
寛政8年4月10日、松坂を訪れていた伊予(愛媛県)の野井安定は、暇乞いのため鈴屋を訪問した。安定は伊勢の荒木田久老の門人でもあり、宣長の所に来る前にもそこで勉強してきている。
さて、宣長は安定に、
「ところで、伊勢の久老さんは私が送った「あしひき、ひさかたのまくら詞の考」について何か言ってなかったかい」
と尋ねた。
「いや何も申されませんでした。どんなものですか、見せていただけませんか」 と言うと、宣長は立って机の辺りから何枚かの紙を持ってきた。細かい字で書かれた論文だ。ついでだがこれは万葉の雑歌の考証だ、といって別のものも指し示された。
「何かに発表済みですか」
と安定が聞くと、
「いやまだ未発表」
とおっしゃる。安定がその場でその論文を写したことは言うまでもない。
宣長も自説の評判は気になるのだ。またこういう新作が見えるところに、鈴屋訪問の醍醐味はある。
【資料】
『万葉集答問附録』奥書
「この鈴の屋ノ大人の御考は、一とせ安定松坂に行てもの学ひしてわかれ奉らむとする時、大人の給ひけるは、此ころ荒木田久老ぬしに、あしひき、ひさかたのまくら詞の考をしてつかはしつるか、此事いはれしやと問給ふ、何もうけたまはらでかへりぬとこたへ奉り、其考はいかにし給ひけむやと問奉れは、座をたち、机辺より紙壱枚に考一つづゝ細字に書たるを見せ給ふ、此ついでにのたまひけるは、万葉の雑歌も考置たりとて、又取出しあたへ給ふ、これは何の書籍に入給ひしと問奉れは、いまた載ず、みな考へ置しなりとの給ふは、寛政の八とせといふとしの四月十日の夜なりけり」。
この附録に載せるのは「万葉集一之巻難歌解」「ひさかたの天」「あしひきの山」の3篇。
寛政8年4月10日、松坂を訪れていた伊予(愛媛県)の野井安定は、暇乞いのため鈴屋を訪問した。安定は伊勢の荒木田久老の門人でもあり、宣長の所に来る前にもそこで勉強してきている。
さて、宣長は安定に、
「ところで、伊勢の久老さんは私が送った「あしひき、ひさかたのまくら詞の考」について何か言ってなかったかい」
と尋ねた。
「いや何も申されませんでした。どんなものですか、見せていただけませんか」 と言うと、宣長は立って机の辺りから何枚かの紙を持ってきた。細かい字で書かれた論文だ。ついでだがこれは万葉の雑歌の考証だ、といって別のものも指し示された。
「何かに発表済みですか」
と安定が聞くと、
「いやまだ未発表」
とおっしゃる。安定がその場でその論文を写したことは言うまでもない。
宣長も自説の評判は気になるのだ。またこういう新作が見えるところに、鈴屋訪問の醍醐味はある。
【資料】
『万葉集答問附録』奥書
「この鈴の屋ノ大人の御考は、一とせ安定松坂に行てもの学ひしてわかれ奉らむとする時、大人の給ひけるは、此ころ荒木田久老ぬしに、あしひき、ひさかたのまくら詞の考をしてつかはしつるか、此事いはれしやと問給ふ、何もうけたまはらでかへりぬとこたへ奉り、其考はいかにし給ひけむやと問奉れは、座をたち、机辺より紙壱枚に考一つづゝ細字に書たるを見せ給ふ、此ついでにのたまひけるは、万葉の雑歌も考置たりとて、又取出しあたへ給ふ、これは何の書籍に入給ひしと問奉れは、いまた載ず、みな考へ置しなりとの給ふは、寛政の八とせといふとしの四月十日の夜なりけり」。
この附録に載せるのは「万葉集一之巻難歌解」「ひさかたの天」「あしひきの山」の3篇。
(C)本居宣長記念館
『後鈴屋集』
本居春庭の家集。版本三冊。序本居建正(文化13年11月)。刊記「須受能耶蔵板/弘所書林/勝村次右衛門他五店」。
(C)本居宣長記念館
能登
能登国鳳至郡(フゲシグン)能都町宇出津(ウセツ)は、門人・加藤吉彦の故郷である。寛政9年(1797)に始めて松坂を訪れ、同11年には郷里の人も引き連れて来訪し入門させた篤志の人だ。
(C)本居宣長記念館
能登(のと)
安永5年(1775)正月15日~享和3年(1803)1月11日。享年29歳。宣長三女。伊勢の御師、安田広治に嫁す。子・田鶴吉(寛政12年正月11日~享和3年5月17日、4歳)。宣長の『日記』一番最後の記事は「十四日、能登、田鶴吉帰」である。
安田広治・能登・吉穂墓
(C)本居宣長記念館
祝詞・宣命の研究の目的
宣長が真淵先生から誉められたことがある。
宣長の意見は、例えば『万葉集』や『古事記』には、わが国の言葉が残っている。ところが、歌は字数の制限があるので助辞(テニヲハ)を省くことがある。『古事記』も助辞まで完全に書いているわけではない。ところが、祝詞と宣命は助辞まできちんと書いている。つまり、『古事記』を読むためには省略された助辞も復元しなければならない。だから祝詞や宣命が大事になるのだ。
真淵は、このことは私もこれまで言ったことがないことと感服した。(明和6年5月9日付)。
『万葉集』が奈良時代やそれ以前の国語を伝える韻文の資料として貴重なのに対して、祝詞、寿詞(ヨゴト)、また宣命は、散文の資料として重要である。同じ散文である『古事記』の読み方を研究するための第一歩であった。
祝詞宣命研究で一番早い時期のものは、賀茂真淵への質疑応答の『続紀宣命問答』。これは、『万葉集』の2度目の質問が終わって、引き続いて開始された。明和5年6月17日付賀茂真淵差出書簡に
「続紀之宣命之事御問可有之由致承知候、是はいまだふかくも不考候へども、又一往は考置候事も有之也、祝詞に次て釈を書候はんと存候へども、無暇候て延引いたし候、若御考候而被注候はば珍重事也、とかくに古文古歌を得候はでは、上古之学は成がたく候へば、此の詔の注をいたし度事也、惣て古事記神代紀等も文にて伝りしなれば、文をよく得ざる人の説は違へり」 とある。
その後、宣長は「続紀宣命辞不審」を送った。真淵は、
「続紀の宣命の事よくぞ御心がけ問れ、一通り見候に、尤の事共も有之、答べき事も多し、しかしながら宣命集めたる本なければ、度々本書を取出くり出して見候事、甚労候故延引に及候、何とぞ其文ども書集候而御遣し候へ、左候はば早速答可申進候、何事も繁多に而労候故也」(明和6年正月27日付) つまり1冊にまとめたテキストを作ってきたら答えてやろうと返事した。
宣長はこの書簡に応じて『続日本紀』の宣命すべてを抄出した一本として真淵に送った。
そして明和6年5月9日、最初の応答が行われた。この時の真淵の言葉が、最初に引いた絶賛の言であった。
現在、本居宣長記念館で所蔵する『宣命抄・続紀歴朝詔詞抄』は、天明8年に自分の研究目的で作成した本である。真淵に送ったのも同じようなものであったろう。
宣長の意見は、例えば『万葉集』や『古事記』には、わが国の言葉が残っている。ところが、歌は字数の制限があるので助辞(テニヲハ)を省くことがある。『古事記』も助辞まで完全に書いているわけではない。ところが、祝詞と宣命は助辞まできちんと書いている。つまり、『古事記』を読むためには省略された助辞も復元しなければならない。だから祝詞や宣命が大事になるのだ。
真淵は、このことは私もこれまで言ったことがないことと感服した。(明和6年5月9日付)。
『万葉集』が奈良時代やそれ以前の国語を伝える韻文の資料として貴重なのに対して、祝詞、寿詞(ヨゴト)、また宣命は、散文の資料として重要である。同じ散文である『古事記』の読み方を研究するための第一歩であった。
祝詞宣命研究で一番早い時期のものは、賀茂真淵への質疑応答の『続紀宣命問答』。これは、『万葉集』の2度目の質問が終わって、引き続いて開始された。明和5年6月17日付賀茂真淵差出書簡に
「続紀之宣命之事御問可有之由致承知候、是はいまだふかくも不考候へども、又一往は考置候事も有之也、祝詞に次て釈を書候はんと存候へども、無暇候て延引いたし候、若御考候而被注候はば珍重事也、とかくに古文古歌を得候はでは、上古之学は成がたく候へば、此の詔の注をいたし度事也、惣て古事記神代紀等も文にて伝りしなれば、文をよく得ざる人の説は違へり」 とある。
その後、宣長は「続紀宣命辞不審」を送った。真淵は、
「続紀の宣命の事よくぞ御心がけ問れ、一通り見候に、尤の事共も有之、答べき事も多し、しかしながら宣命集めたる本なければ、度々本書を取出くり出して見候事、甚労候故延引に及候、何とぞ其文ども書集候而御遣し候へ、左候はば早速答可申進候、何事も繁多に而労候故也」(明和6年正月27日付) つまり1冊にまとめたテキストを作ってきたら答えてやろうと返事した。
宣長はこの書簡に応じて『続日本紀』の宣命すべてを抄出した一本として真淵に送った。
そして明和6年5月9日、最初の応答が行われた。この時の真淵の言葉が、最初に引いた絶賛の言であった。
現在、本居宣長記念館で所蔵する『宣命抄・続紀歴朝詔詞抄』は、天明8年に自分の研究目的で作成した本である。真淵に送ったのも同じようなものであったろう。
(C)本居宣長記念館
宣長(のりなが)
名前。宝暦5年(1755・26歳)3月3日から晩年まで使用。
『在京日記』に
「為稚髪、更名曰宣長、更号曰春菴、以春菴常相呼矣」。
清原宣賢と関係あると言う説もある。また『端原氏物語系図』の主人公・端原宣政、宣繁親子の命名との類似も、清原姓の問題と併せて考える必要がある。
『在京日記』に
「為稚髪、更名曰宣長、更号曰春菴、以春菴常相呼矣」。
清原宣賢と関係あると言う説もある。また『端原氏物語系図』の主人公・端原宣政、宣繁親子の命名との類似も、清原姓の問題と併せて考える必要がある。
(C)本居宣長記念館
宣長、梅を寄進する
梅宮大社(ウメノミヤタイシャ・京都市右京区梅津フケノ川町30)は、宣長の友人橋本経亮が神主をしていた神社。酒解(サカトケ)神等を祀る。橘諸兄の母、橘三千代が、山城国相楽郡井出庄(現、綴喜郡井手町)の井出寺に橘氏の氏神として創祀。その後、仁明天皇のとき託宣により、天皇の母檀林皇后(橘嘉智子)により現在地に遷座した。醸造、授子、安産、学問、芸能の神様として信仰を集めている。
○西神苑には立派な梅林があります。宣長も歌を添えて梅の木を寄進しています。
宣長が寄進した梅の木は今もあるのかな?
『諸用帳』寛政4年2月2日条に「五匁、梅宮梅二本寄進」(宣長全集・19-605)と書かれている。
『鈴屋集』に載る詞書と歌2首。
「梅宮に梅の木をうゝる事を神主橘経亮すゝめけるにうゝとてよみてそへて奉れる、
よそめにもその神垣と見ゆばかりうゑばや梅を千本八千本、
春ごとの手向とうゝる梅の花咲む色香を神のまにまに」
(宣長全集・15-58)
『石上集』にこの草稿が載る。
「梅宮に梅木をうゝとてよみてそへて奉れる歌、
よそめにもその神垣と見ゆる迄植ばや梅を千本八千本
さけやさけぬさとる梅の宮人の袖のにほひも所せきまで
春ごとの手向とうゝる梅の宮咲かむいろかを神のまにまに」
(宣長全集・15-469)
○西神苑には立派な梅林があります。宣長も歌を添えて梅の木を寄進しています。
宣長が寄進した梅の木は今もあるのかな?
『諸用帳』寛政4年2月2日条に「五匁、梅宮梅二本寄進」(宣長全集・19-605)と書かれている。
『鈴屋集』に載る詞書と歌2首。
「梅宮に梅の木をうゝる事を神主橘経亮すゝめけるにうゝとてよみてそへて奉れる、
よそめにもその神垣と見ゆばかりうゑばや梅を千本八千本、
春ごとの手向とうゝる梅の花咲む色香を神のまにまに」
(宣長全集・15-58)
『石上集』にこの草稿が載る。
「梅宮に梅木をうゝとてよみてそへて奉れる歌、
よそめにもその神垣と見ゆる迄植ばや梅を千本八千本
さけやさけぬさとる梅の宮人の袖のにほひも所せきまで
春ごとの手向とうゝる梅の宮咲かむいろかを神のまにまに」
(宣長全集・15-469)
「梅宮大社梅苑」
宣長の寄進した梅の花は今いずこ・・・
宣長の寄進した梅の花は今いずこ・・・
(C)本居宣長記念館
◇宣長さんの賀状
新春之慶賀、御同前目出度申納候、先以其元愈御無事御越年可有之、珍重存候、此元、親類中無事ニ令加年候、御安意可賜候、右年始御歓申入度、如此御坐候、尚期永日之時候、恐々謹言
本居中衛
正月五日
本居健亭殿
本居中衛
正月五日
本居健亭殿
これは京都に滞在する長男春庭(健亭)に宛てた宣長の賀状です。寛政8年(1796)年、宣長67歳、春庭34歳の春です。
〈読み下し〉
「新春の慶賀、ご同前めでたく申し納め候、先以て、其の元いよいよご無事ご越年これあるべく、珍重に存じ候、此の元、親類中無事に加年し候、ご安意賜るべく候、右年始、お歓び申し入れたく、此の如く御坐候、尚永日の時を期し候、恐々謹言」
今回は省略していますが、この決まり文句の挨拶のあとに、「尚々」として、今年は例年に比べて暖かいねとか近況報告が記されます。
日付を見ていただくと分かるように、賀状は三が日の行事を終えたあとに少しずつ書かれていったようです。
(C)本居宣長記念館
宣長さんの高所志向
宣長さんは高いところが好きだったようだ。
22歳の時には江戸の帰り富士山に登っている。
7月12日、駿州須走の神ノ尾伝左衛門宅に泊まる。富士登山、その夜は山腹六合目の室に泊。
7月13日、巳ノ刻(午前10時)頃に頂上に着く。御鉢裏を廻って、申ノ刻(午後4時)下山し神尾氏に泊る。
【資料】
『日記(万覚)』
「十二日、夜ヲコメテ関本ヲ出ル、晴天、竹下中食、未刻、駿州須走ニツク、神尾伝左衛門宅止、餉クヒ休息シテ、七過ヨリ富士山ニ登、其夜ハ、山半腹室宿ル、六合目室也、十三日、晴天、早朝室ヲ出、登登テ巳刻計、山頂上至御鉢裏ト云ヲ廻ル、申刻須走下、其夜神尾氏宿ル」
この時の経験が、『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』での
「おのれ先年富士山にのほりて、室といふ屋に宿して、朝に日出を望むに、其影さかさまに屋根うらにさせり、四万由旬の上にあらん日の影の、下より上へさすべき理あらんやは」(宣長全集・14-166)
と言う記述の裏付けとなっている。
ところで、宣長はなぜ富士山に登ったのだろう。
実は、7月13日は、食行身禄(1671~1731)20回目の命日であった。身禄は伊勢国一志郡出身で、江戸で活躍した伊勢商人。その後に出家し、身禄同行富士講の開祖となる。宣長の登山も関係あるのだろうか(「食行身禄と宣長さん」中根道幸「三重文学漫歩」『教育文化会館のたより』96号)。それとも、江戸からの帰り、別に深く考えることもなく、富士登山の一行にくっついていったのだろうか。
これ以後も宣長さんが高いところに登り眺望を楽しんだのは、19歳の上京では清水寺。3回も詣ったのは本尊の開帳も理由の一つだろうが、やはり眺望も魅力的だったはずだ。遊学中もしばしば足を運んでいる。
「いつまいりても、たくひなくおもしろき所也、本堂のさまいとたふとし、仏にぬかつきて、舞台へ出て、四方のけしきをのそむさま、いはむかたなくおかし、男山山崎のわたりとをく見えて、淀川のながれいとしろく見えわたりたり、其外所々の風景いとよし」
(『在京日記』宝暦7年7月18日条)
京都遊学中の清閑寺、東寺五重塔(『在京日記』)、また菅笠の旅での「天香具山」、ちょっと低すぎるかな。
またその帰路「堀坂峠」ここでは自分の住む町が手に取るように見えて感動している(『菅笠日記』)。そして横滝寺。
また、はっきりとした記述はないが、19歳、72歳の両度、大坂で高津宮に詣っているが、ここは大坂の町が見下ろせる場所で、貸し望遠鏡(遠鏡)もあったらしい。
宣長の奥墓のある山室山から富士山が眺望できたことは「山室山の図」にも明らかであるし、また、宣長の学問の高さを富士山になぞらえる大平の歌もある。
22歳の時には江戸の帰り富士山に登っている。
7月12日、駿州須走の神ノ尾伝左衛門宅に泊まる。富士登山、その夜は山腹六合目の室に泊。
7月13日、巳ノ刻(午前10時)頃に頂上に着く。御鉢裏を廻って、申ノ刻(午後4時)下山し神尾氏に泊る。
【資料】
『日記(万覚)』
「十二日、夜ヲコメテ関本ヲ出ル、晴天、竹下中食、未刻、駿州須走ニツク、神尾伝左衛門宅止、餉クヒ休息シテ、七過ヨリ富士山ニ登、其夜ハ、山半腹室宿ル、六合目室也、十三日、晴天、早朝室ヲ出、登登テ巳刻計、山頂上至御鉢裏ト云ヲ廻ル、申刻須走下、其夜神尾氏宿ル」
この時の経験が、『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』での
「おのれ先年富士山にのほりて、室といふ屋に宿して、朝に日出を望むに、其影さかさまに屋根うらにさせり、四万由旬の上にあらん日の影の、下より上へさすべき理あらんやは」(宣長全集・14-166)
と言う記述の裏付けとなっている。
ところで、宣長はなぜ富士山に登ったのだろう。
実は、7月13日は、食行身禄(1671~1731)20回目の命日であった。身禄は伊勢国一志郡出身で、江戸で活躍した伊勢商人。その後に出家し、身禄同行富士講の開祖となる。宣長の登山も関係あるのだろうか(「食行身禄と宣長さん」中根道幸「三重文学漫歩」『教育文化会館のたより』96号)。それとも、江戸からの帰り、別に深く考えることもなく、富士登山の一行にくっついていったのだろうか。
これ以後も宣長さんが高いところに登り眺望を楽しんだのは、19歳の上京では清水寺。3回も詣ったのは本尊の開帳も理由の一つだろうが、やはり眺望も魅力的だったはずだ。遊学中もしばしば足を運んでいる。
「いつまいりても、たくひなくおもしろき所也、本堂のさまいとたふとし、仏にぬかつきて、舞台へ出て、四方のけしきをのそむさま、いはむかたなくおかし、男山山崎のわたりとをく見えて、淀川のながれいとしろく見えわたりたり、其外所々の風景いとよし」
(『在京日記』宝暦7年7月18日条)
京都遊学中の清閑寺、東寺五重塔(『在京日記』)、また菅笠の旅での「天香具山」、ちょっと低すぎるかな。
またその帰路「堀坂峠」ここでは自分の住む町が手に取るように見えて感動している(『菅笠日記』)。そして横滝寺。
また、はっきりとした記述はないが、19歳、72歳の両度、大坂で高津宮に詣っているが、ここは大坂の町が見下ろせる場所で、貸し望遠鏡(遠鏡)もあったらしい。
宣長の奥墓のある山室山から富士山が眺望できたことは「山室山の図」にも明らかであるし、また、宣長の学問の高さを富士山になぞらえる大平の歌もある。
東海道から眺めた富士山
「山室山の図」
幕末松坂出身の歌人高畠式部の「富士山画賛」
(C)本居宣長記念館
宣長さんの家に入る
魚町の通りを坂内川を背にして進むと、宣長さんが
「町すぢゆがみ正しからず、家なみわろく、一つごとに一尺二尺づゝ出入てひとしからず、いといとしどけなし」(「伊勢国」)
と言うように、たしかに町筋がゆがんでいるね、一軒一軒みな斜めに道と向かい合っている。家並みが一直線じゃないね。長谷川邸の少し前、左手に松の木が見える。ここが宣長さんの家だ。
玄関。年中、注連縄(シメナワ)がかかるのは伊勢神宮に近いこの地域の習わし。200年後の今も変わらない。注連縄に何か木の札がぶら下がっている。「蘇民将来子孫之家」だ。宣長さんの先祖は「蘇民将来(ソミンショウライ)」か? 実はこれは、疫病除けのお札だ。宣長宅は毎年、注連縄とともに新調する。現在は「笑門」と書いた木札を注連縄につける家もある。「笑う門には福来たる」かな。
玄関を入ると左手が店の間だ。
宣長さん時代は、医者は原則として往診だが、イラストのようにここで見ることもあったのかも知れない。本居家の伝えでは「診療室」に使われたとある。ここで薬の調合もし、時には外来患者も診たのだろう。
さらに入っていくと、通り庭はいったん本当の庭、「坪庭」に出る。広さは約5坪。石の井桁の掘り井戸があり、脇には石の手水鉢。榊、黒松、棕櫚竹、矢竹が植えられる。足立巻一さんの描写を借りると「春はシダの若葉が明るく小じんまりとして閑静な5坪の庭」だ。見上げると窓が見える。そこが宣長さんの書斎「鈴屋」である。左手が中の間、その奥が奥中の間。客人はこの「坪庭」から家に上がったという。講釈などでやってきた人も、「では失礼」とここから講義の場所である奥座敷に入っていったのかな。
また潜り戸がある。ここを入ると、台所だ。
宣長さん一家は、揃って食事したのかな。当時のことだ、宣長と春庭、春村と男がまず食べたのかな。夜になると魚町の人通りも絶えて静かな夕食・・。だが、宣長には5人の子どもがいる。一番下・能登は47歳の時の子だ。外は静かでも中は賑やかだったかもしれない。
左手には階段がある。
階段の奥が大きな仏壇だ。その右奥が奥座敷。宣長さんが講釈や歌会で使用していた部屋だ。宣長が亡くなったあともここの床の間に「本居宣長六十一歳自画自賛像」が掛けられ追慕の会が開かれた。
台所の右手は畳敷きの小さな部屋、ここにも階段?
実は、これは今、仮に置いてあるだけで、宣長さん時代はここには何もなかった。お手伝いさんが使っていた場所だ。 台所は「おくどさん」と呼ばれる竈がある。焚き物置きもある。窓は天窓。明かり取りで今はガラスだが、宣長さんの頃はこんな便利な物はない。煙出しの隙間と言ったくらいだろう。雨の日は中は真っ暗だったはずだ。
台所の一番奥が、小さな箱。これが宣長さんの風呂だよ。
松平康定侯が宣長と対面した記録に「たけたちはすまひなどいふばかり」(身長は力士位ある)と証言しているので、長身だった。170cm位あったと思う。この風呂ではいかにも小さいね。リラックスする場所ではなかったのかな。
台所を出ると裏口だ。右手には厠(トイレ)が並ぶ。その奥には土蔵だ。
「町すぢゆがみ正しからず、家なみわろく、一つごとに一尺二尺づゝ出入てひとしからず、いといとしどけなし」(「伊勢国」)
と言うように、たしかに町筋がゆがんでいるね、一軒一軒みな斜めに道と向かい合っている。家並みが一直線じゃないね。長谷川邸の少し前、左手に松の木が見える。ここが宣長さんの家だ。
玄関。年中、注連縄(シメナワ)がかかるのは伊勢神宮に近いこの地域の習わし。200年後の今も変わらない。注連縄に何か木の札がぶら下がっている。「蘇民将来子孫之家」だ。宣長さんの先祖は「蘇民将来(ソミンショウライ)」か? 実はこれは、疫病除けのお札だ。宣長宅は毎年、注連縄とともに新調する。現在は「笑門」と書いた木札を注連縄につける家もある。「笑う門には福来たる」かな。
玄関を入ると左手が店の間だ。
宣長さん時代は、医者は原則として往診だが、イラストのようにここで見ることもあったのかも知れない。本居家の伝えでは「診療室」に使われたとある。ここで薬の調合もし、時には外来患者も診たのだろう。
さらに入っていくと、通り庭はいったん本当の庭、「坪庭」に出る。広さは約5坪。石の井桁の掘り井戸があり、脇には石の手水鉢。榊、黒松、棕櫚竹、矢竹が植えられる。足立巻一さんの描写を借りると「春はシダの若葉が明るく小じんまりとして閑静な5坪の庭」だ。見上げると窓が見える。そこが宣長さんの書斎「鈴屋」である。左手が中の間、その奥が奥中の間。客人はこの「坪庭」から家に上がったという。講釈などでやってきた人も、「では失礼」とここから講義の場所である奥座敷に入っていったのかな。
また潜り戸がある。ここを入ると、台所だ。
宣長さん一家は、揃って食事したのかな。当時のことだ、宣長と春庭、春村と男がまず食べたのかな。夜になると魚町の人通りも絶えて静かな夕食・・。だが、宣長には5人の子どもがいる。一番下・能登は47歳の時の子だ。外は静かでも中は賑やかだったかもしれない。
左手には階段がある。
階段の奥が大きな仏壇だ。その右奥が奥座敷。宣長さんが講釈や歌会で使用していた部屋だ。宣長が亡くなったあともここの床の間に「本居宣長六十一歳自画自賛像」が掛けられ追慕の会が開かれた。
台所の右手は畳敷きの小さな部屋、ここにも階段?
実は、これは今、仮に置いてあるだけで、宣長さん時代はここには何もなかった。お手伝いさんが使っていた場所だ。 台所は「おくどさん」と呼ばれる竈がある。焚き物置きもある。窓は天窓。明かり取りで今はガラスだが、宣長さんの頃はこんな便利な物はない。煙出しの隙間と言ったくらいだろう。雨の日は中は真っ暗だったはずだ。
台所の一番奥が、小さな箱。これが宣長さんの風呂だよ。
松平康定侯が宣長と対面した記録に「たけたちはすまひなどいふばかり」(身長は力士位ある)と証言しているので、長身だった。170cm位あったと思う。この風呂ではいかにも小さいね。リラックスする場所ではなかったのかな。
台所を出ると裏口だ。右手には厠(トイレ)が並ぶ。その奥には土蔵だ。
宣長旧宅 一階図面
宣長旧宅 二階図面
(C) 本居宣長記念館
宣長さんの行楽
晩年の行楽をのぞいてみよう。宣長も多忙で記録も途切れがち。洩れているものも多いと思うが概要を知ることはできる。
寛政10年(1798・69歳)
spacer 8月15日 毘沙門寺月見会。
9月6日 下蛸路村(シモタコジムラ)の門人・堀口光重宅に赴き、茸狩り。
9月13日 月見を兼ねた『古事記伝』終業慶賀会を開く。
寛政11年(70歳)
3月16日 三井氏別業・畑屋敷にて七十賀。
4月3日から9日
参宮。4日、二見定津の家に宿泊。
4月14日から20日
四日市行き。
8月15日 菅相寺で月見会。
9月13日 遍照寺で月見会。
寛政12年(71歳)
3月22日 垣鼻村の陶工・時中寸丈宅にて花見会。
3月26日 愛宕山龍泉寺にて花見会。
9月13日 工屋町・小津信春借座敷にて会す。
11月20日 藩主への御前講義のため和歌山へ出立。
享和元年(72歳)
3月1日 和歌山より帰宅。
3月20日頃 山室山墓地選定地の花見。
3月28日 貴紳への講義のため京都へ出立。
6月12日 京都より帰宅。
8月15日 日野町山際留守宅で月見会。
9月13日 新座町大平宅で月見会。
寛政10年(1798・69歳)
spacer 8月15日 毘沙門寺月見会。
9月6日 下蛸路村(シモタコジムラ)の門人・堀口光重宅に赴き、茸狩り。
9月13日 月見を兼ねた『古事記伝』終業慶賀会を開く。
寛政11年(70歳)
3月16日 三井氏別業・畑屋敷にて七十賀。
4月3日から9日
参宮。4日、二見定津の家に宿泊。
4月14日から20日
四日市行き。
8月15日 菅相寺で月見会。
9月13日 遍照寺で月見会。
寛政12年(71歳)
3月22日 垣鼻村の陶工・時中寸丈宅にて花見会。
3月26日 愛宕山龍泉寺にて花見会。
9月13日 工屋町・小津信春借座敷にて会す。
11月20日 藩主への御前講義のため和歌山へ出立。
享和元年(72歳)
3月1日 和歌山より帰宅。
3月20日頃 山室山墓地選定地の花見。
3月28日 貴紳への講義のため京都へ出立。
6月12日 京都より帰宅。
8月15日 日野町山際留守宅で月見会。
9月13日 新座町大平宅で月見会。
(C)本居宣長記念館
宣長さんの松坂地図 その1
(C)本居宣長記念館
宣長さんの松坂地図 その2
(C)本居宣長記念館
宣長さんの松坂地図 その3
(C)本居宣長記念館
宣長さんの松坂地図 その4
(C)本居宣長記念館
宣長さんの松坂評
宣長の目で見た当時の松坂の様子を描く「伊勢国」と言う文が『玉勝間』巻14に載っている。宣長の目に写った伊勢の国(今の三重県の一部)、松坂(三重県松阪市)を見てみよう。
「伊勢国」
「伊勢の国は、かた国のうまし国と古語にもいひて、北のはてより南のはてまで、西の方は山々つらなりつゞきて、まことに青垣をなせり、東の方は入海にていせの海といふこれなり、かくていづこもいづこも山と海との間、ひろく平原にして、北は桑名より、南は山田まで、廿里あまりがほど、山といふ物一つもこゆることなく、ひたつゞきの国原なり、その間に、広き里々おほかる中に、山田、安濃津、松阪、桑名など、ことににぎはゝしく大きなる里なり、大かた京より江戸まで、七国八国を経てゆく間に、かばかりの大里は、近江の大津と、駿河の府をおきてはあることなし、外の国々も思ひやらる、猶件の里々につぎて、四日市、白子などよき邑なり、かくて此国、海の物、山野の物、すべてともしからず、暑さ寒さも、他国にくらぶるに、さしも甚しからず、但しさむさは、北の方へよるまゝに次第に寒し、風はよくふく国なり、国のにぎはゝしきことは、大御神の宮にまうづる旅人たゆることなく、ことに春夏の程は、いといとにぎはゝしき事、大かた天ノ下にならびなし、土こえて、稲いとよし、たなつ物も畑つ物も、大かた皆よし、かくて松坂は、ことによき里にて、里のひろき事は、山田につぎたれど、富る家おほく、江戸に店といふ物をかまへおきて、手代といふ物をおほくあらせて、あきなひせさせて、あるじは、国にのみ居てあそびをり、うはべはさしもあらで、うちうちはいたくゆたかにおごりてわたる、すべて此里、町すぢゆがみ正しからず、家なみわろく、一つごとに一尺二尺づゝ出入てひとしからず、いといとしどけなし、家居はさしもいかめしからず、されど内々のすまひはいとよし、水はよき所とわろき所とありてひとしからず、川水すくなく潮もさゝねば、船かよはず、山へは、大方一里あまり、海へは、半里あまり、諸国のたよりよし、ことに京江戸大坂はたよりよし、諸国の人の入くる国なれば、いづこへもいづこへもたよりよし、人の心はよくもあらず、おごりてまことすくなし、人のかたち、男も女もゐ中びたることさらになくよろし、女は里のゆたかににぎはゝしきまゝにすがたよそひよし、すべてをさをさ京におとれることなし、人の物いひは、尾張の国より東の国々はなまりおほきを、伊勢は、大かたなまりなし、されど山城大和などゝは、何となく声いやしく、詞もいやしきこと多し、いはゆる呉服物、小間物のたぐひ、松坂は事よき品を用ひて、山田津などゝはこよなく代物よし、されば商人の、京よりしいるゝも、松坂はことに物よく上々の品なり、京のあき人つねに来かよふなり、時々のはやり物も、をり過さず、諸芸は所からにあはせては、よきこともあらず、もろもろの細工いと上手なり、あきなひごとにぎはゝし、芝居、見せ物、神社、仏閣すべてにぎはゝし、すべて此国は、他国の人おほく入こむ国なる故に、よからぬ物もおほく、盗なども多し、松坂は、魚類野菜などすべてゆたかなり、されど魚には、鯉鮒すくなく、野菜には、くわゐ蓮根などすくなし、松坂のあかぬ事は、町筋の正しからずしどけなきと、船のかよはぬとなり」(『玉勝間』巻14)
晩年の宣長が自分が過ごした故郷へのオマージュ、「国誉め」です。伊勢の国を誉め、中でも松坂は「ことによき里」と言います。経済的にも豊かで、食べる物も不自由することがない。諸国への連絡にも便利だし、住んでいる人も洗練されている。しゃべる言葉は京や大和には劣るが、尾張や東の国に比べるとなまりが少ない。呉服や小間物の質もよい。流行も時を逃さず入ってくる。諸芸は取り立ててこれというものはない。全て細工物は上手だ。商売も芝居、見世物、神社、仏閣全て賑やかだが、人の出入りが多いだけに悪事も多い。また食べ物も豊富だが、鯉や鮒、くわい、蓮根が少ないのが物足りない。この町の欠点は、町筋がゆがんでいて、船の便のないことだと宣長は言う。
【注】
「かた国のうまし国」『日本書紀』垂仁紀25年3月条「是の神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰(ヨ)する国也、傍国(カタクニ)の可怜(ウマシ)国也」。
「青垣」『古事記伝』巻12「青垣は、青山の、国の書垣となりて周廻(メグ)れるを云々」。
「伊勢国」
「伊勢の国は、かた国のうまし国と古語にもいひて、北のはてより南のはてまで、西の方は山々つらなりつゞきて、まことに青垣をなせり、東の方は入海にていせの海といふこれなり、かくていづこもいづこも山と海との間、ひろく平原にして、北は桑名より、南は山田まで、廿里あまりがほど、山といふ物一つもこゆることなく、ひたつゞきの国原なり、その間に、広き里々おほかる中に、山田、安濃津、松阪、桑名など、ことににぎはゝしく大きなる里なり、大かた京より江戸まで、七国八国を経てゆく間に、かばかりの大里は、近江の大津と、駿河の府をおきてはあることなし、外の国々も思ひやらる、猶件の里々につぎて、四日市、白子などよき邑なり、かくて此国、海の物、山野の物、すべてともしからず、暑さ寒さも、他国にくらぶるに、さしも甚しからず、但しさむさは、北の方へよるまゝに次第に寒し、風はよくふく国なり、国のにぎはゝしきことは、大御神の宮にまうづる旅人たゆることなく、ことに春夏の程は、いといとにぎはゝしき事、大かた天ノ下にならびなし、土こえて、稲いとよし、たなつ物も畑つ物も、大かた皆よし、かくて松坂は、ことによき里にて、里のひろき事は、山田につぎたれど、富る家おほく、江戸に店といふ物をかまへおきて、手代といふ物をおほくあらせて、あきなひせさせて、あるじは、国にのみ居てあそびをり、うはべはさしもあらで、うちうちはいたくゆたかにおごりてわたる、すべて此里、町すぢゆがみ正しからず、家なみわろく、一つごとに一尺二尺づゝ出入てひとしからず、いといとしどけなし、家居はさしもいかめしからず、されど内々のすまひはいとよし、水はよき所とわろき所とありてひとしからず、川水すくなく潮もさゝねば、船かよはず、山へは、大方一里あまり、海へは、半里あまり、諸国のたよりよし、ことに京江戸大坂はたよりよし、諸国の人の入くる国なれば、いづこへもいづこへもたよりよし、人の心はよくもあらず、おごりてまことすくなし、人のかたち、男も女もゐ中びたることさらになくよろし、女は里のゆたかににぎはゝしきまゝにすがたよそひよし、すべてをさをさ京におとれることなし、人の物いひは、尾張の国より東の国々はなまりおほきを、伊勢は、大かたなまりなし、されど山城大和などゝは、何となく声いやしく、詞もいやしきこと多し、いはゆる呉服物、小間物のたぐひ、松坂は事よき品を用ひて、山田津などゝはこよなく代物よし、されば商人の、京よりしいるゝも、松坂はことに物よく上々の品なり、京のあき人つねに来かよふなり、時々のはやり物も、をり過さず、諸芸は所からにあはせては、よきこともあらず、もろもろの細工いと上手なり、あきなひごとにぎはゝし、芝居、見せ物、神社、仏閣すべてにぎはゝし、すべて此国は、他国の人おほく入こむ国なる故に、よからぬ物もおほく、盗なども多し、松坂は、魚類野菜などすべてゆたかなり、されど魚には、鯉鮒すくなく、野菜には、くわゐ蓮根などすくなし、松坂のあかぬ事は、町筋の正しからずしどけなきと、船のかよはぬとなり」(『玉勝間』巻14)
晩年の宣長が自分が過ごした故郷へのオマージュ、「国誉め」です。伊勢の国を誉め、中でも松坂は「ことによき里」と言います。経済的にも豊かで、食べる物も不自由することがない。諸国への連絡にも便利だし、住んでいる人も洗練されている。しゃべる言葉は京や大和には劣るが、尾張や東の国に比べるとなまりが少ない。呉服や小間物の質もよい。流行も時を逃さず入ってくる。諸芸は取り立ててこれというものはない。全て細工物は上手だ。商売も芝居、見世物、神社、仏閣全て賑やかだが、人の出入りが多いだけに悪事も多い。また食べ物も豊富だが、鯉や鮒、くわい、蓮根が少ないのが物足りない。この町の欠点は、町筋がゆがんでいて、船の便のないことだと宣長は言う。
【注】
「かた国のうまし国」『日本書紀』垂仁紀25年3月条「是の神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰(ヨ)する国也、傍国(カタクニ)の可怜(ウマシ)国也」。
「青垣」『古事記伝』巻12「青垣は、青山の、国の書垣となりて周廻(メグ)れるを云々」。
(C)本居宣長記念館
宣長さんの見た 松阪祇園祭
本居宣長〈1730-1801〉の頃、松坂の祇園祭はどんな様子だったのでしょうか。
今では松坂の祇園祭というと三社神輿ですが、実は宣長の頃にはずっと中断していて、再興されたのは、62歳〈寛政3年・1791)年6月1日〈現在の7月1日)、その日の宣長の「日記」には、「弥勒院〈今の八雲神社〉の神輿の修理が完成した。今日、船江から迎えが来て巡行が始まった。各町々では踊りなどもある」と書かれています。宣長には初めて見る松坂の神輿です。
神輿巡幸が中止となったのは、宣長が生まれる前年の火事が原因でした。
だから、子どもの頃も宣長はみていなかったのです。
でも、修理したとあるので、神社に神輿はあったわけです。どのようにしていたのでしょうか。
『松坂権輿雑集(まつさか・けんよ・ざっしゅう)』と言う本には、「7日から14日までは弥勒院〈八雲神社〉の拝殿に神輿を飾り置き、巫女や乙女たちが夜になると神楽を舞った。雨竜神社〈松坂神社〉や、御厨神社では獅子舞が行われた」と書かれています。巡幸せずに、飾ってあったのです。やっと修理が出来て、巡幸となりました。といってもいったん途絶えていた神輿巡幸を再開するのは時間がかかります。
2年後の、寛政4年〈宣長63歳〉やっと準備が整い、川井町から平生町、黒田町の間を練り歩いたのです。町の人たちの喜びはいかほどだったでしょう。
宣長も、「この事〈巡幸〉は久しく中絶していたとのことだが、やっと今年復活した」と書いています。宣長のポリシーは、「長く続けることが大事」です。伝統行事の復活、ほっと一安心でしょう。
ところで、「船江から迎えに来た」とか、雨竜神社、御厨神社では獅子舞と書かれていますが、当時は、松坂町の総産土神は弥勒院八雲神社です。今も、八雲神社参道口には碑が立っています、八雲神社の神輿が松坂中を練っていたのです。
さて、神輿が練る町の様子はというと、6月〈今の7月〉6日から準備が始まり、7日から14日まで8日間は、各家に提灯を灯します。風情があったでしょうね。各神社の飾り付けも行われます。新生児はかならず弥勒院八雲神社に参詣します。夜は神輿の巡幸。紀州藩士たちもその後に従います。
ちなみに、八雲神社の拝殿「感神殿」の大きな額は、紀州徳川家10代藩主治宝公の筆です〈原本は、祇園祭前後は本居宣長記念館で公開中です!〉。
また各町では思い思いに練り物や山車に明かりを灯して町内を巡回します。この8日間、各神社は提灯を灯し、門前には屋台も出て、辻内という路上パフォーマンス、芝居も掛かります。踊りは河崎音頭やしょんがいも行われます。
6月14日、にぎやかだった祇園祭は終わります。
今では松坂の祇園祭というと三社神輿ですが、実は宣長の頃にはずっと中断していて、再興されたのは、62歳〈寛政3年・1791)年6月1日〈現在の7月1日)、その日の宣長の「日記」には、「弥勒院〈今の八雲神社〉の神輿の修理が完成した。今日、船江から迎えが来て巡行が始まった。各町々では踊りなどもある」と書かれています。宣長には初めて見る松坂の神輿です。
神輿巡幸が中止となったのは、宣長が生まれる前年の火事が原因でした。
だから、子どもの頃も宣長はみていなかったのです。
でも、修理したとあるので、神社に神輿はあったわけです。どのようにしていたのでしょうか。
『松坂権輿雑集(まつさか・けんよ・ざっしゅう)』と言う本には、「7日から14日までは弥勒院〈八雲神社〉の拝殿に神輿を飾り置き、巫女や乙女たちが夜になると神楽を舞った。雨竜神社〈松坂神社〉や、御厨神社では獅子舞が行われた」と書かれています。巡幸せずに、飾ってあったのです。やっと修理が出来て、巡幸となりました。といってもいったん途絶えていた神輿巡幸を再開するのは時間がかかります。
2年後の、寛政4年〈宣長63歳〉やっと準備が整い、川井町から平生町、黒田町の間を練り歩いたのです。町の人たちの喜びはいかほどだったでしょう。
宣長も、「この事〈巡幸〉は久しく中絶していたとのことだが、やっと今年復活した」と書いています。宣長のポリシーは、「長く続けることが大事」です。伝統行事の復活、ほっと一安心でしょう。
ところで、「船江から迎えに来た」とか、雨竜神社、御厨神社では獅子舞と書かれていますが、当時は、松坂町の総産土神は弥勒院八雲神社です。今も、八雲神社参道口には碑が立っています、八雲神社の神輿が松坂中を練っていたのです。
さて、神輿が練る町の様子はというと、6月〈今の7月〉6日から準備が始まり、7日から14日まで8日間は、各家に提灯を灯します。風情があったでしょうね。各神社の飾り付けも行われます。新生児はかならず弥勒院八雲神社に参詣します。夜は神輿の巡幸。紀州藩士たちもその後に従います。
ちなみに、八雲神社の拝殿「感神殿」の大きな額は、紀州徳川家10代藩主治宝公の筆です〈原本は、祇園祭前後は本居宣長記念館で公開中です!〉。
また各町では思い思いに練り物や山車に明かりを灯して町内を巡回します。この8日間、各神社は提灯を灯し、門前には屋台も出て、辻内という路上パフォーマンス、芝居も掛かります。踊りは河崎音頭やしょんがいも行われます。
6月14日、にぎやかだった祇園祭は終わります。
(C)本居宣長記念館
宣長と出版
宣長の最大の功績は、学問の世界を開かれたものにしたことである。宣長は、本は出版されなければいけないと考えていた。それは、少年の頃から本を友としてきた実体験に基づくものであり、また、人が一生に出来る仕事の限りを知っていたからでもある。
江戸時代、日本にも印刷出版の時代がやってきた。木版印刷の方法が普及し、都市には本屋が出来、それまで特権階級しか目にすることが出来なかった古典が続々と刊行された。
宣長はこのような時代の恩恵を充分に受けた。刊行された本で、時間を隔てた「契沖」の学問を知り、空間を隔てた「賀茂真淵」の業績に接し、そして生きる方向を決めた。また、愛読書『源氏物語湖月抄』も、ライフワークの対象『古事記』も、全て出版された本であった。
出版により、多くの人が自らの好奇心で学問の世界に参加したことで、さらに多くの本が発掘され世に紹介されていった。現在でも注目されるような本が続々と公開された。
例えば『元暦校本万葉集』、また『古事記』を初めとする真福寺本。また、伊勢神宮の文庫にはたくさんの本が集められていった。これらは、賀茂真淵や本居宣長の学問と言う裏付けがあり、日本古典研究の貴重な財産となっていったのである。
江戸時代、日本にも印刷出版の時代がやってきた。木版印刷の方法が普及し、都市には本屋が出来、それまで特権階級しか目にすることが出来なかった古典が続々と刊行された。
宣長はこのような時代の恩恵を充分に受けた。刊行された本で、時間を隔てた「契沖」の学問を知り、空間を隔てた「賀茂真淵」の業績に接し、そして生きる方向を決めた。また、愛読書『源氏物語湖月抄』も、ライフワークの対象『古事記』も、全て出版された本であった。
出版により、多くの人が自らの好奇心で学問の世界に参加したことで、さらに多くの本が発掘され世に紹介されていった。現在でも注目されるような本が続々と公開された。
例えば『元暦校本万葉集』、また『古事記』を初めとする真福寺本。また、伊勢神宮の文庫にはたくさんの本が集められていった。これらは、賀茂真淵や本居宣長の学問と言う裏付けがあり、日本古典研究の貴重な財産となっていったのである。
(C)本居宣長記念館
宣長と旅する自画像
完成した画像は、四十四歳像と異なり、早くから門人の知るところとなった。宣長には自画像以外にも多くの画像が残されているが、それらの多くが、この六十一歳像から、またその写しから制作されていった。
写しの中で現在確認できる最古のものは、寛政4年(1792)3月に詠んだ歌が賛された植松有信旧蔵のものだ。作者は、落款印章はないが、名古屋の画家 吉川義信(ヨシカワ・ヨシノブ)と推測される。
義信がこの絵を見て描いたということは、つまり、この絵は名古屋まで宣長によって運ばれた可能性がある。いや、その公算大だ。
こんな風に想像している。
寛政4年(1792)3月5日、名古屋に向け松阪を出立した宣長一行の荷物の中にはこの画像があった。
名古屋で迎えた植松有信は、画像を見せられ、欲しくなってさっそく模写を吉川義信に依頼した。
早々に描いた像を持って師の所にやってきた有信は賛を書いてもらった。もちろんこれは、24日の名古屋出立前であろう。
また、『遺言書』では、自分の没後、祥月には座敷の床に画像を掛けるように指示しているが、それはもちろんこの画像だ。
写しの中で現在確認できる最古のものは、寛政4年(1792)3月に詠んだ歌が賛された植松有信旧蔵のものだ。作者は、落款印章はないが、名古屋の画家 吉川義信(ヨシカワ・ヨシノブ)と推測される。
義信がこの絵を見て描いたということは、つまり、この絵は名古屋まで宣長によって運ばれた可能性がある。いや、その公算大だ。
こんな風に想像している。
寛政4年(1792)3月5日、名古屋に向け松阪を出立した宣長一行の荷物の中にはこの画像があった。
名古屋で迎えた植松有信は、画像を見せられ、欲しくなってさっそく模写を吉川義信に依頼した。
早々に描いた像を持って師の所にやってきた有信は賛を書いてもらった。もちろんこれは、24日の名古屋出立前であろう。
また、『遺言書』では、自分の没後、祥月には座敷の床に画像を掛けるように指示しているが、それはもちろんこの画像だ。
「本居宣長六十一歳自画自賛像」
「本居宣長像」吉川義信画
(C)本居宣長記念館
◇宣長日記と2月記事
「日記」は宣長の日常を知る第一次資料ですが、今回は別の利用法をご紹介いたします。
風俗やまた芸能関係記事が多いこと。
宝暦6年2月25日条には、当時流行の福引き記事が出てきます。同7年2月3日、宣長は京都四条河原で歌舞伎「傾城月待山」を見ています。宣長は芝居が好きだったようで『在京日記』には、評判や噂まで記録されています(一部切断があるのは残念ですが・・)。このことは芸能史の専門家の間では有名で、『歌舞伎年表』(岩波書店)にも引用されています。
工事関係記事が載ること。
年度末が近づくと公共工事が増えます。宣長さんの時代、年度末は無関係ですが、寛政4年閏2月には、「大橋」掛け替え工事完了して渡り初めという記事が、また寛政7年2月には、大橋の川上、堤防嵩上げ工事が完成の記事が見えます。平成15年夏に、15年に及んだ松阪城跡の石垣工事が終了しましたが、安永6年、同じ箇所の工事が行われたことも「宣長日記」でしか確認できない事実です。
災害や流行記事。
流行正月というちょっと変わった記事や、火事、病気の流行も記されています。
宝暦10年2月11日条には、去る6日、江戸で大火事があったと記され、その翌日には叔父らが江戸に出立しています。安永5年(1776)には、「世間では風邪引きが流行っている、どうやらが全国的な流行のようだ」と書かれています。みなさまもどうかご用心を。
風俗やまた芸能関係記事が多いこと。
宝暦6年2月25日条には、当時流行の福引き記事が出てきます。同7年2月3日、宣長は京都四条河原で歌舞伎「傾城月待山」を見ています。宣長は芝居が好きだったようで『在京日記』には、評判や噂まで記録されています(一部切断があるのは残念ですが・・)。このことは芸能史の専門家の間では有名で、『歌舞伎年表』(岩波書店)にも引用されています。
工事関係記事が載ること。
年度末が近づくと公共工事が増えます。宣長さんの時代、年度末は無関係ですが、寛政4年閏2月には、「大橋」掛け替え工事完了して渡り初めという記事が、また寛政7年2月には、大橋の川上、堤防嵩上げ工事が完成の記事が見えます。平成15年夏に、15年に及んだ松阪城跡の石垣工事が終了しましたが、安永6年、同じ箇所の工事が行われたことも「宣長日記」でしか確認できない事実です。
災害や流行記事。
流行正月というちょっと変わった記事や、火事、病気の流行も記されています。
宝暦10年2月11日条には、去る6日、江戸で大火事があったと記され、その翌日には叔父らが江戸に出立しています。安永5年(1776)には、「世間では風邪引きが流行っている、どうやらが全国的な流行のようだ」と書かれています。みなさまもどうかご用心を。
(C)本居宣長記念館
◇宣長の家
「隠岐の嶋弓矢かくみて出ましし御心おもへば涙しながる」
「おもほさぬ隠岐の出まし聞くときはしづのを吾も髪さかだつを」 『玉鉾百首』「あまり歌」
『玉鉾百首』は、寛政4年(1792)10月15日付、千家俊信宛書簡で「道ノ事ヲ詠候、古風ノ百首也」というように、古道の趣旨を万葉調の古風で詠み、万葉仮名で表記する。ここでは読みやすいように表記を改めた。
この歌は、承久の乱(1221)で、鎌倉幕府により後鳥羽上皇が隠岐に配流されたことを憤った歌。隠岐から離れるが次の歌と三首連作となる。
「鎌倉のたひらのこらがたはれわざ蘇我の馬子に罪おとらめや」
本書の完成までを見てみよう。 天明6年(1786)閏10月4日、板下出来、柏屋に送る。 同月19日、西御役所から出版許可。(自筆稿本表紙「天明六歳午閏十月十九日西御役所御免」)
12月上旬、校合刷りが届く。
天明7年2月4日、板本が届く。
本書も広く普及した。徳川家康を詠んだ歌を削ったりした本や、また明治3年に、 「本末の歌」を併せて青柳高鞆、井上頼圀が刊行した本がある。
また、注解の試みも早くからあった。最初は横井千秋で、天明8年8月29日付宣長宛書簡で、「本書は古学の入門書として手頃だから、一首ごとに先生の著作の関連するところを引き抜いたりしていたら、5,6冊になってしまった。そんなことで作業が延びている」と報告している。その後も宣長、千秋の書簡に作業の進行が書かれるが、完成したかどうかは不明。
また、大平が執筆した『玉鉾百首解』2冊は、寛政8年(1796)9月に成稿。同11年に永楽屋などから刊行された。序文は千家俊信と、紀伊国玉津島神社橘房雄が執筆した。
「おもほさぬ隠岐の出まし聞くときはしづのを吾も髪さかだつを」 『玉鉾百首』「あまり歌」
『玉鉾百首』は、寛政4年(1792)10月15日付、千家俊信宛書簡で「道ノ事ヲ詠候、古風ノ百首也」というように、古道の趣旨を万葉調の古風で詠み、万葉仮名で表記する。ここでは読みやすいように表記を改めた。
この歌は、承久の乱(1221)で、鎌倉幕府により後鳥羽上皇が隠岐に配流されたことを憤った歌。隠岐から離れるが次の歌と三首連作となる。
「鎌倉のたひらのこらがたはれわざ蘇我の馬子に罪おとらめや」
本書の完成までを見てみよう。 天明6年(1786)閏10月4日、板下出来、柏屋に送る。 同月19日、西御役所から出版許可。(自筆稿本表紙「天明六歳午閏十月十九日西御役所御免」)
12月上旬、校合刷りが届く。
天明7年2月4日、板本が届く。
本書も広く普及した。徳川家康を詠んだ歌を削ったりした本や、また明治3年に、 「本末の歌」を併せて青柳高鞆、井上頼圀が刊行した本がある。
また、注解の試みも早くからあった。最初は横井千秋で、天明8年8月29日付宣長宛書簡で、「本書は古学の入門書として手頃だから、一首ごとに先生の著作の関連するところを引き抜いたりしていたら、5,6冊になってしまった。そんなことで作業が延びている」と報告している。その後も宣長、千秋の書簡に作業の進行が書かれるが、完成したかどうかは不明。
また、大平が執筆した『玉鉾百首解』2冊は、寛政8年(1796)9月に成稿。同11年に永楽屋などから刊行された。序文は千家俊信と、紀伊国玉津島神社橘房雄が執筆した。
魚町旧宅跡
宣長旧宅 全景
(C) 本居宣長記念館
宣長の一日
宣長に限らず当時の人の朝は早い。夜明け前には起きて、行動を開始した。
43歳の菅笠の旅でも夜明け前の出立である。65歳の和歌山行きでも松坂魚町の家を出立した宣長は、約5kmほど行った立野(立野町)で夜明けを迎えた。
さて、顔を洗ったら神様への遙拝だ。決められた方角に向き作法通りに拝す。その作法書が『毎朝拝神式』である。
また、剣南道人の『理趣情景』(明治38年7月)には、宣長は朝早く起きてまず部屋の柱にもたれ一日の予定を立てるのと言う話が紹介される。
昼間は医者だ。但し、月に3回の歌会(嶺松院歌会2回、遍照寺歌会1回)は午後に開かれたから休診だ。
夕方、黄昏時、宣長は歌を考えていたという。明かりを付けるにはもったいない。でも本を読んだり書いたりするのには暗すぎる。だが、歌を詠むには明かりはいらぬ。
こんな話がある。
「常に日暮れ方の、火ともすには早し字ハ見えずと云ふ時刻を利用して歌よむ事に定めたり。依りて本居先生の歌よみ時とは門人中の通語なりしといふ」『和文学史』大和田建樹(明治32年)
夕飯が終わると、3日に一度、多いときで隔日、奥座敷で講釈がある。
それが終わって皆が帰ると宣長の時間だ。本を写し、執筆する。時には徹夜もする。
「毎月の宣長さん」11月でも紹介したがこんな歌がある。
「ますらをは はだれ霜ふり 寒きよも
こころふりおこし 寝ずてふみよめ 」
(男なら寒い夜でも心を奮い立たせて徹夜で本を読め。)
「寒けくて ふみて(筆) 取る手は かがむ共
なおこたりそね 長き此の夜を 」
(寒くて筆を持つ手がしびれても、怠ってはいけない。冬の夜は長いから貴重だぞ。)
「この朝け 堀坂山に 初雪降りぬ
ぬば玉の きその夜嵐 うべもさへけり」
(朝起きてみると堀坂山に初雪が見えた。昨夜の嵐が、あの雪を降らせたのだなあ。)
冬の夜、寒さでかじかむ手をさすりながら机に向かう宣長の姿が浮かんでくる、そんな連作である。
来訪者が来ると、多忙な中からさらに面談の時間が割かれることになる。
寛政7年、千家俊信に来訪しても講釈の時しか会えないよと断った同じ年、九州の長瀬真幸にこんな事を書簡(3月22日付)で書いている。
「老儀も近来殊外多用ニ而、一向手透無之候へは、此地御逗留中とても、ひしと打かゝり御対話出来かたく、一日之内半時計、或ハ夜分等ならてハ、寛々御咄し申候義も難致候間」
(せっかく来てもらっても、一日の内会えるのは1時間(半時)位、あるいは夜分でないとゆっくり話もできない。)
本当に忙しい毎日であった。
43歳の菅笠の旅でも夜明け前の出立である。65歳の和歌山行きでも松坂魚町の家を出立した宣長は、約5kmほど行った立野(立野町)で夜明けを迎えた。
さて、顔を洗ったら神様への遙拝だ。決められた方角に向き作法通りに拝す。その作法書が『毎朝拝神式』である。
また、剣南道人の『理趣情景』(明治38年7月)には、宣長は朝早く起きてまず部屋の柱にもたれ一日の予定を立てるのと言う話が紹介される。
昼間は医者だ。但し、月に3回の歌会(嶺松院歌会2回、遍照寺歌会1回)は午後に開かれたから休診だ。
夕方、黄昏時、宣長は歌を考えていたという。明かりを付けるにはもったいない。でも本を読んだり書いたりするのには暗すぎる。だが、歌を詠むには明かりはいらぬ。
こんな話がある。
「常に日暮れ方の、火ともすには早し字ハ見えずと云ふ時刻を利用して歌よむ事に定めたり。依りて本居先生の歌よみ時とは門人中の通語なりしといふ」『和文学史』大和田建樹(明治32年)
夕飯が終わると、3日に一度、多いときで隔日、奥座敷で講釈がある。
それが終わって皆が帰ると宣長の時間だ。本を写し、執筆する。時には徹夜もする。
「毎月の宣長さん」11月でも紹介したがこんな歌がある。
「ますらをは はだれ霜ふり 寒きよも
こころふりおこし 寝ずてふみよめ 」
(男なら寒い夜でも心を奮い立たせて徹夜で本を読め。)
「寒けくて ふみて(筆) 取る手は かがむ共
なおこたりそね 長き此の夜を 」
(寒くて筆を持つ手がしびれても、怠ってはいけない。冬の夜は長いから貴重だぞ。)
「この朝け 堀坂山に 初雪降りぬ
ぬば玉の きその夜嵐 うべもさへけり」
(朝起きてみると堀坂山に初雪が見えた。昨夜の嵐が、あの雪を降らせたのだなあ。)
冬の夜、寒さでかじかむ手をさすりながら机に向かう宣長の姿が浮かんでくる、そんな連作である。
来訪者が来ると、多忙な中からさらに面談の時間が割かれることになる。
寛政7年、千家俊信に来訪しても講釈の時しか会えないよと断った同じ年、九州の長瀬真幸にこんな事を書簡(3月22日付)で書いている。
「老儀も近来殊外多用ニ而、一向手透無之候へは、此地御逗留中とても、ひしと打かゝり御対話出来かたく、一日之内半時計、或ハ夜分等ならてハ、寛々御咄し申候義も難致候間」
(せっかく来てもらっても、一日の内会えるのは1時間(半時)位、あるいは夜分でないとゆっくり話もできない。)
本当に忙しい毎日であった。
(C)本居宣長記念館
宣長の逸話
『中等新国文教授参考書 巻三』(三矢重松著・文学社・大正11年4月22日発行)
「宣長先生の気根と極りの善いこと
宣長先生の勝れて正しいことは、今に、漢学と洋学ばかりを有り難がる日本人には、知られない。誠に嘆かはしいことだがここにどんな人でも感心することがある。 先生の著書は古事記伝玉の小櫛などを始め、何百巻といふ大造なもので大抵は出版になつて居るが、その板下は多く先生の自筆である。ところが叉、そんな書物の自筆の清書本が松阪と東京の本居家に残つて居る。さうして見ると下稿(シタガキ)と併せて都合三通づゝは書かれたのである。
先生の日記が松阪の本居家にある。これは三十五六歳の頃から書き始めたもので、死なれた享和元年の九月の十日過まで一日も欠が無い。それに文字の大小体裁が一様で、中古の仮字入らずの記録体の文体まで三十七八年の間一処も違がない。 先生は書物を読むに、心に留つた所は必ず書き抜いて、菓子袋やなんぞの古袋に部類別をして入れて置かれた。それが著述の時に直に材料になつたのである。 先生は毎朝食事が済むと、座敷の柱にもたれて、「今日は何時に誰某の所に行き、内では何々のことをする」と、その日その日の事を必ず内の人に話された。これが如何にもきまり正しく、臨時にそれを変へるとか、思ひ立つて他出をするとかいふことは遂ぞ無かつた相である。
書物の置方も極めてきまりが善かつたので云はば、日本紀の十巻目を出して、あとでしまふ時には、必ず元の十番目の処に入れる。かりそめにも無造作に上げて置く様なことはされなかつた。それで夜中に書物を出すにも明(アカリ)が入らぬ。何番目の本箱のどの段の何冊目といへば手探りでも直に出てくるといふ風に。 かやうに先生は気根がよく、きまりが正しく、そして善く時を用ゐられた。これが本道の学者の風といふものであらう。(本居豊穎の談、明治三十四年二月、三矢重松の記)」
本居宣長を曾祖父にもつ豊穎は、皇太子時代の大正天皇の侍講を務め、明治期を代表する国文学者である。だが、宣長の学説にはしばしば触れても、その人となりについてはあまり語ったことは無い。宣長について語ることの少なかった、本居家の人の語った宣長として、この逸話は貴重である。
もう一つ重要なのは、これが教師用の指導書に書かれている点である。おそらく全国の教師はこの中の話を教壇で繰り返ししたことであろう。
先にも引いた『理趣情景』の関連箇所も引く。
「柱に倚りて日課を定む 宣長は朝早く起きて先づ室の柱に倚その日に為すべき事を予じめ規定するを常とせり(前日既にさだめらるゝものありても)即ちその日の訪問、読書、著述其他の為すべき事を定め置き、一旦其課定に従へば身生に関する大事に非る限り如何なる事生ずるも決して偶然に依りて所定を変ぜざりしといふ、その冷静なる思索力、堅実なる判断力に富みたるを思ふべく(近世の国学界に功績多かりし小中村博士は、一週間の日記をその最初の日に於て予期したりとの事なるが博士もまたよく宣長のに髣髴したる資質ありしに似たリ)」
(『理趣情景』剣南道人著・東亜堂書店・明治38年7月刊・P211)
「宣長先生の気根と極りの善いこと
宣長先生の勝れて正しいことは、今に、漢学と洋学ばかりを有り難がる日本人には、知られない。誠に嘆かはしいことだがここにどんな人でも感心することがある。 先生の著書は古事記伝玉の小櫛などを始め、何百巻といふ大造なもので大抵は出版になつて居るが、その板下は多く先生の自筆である。ところが叉、そんな書物の自筆の清書本が松阪と東京の本居家に残つて居る。さうして見ると下稿(シタガキ)と併せて都合三通づゝは書かれたのである。
先生の日記が松阪の本居家にある。これは三十五六歳の頃から書き始めたもので、死なれた享和元年の九月の十日過まで一日も欠が無い。それに文字の大小体裁が一様で、中古の仮字入らずの記録体の文体まで三十七八年の間一処も違がない。 先生は書物を読むに、心に留つた所は必ず書き抜いて、菓子袋やなんぞの古袋に部類別をして入れて置かれた。それが著述の時に直に材料になつたのである。 先生は毎朝食事が済むと、座敷の柱にもたれて、「今日は何時に誰某の所に行き、内では何々のことをする」と、その日その日の事を必ず内の人に話された。これが如何にもきまり正しく、臨時にそれを変へるとか、思ひ立つて他出をするとかいふことは遂ぞ無かつた相である。
書物の置方も極めてきまりが善かつたので云はば、日本紀の十巻目を出して、あとでしまふ時には、必ず元の十番目の処に入れる。かりそめにも無造作に上げて置く様なことはされなかつた。それで夜中に書物を出すにも明(アカリ)が入らぬ。何番目の本箱のどの段の何冊目といへば手探りでも直に出てくるといふ風に。 かやうに先生は気根がよく、きまりが正しく、そして善く時を用ゐられた。これが本道の学者の風といふものであらう。(本居豊穎の談、明治三十四年二月、三矢重松の記)」
本居宣長を曾祖父にもつ豊穎は、皇太子時代の大正天皇の侍講を務め、明治期を代表する国文学者である。だが、宣長の学説にはしばしば触れても、その人となりについてはあまり語ったことは無い。宣長について語ることの少なかった、本居家の人の語った宣長として、この逸話は貴重である。
もう一つ重要なのは、これが教師用の指導書に書かれている点である。おそらく全国の教師はこの中の話を教壇で繰り返ししたことであろう。
先にも引いた『理趣情景』の関連箇所も引く。
「柱に倚りて日課を定む 宣長は朝早く起きて先づ室の柱に倚その日に為すべき事を予じめ規定するを常とせり(前日既にさだめらるゝものありても)即ちその日の訪問、読書、著述其他の為すべき事を定め置き、一旦其課定に従へば身生に関する大事に非る限り如何なる事生ずるも決して偶然に依りて所定を変ぜざりしといふ、その冷静なる思索力、堅実なる判断力に富みたるを思ふべく(近世の国学界に功績多かりし小中村博士は、一週間の日記をその最初の日に於て予期したりとの事なるが博士もまたよく宣長のに髣髴したる資質ありしに似たリ)」
(『理趣情景』剣南道人著・東亜堂書店・明治38年7月刊・P211)
(C)本居宣長記念館
宣長の歌
宣長が和歌に関心を持ったのは18歳の頃であった。『和歌の浦』というノートを作成し、「歌書」の名前や短冊懐紙の書き方など、歌に関する情報の収集を開始した。
『今井田日記』には、
「去辰ノ年ヨリ和歌道ニ志、今年巳ノ年ヨリ、専ラ歌道ニ心ヲヨス」
とある。
また、『日記』同年条にも宗安寺の法幢に歌を習い始めたことが書かれ、
「去年自リ和謌ニ志シ、今年ヨリ専ラ此道ニ心ヲ寄ス」
とある。
最初の歌は19歳の正月
「此道にこころざしてはじめて春立心を読侍りける」
と言う詞書のある
「新玉の春きにけりな今朝よりも霞ぞそむる久方の空」
である。
以後、亡くなる直前まで54年間に宣長が詠んだ歌は約10,000首に及ぶとされている。
作品は、『嶺松院和歌集』のような歌会の記録に載るもの、また『手向草』(真淵十三回忌追悼歌文集)や『鴨嵯集』のような特別な歌集に載るもの。『菅笠日記』や『紀見のめぐみ』のような紀行文として残るものなど実にさまざまであるが、一番基本となる歌集は『鈴屋集』、これは四季恋などテーマ別。また詠んだ順に載せた『石上稿』と呼ばれる一群の歌集がある。
この『鈴屋集』と『石上稿』は『本居宣長全集』巻15に載り、索引が添う。これを使うと宣長の大体の歌が検索できるし、また『石上稿』に載っていれば作歌年も判明する。
『今井田日記』には、
「去辰ノ年ヨリ和歌道ニ志、今年巳ノ年ヨリ、専ラ歌道ニ心ヲヨス」
とある。
また、『日記』同年条にも宗安寺の法幢に歌を習い始めたことが書かれ、
「去年自リ和謌ニ志シ、今年ヨリ専ラ此道ニ心ヲ寄ス」
とある。
最初の歌は19歳の正月
「此道にこころざしてはじめて春立心を読侍りける」
と言う詞書のある
「新玉の春きにけりな今朝よりも霞ぞそむる久方の空」
である。
以後、亡くなる直前まで54年間に宣長が詠んだ歌は約10,000首に及ぶとされている。
作品は、『嶺松院和歌集』のような歌会の記録に載るもの、また『手向草』(真淵十三回忌追悼歌文集)や『鴨嵯集』のような特別な歌集に載るもの。『菅笠日記』や『紀見のめぐみ』のような紀行文として残るものなど実にさまざまであるが、一番基本となる歌集は『鈴屋集』、これは四季恋などテーマ別。また詠んだ順に載せた『石上稿』と呼ばれる一群の歌集がある。
この『鈴屋集』と『石上稿』は『本居宣長全集』巻15に載り、索引が添う。これを使うと宣長の大体の歌が検索できるし、また『石上稿』に載っていれば作歌年も判明する。
懐紙4点↓
1.「村田元寿尼八十賀歌」(宝暦6年)
「村田元寿尼八十賛歌」(宝暦6年
本居宣長詠(宝暦6年・27歳)、京都遊学中の作。外祖母・元寿の八十の祝いに、京都から贈った歌。祖母の賀に歌を贈る、このような、和歌の贈答をする環境の中で、宣長は育った。
【読み方】
とをといひつゝ八かへりの春をむかへていやましに蔭ひろき玉松のかはらぬさかへをいはふとなん聞てこの下草の末葉までよろこびにたへずなむ
宣長
春たちて やそちにみつの 浜松や さぞなときはの 色もそふらん
行末の なをかぎりなき 八十年は やを万世の 数にとらなん
2.「花間鶯」
本居宣長詠(43歳)。2月3日、門人・須賀直見家で開かれた歌会での詠。宣長の筆跡の中でも大変ユニークなものである。
ひとつは、字体が珍しい。次に「平宣長」と本姓である「平」姓を歌の署名に書くこと。三番目は左端に紙継ぎのあること。
歌は、冬の嵐のような冬が過ぎのどかに鴬の鳴く春がやってきたという意味。歌の心が字体に反映しているのかもしれない。
【読み方】
花間鴬といへる事をよめる 平宣長
聞なれし あらしはたえて 咲花に ただのどかなる うぐひすのこゑ
ひとつは、字体が珍しい。次に「平宣長」と本姓である「平」姓を歌の署名に書くこと。三番目は左端に紙継ぎのあること。
歌は、冬の嵐のような冬が過ぎのどかに鴬の鳴く春がやってきたという意味。歌の心が字体に反映しているのかもしれない。
【読み方】
花間鴬といへる事をよめる 平宣長
聞なれし あらしはたえて 咲花に ただのどかなる うぐひすのこゑ
3.「宣長翁二首懐紙」
本居宣長詠(27歳)、歌は、京都遊学中の宝暦6年(1756)8月15日、有賀家の歌会での兼題を詠んだもの。筆跡もその頃のものと考えられる。
箱書「宝暦六年八月十五日有賀家月次歌会兼題をよめるにて当時の筆なり、但し野月の第二句を歌稿には萩の花野とせり、清造しるす」。
この日は兼題以外にも当座「叢祠月」を詠んだ。夜は、師・堀景山宅を訪れ月見を楽しむ。また、友人堀蘭澤、山田孟明、横関嗣忠、恆亮等と和歌を詠み、詩を作った。
【読み方】
詠二首和歌 春庵
野月
月もさぞ 萩咲のべを なつかしみ ゆかりの露に やどはとふらし
偽恋
まことゝは おもはぬ物の 頼みきて 今さら人を 何うらむらん
箱書「宝暦六年八月十五日有賀家月次歌会兼題をよめるにて当時の筆なり、但し野月の第二句を歌稿には萩の花野とせり、清造しるす」。
この日は兼題以外にも当座「叢祠月」を詠んだ。夜は、師・堀景山宅を訪れ月見を楽しむ。また、友人堀蘭澤、山田孟明、横関嗣忠、恆亮等と和歌を詠み、詩を作った。
【読み方】
詠二首和歌 春庵
野月
月もさぞ 萩咲のべを なつかしみ ゆかりの露に やどはとふらし
偽恋
まことゝは おもはぬ物の 頼みきて 今さら人を 何うらむらん
4.「板文庫所詠之歌」(寛政6年)
本居宣長詠(65歳)。寛政6年(1794)冬、紀州徳川家第十代藩主・徳川治宝に初めての御前講釈を行い、褒美として「板文庫」を拝領した時の歓びの歌。箱書には、「家翁欣悦恩賜板文庫所詠之歌、本居春庭謹蔵」と記される。
一首目は、板文庫を拝領し松坂に帰った時の歌。二首目は板文庫の上についている硯(桜川でとれる珍しい石を使用)によせて詠んだ和歌で、自分を桜の老木にたとえて、もう花が咲かなくなったと思っていたが、お殿様の恵で(桜川の硯という)思ってもみなかった花がさきましたという意。この歌は『紀見のめぐみ』にも載せられている。
【読み方】
いともかしこくこゝろことなる御
めぐみの物をいたゞきもちて故郷
にかへるよろこびをよめる 宣長
よる光る 玉にもまさる たま物を ひるの錦と かづきてぞゆく
その御硯は桜川の石とあるにつけて又
冬ながら 老木も花の さくら河 ふかきめぐみの 春にあふ身は
(C)本居宣長記念館
宣長の江戸地図
宣長さんの江戸地図は簡単だ。
宣長さんの家の店があったのは、日本橋に程近い大伝馬町と堀留町。
16歳からの1年を過ごした叔父さんの店も、やはり大伝馬町。
義兄・宗五郎が独立して住んだのは神田紺屋町。今の神田駅のそば。大伝馬町からも近い。宣長も、義兄の死後、その片づけのため21歳の3月から7月まで滞在した。
母の兄・察然和尚が住職を勤めたのは芝の増上寺、真乗院。今は東京タワーの脚の下か。
賀茂真淵先生の住んだ「県居」(アガタイ)は、今の浜町近く。大伝馬町から歩いて約10分位か。弟が江戸店に勤めている時、真淵先生への手紙を託したこともあるが、その位の距離である。
真淵の門人で宣長とも交遊のあった加藤千蔭が住んだのは、「江戸かやば町地蔵橋筋」(『文通諸子居住処並転達所姓名所書』)、今の茅場町だ。この近くには村田春海もいた。県居からも、大伝馬町からも1km位離れた場所だ。
深川の本誓寺は、祖父の実子三郎右衛門定該(サダカネ)、父定利、義兄宗五郎と、その娘おゆらが眠る。この寺へは、大伝馬町からは浜町を通り清洲橋を渡ればすぐだ。この寺は宣長一族だけでなく、伊勢商人が江戸での菩提寺としていた場所。村田春海の墓もここにあるのはその関係だろう。春海の先祖は伊勢国白子の出身である。
浜町の「県居」近くに、「谷崎潤一郎生家」とあるのは、宣長さんとは直接関係ないのだが、鈴屋を訪れた潤一郎が、自分の生家を思い出した文章があるので入れておいた。
宣長さんの家の店があったのは、日本橋に程近い大伝馬町と堀留町。
16歳からの1年を過ごした叔父さんの店も、やはり大伝馬町。
義兄・宗五郎が独立して住んだのは神田紺屋町。今の神田駅のそば。大伝馬町からも近い。宣長も、義兄の死後、その片づけのため21歳の3月から7月まで滞在した。
母の兄・察然和尚が住職を勤めたのは芝の増上寺、真乗院。今は東京タワーの脚の下か。
賀茂真淵先生の住んだ「県居」(アガタイ)は、今の浜町近く。大伝馬町から歩いて約10分位か。弟が江戸店に勤めている時、真淵先生への手紙を託したこともあるが、その位の距離である。
真淵の門人で宣長とも交遊のあった加藤千蔭が住んだのは、「江戸かやば町地蔵橋筋」(『文通諸子居住処並転達所姓名所書』)、今の茅場町だ。この近くには村田春海もいた。県居からも、大伝馬町からも1km位離れた場所だ。
深川の本誓寺は、祖父の実子三郎右衛門定該(サダカネ)、父定利、義兄宗五郎と、その娘おゆらが眠る。この寺へは、大伝馬町からは浜町を通り清洲橋を渡ればすぐだ。この寺は宣長一族だけでなく、伊勢商人が江戸での菩提寺としていた場所。村田春海の墓もここにあるのはその関係だろう。春海の先祖は伊勢国白子の出身である。
浜町の「県居」近くに、「谷崎潤一郎生家」とあるのは、宣長さんとは直接関係ないのだが、鈴屋を訪れた潤一郎が、自分の生家を思い出した文章があるので入れておいた。
(C)本居宣長記念館
宣長の隠岐の歌
宣長さんの江戸地図は簡単だ。
宣長さんの家の店があったのは、日本橋に程近い大伝馬町と堀留町。
16歳からの1年を過ごした叔父さんの店も、やはり大伝馬町。
義兄・宗五郎が独立して住んだのは神田紺屋町。今の神田駅のそば。大伝馬町からも近い。宣長も、義兄の死後、その片づけのため21歳の3月から7月まで滞在した。
母の兄・察然和尚が住職を勤めたのは芝の増上寺、真乗院。今は東京タワーの脚の下か。
賀茂真淵先生の住んだ「県居」(アガタイ)は、今の浜町近く。大伝馬町から歩いて約10分位か。弟が江戸店に勤めている時、真淵先生への手紙を託したこともあるが、その位の距離である。
真淵の門人で宣長とも交遊のあった加藤千蔭が住んだのは、「江戸かやば町地蔵橋筋」(『文通諸子居住処並転達所姓名所書』)、今の茅場町だ。この近くには村田春海もいた。県居からも、大伝馬町からも1km位離れた場所だ。
深川の本誓寺は、祖父の実子三郎右衛門定該(サダカネ)、父定利、義兄宗五郎と、その娘おゆらが眠る。この寺へは、大伝馬町からは浜町を通り清洲橋を渡ればすぐだ。この寺は宣長一族だけでなく、伊勢商人が江戸での菩提寺としていた場所。村田春海の墓もここにあるのはその関係だろう。春海の先祖は伊勢国白子の出身である。
浜町の「県居」近くに、「谷崎潤一郎生家」とあるのは、宣長さんとは直接関係ないのだが、鈴屋を訪れた潤一郎が、自分の生家を思い出した文章があるので入れておいた。
宣長さんの家の店があったのは、日本橋に程近い大伝馬町と堀留町。
16歳からの1年を過ごした叔父さんの店も、やはり大伝馬町。
義兄・宗五郎が独立して住んだのは神田紺屋町。今の神田駅のそば。大伝馬町からも近い。宣長も、義兄の死後、その片づけのため21歳の3月から7月まで滞在した。
母の兄・察然和尚が住職を勤めたのは芝の増上寺、真乗院。今は東京タワーの脚の下か。
賀茂真淵先生の住んだ「県居」(アガタイ)は、今の浜町近く。大伝馬町から歩いて約10分位か。弟が江戸店に勤めている時、真淵先生への手紙を託したこともあるが、その位の距離である。
真淵の門人で宣長とも交遊のあった加藤千蔭が住んだのは、「江戸かやば町地蔵橋筋」(『文通諸子居住処並転達所姓名所書』)、今の茅場町だ。この近くには村田春海もいた。県居からも、大伝馬町からも1km位離れた場所だ。
深川の本誓寺は、祖父の実子三郎右衛門定該(サダカネ)、父定利、義兄宗五郎と、その娘おゆらが眠る。この寺へは、大伝馬町からは浜町を通り清洲橋を渡ればすぐだ。この寺は宣長一族だけでなく、伊勢商人が江戸での菩提寺としていた場所。村田春海の墓もここにあるのはその関係だろう。春海の先祖は伊勢国白子の出身である。
浜町の「県居」近くに、「谷崎潤一郎生家」とあるのは、宣長さんとは直接関係ないのだが、鈴屋を訪れた潤一郎が、自分の生家を思い出した文章があるので入れておいた。
(C)本居宣長記念館
宣長の顔
(C)本居宣長記念館
ら ん(左) 44歳と61、72歳では髪型が違いますね?
和歌子(右) 髪を結ぶかどうかの違いだけで宣長像の髪は皆いわゆる「惣髪(ソウガミ)」です。25歳の時から髪型を変え始め、26歳3月3日、医者となった日にこの髪型にしています。「惣髪」については辞書を見てみましょう。「[1] 男性の結髪の一。月代(さかやき)を剃らないで、全体を伸ばしたもの。頭の頂で束ねて結う場合も、後ろへなでつけたまま垂した場合にもいう。(中略)(江戸時代)中期以後は、医者儒者学者浪人神官山伏などがこの髪型を用いた」(『角川古語大辞典』)。因みに同書の挿絵は宣長61歳像です。
ら ん この宣長は何を見ているの?
(C)本居宣長記念館
宣長の画像
宣長の顔や髪型は、以前見た画像通りだと康定は言っています。どんな宣長像を見たのでしょうか。康定の宣長像は伝わっていませんが、だいたい想像はつきます。
宣長像は4種に大別できます。
1,44歳像系
2,61歳像系
3,72歳像系
4,鈴屋円居の図系
3でないことはすぐに判ります。宣長まだ65歳ですから。4でもないでしょう。この図は集合図ですから宣長の顔は実際と見比べてよく似ていると言うほどはっきりしていません。この頃の髪型は、恐らく髷を結っていたはずですから、1の44歳像(オールバック)ではなく、2の61歳像系であったはずです。
実際、諸記録や伝存する宣長像を見ても、1,3はほとんどなく、圧倒的に多いのが2です。だから康定の目に触れたのも2と考えていいでしょう。
作者も、ほぼ推定できます。
名古屋の絵師・吉川義信です。量産される宣長像の中でもっとも宣長の信頼が厚いのが義信像です。宣長の有力門人、たとえば植松有信、鈴木朖、藤井高尚、坂倉茂樹などが持っていた宣長像はみなこの人の作です。義信が描いた最初の宣長像は、寛政4年ですから、その前後に小篠敏が入手し藩主に見せたのでしょう。 義信像は穏やかな顔です。でも康定が、おっかないそうだと思ったのは、「漢意」批判があまりにも痛烈だったからです。論争を見ると、本当に怖そうな人です。
宣長像は4種に大別できます。
1,44歳像系
2,61歳像系
3,72歳像系
4,鈴屋円居の図系
3でないことはすぐに判ります。宣長まだ65歳ですから。4でもないでしょう。この図は集合図ですから宣長の顔は実際と見比べてよく似ていると言うほどはっきりしていません。この頃の髪型は、恐らく髷を結っていたはずですから、1の44歳像(オールバック)ではなく、2の61歳像系であったはずです。
実際、諸記録や伝存する宣長像を見ても、1,3はほとんどなく、圧倒的に多いのが2です。だから康定の目に触れたのも2と考えていいでしょう。
作者も、ほぼ推定できます。
名古屋の絵師・吉川義信です。量産される宣長像の中でもっとも宣長の信頼が厚いのが義信像です。宣長の有力門人、たとえば植松有信、鈴木朖、藤井高尚、坂倉茂樹などが持っていた宣長像はみなこの人の作です。義信が描いた最初の宣長像は、寛政4年ですから、その前後に小篠敏が入手し藩主に見せたのでしょう。 義信像は穏やかな顔です。でも康定が、おっかないそうだと思ったのは、「漢意」批判があまりにも痛烈だったからです。論争を見ると、本当に怖そうな人です。
(C)本居宣長記念館
宣長の神様
宣長にとっての「神様」を知る最重要資料の一つに『毎朝拝神式』があります。
■『毎朝拝神式』『毎朝拝神式』(マイチョウハイシンシキ)
1巻。本居宣長撰。成立年不詳。
従来、記念館本は円熟期の作とされてきたが、筆跡、内容からは40代前半頃執筆か。
内容は、宣長が毎日拝していた神名や神社名20を挙げ、方角、拝礼の次第を記す。淵源は19歳の「日々動作勒記」(『覚』)にある。その中から仏教色を除き、神名も整理し、吉野水分神社などを加える。
大平は、宣長40歳頃にその式を書写、享和3年に伴信友に示している。
記念館本は大平本に大きな異同はなく、拍手の数も大平本と同じく「二」つであったものを、後に「四」に改めた形跡がある。大平に依れば、晩年は伊邪那岐、伊邪那美、神直日、大直日、禍日等も加えられたと言い、神名に変遷があったことが窺える。略したものを子息が唱えたという。大平も自ら改変を加えて作成し、また平田篤胤の「神拝詞廿五編」(『玉襷』)に影響を与えたとされる。
【毎朝】拝神式 ☆ここをクリック!
卯辰の方に向ひ手を拍つ【四つ】、額突きて
○神風の伊勢の国さくくしろ五十鈴の川原の底津石根に大宮柱太敷立(フトシキタテ)高天の原に比木(ヒギ)高知て鎮り座し坐す天照す皇(スメ)大御神の大朝廷(オホミカド)を慎み為夜麻比(ヰヤマヒ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る
○外つ宮の度会の山田の原の底津石根に大宮柱太敷立(フトシキタテ)高天の原に比木(ヒギ)高知て鎮り座し坐す豊受(トユウケ)の皇大御神の大朝廷を慎み為夜麻比(イヤマヒ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
又
○二大宮の枝宮枝社の大神たちの大前をも慎み為夜麻比(ヰヤマヒ)恐み(カシコミ)恐みも遙に拝み奉る。
東の方に向ひ手を拍つ【四】、額突きて
○高御産巣日(タカミムスビノ)大御神、神産巣日(カムムスビノ)大御神二柱の大御霊を慎み為夜麻比(イヤマヒ)恐み(カシコミ)恐みも拝み奉る。
戌亥の方に向ひ 同前(手を拍つ【四】、額突きて)
○八雲立出雲の国の熊野の大宮に鎮座坐す大御神の大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
拍手額突同前
○八雲立出雲ノ国八百丹杵築(キツキ)ノ宮に鎮座坐す天ノ下造らしし大国主の大神の大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○常世ノ国に坐ス少那毘古那(スクナビコナ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○水葉八重事代主ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○大年ノ大神御年ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○宇迦能御魂(ウカノミタマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○竈(カマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○庭津日(ニハツビ)ノ大神庭高津日ノ大神二柱の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○阿須波(アスバ)ノ大神波比岐(ハヒギ)ノ大神二柱の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○土ノ御祖(ミオヤ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○御井ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。 未申方向、同前(拍手額突)
○吉野山に座坐ス水分(ミクマリ)ノ大神ノ大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
東向、同前(拍手額突)
○伊勢の国御魂(クニミタマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○此邑(コノムラ)を総守護(スベマモリ)賜ふ産土(ウブスナノ)大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
北向、同前(拍手額突)
○御厨に座坐ス大神の御前(ミマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
戌亥向、同前(拍手額突)
○此坊(コノマチ)を守護(マモリ)賜ふ山ノ大神の御前(ミマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
已上一神別(ゴト)ニ手ヲ拍ツコト二ツ額突拝奉」
「宣長の神様」と言う重要な問題だけに講演内容を一口で言うことは出来ませんが、この拝神式は、宣長個人の意志で神様の世界を再構築する作業です。選ばれた神々の重要性ももちろんですが、その背後に透けて見えるのは、拝む者により神威でさえ変わるという、ちょっと不思議な神々の世界です。
この問題について岩田隆氏も、宣長の「吉野水分神社」信仰と言う面から次のように指摘しています。
「厳密にいえば、「水分の神」は本来決して「御子守の神」などではなかったのである。
このような神の変異を十分に知悉し、認識していたにもかかわらず、宣長はこの「水分の神の申し子」であるとの信仰を生涯持ち続けたのである」
(『本居宣長の生涯』、18頁。以文社刊)
■『毎朝拝神式』『毎朝拝神式』(マイチョウハイシンシキ)
1巻。本居宣長撰。成立年不詳。
従来、記念館本は円熟期の作とされてきたが、筆跡、内容からは40代前半頃執筆か。
内容は、宣長が毎日拝していた神名や神社名20を挙げ、方角、拝礼の次第を記す。淵源は19歳の「日々動作勒記」(『覚』)にある。その中から仏教色を除き、神名も整理し、吉野水分神社などを加える。
大平は、宣長40歳頃にその式を書写、享和3年に伴信友に示している。
記念館本は大平本に大きな異同はなく、拍手の数も大平本と同じく「二」つであったものを、後に「四」に改めた形跡がある。大平に依れば、晩年は伊邪那岐、伊邪那美、神直日、大直日、禍日等も加えられたと言い、神名に変遷があったことが窺える。略したものを子息が唱えたという。大平も自ら改変を加えて作成し、また平田篤胤の「神拝詞廿五編」(『玉襷』)に影響を与えたとされる。
【毎朝】拝神式 ☆ここをクリック!
卯辰の方に向ひ手を拍つ【四つ】、額突きて
○神風の伊勢の国さくくしろ五十鈴の川原の底津石根に大宮柱太敷立(フトシキタテ)高天の原に比木(ヒギ)高知て鎮り座し坐す天照す皇(スメ)大御神の大朝廷(オホミカド)を慎み為夜麻比(ヰヤマヒ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る
○外つ宮の度会の山田の原の底津石根に大宮柱太敷立(フトシキタテ)高天の原に比木(ヒギ)高知て鎮り座し坐す豊受(トユウケ)の皇大御神の大朝廷を慎み為夜麻比(イヤマヒ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
又
○二大宮の枝宮枝社の大神たちの大前をも慎み為夜麻比(ヰヤマヒ)恐み(カシコミ)恐みも遙に拝み奉る。
東の方に向ひ手を拍つ【四】、額突きて
○高御産巣日(タカミムスビノ)大御神、神産巣日(カムムスビノ)大御神二柱の大御霊を慎み為夜麻比(イヤマヒ)恐み(カシコミ)恐みも拝み奉る。
戌亥の方に向ひ 同前(手を拍つ【四】、額突きて)
○八雲立出雲の国の熊野の大宮に鎮座坐す大御神の大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
拍手額突同前
○八雲立出雲ノ国八百丹杵築(キツキ)ノ宮に鎮座坐す天ノ下造らしし大国主の大神の大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○常世ノ国に坐ス少那毘古那(スクナビコナ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○水葉八重事代主ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○大年ノ大神御年ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○宇迦能御魂(ウカノミタマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○竈(カマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○庭津日(ニハツビ)ノ大神庭高津日ノ大神二柱の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○阿須波(アスバ)ノ大神波比岐(ハヒギ)ノ大神二柱の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○土ノ御祖(ミオヤ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○御井ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。 未申方向、同前(拍手額突)
○吉野山に座坐ス水分(ミクマリ)ノ大神ノ大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
東向、同前(拍手額突)
○伊勢の国御魂(クニミタマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
○同前(拍手額突)
○此邑(コノムラ)を総守護(スベマモリ)賜ふ産土(ウブスナノ)大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
北向、同前(拍手額突)
○御厨に座坐ス大神の御前(ミマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
戌亥向、同前(拍手額突)
○此坊(コノマチ)を守護(マモリ)賜ふ山ノ大神の御前(ミマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
已上一神別(ゴト)ニ手ヲ拍ツコト二ツ額突拝奉」
「宣長の神様」と言う重要な問題だけに講演内容を一口で言うことは出来ませんが、この拝神式は、宣長個人の意志で神様の世界を再構築する作業です。選ばれた神々の重要性ももちろんですが、その背後に透けて見えるのは、拝む者により神威でさえ変わるという、ちょっと不思議な神々の世界です。
この問題について岩田隆氏も、宣長の「吉野水分神社」信仰と言う面から次のように指摘しています。
「厳密にいえば、「水分の神」は本来決して「御子守の神」などではなかったのである。
このような神の変異を十分に知悉し、認識していたにもかかわらず、宣長はこの「水分の神の申し子」であるとの信仰を生涯持ち続けたのである」
(『本居宣長の生涯』、18頁。以文社刊)
(C)本居宣長記念館
宣長の京都地図
宣長の京都観
京都は、宣長にとって少年の頃からの憧れの地であった。なぜ京都への関心を持ったのだろう。特に大きな理由として次の三つが考えられる。
1.母方の実家村田家、またその親戚が京都で商いをしていた。京都の話がよく出た。
2.浄土宗信仰の篤い家であり、菩提寺・樹敬寺は本山・知恩院とも深く関係していた。
3.歴史や文学の舞台となった。とりわけ、京には謡曲や宣長が好きな(?)『平家物語』や『源氏物語』の舞台が多い。
1.母方の実家村田家、またその親戚が京都で商いをしていた。京都の話がよく出た。
2.浄土宗信仰の篤い家であり、菩提寺・樹敬寺は本山・知恩院とも深く関係していた。
3.歴史や文学の舞台となった。とりわけ、京には謡曲や宣長が好きな(?)『平家物語』や『源氏物語』の舞台が多い。
(C)本居宣長記念館
宣長の『古事記』観
『うひ山ふみ』の中で『古事記』について次のように語っている。
「道を知るためには第一に『古事記』である。神典は、『先代旧事本紀』、『古事記』、『日本書紀』を昔から、三部の書と言って、その中でも研究したり読んだりするのは『日本書紀』が中心で、次が『先代旧事本紀』、これは聖徳太子の御撰であるとして尊び、『古事記』はあまり重視されなかず、特にこの本に注目する人もいなかった。それが少し前からやっと『先代旧事本紀』は偽書だということになり、『古事記』が注目されるようになった。これはまったく私の先生・賀茂真淵によって学問が開けてきたおかげである。本当に『古事記』は、漢文の文飾無く、ただ、古えからの伝説のままにて、記述の仕方も昔のままで他に例が無く、上代のことを知る上でこれに勝る本はなく、また「神代」のことも『日本書紀』より詳しくたくさん書かれているので、「道を知る」と言う目的からは第一の古典だ。古学を学ぼうとする者が、最も尊み、学ぶのは本書でなければならない。そのために私は壮年より、数十年の間、心力を尽くして、『古事記伝』44巻を執筆し、古学の道しるべとしてきた。『古事記』は、古伝説のままを記述した本なのに、文章が漢文のようではないかと思われるかもしれないが、奈良時代までは仮名が無く、文章は漢文で書いていたためである。そもそも文字や本は、もともとは中国から伝わってきたもので、日本に伝来しても使用法はむこうのままで書き始めた。ひらがなやカタカナが出来たのは平安時代以降だ。好きで漢文で書いたのではない。これしか方法がなかったのだ」
【原文】
「道をしらんためには、殊に古事記を先とすべし、まづ神典は、旧事紀、古事記、日本紀を昔より、三部の本書といひて、其中に世の学者の学ぶところ、日本紀をむねとし、次に旧事紀は、聖徳太子の御撰として、これを用ひて、古事記をば、さのみたふとまず、深く心を用る人もなかりし也、然るに近き世に至りてやうやう、旧事紀は信の書にあらず、後の人の撰び成せる物なることをしりそめて、今はをさをさこれを用る人はなきやうになりて、古事記のたふときことをしれる人多くなれる、これ全く吾師ノ大人の教ヘによりて、学問の道大にひらけたるが故也。まことに古事記は、漢文のかざりをまじへたることなどなく、ただ、古へよりの伝説のまゝにて、記しざまいといとめでたく、上代の有さまをしるにこれにしく物なく、そのうへ神代の事も、書紀よりは、つぶさに多くしるされたれば、道をしる第一の古典にして、古学のともがらの、尤尊み学ぶべきは此書也、然るゆゑに、己レ壮年より、数十年の間、心力を尽くして、此記の伝四十四巻をあらはして、いにしへ学ビのしるべとせり。さて此記は、古伝説のまゝにしるせる書なるに、その文のなほ漢文ざまなるはいかにといふに、奈良の御代までは、仮字文といふことはなかりし故に、書はおしなべて漢文に書るならひなりき。そもそも文字書籍は、もと漢国より出たる物なれば、皇国に渡り来ても、その用ひやう、かの国にて物をしるす法のままにならひて書キそめたるにて、こゝかしこと、語のふりはたがへることあれども、片仮字も平仮字もなき以前は、はじめよりのならひのまゝに、物はみな漢文に書たりし也。仮字文といふ物は、いろは仮字出来て後の事也、いろは仮字は、今の京になりて後に、出来たり。されば古書のみな漢文なるは、古への世のなべてならひにこそあれ。後世のごとく、好みて漢文に書けるにはあらず。」『うひ山ふみ』
「道を知るためには第一に『古事記』である。神典は、『先代旧事本紀』、『古事記』、『日本書紀』を昔から、三部の書と言って、その中でも研究したり読んだりするのは『日本書紀』が中心で、次が『先代旧事本紀』、これは聖徳太子の御撰であるとして尊び、『古事記』はあまり重視されなかず、特にこの本に注目する人もいなかった。それが少し前からやっと『先代旧事本紀』は偽書だということになり、『古事記』が注目されるようになった。これはまったく私の先生・賀茂真淵によって学問が開けてきたおかげである。本当に『古事記』は、漢文の文飾無く、ただ、古えからの伝説のままにて、記述の仕方も昔のままで他に例が無く、上代のことを知る上でこれに勝る本はなく、また「神代」のことも『日本書紀』より詳しくたくさん書かれているので、「道を知る」と言う目的からは第一の古典だ。古学を学ぼうとする者が、最も尊み、学ぶのは本書でなければならない。そのために私は壮年より、数十年の間、心力を尽くして、『古事記伝』44巻を執筆し、古学の道しるべとしてきた。『古事記』は、古伝説のままを記述した本なのに、文章が漢文のようではないかと思われるかもしれないが、奈良時代までは仮名が無く、文章は漢文で書いていたためである。そもそも文字や本は、もともとは中国から伝わってきたもので、日本に伝来しても使用法はむこうのままで書き始めた。ひらがなやカタカナが出来たのは平安時代以降だ。好きで漢文で書いたのではない。これしか方法がなかったのだ」
【原文】
「道をしらんためには、殊に古事記を先とすべし、まづ神典は、旧事紀、古事記、日本紀を昔より、三部の本書といひて、其中に世の学者の学ぶところ、日本紀をむねとし、次に旧事紀は、聖徳太子の御撰として、これを用ひて、古事記をば、さのみたふとまず、深く心を用る人もなかりし也、然るに近き世に至りてやうやう、旧事紀は信の書にあらず、後の人の撰び成せる物なることをしりそめて、今はをさをさこれを用る人はなきやうになりて、古事記のたふときことをしれる人多くなれる、これ全く吾師ノ大人の教ヘによりて、学問の道大にひらけたるが故也。まことに古事記は、漢文のかざりをまじへたることなどなく、ただ、古へよりの伝説のまゝにて、記しざまいといとめでたく、上代の有さまをしるにこれにしく物なく、そのうへ神代の事も、書紀よりは、つぶさに多くしるされたれば、道をしる第一の古典にして、古学のともがらの、尤尊み学ぶべきは此書也、然るゆゑに、己レ壮年より、数十年の間、心力を尽くして、此記の伝四十四巻をあらはして、いにしへ学ビのしるべとせり。さて此記は、古伝説のまゝにしるせる書なるに、その文のなほ漢文ざまなるはいかにといふに、奈良の御代までは、仮字文といふことはなかりし故に、書はおしなべて漢文に書るならひなりき。そもそも文字書籍は、もと漢国より出たる物なれば、皇国に渡り来ても、その用ひやう、かの国にて物をしるす法のままにならひて書キそめたるにて、こゝかしこと、語のふりはたがへることあれども、片仮字も平仮字もなき以前は、はじめよりのならひのまゝに、物はみな漢文に書たりし也。仮字文といふ物は、いろは仮字出来て後の事也、いろは仮字は、今の京になりて後に、出来たり。されば古書のみな漢文なるは、古への世のなべてならひにこそあれ。後世のごとく、好みて漢文に書けるにはあらず。」『うひ山ふみ』
(C)本居宣長記念館
宣長の最終講義の場所
享和元年(1801)宣長は最後の京都行きを行う。
その時に滞在先となった四条烏丸に
「鈴屋大人偶講学旧址」
という石碑が建っていることは、「四条烏丸の宣長」
に紹介し、近く周りの整備がなされる予定だと書いた。
昨日、ようやく現地を確認することが出来ました。
位置は前とほぼ同じ烏丸通り南。
京都ダイヤビル(JOSEPH)と隣の建物との境である。
今回の工事で石碑裏面に記された
「山上忠麿建之」
の文字も読むことが出来るようになった。
ちょっと残念なのは、説明板がないので、
近くを通る人も、なんだろうと言う顔で過ぎて行かれること。
ビルの警備の方も、聞かれることもあるがわからないと答えているとのこと。
何れにしても無事に移転が終了しました。
ビルの所有者、また工事関係者に厚く御礼申し上げます。
その時に滞在先となった四条烏丸に
「鈴屋大人偶講学旧址」
という石碑が建っていることは、「四条烏丸の宣長」
に紹介し、近く周りの整備がなされる予定だと書いた。
昨日、ようやく現地を確認することが出来ました。
位置は前とほぼ同じ烏丸通り南。
京都ダイヤビル(JOSEPH)と隣の建物との境である。
今回の工事で石碑裏面に記された
「山上忠麿建之」
の文字も読むことが出来るようになった。
ちょっと残念なのは、説明板がないので、
近くを通る人も、なんだろうと言う顔で過ぎて行かれること。
ビルの警備の方も、聞かれることもあるがわからないと答えているとのこと。
何れにしても無事に移転が終了しました。
ビルの所有者、また工事関係者に厚く御礼申し上げます。
鈴屋大人偶講学旧址
鈴屋大人偶講学旧址
(C)本居宣長記念館
宣長の修学旅行
19歳の晩春、宣長は二度目の上京をする。
『日記(万覚)』に「同五年【戊辰】四月、近江州多賀ニ参ジ京城ニ入、同五月上旬帰郷、其間記」として主な参詣地が記される。
洛中洛外、参拝社寺は延べ93箇所にのぼり、芝居に祭りと優雅な旅である。『都考抜書』で培われた京都の知識が存分に生かされた。それにしても、当時の家の収入は、義兄の扶養家族のようなもので、預けた金の利息だけで生活していた。一家には負担が大きかったことと推察される。この年の7月、山田(伊勢市)今井田家養子の話が決まるのだが、そのような話は以前から出ていたのだろう。家を出るであろう息子へのはなむけか。あるいは「引きこもり」の息子への転地療法か。
4月5日(1748年5月2日) 松坂出発。
◇津・観音堂
◇国府阿弥陀
津の観音堂(恵日山観音寺)の傍らにあった。縁起等不明(『伊勢参宮名所図会』巻3)。
◇専修寺
関泊。宿、酒屋善兵衛(宝暦2年3月5日に泊まった酒屋と同じか)。
4月6日
近江国石原泊。
4月7日
◇多賀大社参詣。「伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり」(『古事記』)。 高宮泊。中山道の宿場。多賀大社から約1里。京まで16里6丁。
4月8日
草津泊。宿、藤屋(宝暦2年3月6日、宝暦3年3月6日にも宿泊)。藤屋与左衛門という家であろうか。
4月9日
◇石山寺参詣。謡曲「源氏供養」の舞台。
◇三井寺参詣。謡曲「三井寺」の舞台。
小関越で山科に出、京都着。宿、三条橋東尾張屋某。
4月10日
◇建仁寺参詣。
◇大仏殿近隣参詣。
◇今熊野観音寺参詣。「泉涌寺ノ北也、白川ノ法皇三熊野ノ権現ヲ勧進アリ、本尊ハ十一面観音也、御長一尺五寸、順礼十五番ノ札所也、弘法大師東寺ニ居玉フ時、東ノ山キシヨリ光明サシケレバ、アヤシミ跡ヲシタヒ玉フ、山中ニ至テ老人アラハレ、弘法ニ向ヒ、此山ニ観音マシマス、御長一寸八分、コレ天照大神ノ御作、衆生済渡ノ為ニ此地ニ来現アル、拝玉ヘトアレバ弘法ヤガテ拝シ玉フ、、又老人ノ云ク、願クハ此地ニ一宇ヲカマヘテ衆生利益シ玉ヘ、我ハ熊野ノ権現也、此地ノ守護神ト成ベシトテウセ玉フ、夫レヨリ神勅ニマカセ一宇建立セリ」(『都考抜書』)。
◇泉涌寺参詣。四条天皇から天皇家の墓所(『都名所図会』)。
◇小松谷正林寺(説法あり)。浄土宗、法然上人の旧跡。源頼朝とも手を結び宮廷政治の基礎を築いた九条兼実(1149-1207)ゆかりの地。兼実は法然を戒師として出家する。 宿、先斗町糸屋久右衛門亭(宝暦2年1月25日より2月1日まで宿泊、また宝暦7年1月23日、御忌参詣に上京した母等が泊まり、本居家の定宿であったらしい)。
4月11日
四条河の東にある通称「北」と呼ばれる芝居小屋で見物。演目は分からないが、当時、京では灸太郎座で「追善曽我揃」を、松兵衛座で「廓の船橋」を上演していたはず。宣長は芝居好き。
4月12日
◇粟田口庚申(金蔵寺)参詣。青蓮院御門跡。三猿堂、御猿堂がある。『都考抜書』では、庚申信仰、猿田彦との関わりについて詳しく述べ「都ノ内所々ニ庚申アリ、ワケテ此所ト八坂庚申ニ参詣多シ」と書く。
◇知恩院参詣。御座敷拝見。通誉上人御塔前参詣。大僧正より十念を授る。
☆通誉上人(1647~1716)は、樹敬寺23世超誉祖山上人の直弟子。知恩院44世となる。本居家過去帳の「南無阿弥陀仏」は通誉上人の筆。
◇一心院参詣。「智恩ノ境内山上○開山三蓮社縁誉称念上人吟応和尚、智恩ノ末寺」、「一心院ハカノ御廟ノ地是也、此所ニ紫雲水トテ有り」(『都考抜書』)。
☆開山称念上人は樹敬寺3世。
◇丸山長楽寺。「祇園ノ鳥居ノ東也・・本尊ハ十一面観音也、中興ハ阿證坊印誓上人ノ開基也、印誓ハ建礼門院ノ戒師トシテ御カザリオロシ奉ル、此御布施ニ安徳天皇ノ御衣ヲ玉ワリ、則チ幡ニヌイテ本尊ノ前ニ掛ラレタリ、此寺ニ毎年諸国ヨリ開帳ノボリ玉フテ花ノ比ハ参詣多シ」(『都考抜書』)。
◇東大谷参詣。
◇双林寺参詣。「本尊薬師仏、尾張ノ定鑑建立、此所モ丸山ト同ク遊山所也、寺内ニ西行法師秘蔵セシ桜一株アリ、又当寺ノ過去帳ニ、西行我名ヲ逆修ニ入ルゝ時、アヅサ弓ハヅルベシトハオモハネバナキ人数ニカネテ入カナ、此西行ハ、鳥羽院ノ北面ニテ、佐藤兵衛教清トイヘリシ者也、又此寺ニ平判官康頼、頓阿法師、西行ノ墓アリ、康頼鬼界カ嶋ヨリカヘリテ此所ニスミシト云」(『都考抜書』)。
◇祇園参詣。二軒茶屋で昼食。
◇高台寺参詣。「太閤秀吉公北ノ政所松ノ丸殿慶長年中ノ御建立也、古ハ洞家也シガ、今ハ済家ニテ建仁寺ノ末寺也・・当寺ハ伏見ノ御殿ヲ此所ヘウツシシ故ニ、其ケツカウイハンカタナシ、毎(イツモ)花ノ比ハ見物多シ」(『都考抜書』)。
◇八坂塔参詣。
◇清水寺参詣。本尊開帳。
◇六波羅密寺参詣。
◇錦天神宮参詣。
◇円福寺参詣。「寺町たこやくし・・浄土宗深草流義ノ一本寺也、本尊阿弥陀ハ円光大師ノ直作、イト殊勝也、当寺ニ鯉ノ地蔵トテ、レイケンアラタナル御仏アリ、古ヘハ鳥羽ニアリシガ此寺ニウツセリ、鳥羽ノ鯉塚ノ本尊、是也」(『都考抜書』)。
◇蛸薬師参詣。
◇胎帯地蔵参詣。
◇和泉式部寺参詣。「誓願寺ノツヅキ、寺領十石、此寺ハ試心院ト云共、和泉式部ガ住シ所ナレバ、寺号ヲイハズ和泉式部ト云、此寺ニ、軒端梅トテ式部ガ愛セシ白梅アリ、今ハ老木ナレド、盛リノ時ハイトウルハシ、和泉式部ハ上東門院ノ上房也、母ノ小式部ニ別 レシヨリ此寺ニコモリ、念仏三昧ニテ往生セリ、即式部ガ墓有、影アリ、四十バカリノ美尼ニテ、衣ヲキテ浅黄ノ帽子ヲカブレリ、一遍上人此寺ニテ六十万人ノ札ヲヒロメシ時、式部亡霊アラハレテ札ヲウケ、誓願寺ノ札ヲ六字ニカヘシト也、○ハラオビノ地蔵、トラヤクシ、一言観音ナドミナツヅキ也」(『都考抜書』)。
◇誓願寺参詣。謡曲「誓願寺」の舞台。
4月13日
◇革堂参詣。「行円ト云人、常ニ頭ニ宝冠ヲイタダキ革衣ヲキル、人ヨンデ革上人ト云、賀茂神社ノカタハラニ行願寺ヲ建、俗是ヲ革堂ト云、○革堂、昔ハ一条北ノ小川ニアリシ也、秀吉公ノ時、今ノ地ニウツス」(『都考抜書』)。
◇下御霊神社参詣。
◇御築地内散策。
◇禁裏眺望。
◇仙洞御所、其外諸御公家方ノ御屋敷散策。
◇相国寺参詣。「上立売烏丸・・後小松帝ノ明徳三年ニ将軍義満公ノ建立、夢想国師ノ開基、五山ノ内也・・又寺中ノ林光院ハ、古ヘ定家卿ノ時雨ノチンノ跡ト云ツタへシガ、不定也」(『都考抜書』)。
◇上賀茂神社参詣。
◇御菩薩(ミゾロ)池散策。「洛ノ北山也、昔シ行基僧正此所ニ行シ玉フ時ニ、弥勒菩薩此池ノ面ニ現ジ玉フ故ニ池ノ名トス、古ヘハ弓射人肩タメシトテ、此池上ヲ射通シ勢力ヲ見シガ、近代ハ三十三間堂デアルニヨツテ爰デハナシ、今都六地蔵ノ其一体爰ニ御座リマス」(『都考抜書』)。
◇下賀茂参詣。
◇百万遍参詣。「円光大師ノ弟子勢観坊ノ開基也、本尊ハ春日ノ御作也、・・近キ比、万霊和尚トテ名僧有、百万遍ノ数珠ヲ以テ病者ヲイヤシ、現世後生共ニタスケラレシヨリ以来数珠ヒロマリテ、知恩寺トハイハデ百万遍トノミ云」(『都考抜書』)。
◇吉田神社参詣。
◇黒谷参詣。方丈拝見、元祖安置仏拝見、正清院殿御霊廟拝見。「東山岡崎ニアリ、・・紫雲山金戒光明寺ト号ス、浄土宗鎮西四箇本寺ノ一也、本尊ハ恵心ノ作、開基円光大師、比叡山黒谷ヲ出玉フ時何カ我ガ念仏ノ繁盛シテ衆生済渡ノ誓願ヲ達セント、諸菩薩ニ祈誓アリシカバ、此所ヨリ紫雲タチノボリシカバ、爰コソ我法ノ弘マルベキ所也トテ跡ヲシメ玉ヘル也、サテコソ紫雲山トハ云也、此寺ニ熊谷次郎直実敦盛ノ石塔アリ、・・御本尊ハ円光大師直作也・・」(『都考抜書』)。「元祖大師鴨太神宮の神勅によつて浄土安心の要文を書し給ふ、是を一枚起請文といふ、【当山第一の什宝なり、毎歳六月廿五日虫干の日に是を出して詣人に拝せしむ】」(『都名所図会』)。
☆正清院殿は、紀伊国初代藩主浅野幸長(ヨシナガ)の弟で二代藩主長晟(ナガアキラ)の奥方、家康の三女振姫。振姫の最初の夫は、蒲生氏郷の子秀行。秀行と死別 した姫は、やがて蒲生家から出て浅野家に嫁ぐ。しかし藩主の子を生んだ振姫は、産後の肥立ち悪く亡くなる。火葬の場所が和歌山吹上寺、後に和歌山本居家の菩提寺となる。
「本堂ノ西ヨリ真如堂ノ方ニユクミチアリ」(『都考抜書』・『京城勝覧』から)
>> 「吹上寺」
◇真如堂参詣。「ムカシハ此寺、コノ所ノ東北ニ有、今ハモト真如堂村トテ民家アリ、チカシ、中ゴロハ京都寺町ニアリ、近年ココニウツル、門前ニチャ屋オホシ、遊人タエズ」『都考抜書』(『京城勝覧』から)。
4月14日、雨天。宿舎に留まるか。
4月15日
◇誓願寺参詣。二度目。
◇東本願寺参詣。「東六条、号泥恤院、天正十八年ノ建立也、親鸞ヨリ十一世ニ当ル顕如上人ヲ、当寺中興ノ開山トセリ、毎年親鸞ノ忌日十一月ニハ七日前ヨリ大法事ヲ行フ、是ヲ御取越ト云」(『都考抜書』)。
◇西本願寺参詣。「此寺ハ親鸞ノ廟所ニシテ・・建仁元年(親鸞)二十九歳ニシテ、六角堂ノ観音ニ百日参詣シテ、願クハ我ニ有縁ノ要法ヲシメシ、真ノ知識ニアフ事ヲシメシ玉ヘト祈念アリシニ、九十九日ニ満ヅル夜ノ夢ニ、末代出離ノ要路ヲヒラカンニハ、念仏ニシクハナシ、今法然苦海ヲ渡ス、彼所ニ至テ問フベシト示現アル、其比法然上人ハ東山吉水ニ住居シ玉ヘバ、彼室ニ至リ法然ニマミエテ、事ノ子細ヲカタレバ、上人念仏ノ安心ノ奥旨ヲ授ケ、ツイニ専念ノ宗旨ニ帰セリ、其後九条兼実ノ第七ノ姫君ヲ玉ハリ、門徒一向ノ宗流ヲハジメテヒロメタリ、カクテ亀山殿ノ弘長二年十一月廿八日、九十歳ニテ寂セリ、終焉ノ地ハ、万里小路通押小路ノ下ニアリ」(『都考抜書』)。
◇東寺参詣。
◇石清水八幡宮参詣。八幡昼食。
◇伏見藤森神社参詣。
◇稲荷大社参詣。
4月16日
◇祇園参詣。
◇長楽寺参詣。二度目。
◇東大谷参詣。
◇清水寺参詣。謡曲「田村」の舞台。
4月17日、雨天。宿舎に留まるか。
4月18日、雨天。夜六角堂参詣。
4月19日
◇葵祭下賀茂にて拝見。並競馬あり。「葵祭、四月二ノ酉ノ日也、下上ノ神宮同日ナリ、勅使近衛次将也、是ヲ近衛使ト云、内蔵寮ノ御幣御馬東遊走馬ヲタテマツラル、内蔵寮史生馬寮伶人陪従参向ス、山城介神事ノ警固ヲナシ、検非違使非常禦ク御車ヲマイラセラル、餝車ト云、下ノ神宮ヲ先ニシテ上ノ神宮ヲ後ニス、御神事等下上相同、前日禁裏院中ヘ社家ヨリ葵杜(アフヒカツラ)ヲ献上、此葵マツリ三百年来絶ヘタリシヲ、今上皇帝ノ東山院ノ元禄七戌年御再興也」(『都考抜書』)。
◇北野天満宮参詣。
◇壬生地蔵参詣。
>> 北野天満宮
4月21日
◇東福寺参詣。「霊宝多シ」。『在京日記』「(宝暦七年三月二十日)此寺霊宝おかまするは、伽藍修覆のため也、去ぬる辰の年にもおかませ侍りし、その時ものほりてまいりし」。 七つ半過ぎ(夕方6時頃)、伏見京橋より三十間船で京出立、大坂に向かう。一人48文。夜八つ半過ぎ(午前2時頃)大坂八間屋着。梶木町八丁目若江屋七兵衛宅に宿る。
4月22日(1748年5月19日)
◇表御堂(本願寺津村別院)辺を廻る。
◇裏御堂(難波別院)参詣。
◇座間大明神参詣。座間(イカスリ)神社は大阪市東区渡辺町に鎮座する延喜式内社。遙か後年の嘉永4年(1851)5月、同社神主佐久良東雄が宣長の『秘本玉くしげ』を刊行した。
>>『玉くしげ』
4月23日
◇道頓堀で芝居見物。宣長に見た芝居の名前は分からないが、大坂、中村十蔵座では「平等院蛍合戦」を、また市川龍蔵座では「東海道子捨梅」を上演していた。
◇一心寺参詣。【茶臼山見ユ、寺内ニ本多出雲守忠朝討死所、墓アリ】
◇天王寺参詣。
◇生玉宮参詣。
◇高津宮参詣。
◇御城見学。
◇高麗橋
4月24日
◇天満天神宮参詣し、山崎宝寺観音開帳、湯殿山大日如来開帳を見る。 日ノ入前、乗船。伏見に上る。船賃は1人103文。 4月25日 辰ノ刻(午前7時)、伏見京橋に着く。
◇宇治平等院参詣。宇治は、謡曲「頼政」、「浮舟」の舞台。
◇興聖寺参詣。「仏徳山ト号ス、曹洞宗也、此寺、本ハ深草ニ有、久敷寺絶ヘタリシヲ、永井信斎淀ノ城主タリシ時、此地ニ再興セラル、塔頭東禅院ヨリ宇治川ヲ望ム、最モ佳景也、東禅院ノ前、川ハタニアル小菴ヲ観流亭ト云、奇石多シ、東禅院ノ東ニ薬師堂有、宇治ノ北ノ出口ニ浮舟社有、事好ム者コレヲ立タルナルベシ、大鳳寺村、ウヂノ東北ニ有町アリ、富商多シ、茶ヲ多クウユル所也」(『都考抜書』)。
◇恵心院参詣。「興聖寺ノ西北也」(『都考抜書』)。
◇離宮参詣。「此社ヲ、里俗八幡ト云ハアヤマリ也、山崎ニ離宮八幡アリ、故ニ此所モ」
◇三室戸参詣。本尊開帳。「三室戸ハ興聖寺ノ北山谷ニノ内十町許ニ有、観音堂アリ、順礼ノ札所也」(『都考抜書』)。
◇黄檗山参詣。 三条大橋東宿屋松屋権兵衛亭に泊まる。
◇同夜、錦天神宮参詣。
4月26日
◇南禅寺参詣。方丈座敷拝見。
◇永観堂参詣。
◇光雲寺参詣。
◇獅子谷散策。
◇銀閣寺参詣。「東山浄土寺村ニアリ、・・足利将軍八代義政公閑居ノ地ニテ、東山殿ト申、禅宗ヲ帰依シ、無窓国師ヲ開山トナシ玉フ、方丈ノ東北ニ書院アリ、同仁斎(ニンサイ)ト号シ四畳半敷也、世ニ茶ノ湯ニ四畳半ハ是ヨリ初ル、又方丈ノ南庭池水ノ西ニ閣ヲ作リ、銀バクヲ以テサイ色シ、西山ノ金閣ヲウツシ、其ケツカウイフハカリナシ、閣ノ第一重ヲ心空院トナヅク、第二重ヲ潮音閣ト云、又書院ニ順月ノ額アリ、義政公ハ風流ノ名将ニテ、種々ノ奇物ヲ愛セラレ、茶亭ヲ好ミ玉ヒ、ワケテ掛物マキ絵ノ道具マデ東山時代トテ世ニ秘蔵セリ」(『都考抜書』)。
◇真如堂参詣。二度目。其折節本尊開帳。「東山神楽岡ニアリ・・鈴声山ト云事ハ、此寺ムカシ神楽岡ノフモトニアリケレバ、カク名ツケタリ、神楽岡ハ、ムカシ天照大神天ノ岩戸ニコモラセ玉ヒシ時、八百万ノ神タチヲアツメ、神議(ハカリ)ニハカリ玉ヒテ神楽ヲ奏シ玉ヒシ時、其音ノ聞ヘシ所トカヤ、抑(ソモソモ)此寺ノ本尊ハ慈覚大師ノ作也・・」(『都考抜書』)。
4月28日
◇二条城散策。
◇北野天満宮。
◇平野社参詣。
◇金閣寺参詣。
◇等持寺参詣。
◇妙心寺参詣。
◇仁和寺参詣。「代々親王ノ御法務ニテ、門跡ト称シ玉フ事ハ、此寺ヨリハジマリケルトカヤ、御室ト云ハ宇多帝御出家ノ後、延喜元年十二月ニ御室(ヲムロ)ヲ此所ニ建サセ玉フユヘ也・・花ノ比ハ、八重桜多ク咲ミダレ、其外桜ノ諸木アリテ、花ノ都ノ第一トス」(『都考抜書』)。 ◇鳴滝村散策。 ◇広沢池散策。「仁和寺ノ西也、三五夜中新月色トハ此池也、或人云ク、月ヲ見ルニハ、池ノ西ノ方ニ居テ、東山ノ峯ヨリ出ル月ノ水ニウツルハ、タグヒナシト云リ、古へ、源頼政此池ニテ、古ヘノ人ハミギハニ影タヘテ月ノミノコル広沢ノ池」(『都考抜書』)。
◇嵯峨釈迦堂参詣。謡曲「百万」の舞台。
◇天竜寺参詣。
◇法輪寺参詣。
◇松尾社参詣。
4月29日
◇知恩院参詣。
◇祇園参詣。
◇高台寺参詣。
◇清水寺参詣。二度目。「開帳、アクル朔日迄」
◇西大谷参詣。
◇小松谷大仏参詣。
5月1日
5月2日
◇朝鮮人入洛を七条通油小路西で見る。この時の朝鮮通信使は、正使洪啓禧、副使南泰耆、従事官曹命采で、総人員は475名(内83名が大坂残留)。将軍徳川家重襲職祝賀のための来日。同年、『朝鮮王使来朝』書写か(宣長全集・別2-解題44)。宣長が京都で見た、延享5年(寛延元年)第18回朝鮮通信使の江戸での記録。次の宝暦14年、第19回目の来朝使節の噂も『日記』には記録されている。
5月3日
◇朝鮮人の京都発足を、三条橋東旅宿松屋権兵衛亭で見る。
5月4日、京出立、石部泊。宿は大黒屋。
5月5日、関泊。宿は菱屋。
5月6日、松坂帰着。
『日記(万覚)』に「同五年【戊辰】四月、近江州多賀ニ参ジ京城ニ入、同五月上旬帰郷、其間記」として主な参詣地が記される。
洛中洛外、参拝社寺は延べ93箇所にのぼり、芝居に祭りと優雅な旅である。『都考抜書』で培われた京都の知識が存分に生かされた。それにしても、当時の家の収入は、義兄の扶養家族のようなもので、預けた金の利息だけで生活していた。一家には負担が大きかったことと推察される。この年の7月、山田(伊勢市)今井田家養子の話が決まるのだが、そのような話は以前から出ていたのだろう。家を出るであろう息子へのはなむけか。あるいは「引きこもり」の息子への転地療法か。
4月5日(1748年5月2日) 松坂出発。
◇津・観音堂
◇国府阿弥陀
津の観音堂(恵日山観音寺)の傍らにあった。縁起等不明(『伊勢参宮名所図会』巻3)。
◇専修寺
関泊。宿、酒屋善兵衛(宝暦2年3月5日に泊まった酒屋と同じか)。
4月6日
近江国石原泊。
4月7日
◇多賀大社参詣。「伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり」(『古事記』)。 高宮泊。中山道の宿場。多賀大社から約1里。京まで16里6丁。
4月8日
草津泊。宿、藤屋(宝暦2年3月6日、宝暦3年3月6日にも宿泊)。藤屋与左衛門という家であろうか。
4月9日
◇石山寺参詣。謡曲「源氏供養」の舞台。
◇三井寺参詣。謡曲「三井寺」の舞台。
小関越で山科に出、京都着。宿、三条橋東尾張屋某。
4月10日
◇建仁寺参詣。
◇大仏殿近隣参詣。
◇今熊野観音寺参詣。「泉涌寺ノ北也、白川ノ法皇三熊野ノ権現ヲ勧進アリ、本尊ハ十一面観音也、御長一尺五寸、順礼十五番ノ札所也、弘法大師東寺ニ居玉フ時、東ノ山キシヨリ光明サシケレバ、アヤシミ跡ヲシタヒ玉フ、山中ニ至テ老人アラハレ、弘法ニ向ヒ、此山ニ観音マシマス、御長一寸八分、コレ天照大神ノ御作、衆生済渡ノ為ニ此地ニ来現アル、拝玉ヘトアレバ弘法ヤガテ拝シ玉フ、、又老人ノ云ク、願クハ此地ニ一宇ヲカマヘテ衆生利益シ玉ヘ、我ハ熊野ノ権現也、此地ノ守護神ト成ベシトテウセ玉フ、夫レヨリ神勅ニマカセ一宇建立セリ」(『都考抜書』)。
◇泉涌寺参詣。四条天皇から天皇家の墓所(『都名所図会』)。
◇小松谷正林寺(説法あり)。浄土宗、法然上人の旧跡。源頼朝とも手を結び宮廷政治の基礎を築いた九条兼実(1149-1207)ゆかりの地。兼実は法然を戒師として出家する。 宿、先斗町糸屋久右衛門亭(宝暦2年1月25日より2月1日まで宿泊、また宝暦7年1月23日、御忌参詣に上京した母等が泊まり、本居家の定宿であったらしい)。
4月11日
四条河の東にある通称「北」と呼ばれる芝居小屋で見物。演目は分からないが、当時、京では灸太郎座で「追善曽我揃」を、松兵衛座で「廓の船橋」を上演していたはず。宣長は芝居好き。
4月12日
◇粟田口庚申(金蔵寺)参詣。青蓮院御門跡。三猿堂、御猿堂がある。『都考抜書』では、庚申信仰、猿田彦との関わりについて詳しく述べ「都ノ内所々ニ庚申アリ、ワケテ此所ト八坂庚申ニ参詣多シ」と書く。
◇知恩院参詣。御座敷拝見。通誉上人御塔前参詣。大僧正より十念を授る。
☆通誉上人(1647~1716)は、樹敬寺23世超誉祖山上人の直弟子。知恩院44世となる。本居家過去帳の「南無阿弥陀仏」は通誉上人の筆。
◇一心院参詣。「智恩ノ境内山上○開山三蓮社縁誉称念上人吟応和尚、智恩ノ末寺」、「一心院ハカノ御廟ノ地是也、此所ニ紫雲水トテ有り」(『都考抜書』)。
☆開山称念上人は樹敬寺3世。
◇丸山長楽寺。「祇園ノ鳥居ノ東也・・本尊ハ十一面観音也、中興ハ阿證坊印誓上人ノ開基也、印誓ハ建礼門院ノ戒師トシテ御カザリオロシ奉ル、此御布施ニ安徳天皇ノ御衣ヲ玉ワリ、則チ幡ニヌイテ本尊ノ前ニ掛ラレタリ、此寺ニ毎年諸国ヨリ開帳ノボリ玉フテ花ノ比ハ参詣多シ」(『都考抜書』)。
◇東大谷参詣。
◇双林寺参詣。「本尊薬師仏、尾張ノ定鑑建立、此所モ丸山ト同ク遊山所也、寺内ニ西行法師秘蔵セシ桜一株アリ、又当寺ノ過去帳ニ、西行我名ヲ逆修ニ入ルゝ時、アヅサ弓ハヅルベシトハオモハネバナキ人数ニカネテ入カナ、此西行ハ、鳥羽院ノ北面ニテ、佐藤兵衛教清トイヘリシ者也、又此寺ニ平判官康頼、頓阿法師、西行ノ墓アリ、康頼鬼界カ嶋ヨリカヘリテ此所ニスミシト云」(『都考抜書』)。
◇祇園参詣。二軒茶屋で昼食。
◇高台寺参詣。「太閤秀吉公北ノ政所松ノ丸殿慶長年中ノ御建立也、古ハ洞家也シガ、今ハ済家ニテ建仁寺ノ末寺也・・当寺ハ伏見ノ御殿ヲ此所ヘウツシシ故ニ、其ケツカウイハンカタナシ、毎(イツモ)花ノ比ハ見物多シ」(『都考抜書』)。
◇八坂塔参詣。
◇清水寺参詣。本尊開帳。
◇六波羅密寺参詣。
◇錦天神宮参詣。
◇円福寺参詣。「寺町たこやくし・・浄土宗深草流義ノ一本寺也、本尊阿弥陀ハ円光大師ノ直作、イト殊勝也、当寺ニ鯉ノ地蔵トテ、レイケンアラタナル御仏アリ、古ヘハ鳥羽ニアリシガ此寺ニウツセリ、鳥羽ノ鯉塚ノ本尊、是也」(『都考抜書』)。
◇蛸薬師参詣。
◇胎帯地蔵参詣。
◇和泉式部寺参詣。「誓願寺ノツヅキ、寺領十石、此寺ハ試心院ト云共、和泉式部ガ住シ所ナレバ、寺号ヲイハズ和泉式部ト云、此寺ニ、軒端梅トテ式部ガ愛セシ白梅アリ、今ハ老木ナレド、盛リノ時ハイトウルハシ、和泉式部ハ上東門院ノ上房也、母ノ小式部ニ別 レシヨリ此寺ニコモリ、念仏三昧ニテ往生セリ、即式部ガ墓有、影アリ、四十バカリノ美尼ニテ、衣ヲキテ浅黄ノ帽子ヲカブレリ、一遍上人此寺ニテ六十万人ノ札ヲヒロメシ時、式部亡霊アラハレテ札ヲウケ、誓願寺ノ札ヲ六字ニカヘシト也、○ハラオビノ地蔵、トラヤクシ、一言観音ナドミナツヅキ也」(『都考抜書』)。
◇誓願寺参詣。謡曲「誓願寺」の舞台。
4月13日
◇革堂参詣。「行円ト云人、常ニ頭ニ宝冠ヲイタダキ革衣ヲキル、人ヨンデ革上人ト云、賀茂神社ノカタハラニ行願寺ヲ建、俗是ヲ革堂ト云、○革堂、昔ハ一条北ノ小川ニアリシ也、秀吉公ノ時、今ノ地ニウツス」(『都考抜書』)。
◇下御霊神社参詣。
◇御築地内散策。
◇禁裏眺望。
◇仙洞御所、其外諸御公家方ノ御屋敷散策。
◇相国寺参詣。「上立売烏丸・・後小松帝ノ明徳三年ニ将軍義満公ノ建立、夢想国師ノ開基、五山ノ内也・・又寺中ノ林光院ハ、古ヘ定家卿ノ時雨ノチンノ跡ト云ツタへシガ、不定也」(『都考抜書』)。
◇上賀茂神社参詣。
◇御菩薩(ミゾロ)池散策。「洛ノ北山也、昔シ行基僧正此所ニ行シ玉フ時ニ、弥勒菩薩此池ノ面ニ現ジ玉フ故ニ池ノ名トス、古ヘハ弓射人肩タメシトテ、此池上ヲ射通シ勢力ヲ見シガ、近代ハ三十三間堂デアルニヨツテ爰デハナシ、今都六地蔵ノ其一体爰ニ御座リマス」(『都考抜書』)。
◇下賀茂参詣。
◇百万遍参詣。「円光大師ノ弟子勢観坊ノ開基也、本尊ハ春日ノ御作也、・・近キ比、万霊和尚トテ名僧有、百万遍ノ数珠ヲ以テ病者ヲイヤシ、現世後生共ニタスケラレシヨリ以来数珠ヒロマリテ、知恩寺トハイハデ百万遍トノミ云」(『都考抜書』)。
◇吉田神社参詣。
◇黒谷参詣。方丈拝見、元祖安置仏拝見、正清院殿御霊廟拝見。「東山岡崎ニアリ、・・紫雲山金戒光明寺ト号ス、浄土宗鎮西四箇本寺ノ一也、本尊ハ恵心ノ作、開基円光大師、比叡山黒谷ヲ出玉フ時何カ我ガ念仏ノ繁盛シテ衆生済渡ノ誓願ヲ達セント、諸菩薩ニ祈誓アリシカバ、此所ヨリ紫雲タチノボリシカバ、爰コソ我法ノ弘マルベキ所也トテ跡ヲシメ玉ヘル也、サテコソ紫雲山トハ云也、此寺ニ熊谷次郎直実敦盛ノ石塔アリ、・・御本尊ハ円光大師直作也・・」(『都考抜書』)。「元祖大師鴨太神宮の神勅によつて浄土安心の要文を書し給ふ、是を一枚起請文といふ、【当山第一の什宝なり、毎歳六月廿五日虫干の日に是を出して詣人に拝せしむ】」(『都名所図会』)。
☆正清院殿は、紀伊国初代藩主浅野幸長(ヨシナガ)の弟で二代藩主長晟(ナガアキラ)の奥方、家康の三女振姫。振姫の最初の夫は、蒲生氏郷の子秀行。秀行と死別 した姫は、やがて蒲生家から出て浅野家に嫁ぐ。しかし藩主の子を生んだ振姫は、産後の肥立ち悪く亡くなる。火葬の場所が和歌山吹上寺、後に和歌山本居家の菩提寺となる。
「本堂ノ西ヨリ真如堂ノ方ニユクミチアリ」(『都考抜書』・『京城勝覧』から)
>> 「吹上寺」
◇真如堂参詣。「ムカシハ此寺、コノ所ノ東北ニ有、今ハモト真如堂村トテ民家アリ、チカシ、中ゴロハ京都寺町ニアリ、近年ココニウツル、門前ニチャ屋オホシ、遊人タエズ」『都考抜書』(『京城勝覧』から)。
4月14日、雨天。宿舎に留まるか。
4月15日
◇誓願寺参詣。二度目。
◇東本願寺参詣。「東六条、号泥恤院、天正十八年ノ建立也、親鸞ヨリ十一世ニ当ル顕如上人ヲ、当寺中興ノ開山トセリ、毎年親鸞ノ忌日十一月ニハ七日前ヨリ大法事ヲ行フ、是ヲ御取越ト云」(『都考抜書』)。
◇西本願寺参詣。「此寺ハ親鸞ノ廟所ニシテ・・建仁元年(親鸞)二十九歳ニシテ、六角堂ノ観音ニ百日参詣シテ、願クハ我ニ有縁ノ要法ヲシメシ、真ノ知識ニアフ事ヲシメシ玉ヘト祈念アリシニ、九十九日ニ満ヅル夜ノ夢ニ、末代出離ノ要路ヲヒラカンニハ、念仏ニシクハナシ、今法然苦海ヲ渡ス、彼所ニ至テ問フベシト示現アル、其比法然上人ハ東山吉水ニ住居シ玉ヘバ、彼室ニ至リ法然ニマミエテ、事ノ子細ヲカタレバ、上人念仏ノ安心ノ奥旨ヲ授ケ、ツイニ専念ノ宗旨ニ帰セリ、其後九条兼実ノ第七ノ姫君ヲ玉ハリ、門徒一向ノ宗流ヲハジメテヒロメタリ、カクテ亀山殿ノ弘長二年十一月廿八日、九十歳ニテ寂セリ、終焉ノ地ハ、万里小路通押小路ノ下ニアリ」(『都考抜書』)。
◇東寺参詣。
◇石清水八幡宮参詣。八幡昼食。
◇伏見藤森神社参詣。
◇稲荷大社参詣。
4月16日
◇祇園参詣。
◇長楽寺参詣。二度目。
◇東大谷参詣。
◇清水寺参詣。謡曲「田村」の舞台。
4月17日、雨天。宿舎に留まるか。
4月18日、雨天。夜六角堂参詣。
4月19日
◇葵祭下賀茂にて拝見。並競馬あり。「葵祭、四月二ノ酉ノ日也、下上ノ神宮同日ナリ、勅使近衛次将也、是ヲ近衛使ト云、内蔵寮ノ御幣御馬東遊走馬ヲタテマツラル、内蔵寮史生馬寮伶人陪従参向ス、山城介神事ノ警固ヲナシ、検非違使非常禦ク御車ヲマイラセラル、餝車ト云、下ノ神宮ヲ先ニシテ上ノ神宮ヲ後ニス、御神事等下上相同、前日禁裏院中ヘ社家ヨリ葵杜(アフヒカツラ)ヲ献上、此葵マツリ三百年来絶ヘタリシヲ、今上皇帝ノ東山院ノ元禄七戌年御再興也」(『都考抜書』)。
◇北野天満宮参詣。
◇壬生地蔵参詣。
>> 北野天満宮
4月21日
◇東福寺参詣。「霊宝多シ」。『在京日記』「(宝暦七年三月二十日)此寺霊宝おかまするは、伽藍修覆のため也、去ぬる辰の年にもおかませ侍りし、その時ものほりてまいりし」。 七つ半過ぎ(夕方6時頃)、伏見京橋より三十間船で京出立、大坂に向かう。一人48文。夜八つ半過ぎ(午前2時頃)大坂八間屋着。梶木町八丁目若江屋七兵衛宅に宿る。
4月22日(1748年5月19日)
◇表御堂(本願寺津村別院)辺を廻る。
◇裏御堂(難波別院)参詣。
◇座間大明神参詣。座間(イカスリ)神社は大阪市東区渡辺町に鎮座する延喜式内社。遙か後年の嘉永4年(1851)5月、同社神主佐久良東雄が宣長の『秘本玉くしげ』を刊行した。
>>『玉くしげ』
4月23日
◇道頓堀で芝居見物。宣長に見た芝居の名前は分からないが、大坂、中村十蔵座では「平等院蛍合戦」を、また市川龍蔵座では「東海道子捨梅」を上演していた。
◇一心寺参詣。【茶臼山見ユ、寺内ニ本多出雲守忠朝討死所、墓アリ】
◇天王寺参詣。
◇生玉宮参詣。
◇高津宮参詣。
◇御城見学。
◇高麗橋
4月24日
◇天満天神宮参詣し、山崎宝寺観音開帳、湯殿山大日如来開帳を見る。 日ノ入前、乗船。伏見に上る。船賃は1人103文。 4月25日 辰ノ刻(午前7時)、伏見京橋に着く。
◇宇治平等院参詣。宇治は、謡曲「頼政」、「浮舟」の舞台。
◇興聖寺参詣。「仏徳山ト号ス、曹洞宗也、此寺、本ハ深草ニ有、久敷寺絶ヘタリシヲ、永井信斎淀ノ城主タリシ時、此地ニ再興セラル、塔頭東禅院ヨリ宇治川ヲ望ム、最モ佳景也、東禅院ノ前、川ハタニアル小菴ヲ観流亭ト云、奇石多シ、東禅院ノ東ニ薬師堂有、宇治ノ北ノ出口ニ浮舟社有、事好ム者コレヲ立タルナルベシ、大鳳寺村、ウヂノ東北ニ有町アリ、富商多シ、茶ヲ多クウユル所也」(『都考抜書』)。
◇恵心院参詣。「興聖寺ノ西北也」(『都考抜書』)。
◇離宮参詣。「此社ヲ、里俗八幡ト云ハアヤマリ也、山崎ニ離宮八幡アリ、故ニ此所モ」
◇三室戸参詣。本尊開帳。「三室戸ハ興聖寺ノ北山谷ニノ内十町許ニ有、観音堂アリ、順礼ノ札所也」(『都考抜書』)。
◇黄檗山参詣。 三条大橋東宿屋松屋権兵衛亭に泊まる。
◇同夜、錦天神宮参詣。
4月26日
◇南禅寺参詣。方丈座敷拝見。
◇永観堂参詣。
◇光雲寺参詣。
◇獅子谷散策。
◇銀閣寺参詣。「東山浄土寺村ニアリ、・・足利将軍八代義政公閑居ノ地ニテ、東山殿ト申、禅宗ヲ帰依シ、無窓国師ヲ開山トナシ玉フ、方丈ノ東北ニ書院アリ、同仁斎(ニンサイ)ト号シ四畳半敷也、世ニ茶ノ湯ニ四畳半ハ是ヨリ初ル、又方丈ノ南庭池水ノ西ニ閣ヲ作リ、銀バクヲ以テサイ色シ、西山ノ金閣ヲウツシ、其ケツカウイフハカリナシ、閣ノ第一重ヲ心空院トナヅク、第二重ヲ潮音閣ト云、又書院ニ順月ノ額アリ、義政公ハ風流ノ名将ニテ、種々ノ奇物ヲ愛セラレ、茶亭ヲ好ミ玉ヒ、ワケテ掛物マキ絵ノ道具マデ東山時代トテ世ニ秘蔵セリ」(『都考抜書』)。
◇真如堂参詣。二度目。其折節本尊開帳。「東山神楽岡ニアリ・・鈴声山ト云事ハ、此寺ムカシ神楽岡ノフモトニアリケレバ、カク名ツケタリ、神楽岡ハ、ムカシ天照大神天ノ岩戸ニコモラセ玉ヒシ時、八百万ノ神タチヲアツメ、神議(ハカリ)ニハカリ玉ヒテ神楽ヲ奏シ玉ヒシ時、其音ノ聞ヘシ所トカヤ、抑(ソモソモ)此寺ノ本尊ハ慈覚大師ノ作也・・」(『都考抜書』)。
4月28日
◇二条城散策。
◇北野天満宮。
◇平野社参詣。
◇金閣寺参詣。
◇等持寺参詣。
◇妙心寺参詣。
◇仁和寺参詣。「代々親王ノ御法務ニテ、門跡ト称シ玉フ事ハ、此寺ヨリハジマリケルトカヤ、御室ト云ハ宇多帝御出家ノ後、延喜元年十二月ニ御室(ヲムロ)ヲ此所ニ建サセ玉フユヘ也・・花ノ比ハ、八重桜多ク咲ミダレ、其外桜ノ諸木アリテ、花ノ都ノ第一トス」(『都考抜書』)。 ◇鳴滝村散策。 ◇広沢池散策。「仁和寺ノ西也、三五夜中新月色トハ此池也、或人云ク、月ヲ見ルニハ、池ノ西ノ方ニ居テ、東山ノ峯ヨリ出ル月ノ水ニウツルハ、タグヒナシト云リ、古へ、源頼政此池ニテ、古ヘノ人ハミギハニ影タヘテ月ノミノコル広沢ノ池」(『都考抜書』)。
◇嵯峨釈迦堂参詣。謡曲「百万」の舞台。
◇天竜寺参詣。
◇法輪寺参詣。
◇松尾社参詣。
4月29日
◇知恩院参詣。
◇祇園参詣。
◇高台寺参詣。
◇清水寺参詣。二度目。「開帳、アクル朔日迄」
◇西大谷参詣。
◇小松谷大仏参詣。
5月1日
5月2日
◇朝鮮人入洛を七条通油小路西で見る。この時の朝鮮通信使は、正使洪啓禧、副使南泰耆、従事官曹命采で、総人員は475名(内83名が大坂残留)。将軍徳川家重襲職祝賀のための来日。同年、『朝鮮王使来朝』書写か(宣長全集・別2-解題44)。宣長が京都で見た、延享5年(寛延元年)第18回朝鮮通信使の江戸での記録。次の宝暦14年、第19回目の来朝使節の噂も『日記』には記録されている。
5月3日
◇朝鮮人の京都発足を、三条橋東旅宿松屋権兵衛亭で見る。
5月4日、京出立、石部泊。宿は大黒屋。
5月5日、関泊。宿は菱屋。
5月6日、松坂帰着。
(C)本居宣長記念館
宣長の書
宣長を書家として見る人、また評価する人はまずいない。宣長自身、自分の字は下手だと言う認識を示している。
随筆『玉勝間』巻6「手かく事」いう文章がある。そこでは次のようなことを書いている。
何よりもまず、先ず字は上手に書かねばならない。歌を詠んだり学問する人が拙い字を書くとそれだけで歌や学問まで胡散臭く見えてしまう。内容と文字は関係がないというのも確かに理屈ではあるが、やはり割り切れぬ気持ちが残る。私は字が下手で、いつも筆を取るたび、大変悔しい。こんなことは言っても仕方ないと思うが、それでも人から所望され、仕方なしに短冊を一枚書いてみるが、それを眺めると、我ながら、大変見苦しくぎくしゃくしている。人はこれをどうみるのかと思うと、恥ずかしさで胸が痛くなる。若い時にどうして手習いをしなかったのかと大変悔まれる。
これを読むと、宣長は手習いをしなかったように思われるが、実はかなりみっちりと習っている。8歳の8月より、西村三郎兵衛を師とし、「いろは」、「仮名文」、「教訓之書」、「商売往来」、「状」、及び『千字文』の「天地」等を習う。特に『千字文』は師を代えて半元服の13歳まで続いた。だが、それでは不充分だったのだ。
もう一つ重要なことがある。それは「人から所望されて短冊を書く」というのだが、その数たるや頗る多い。宣長は家業の木綿商を廃し、医業を学び、それで生計を立てる。国学者の台所は薬価料で賄われていたのだ。だが、学者としての名声が高まるにつれ、次第に収入源も変化を見せてくる。和歌を添削したりすることで礼金が入る。また門人となり束脩を納める人もいる。だが、それ以上に大きなウエートを占めたのが、「有名人宣長さん」に何か書いてもらおうと言う人たちであった。
しだいに、このような「認物」(シタタメモノ)と呼ばれる書の収入が家計を支えるようになった。『諸国文通贈答并認物扣』はそんな染筆の記録である。書家ではないが染筆料に頼る宣長。その家計や日常を記録したのも、実は宣長自身である。宣長は「記録の人」である。そしてその記録は没後200年たった今も、当時とほとんど同じ状態で、つまり完全保存されて伝わっている。
宣長と書と言う時に、特に注目されるのはこの点だ。
筆跡から言えば、『日記』を書き始めた13歳から、以後72歳まで各年齢の書がすべて残っている。しかも速筆の日常雑記、手に持った状態で書かれた詠草、謹直な文字で記された写本や稿本類までバリエーションも豊富である。少年期、青年期、壮年期、円熟期と一生の文字の変遷、宣長の場合それは少ないが、それでも60年という年月の中での変化は当然見て取ることが出来る。
さて、写本や稿本の宣長の字は、どこまで書き進んでも殆ど変化することがない。また書き損じが極めて少ない。疲れというものがないのか。穂先を切った筆に秘密があるのだよと言う人もいる。いずれにしても、宣長という人は、机に向かうと感情というものが無くなってしまうのではないか。例えて言えば、機械のような人ではなかったか。
決して冷たいというのではない。反対だ。宣長の学問の根底には人間の弱さの認識があった。それを覆い隠すものを「からごころ」と批判し、その弱い心こそが「物のあわれを知る心」であり、そこから歌が生まれると考えた人だ。だが、感情がほとばしるような、例えば師の賀茂真淵の書とは全く別だ。それは、その学問を象徴する字体でもある。
畢生の大著『古事記伝』。この注釈書の執筆は、先ず『古事記』への書き入れから始まる。そして草稿、再稿と書き進んでいく。全巻完成まで35年以上の歳月が費やされるが、入念な準備と研究、執筆、また出版の段取り、版下書、校正まで綿密に計画され、実行される。『古事記伝』を含め、宣長の著作で生前刊行分は30種に及ぶ。いずれも、書かれたものは殆ど改訂する必要がない程だ。核心へと迫る注釈の方法に「美しさ」を感じた人もいる。執筆から出版へのスムーズな作業の流れに「美しさ」を見た人もいる。
出版直後から改訂した真淵とは対照的だ。どちらが優れているというのではない。それぞれの資質と流儀はあるのだが、それにしても宣長の文字は、どこまでも坦々と書かれ、その人柄を偲ばせる。
随筆『玉勝間』巻6「手かく事」いう文章がある。そこでは次のようなことを書いている。
何よりもまず、先ず字は上手に書かねばならない。歌を詠んだり学問する人が拙い字を書くとそれだけで歌や学問まで胡散臭く見えてしまう。内容と文字は関係がないというのも確かに理屈ではあるが、やはり割り切れぬ気持ちが残る。私は字が下手で、いつも筆を取るたび、大変悔しい。こんなことは言っても仕方ないと思うが、それでも人から所望され、仕方なしに短冊を一枚書いてみるが、それを眺めると、我ながら、大変見苦しくぎくしゃくしている。人はこれをどうみるのかと思うと、恥ずかしさで胸が痛くなる。若い時にどうして手習いをしなかったのかと大変悔まれる。
これを読むと、宣長は手習いをしなかったように思われるが、実はかなりみっちりと習っている。8歳の8月より、西村三郎兵衛を師とし、「いろは」、「仮名文」、「教訓之書」、「商売往来」、「状」、及び『千字文』の「天地」等を習う。特に『千字文』は師を代えて半元服の13歳まで続いた。だが、それでは不充分だったのだ。
もう一つ重要なことがある。それは「人から所望されて短冊を書く」というのだが、その数たるや頗る多い。宣長は家業の木綿商を廃し、医業を学び、それで生計を立てる。国学者の台所は薬価料で賄われていたのだ。だが、学者としての名声が高まるにつれ、次第に収入源も変化を見せてくる。和歌を添削したりすることで礼金が入る。また門人となり束脩を納める人もいる。だが、それ以上に大きなウエートを占めたのが、「有名人宣長さん」に何か書いてもらおうと言う人たちであった。
しだいに、このような「認物」(シタタメモノ)と呼ばれる書の収入が家計を支えるようになった。『諸国文通贈答并認物扣』はそんな染筆の記録である。書家ではないが染筆料に頼る宣長。その家計や日常を記録したのも、実は宣長自身である。宣長は「記録の人」である。そしてその記録は没後200年たった今も、当時とほとんど同じ状態で、つまり完全保存されて伝わっている。
宣長と書と言う時に、特に注目されるのはこの点だ。
筆跡から言えば、『日記』を書き始めた13歳から、以後72歳まで各年齢の書がすべて残っている。しかも速筆の日常雑記、手に持った状態で書かれた詠草、謹直な文字で記された写本や稿本類までバリエーションも豊富である。少年期、青年期、壮年期、円熟期と一生の文字の変遷、宣長の場合それは少ないが、それでも60年という年月の中での変化は当然見て取ることが出来る。
さて、写本や稿本の宣長の字は、どこまで書き進んでも殆ど変化することがない。また書き損じが極めて少ない。疲れというものがないのか。穂先を切った筆に秘密があるのだよと言う人もいる。いずれにしても、宣長という人は、机に向かうと感情というものが無くなってしまうのではないか。例えて言えば、機械のような人ではなかったか。
決して冷たいというのではない。反対だ。宣長の学問の根底には人間の弱さの認識があった。それを覆い隠すものを「からごころ」と批判し、その弱い心こそが「物のあわれを知る心」であり、そこから歌が生まれると考えた人だ。だが、感情がほとばしるような、例えば師の賀茂真淵の書とは全く別だ。それは、その学問を象徴する字体でもある。
畢生の大著『古事記伝』。この注釈書の執筆は、先ず『古事記』への書き入れから始まる。そして草稿、再稿と書き進んでいく。全巻完成まで35年以上の歳月が費やされるが、入念な準備と研究、執筆、また出版の段取り、版下書、校正まで綿密に計画され、実行される。『古事記伝』を含め、宣長の著作で生前刊行分は30種に及ぶ。いずれも、書かれたものは殆ど改訂する必要がない程だ。核心へと迫る注釈の方法に「美しさ」を感じた人もいる。執筆から出版へのスムーズな作業の流れに「美しさ」を見た人もいる。
出版直後から改訂した真淵とは対照的だ。どちらが優れているというのではない。それぞれの資質と流儀はあるのだが、それにしても宣長の文字は、どこまでも坦々と書かれ、その人柄を偲ばせる。
(C)本居宣長記念館
宣長の書名
「玉」この言葉が入った書名は多い。『詞の玉緒』、『玉くしげ』、『秘本玉くしげ』、『玉あられ』、『万葉集玉の小琴』、『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』。これらは皆美しいという美称だ。美しい緒、美しい櫛箱、美しい小琴、美しい小櫛、美しい籠。では「玉あられ」は?これは、空から降ってくる「霰」のように、人に当たり、痛くはないが、人に気づかせる。そのような「霰」の美称だ。「玉」が付く書名の場合、その後に宣長の真意が隠されていることになる。
「後釈」この仲間には、『出雲国造神寿後釈』、『大祓詞後釈』がある。両方とも、師・賀茂真淵の『祝詞考』に注が載る。それを補正した内容なので「後釈」。師の説を「考云」として掲げ、その後に「後釈」として自説を述べる。真淵説と自説を並べたために、師弟の資質の違いがよく出ている。
「櫛」『玉くしげ』、『秘本玉くしげ』、『源氏物語玉の小櫛』。宣長が好きだったという櫛に因むのだろうか。といっても「櫛笥」は箱が問題で櫛そのものを指すわけではない。小櫛は髪を梳くということに意味がある。
「鈴屋」『鈴屋集』。もちろん書斎の名前、号に因む。
「石上」『石上集』、『石上私淑言』。
「後釈」この仲間には、『出雲国造神寿後釈』、『大祓詞後釈』がある。両方とも、師・賀茂真淵の『祝詞考』に注が載る。それを補正した内容なので「後釈」。師の説を「考云」として掲げ、その後に「後釈」として自説を述べる。真淵説と自説を並べたために、師弟の資質の違いがよく出ている。
「櫛」『玉くしげ』、『秘本玉くしげ』、『源氏物語玉の小櫛』。宣長が好きだったという櫛に因むのだろうか。といっても「櫛笥」は箱が問題で櫛そのものを指すわけではない。小櫛は髪を梳くということに意味がある。
「鈴屋」『鈴屋集』。もちろん書斎の名前、号に因む。
「石上」『石上集』、『石上私淑言』。
(C)本居宣長記念館
宣長の上京
延享2年(1745・16歳)2月21日~3月3日、
最初の上京。北野天満宮など参詣。
延享5年(1748・19歳)4月5日~5月6日、
近江から入京、洛南、大坂も巡る。目的はやはり寺社参詣だが、洛中洛外、参拝社寺は延べ93箇所にのぼり、芝居に祭りと優雅な旅である。『都考抜書』で培われた京都の知識が存分に生かされた。
宝暦2年(1752・23歳)1月22日~2月4日、
祖母について本山知恩院御忌法要参詣。
同年3月5日~宝暦7年(1757・28歳)10月6日、
京都遊学。途中帰省2回。
宝暦8年(1758・29歳)5月27日~6月9日、
養子の件。但し、不調。
寛政2年(1790・61歳)11月14日~28日、
御遷幸拝見。
寛政5年(1793・64歳)3月10日~4月29日、
妙法院宮に拝謁、春庭眼病治療、名古屋を経て帰宅。
寛政6年(1794・65歳)10月10日~12月4日、
和歌山の帰途京都に立ち寄る(閏11月26日入京)
享和元年(1801・72歳)3月28日~6月12日、
講釈。
最初の上京。北野天満宮など参詣。
延享5年(1748・19歳)4月5日~5月6日、
近江から入京、洛南、大坂も巡る。目的はやはり寺社参詣だが、洛中洛外、参拝社寺は延べ93箇所にのぼり、芝居に祭りと優雅な旅である。『都考抜書』で培われた京都の知識が存分に生かされた。
宝暦2年(1752・23歳)1月22日~2月4日、
祖母について本山知恩院御忌法要参詣。
同年3月5日~宝暦7年(1757・28歳)10月6日、
京都遊学。途中帰省2回。
宝暦8年(1758・29歳)5月27日~6月9日、
養子の件。但し、不調。
寛政2年(1790・61歳)11月14日~28日、
御遷幸拝見。
寛政5年(1793・64歳)3月10日~4月29日、
妙法院宮に拝謁、春庭眼病治療、名古屋を経て帰宅。
寛政6年(1794・65歳)10月10日~12月4日、
和歌山の帰途京都に立ち寄る(閏11月26日入京)
享和元年(1801・72歳)3月28日~6月12日、
講釈。
(C)本居宣長記念館
宣長の鈴
「宣長の鈴」と言えば、書斎に掛けられた柱掛鈴ですが、宣長さん遺愛の鈴として、「柱掛鈴」以外に、「駅鈴」とか「十字鈴」がよく知られています。ほかに、「茄子型古鈴」、「養老鈴」、「鬼面鈴」、「鉄鈴」、「八面型古鈴」もあり、本居家に伝わったそれら7つの鈴を「七種鈴」と呼びます。 この中で、宣長さんとの係わりがはっきりしているのは「駅鈴」と「十字鈴」、「鉄鈴」の3つです。
1,「駅鈴」
この鈴は、松平康定から頂いたもの。
「唐金の大きなる形、隠岐国造の家に古くつたはりたる形を鋳させて、松平周防守殿よりおくられたるなり」(春庭書付・但し現存せず)
寛政7年8月13日、石見浜田(今の島根県浜田市)藩主松平康定侯(1747~1807)が参宮の途中松坂に泊り、宣長の『源氏物語』講釈を聴講した。主君来訪に先立ち、臣・小篠敏が色紙を添えた「駅鈴」を持参した。
歌は 「かみつ世を かけつゝしぬぶ 鈴の屋の いすずの数に いらまくほしも、康定」 この歌は、掛軸に表装され、今も記念館に保存されている。
>>「プレゼントは隠岐の駅鈴」
2,「十字鈴」
友人(後に門人)・荒木田尚賢から、安永年間(1772~81)に貰った。
伊勢神宮神域、五十鈴川の川辺から出土したという。寛政12年12月、紀州藩主徳川治宝のご覧に入れた。
由緒は、『答問録』巻末に「殿の御前にそへて御覧ぜさせたる鈴之来由」として載る。
記念館では、十字鈴と呼び慣わしている。この名称は、松浦武四郎の『撥雲余興』でも使用されているという。また、本居家では「三鈴」、最近の考古学の世界では「鈴杏葉」と呼ぶ。埼玉県にある稲荷山古墳からもよく似た鈴が発見されたほか、類似品の出土例は多い。
【参考】
稲荷山古墳出土鈴の写真は、『重要文化財』第31巻補遺II(毎日新聞社)に載る。
「殿の御前にそへて御覧ぜさせたる鈴之来由」は【原文】を参照のこと。
【原文】
「殿の御前にそへて御覧ぜさせたる鈴之来由 古鈴出処之事、伊勢国度会郡神路山之内、内宮御境内五十鈴川之辺土中より掘出候古物、天明之頃、彼宮祠官、蓬莱雅楽荒木田神主尚賢許より、所贈与宣長所蔵之鈴也、寛政十二年庚申十二月、本居宣長」
(頭注「大平云、按ズルニ、安永年中也、若山客舎ニテ認ラレタル時、闇(暗)記ノマヽニテ天明ト記サレタル也」)
ここでは、宣長の記憶違いとする大平の説に従う。
3,「鉄鈴」
春庭によれば、京都で宣長が作らせたものだという。
「鉄のは故翁上京のをり古き形によりてさせられたる也、鉄はいと鋳がたく音もよくは出来がたきよし也」(春庭書付・但し現存せず)
もとは2つあり、1個は本居家に留められた。明治8年3月、山室山神社を創祠した時に、霊代とするため緒を紫から麻に変えた。明治22年9月、霊代を別に定めてこの鈴は返された。
1,「駅鈴」
この鈴は、松平康定から頂いたもの。
「唐金の大きなる形、隠岐国造の家に古くつたはりたる形を鋳させて、松平周防守殿よりおくられたるなり」(春庭書付・但し現存せず)
寛政7年8月13日、石見浜田(今の島根県浜田市)藩主松平康定侯(1747~1807)が参宮の途中松坂に泊り、宣長の『源氏物語』講釈を聴講した。主君来訪に先立ち、臣・小篠敏が色紙を添えた「駅鈴」を持参した。
歌は 「かみつ世を かけつゝしぬぶ 鈴の屋の いすずの数に いらまくほしも、康定」 この歌は、掛軸に表装され、今も記念館に保存されている。
>>「プレゼントは隠岐の駅鈴」
2,「十字鈴」
友人(後に門人)・荒木田尚賢から、安永年間(1772~81)に貰った。
伊勢神宮神域、五十鈴川の川辺から出土したという。寛政12年12月、紀州藩主徳川治宝のご覧に入れた。
由緒は、『答問録』巻末に「殿の御前にそへて御覧ぜさせたる鈴之来由」として載る。
記念館では、十字鈴と呼び慣わしている。この名称は、松浦武四郎の『撥雲余興』でも使用されているという。また、本居家では「三鈴」、最近の考古学の世界では「鈴杏葉」と呼ぶ。埼玉県にある稲荷山古墳からもよく似た鈴が発見されたほか、類似品の出土例は多い。
【参考】
稲荷山古墳出土鈴の写真は、『重要文化財』第31巻補遺II(毎日新聞社)に載る。
「殿の御前にそへて御覧ぜさせたる鈴之来由」は【原文】を参照のこと。
【原文】
「殿の御前にそへて御覧ぜさせたる鈴之来由 古鈴出処之事、伊勢国度会郡神路山之内、内宮御境内五十鈴川之辺土中より掘出候古物、天明之頃、彼宮祠官、蓬莱雅楽荒木田神主尚賢許より、所贈与宣長所蔵之鈴也、寛政十二年庚申十二月、本居宣長」
(頭注「大平云、按ズルニ、安永年中也、若山客舎ニテ認ラレタル時、闇(暗)記ノマヽニテ天明ト記サレタル也」)
ここでは、宣長の記憶違いとする大平の説に従う。
3,「鉄鈴」
春庭によれば、京都で宣長が作らせたものだという。
「鉄のは故翁上京のをり古き形によりてさせられたる也、鉄はいと鋳がたく音もよくは出来がたきよし也」(春庭書付・但し現存せず)
もとは2つあり、1個は本居家に留められた。明治8年3月、山室山神社を創祠した時に、霊代とするため緒を紫から麻に変えた。明治22年9月、霊代を別に定めてこの鈴は返された。
「七種鈴」
後ろ左から八面型古鈴、茄子鈴、養老鈴、鬼面鈴、鉄鈴、十字鈴、駅鈴。
後ろ左から八面型古鈴、茄子鈴、養老鈴、鬼面鈴、鉄鈴、十字鈴、駅鈴。
(C)本居宣長記念館
宣長の蔵書目録
蔵書目録『書斎中蓄書目』(天明5年2月編・宣長55歳)には、「大」、「婀」、「瑳」の順で中に入る書名が記載される。
但し、この蔵書目録は、朝宵箱12と大きな箱に限られ、これ以外の本は洩れている。
『蔵書目』(寛政7年6月編・宣長65歳)は、ちょうど10年後のものだが、イロハ・・ヨタレソ大の17箱になっている。内容は、『書斎中蓄書目』とも若干重なるが、大部分は別である。先のものが、専用箱の本と共に基本書であるのに対して、こちらは一般蔵書とする見方もある。
『書斎中蓄書目』は、『宣長全集』20巻、『蔵書目』(埼玉県・森田正氏所蔵)は同別巻3に収載される。またこの他、没後に門弟らが整理した時の目録も遺される。
(C)本居宣長記念館
宣長の旅
宣長は旅が好きだ。自分ではそうはいっていないが、好きだ。
一口に「宣長の旅」と言ってもいろいろだ。日帰りもあれば数ヶ月に及ぶこともある。目的も様々だ。仕事絡み、また物見遊山。
でも全く仕事と関係ない旅というのは、日帰りか近在の行楽を除くと、あまり無い。
古典を研究する宣長にとっては現地採訪はどうしても必要だ。吉野水分神社参拝と花見目的の「菅笠の旅」でも、飛鳥を中心とする史跡探訪を兼ねる。
では、仕事での旅は、全くの出張かというと、楽しみの要素も多分にある。
宣長の旅の様子は、いくつかの紀行文と、道中の歌で知ることが出来る。
紀行文としては、宣長自身のものでは『菅笠日記』(43歳吉野飛鳥行き)。歌で綴った紀行は『むすび捨たるまくらの草葉』(64歳京から近江を経て名古屋)、『紀見のめぐみ』。(65歳、和歌山から大坂、京を経る)。同行者のものでは『餌袋の日記』(吉野飛鳥行、大平著)、『藤のとも花』(寛政元年名古屋行、大平著)、『己未紀行』(寛政11年和歌山行、大平著)、『鈴屋大人都日記』(享和元年京都滞在中、石塚龍麿著)などがある。
また、旅のメモである「日記」もいくつか残される。『寛政四年名古屋行日記』、『寛政五年上京日記』、『寛政六年、同十一年若山行日記』、『寛政六年若山行表向諸事扣』、『寛政十二年紀州行日記』、『享和元年上京日記』。
このほか、旅の断章というような考証随筆が『玉勝間』に載る。「五十師原、山辺御井」、「玉津嶋の神」から「黒牛潟、藤白、糸鹿山」まで、「又妹背山」、「おのが京のやどりの事」など。いずれも小編ながら、旅と学問が深く関わっていることがわかる。実は、これが旅する宣長の目でもある。
(C)本居宣長記念館
宣長の旅一覧表
○=参詣見物。◎=用事と見物。●=用事。◆=関連事項。 | |||
寛保2年 (1742) | 13歳 | ○7月14日 | 吉野水分神社、大峰山、高野山、長谷寺等に参詣。22日、帰宅。 |
延享2年 (1745) | 16歳 | ○2月21日 | 京都見物に出立。初の上京。北野天満宮など参詣。3月3日、帰宅。 |
●4月 | 江戸下向。大伝馬町一丁目の叔父・小津躬充店に寄宿。商売見習いか。翌年3月迄滞在。 | ||
寛延元年 (1748) | 19歳 | ○4月 | 近江、京、大坂見物。約一ヶ月間に及び、禁裏、有名寺社を隈無く廻り、芝居や朝鮮通信使の入洛と発足も見る。 |
●11月14日 | 山田妙見町今井田家の養子。寛延3年12月、離縁。 | ||
宝暦元年 (1751) | 22歳 | ◎3月 | 義兄後始末のため江戸行。7月13日、富士登山。同20日、帰宅。 |
宝暦2年 (1752) | 23歳 | ○1月 | 外祖母の御忌参詣に同道、知恩院参拝。 |
●3月5日 | 医学修行のため上京。宝暦7年10月まで滞在。 | ||
宝暦3年 (1753) | 24歳 | ●3月6日 | 一時帰省。4月末、上京。 |
宝暦6年 (1756) | 27歳 | ●4月19日 | 帰省。友人草深謙光宅に寄る。妹たみを見初めるか。5月10日、上京。 |
宝暦7年 (1757) | 28歳 | ◎10月3日 | 京都出立、初瀬を経て6日、帰郷。 |
宝暦8年 (1758) | 29歳 | ●5月27日 | 上京。6月9日、帰宅。 |
明和5年 (1768) | 39歳 | ◆7月20日、与謝蕪村、日本を鳥瞰する句「稲づまや浪もてゆへる秋津しま」を作る。 | |
明和8年 (1771) | 42歳 | ◆春、おかげ参り。一説に200万人が参詣した。 | |
安永元年 (1772) | 43歳 | ○3月5日 | 吉野、飛鳥旅行出立。14日帰宅。稲懸棟隆、茂穂、戒言、小泉見卓、長谷川常雄同行。紀行『菅笠日記』。天明8年3月から4月に本書をガイドブックに飛鳥を歩いた上田秋成は、「安部の文殊にまうつ、こゝの窟の事、又、是より三つ山の事、初瀬、飛鳥わたり、吉野山しをりことごと、いにしへを引出て今のうつゝにかうかへ、或はたかへるをろうしなとしたるすか笠の記とか、伊勢人の書し物をさきに見しか、世につはらかにもるゝ事なくしるされたるには、野への新草つかみしかき筆して、なとやまなひ出ん、其人は御国のふりたる事ともをあなくりとめて、天のしたの物識りになんおはせりき。されはよ、旅ゆき人の日記てふ物には、いみしきまめふみなりけり」(『いははし』)。 |
安永6年 (1777) | 48歳 | ○3月9日 | 伊勢前山花見。翌日帰宅。 |
安永9年 (1780) | 51歳 | ○4月12日 | 参宮。春庭、春村同行。翌日帰宅。 |
◆この年、秋里籬島著・竹原春朝斎画『都名所図会』6巻11冊。本書の刊行は図会刊行の端緒となる。〈18世紀後半に出版された名所図会〉『都名所図会』(1780)・『拾遺都名所図会』(1787)・『大和名所図会』(1791)・『住吉名勝図会』(1794)・『和泉名所図会』(1796)、『摂津名所図会』(1796)・『伊勢参宮名所図会』(1797)、『東海道名所図会』(1797)・『都林泉名所図会』(1799)・『熊野遊記熊野名所図画』(1801)、『河内名所図会』(1801) | |||
天明2年 (1782) | 53歳 | ○3月2日 | 伊勢前山花見。戒言、稲懸茂穂、三井高蔭、春庭等同行。荒木田久老等が迎える。翌日帰宅。 |
天明8年 (1788) | 59歳 | ○3月23日 | 参宮。春庭、大平同行。25日、帰宅。 |
寛政元年 (1789) | 60歳 | ◎3月19日 | 名古屋行き。春庭、大平同行。講釈と、横井千秋、鈴木真実らと対面。帰路、鈴鹿の山辺の御井、能煩野等探索。4月2日、帰宅。 |
寛政2年 (1790) | 61歳 | ○9月6日 | 参宮。林崎文庫遷宮祝賀歌会参加。8日、帰宅。 |
○11月22日 | 上京。春庭等同行。天皇新内裏への行列拝見、『仰膽鹵簿長歌』を詠む。 | ||
寛政4年 (1792) | 63歳 | ◎3月5日 | 名古屋行。人見と対面。同27日帰宅。春庭同行、明眼院で再治療、4月23日帰宅。名古屋出立の時、鈴木朖「送本居先生序」を書き、「先生ノ風ハ頗ル仲尼(孔子)ニ似タリ」と評す。 |
寛政5年 (1793) | 64歳 | ◎3月10日 | 上京。大坂、名古屋を経て4月29日、帰宅。春庭同行。各所で講義。京都で妙法院宮(光格天皇実兄)に拝謁。芝山持豊卿に対面。道中詠草『結び捨てたる枕の草葉』 |
寛政6年 (1794) | 65歳 | ◎3月29日 | 名古屋行き。同所で講釈をし4月26日帰宅。名古屋門人・鈴木朖も同道するか。 |
◎10月10日 | 和歌山に出立。大平同行。11月3日、和歌山城で御前講義。閏11月12日、吹上御殿で清信院へ御前講義。翌日、十人扶持に加増、御針医格。12月4日帰宅。道中詠草『紀見のめぐみ』。 | ||
寛政7年 (1795) | 66歳 | ○4月9日 | 参宮。小篠敏、三井高蔭、山崎義知、森光保、村上円方同行。17日帰宅。 |
寛政8年 (1796) | 67歳 | ●7月8日 | 桑名行。大平同行。10日、桑名「辰巳屋」で松平康定に拝謁。12日帰宅。 |
寛政11年 (1799) | 70歳 | ◎1月21日 | 和歌山に出立。2月、稲懸大平(44歳)を養子とする。同25日、吉野水分神社参詣。同28日、帰宅。 |
○4月3日 | 参宮。9日。帰宅。 | ||
寛政12年 (1800) | 71歳 | ◎9月17日 | 山室山に行き墓地の場所を定める。 |
◎11月20日 | 和歌山に行く。 | ||
享和元年 (1801) | 72歳 | ◎1月3日 | 和歌山城内でお流れ頂戴。3月1日、帰宅。 |
◎3月中頃 | 山室山奥墓下見を兼ね花見。 | ||
◎3月28日 | 講釈のため上京。四条烏丸近くの旅宿にと滞在する。6月12日、帰宅。 |
(C)本居宣長記念館
宣長の調合した薬
小林秀雄は、宣長の調合して販売した「六味地黄丸」の広告文を全文引用して「まぎれもない宣長の文体」であるという。
「製薬の広告案と処方の覚」という巻子には、その「六味地黄丸」を始め、販売した薬の広告文や、その調剤覚えが集めてある。また、その蓋には
「製薬の広告案と処方の覚」という巻子には、その「六味地黄丸」を始め、販売した薬の広告文や、その調剤覚えが集めてある。また、その蓋には
「建中湯飴の広告は春庭翁の稿を宣長の修正せるものにして、六味地黄丸の広告は宣長翁の案なり、又処方の覚は
ことごとく宣長翁の筆なり、あめ薬、胎毒丸、虫おさへはいづれも宣長翁の処方にして飴薬は小児の強壮剤なれど
も、咳気に特効あり、音声をつかふ人にもよろしとて買ひ求むる者ありしことを記憶せり、三剤ともに余が少年の
ころまで自宅にて調製し販売せり、清造(花押)」
と書いてある。
(C)本居宣長記念館
宣長の使った古典のテキスト
古典講釈や研究の時に宣長が使ったテキストは次のようなものである。
◆『古今集』は、『二十一代集』本使用か。
『二十一代集』
版本・宣長書入本・箱共21巻21冊。袋綴冊子装。紺表紙。縦19.1糎、横13.1cm。匡郭、縦12.0cm、横8.6cm。片面行数12行。
墨付(1)131枚、(2)174枚、(3)146枚、(4)185枚、(5)97枚、(6)59枚、(7)162枚、(8)230枚、(9)152枚、(10)145枚、(11)217枚、(12)161枚、(13)171枚、(14)287枚、(15)228枚、(16)150枚、(17)237枚、(18)271枚、(19)215枚、(20)164枚、(21)251枚。
外題(題簽)「古今和謌集、一」、「後撰和謌集、二」、「拾遺和謌集、三」、「後拾遺和謌集、四」、「金葉和哥集、五」、「詞花和謌集、六」、「千載和 謌集、七」、「新古今和謌集、八」、「新勅撰和謌集、九」、「続後撰和謌集、十」、「続古今和謌集、十一」、「続拾遺和謌集、十二」、「新後撰和哥集、十三」、「玉葉和謌集、十四」、「続千載和謌集、(十五)」、「続後拾遺和謌集、十六」、「風雅和謌集、十七」、「新千載和謌集、十八」、「新拾遺和哥集、十九」、「新後拾遺和哥集、廿」、「新続古今和哥集、廿一」。
内題「古今和歌集巻之一」等。柱刻「古今(巻数)、(丁数)」。小口「一、古今」等(宣長筆)。蔵書印「鈴屋之印」。
【刊記】
「御書物屋、出雲寺和泉掾、吉田四良右衛門、野田弥兵衛」。
【奥書】
(1)「宝暦十四年五月廿六日大本校合畢、舜庵。明和七年庚寅十二月十九日季吟抄本校合畢。」
(3)「明和元年甲申八月十八日大本校合畢、舜庵」
(4)「明和元年九月廿八日大本校合畢、舜庵」
(5)「明和元年甲申十月廿四日大本校合終、舜庵」
(6)「明和元年甲申十一月八日大本校合畢、舜庵」
(7)「明和元年甲申十二月十四日大本校合終、舜庵」
(8)「明和二年乙酉三月廿四日三本校合終」
(9)「明和二年乙酉六月六日二本校合畢、舜庵」
(10)「明和元(二に改)乙酉年九月廿八日大本校合終業、舜庵」
(11)「明和二年乙酉十二月四日大本校合畢、舜庵」
(12)「明和三年戊(丙に改)戌八月八日大本校合畢、舜庵」
(13)「明和三年丙戌九月廿四日大本校合畢、舜菴」
(14)「明和四年閏九月廿日大本校合終、舜庵」
(15)「明和五年戊子八月十六日大本校合終、舜菴」
(16)「明和五年戊子九月廿八日大本校合畢、舜菴」
(17)「明和五年戊子十二月六日大本校合終、舜菴」
(18)「明和七年庚寅十一月五日大本校合畢、舜菴」
(19)「明和八年辛卯二月十五日大本校合終、舜菴」
(20)「明和八年辛卯六月十四日大本校合終、舜菴」
(21)「明和九年壬辰正月廿三日大本校合終、大本者正保四丁亥年印行者也、本居宣長」。
【参考】
『二十一代集』は、『古今和歌集』から『新続古今和歌集』までの勅撰和歌集。本箱に「寛延四年辛未長月下浣日」「本居栄貞」とあり、購求日と考えられる。22歳の9月だ。『宝暦二年以後購求謄写書籍』宝暦2年以前分に、「一、廿一代集、廿一、金二両一分」とある。購入価格だとすると、随分高い。所蔵本の小口からは、『古今集』『後撰集』『拾遺集』の三代集と『新古今集』の繁読振りが窺える。校合以外に「歌員二千三百六十五首ト園太暦ニ見ユ」(18冊表紙裏)、「ゲスラヒハ擬スル也体源抄ニ今夜ノ御神楽ニハコトニケスラヒテ」(19冊20巻7丁)等書き入れや付箋があり、中でも「春庭云」(長男本居春庭)と書いた付箋や、「磯足云」(門人加藤磯足)として宣長筆で同人説を載せた書き入れが注目される。『新古今集』には、もう一つの本も併用されたか。
◆『源氏物語』は、『源氏物語湖月抄』本を使用。
『源氏物語湖月抄』
版本・宣長書入本・25冊。北村季吟著。袋綴冊子装。雷文繋桐葉散縹色表紙。縦26.6cm、横18.9cm。匡郭、縦23.4cm、横17.1cm。片面行数12行。
墨付(1)142枚、(2)82枚、(3)65枚、(4)89枚、(5)98枚、(6)63枚、(7)97枚、(8)71枚、(9)110枚、(10)104枚、(11)97枚、(12)75枚、(13)90枚、(14)108枚、(15)110枚、(16)83枚、(17)134枚、(18)77枚、(19)87枚、(20)116枚、(21)99枚、(22)67枚、(23)73枚、(24)60枚、(25)91。
外題(裂題簽・中央貼付)、(1)「源氏物語【年立系図表白】」、(2)「湖月鈔【桐壺帚木】」、(3)以降各巻名記載。内題無。柱刻「湖(丁数)」等。蔵書印「鈴屋之印」。
【奥書】
「宝暦十三年癸未二月十七日一本校合終業 本居宣長(花押)」。「明和九年五月十六日又一本【頭書本】校合終以朱識別之」。巻末付箋「右源氏物語予講釈起于宝暦八年夏而至明和三年丙戌六月晦日夜全部終業矣聴受人者/浅原十左衛門義方【発起人也、半而死】、小津清右衛門正啓、中村伊右衛門光多、稲垣什助棟隆、須賀正蔵直躬、浜田八郎兵衛明達【中廃】、覚性院戒言、折戸重兵衛氏麻呂、村坂嘉左衛門道生/明和(虫食)【傍書「三」】年丙戌七月朔日、石上散人。右源氏物語第二度講釈起于明和三年丙戌七月廿六日夜至安永三年甲午十月十日夜全部終業、聴衆如左、小津清右衛門正啓入道審斎、竹内彦一元之、山路喜兵衛孝正、稲垣十蔵茂穂、中里重五郎常朝、長谷川武右衛門常雄、中里大三郎常道、村田中書光庸、谷恵左衛門高峯、長谷川彦之助高古。右源氏物語第三度講釈起于安永四年乙未正月廿六日夜至天明八年戊申五月十日夜全部終業、聴衆如左、稲掛十介大平、中里伴蔵常秋、三井総十郎高蔭、岡山八郎次正興、竹内彦一直道、森義平光保、村上吉太郎有行、服部義内中庸、青木半右衛門親持、笠因鈴之丞直丸」 【参考】 『宝暦二年以後購求謄写書籍』宝暦7年8月条に「湖月抄、廿四冊、金一両三分二百匁」とある。宣長の書き入れ、校合多し。
◆『万葉集』は、寛永版本と呼ばれる本を使用。
『万葉集』
版本・宣長書入本・20冊。袋綴冊子装。紺表紙。楮紙。縦27.8cm、横19.1cm。
墨付(1)34(裏表紙含)、(2)45枚(同上)、(3)63枚、(4)59枚、(5)40枚、(6)47枚、(7)42枚、(8)59枚(裏表紙含)、(9)36枚、(10)63枚、(11)48枚、(12)42枚(裏表紙含)、(13)35枚(同上)、(14)36枚(同上)、(15)39枚(同上)、(16)31枚、(17)51枚(裏表紙含)、(18)38枚、(19)48枚、(20)70枚。
外題(題簽)「万葉和歌集一(~廿)」。
内題書名同。蔵書印「鈴屋之印」。
【刊記】
「寛永弐拾年【癸未】蝋月吉日、洛陽三条寺町誓願寺前安田十兵衛新刊」
【奥書】 「右万葉集二十巻、以景山屈先生家蔵本校正之、至如冠註旁註亦皆拠其本已、此本也先生所自校正、蓋以契冲先師代匠記為拠、如其称師云則今井似閑翁之説也翁亦契冲之門人也、先生与似閑之門人樋口老人宗武友善、是故先生以其本校正、訓点冠註旁註之則実契冲伝説之義、不待代匠記而明焉者也、予深崇信之以余力写之蔵巾笥為秘珍矣、後之閲者勿忽諸爾、宝暦七年丁丑五月九日卒業于平安室坊寓居、神風伊勢意須比飯高蕣庵本居宣長謹」。 「天明六年丙午十月十二日夜会読卒業」
【参考】
『宝暦二年以後購求謄写書籍』宝暦6年10月条に「万葉集、廿冊、卅五匁」とある。付箋(宣長筆)278枚。書き入れ多し。特に荒木田久老や門人説をその名を明記し引くこと多し。本書の書き入れを写した本が各所に伝存する。鈴屋来訪時に書写したものか。例えば帆足長秋もその一人である。
◆『伊勢物語』は不明。
宣長自写本もあるが、それ以前から講釈は開始されているのでわからない。
◆『百人一首』は、『百人一首改観抄』本を使用。
版本・宣長書入本・5巻2冊。契沖著。袋綴冊子装。濃藍布目表紙。縦27.2cm、横18.3cm。 (第1冊)墨付76枚。(第2冊)72枚(含・裏表紙)。 外題(題簽)「百人一首改観抄」、内題「百人一首改観抄」。蔵書印「鈴屋之印」。
【序】
「元禄五年壬申季夏摂江高津沙門契沖撰」、「延享四のとし丁卯の菊月、花月堂主人樋口宗武識之」。
【刊記】
「延享五戊辰年五月良辰、京堀川通四条上町、銭屋忠兵衛梓」。
【奥書】
「宝暦十年庚辰十月九日夜開席予講談此抄同年十二月十二日夜終業(清)蕣庵宣長」 「右頭書傍之内称師云ハ先師賀茂県主ノ作此百首古説之義也」
【参考】
本書は寛延元年(1748)、堀景山(61歳)と樋口宗武が相謀って刊行した(『近世畸人伝』)。長い年月に渡る夥しい書き入れが為される。本書の書き入れは、それを抜粋して紹介されていることからも分かるように、新見解に富む貴重なものである。なお、奥書の「清」貼り紙抹消。因みに、『善本目録』では「宝暦云々」「右頭書云々」は連続するように書かれるが、墨色や筆が異なり、同時の執筆ではない。
>>「契沖との出会い」
◆『新古今集』は『二十一代集』本も使用するか。
『新古今和歌集』
版本・宣長書入本・20巻4冊。源通具等撰。袋綴冊子装。藍布目表紙。縦27.7cm、横19.2cm。匡郭、縦21.8cm、横32.5cm。片面行数12行。墨付(1)64枚、(2)52枚、(3)46枚、(4)67枚。外題(題簽・墨書)「新古今歌集」。内題「新古今和歌集巻第一」。柱刻「新古一、(丁数)」。小口「一、春夏秋、新古」等。蔵書印「鈴屋之印」。
【序】
「仮名序」「真名序」。
【刊記】
「貞享二乙丑年九月中旬、田中庄兵衛梓」。
【参考】
『宝暦二年以後購求謄写書籍』宝暦8年10月条に「一、新葉集、三、三匁、同、一、新古今集、三、四匁」と記される。宣長が使用した『新古今集』には「廿一代集」本もあるが、日条では版型も大きな本書を使用したか。朱や墨で夥しい校合や書き入れ、付箋などが施される。匡郭は中央に境無く両面に通じる。
>>「藤原定家」
◆『神代紀』
『日本書紀』
版本・宣長書入本・30巻9冊。袋綴冊子装。栗皮色表紙。縦28.6糎、横19.8糎。匡郭(【訂正】日本書紀神代巻)縦22.0糎、横16.9糎。(日本書紀)縦22.6糎、横15.6糎。片面行数9行。墨付(1)39枚、(2)37枚、(3)88枚、(4)74枚、(5)66枚、(6)57枚、(7)74枚、(8)92枚、(9)75枚。外題(1・2)「【訂正】日本書紀神代巻」、(3)以降「日本書紀(巻数)」、内題書名同。蔵書印「鈴屋之印」。
【跋】
「(【訂正】日本書紀神代巻)正徳甲午暢月、松浦英広識」。「(日本書紀)慶長十五庚戌仲夏念入洛◎(サンズイに内)野三白」他
【刊記】
「寛文九己酉年正月吉辰、武村市兵衛昌常、村上勘兵衛元信、山本平左衛門常知、八尾甚四郎友春」。
【奥書】
巻7(第3冊)巻末識語「此日本紀者景山堀先生所蔵本也、自神代巻至安閑帝元年紀先生親以小野田重好本校讐訂正、如歌詠引契冲厚顔抄増註之、然以経業不暇故弗能終其功、深以為憾、則以此本伝与乎予続其緒業、予謹領之重以小野田氏本校之、其本有青朱墨之別為識詳見奥書矣、今此本則無復別之朱墨従便附焉、冠註訓点不遺一字亦不加管見唯旧是従以竣其功、聊充先生之素志云爾、宝暦六年丙子七月念六日、神風伊勢意須比飯高本居春庵清宣長題」
小野田重好の奥書は省略。
【参考】
『宝暦二年以後購求謄写書籍』宝暦4年9月28日条に「日本紀、九、十三匁」と記されるが、奥書には景山伝与とあり、別の本である。書き入れ多し。奥書の大意は、景山が神代紀から安閑帝元年まで小野田重好の本で校合し、歌謡は契沖の『厚顔抄』で増註した。ところが忙しく中断していたので、宣長に伝与し継続を託した。宣長はもう一度小野田本と比較したら、小野田本には青色、朱色、黒色の識別があり、その区別は奥書に詳しく記されている。ところがこの本にはその朱墨の別が無かったので必要なところは付けておいた。冠註、訓点については一字も私見を交えず元のままとし、作業を終えた。これで僅かでも景山先生の志に従うことが出来たと思う。
>>「堀景山」
◆『職原抄』は、15歳の時に写した『職原鈔支流』もあるが、講釈では『職原鈔聞書』か『職原鈔追加拙解』を使ったか。
『職原鈔聞書』
版本・宣長書入本・8冊。林鵞峯著。袋綴冊子装。茶表紙。縦27.0cm、横19.0cm。匡郭、縦19.5cm、横14.7cm。片面行数8行。墨付(1)22枚、(2)45枚、(3)43枚、(4)21枚、(5)23枚、(6)32枚、(7)46枚、(8)45枚。外題(題簽)「職原鈔聞書一(以下・巻数)」。内題「職原鈔上聞書巻之一」。柱刻「聞書、巻一、(丁数)」等。小口「原抄一」等。蔵書印「鈴屋之印」。
【序】
「寛文癸丑孟春望日幸菴分※謾書※」。
【跋】
「延宝二歳甲寅仲春朔旦尾陽那須信敬書干進菴」。
【刊記】
「延宝二【甲寅】歳仲春吉日、堀川通西吉水町、銭屋儀兵衛刊行」。
【参考】
他筆書き入れ、付箋多し。中に『史記』景帝紀を引き「右宣長考」と書かれた付箋などがある。各巻表紙「神祇官」等の内容標目は自筆。
『職原鈔追加拙解』
版本・宣長書入本・4冊。三宅帯刀著。袋綴冊子装。茶表紙。縦27.0cm、横19.0cm。匡郭、縦19.5cm、横14.7cm。片面行数8行。墨付(追加九)31枚、(追加十)35枚、(追加十一)36枚、(附録)33枚。外題(題簽)「職原鈔拙解、追加九(十、十一、附録)」。内題書名「職原鈔追加拙解巻之一」。柱刻「追加、拙解巻之一(丁数)」。小口「原抄九」。蔵書印「鈴屋之印」。
【参考】
他筆の書き入れの多い中に『唐六典』からの引用など宣長自筆が混じる。また各巻表紙「位階、院庁、親王執柄家」等の内容標目は自筆。
◆『土佐日記』は、『土佐日記抄』を使用した。
『土佐日記抄』
版本・宣長書入本・2巻2冊。北村季吟著。袋綴冊子装。濃紺表紙。縦27.0cm、横17.7cm。匡郭、縦20.6cm、横31.2cm。片面行数11行。墨付(上)46枚、(下)41枚。外題(題簽)、内題「土佐日記抄上(下)」。柱刻「土左上(丁数)」。蔵書印「鈴屋之印」。
【刊記】
「寛文元年八月吉日、中野小左衛門刊行」。
【奥書】
「寛政四年壬子正月貫之自筆とおく書ある本を写せる本を校合す朱してかける是也、宣長」(朱書)。 【参考】 校合、通常の書き入れ以外に『土佐日記附註』説を丹念に書き込む。同書については巻上表紙裏に解説がある(宣長自筆)。また『玉勝間』にも記載あり。
◆『枕草子』は、『枕草子春曙抄』を使用したか。
『枕草子春曙抄』
版本・宣長書入本・12冊。北村季吟著。袋綴冊子装。朽葉色表紙。縦27.3cm、横19.3cm。匡郭、縦22.7cm、横17.7cm。片面行数12行。墨付(1)31枚、(2)28枚、(3)31枚、(4)31枚、(5)28枚、(6)24枚、(7)28枚、(8)26枚、(9)30枚、(10)28枚、(11)26枚、(12)24枚。外題「枕草子春曙抄一(以下・巻数)」。内題「春曙抄一」。柱刻「春曙(巻数)、(丁数)」。背、巻数(朱筆)。蔵書印「本居」(自刻印)、「鈴屋之印」等。
【跋文】
「延宝二年甲寅七月十七日、北村季吟書」。
【参考】
清造付箋に「本書中稀々ニ書入アリ宣長翁ノ自筆ナリ(五鈴)」とある。比較的単純な語釈(「世にあるほど」の傍に「一生のうち」と書く等)も混じり珍しい。
◆『公事根源』は、『公事根源集釈』を使用したか。
『公事根源集釈』
版本・宣長書入本・3冊。松下見林著。袋綴冊子装。紺表紙。縦26.1cm、横19.3cm。匡郭、縦24.0cm、横17.1cm。片面行数10行。墨付(上)42枚、(中)43枚、(下)43枚。外題(題簽)書名同。内題「公事根源」。柱刻「公事根源目録(上・中・下)(丁数)」。小口「公根釈上(中・下)」。蔵書印「鈴屋之印」。
【跋】
「元禄七年六月廿六日、松下見林書」。
【刊記】
「板元、銅駝坊書肆平楽寺村上勘兵衛寿梓」。
【参考】
上巻「内宴」条など各巻に書き入れ。また、中巻には「春日臨時祭」について『園大暦』からの引用(貼り紙)がある。
◆『祝詞式』は、賀茂真淵の『延喜式祝詞解』か『祝詞考』を使用したか。あるいは『延喜式』も使用か。
1,『延喜式祝詞解』
宣長自写。1冊。賀茂真淵著。袋綴冊子装。薄茶表紙。縦27.6糎、横19.1糎。片面行数10行。墨付45枚。外題(題簽)「祝辞解」。内題「延喜式祝詞解之三」、「延喜式巻八祝詞考上巻」。蔵書印「鈴屋之印」。
【奥書】
(「延喜式祝詞解之三」)「右ハ延喜式祝詞解五巻之其三也、明和九年壬辰五月廿八日書写終、本居宣長」。 (「延喜式巻八祝詞考上巻」)「吾師、賀茂県主嘗奉田安公之命著延喜式祝詞解五巻以呈之、厥後再訂正之改解名考約為三巻矣、此其初巻者也、而本闕其半又中末両巻亦皆闕焉、可惜哉、明和九年壬辰六月十一日書写終業、本居宣長」。
【参考】
外題打付書「祝詞解」の上に題簽を貼り訂正する。本書は、『祝詞解』第3巻を書写したものが前半26丁で、『祝詞考』上巻前半19丁を書写したものが後半となっている。
2,『祝詞考』
写本・宣長書入本・2冊。賀茂真淵著。袋綴冊子装。鈍色表紙。縦27.8cm、横19.6cm。片面行数8行。墨付(1)72枚(2)50枚。外題(題簽)「祝詞考、上、中(下)」。内題「延喜式巻八祝詞考上巻」。蔵書印「鈴屋之印」。
【序】
「明和のいつとしかものまふちがしるす」。
【跋】
「明和五年夏東都御子家文学、真淵七十二齢にして此考を竟つ」。
【参考】
賀茂真淵最晩年の著作。本書の写し手は不明だが、宣長の校合、また付箋あり。例えば「竜田風神祭」の頭注などで他筆のものと混在するが分量的には比較的多い。付箋は下巻36丁。また、「宣長按」という頭注がある。
3,『延喜式』
版本・宣長書入本・50冊。袋綴冊子装。紺表紙。縦27.0cm、横18.9cm。匡郭、縦27.0cm、横16.0cm。片面行数8行。墨付(1)54枚、(2)28枚、(3)34枚、(4)43枚、(5)59枚、(6)19枚、(7)30枚、(8)40枚、(9)58枚、(10)80枚、(11)41枚、(12)43枚、(13)39枚、(14)28枚、(15)44枚、(16)15枚、(17)35枚、(18)52枚、(19)32枚、(20)22枚、(21)56枚、(22)28枚、(23)24枚、(24)41枚、(25)23枚、(26)50枚、(27)27枚、(28)32枚、(29)9枚、(30)37枚、(31)17枚、(32)18枚、(33)27枚、(34)23枚、(35)12枚、(36)12枚、(37)54枚、(38)34枚、(39)36枚、(40)34枚、(41)22枚、(42)15枚、(43)26枚、(44)10枚、(45)14枚、(46)10枚、(47)7枚、(48)20枚、(49)14枚、(50)24枚。外題(題簽)「延喜式【神祇一、四時祭上】一」(巻二以降略)、内題「延喜式巻第一神祇」。柱刻「延喜式(巻数)(丁数)」。蔵書印「鈴屋之印」。
【刊記】
「書坊、林和泉椽板行、松柏堂(印)明暦三【丁酉】仲秋吉旦」。
【奥書】
「慶安元年戊子、戸部法印道春(印)」
【参考】
明暦の刊記があるが、巻10に松下見林の跋があり、寛文か享保版であろう。巻8、9、10には宣長による夥しい書き入れと付箋がある。巻1に挟み込み2通 (他筆)。1通は遠江国式社の覚えで宣長による細かい加筆がある。
>> 「『延喜式』って何の本だ?」
◆『史記』は、『経籍』に「史記、廿五、五拾一匁五分」(宣長全集・20-628)とあり、購入の覚えであろうか。『蔵書目』に25冊とある。伝存せず不明。
(C)本居宣長記念館
宣長の豆腐評
「稲掛大平が家の業のみかべの詞又其長歌」
(いながけのおおひらがいえのなりのみかべのことば またそのちょうか)
で宣長は豆腐について次のように書いています。
いなかけの大ひらの子が、遠つおやのよより、いへのなりと造りてうるものはも、
(いながけのおおひらがいえのなりのみかべのことば またそのちょうか)
で宣長は豆腐について次のように書いています。
いなかけの大ひらの子が、遠つおやのよより、いへのなりと造りてうるものはも、
〈大意〉稲懸大平の家が昔から生業としてきたのは
まめをひたしてほとばして、うすにすりて、しぼりてにて、おしてかためてなせる物、
〈大意〉豆を水につけて柔らかくして臼ですって、絞って押し固めたもの。
あたひやすくていやしからず、あぢはひあはくてみやびたれば、月に日にけにいやめづらに、くさぐさにととのへて、高きみじかき人みなの、朝な夕なとめでくふ物なり、
〈大意〉値段は安くて品下がるわけでもなく、味は淡泊で上品。季節を問わず、いろいろと調理の仕方を変えて、高貴な人から庶民までみんなが朝に夕に美味い美味いと好んで食べるもの。
ここに大平が父なる父なる棟隆い、としごろ思ひわたらくは、此物よ、みやび名の聞えこずて、よにあやしきから名をのみよびあへるこそ、いともふさはね、いかでよき名をあらせてしがと、ときときにいひも出つつ、うれふなりとききて、おのれはたうべなりと思ふに、
〈大意〉大平の父棟隆は、ずっと考えてきたのだが、これの名前がよろしくない。それに漢語というのもどうもこの食べ物らしくもない。何かよい名前はない物かと思いついては口にして、ぼやいていると聞いて、私も棟隆の悩みももっともだと思って
いでやちかきよのならひ、物の名つくるに、花や雪やとなまめきたるすぢを、わざとえり出たるも、ことさらびて、中々におむかしからず、ただ何とはなしに、ふるめきたるこそ、みやびてはあれと、かにかくに思ひめぐらして、
〈大意〉いやもう最近では名前に、「花」やら「雪」と優美なものを考えるのだが、どうもわざとらしく、かえって不満が残る。もっと自然で古雅な名前はないものかといろいろ思案して、
かのしらにもてぬりたるものを、思ひよせたる、をみな言葉を、いにしへざまにいひなして、みかべとよばば、いかにあらむと、大平にしかたらへば、それいとよけむと、手うちてめでほどばしる時に、我もともどもうちあげうたへる、そのうたは、
〈大意〉白く塗ったものを表す、女性の言葉でしかも古風なものなら、「みかべ」と呼んだらいかがかと大平に話したところ、「そりゃあいい」と手を打ち喜ぶので、私も一緒に歌を詠んだ、その歌は、
たふときや、大げつひめの、神の大御身よ、あやしくも、なり出しまめの、そのまめの、とけてこごりて、山川の、いはもとどろに、おちたぎつ、たぎのみなわの、たへの穂に、なれる御かべは、ときじくに、七重花さく、八重花さく
〈大意〉ありがたいことだ、オオゲツヒメはスサノヲノミコトに殺されたのに、不思議や不思議、お豆をお産み下さった。そのお豆を溶かして固めて、水で栲の穂のように真っ白に出来たみかべは、いつまでも栄えてすばらしい花を咲かせることだ
全体と細部を自在に行き交う宣長のまなざしは、確かに学問とも共通している。
豆腐一丁を見る目は、『古事記』を見るの目と変わらず真剣なのだ。
(C)本居宣長記念館
宣長の習った謡曲
宣長は12歳~15歳までの間に岸江之沖から謡を習っている。ここでは京都との関わりを探るために、京都を舞台とするものにはその旨注記した。
【宣長が習った謡のリスト】
1,「猩猩」2,「三輪」3,「楊貴妃」4,「東北」(京・東北院)5,「江口」6,「芭蕉」7,「采女」8,「弓八幡」(石清水八幡宮)9,「竹生島」10,「羽衣」11,「龍田」12,「源氏供養」(石山寺)13,「野宮」(嵯峨野)14,「井筒」15,「蟻通」16,「国栖」17,「田村」(清水寺)18,「兼平」19,「頼政」(宇治)20,「高砂」21,「養老」22,「柏崎」23,「桜川」24,「三井寺」(三井寺)25,「百万」(嵯峨野清涼寺釈迦堂)26,「班女」27,「東北」(再習)28,「八島」29,「小塩」(大原)30,「海士」31,「忠度」32,「白楽天」33,「松風」34,「千手」35,「杜若」36,「誓願寺」(誓願寺)37,「葛城」38,「西行桜」(山城国西山)39,「羽衣」(再習)40,「朝長」41,「二人静」42,「白髭」43,「老松」44,「加茂」(下賀茂神社)45,「呉服」46,「小鍛冶」(伏見稲荷)47,「通盛」48,「清経」(京)49,「敦盛」50,「実盛」51,「融」(京、六条)
【謡を習ったことの影響】
「この約五十曲の世界が、十二歳から十五歳の若い頭脳に与えた影響は想像以上のものがあったに違いない。ときに綴れ錦ともいわれるが、その優美な詞章は、抜群の記憶力に恵まれていたかれの語彙をいっそう豊かにし、同時に情感溢れる言語感覚をも養ったことであろう」『本居宣長の生涯』岩田隆著・P22
【宣長が習った謡のリスト】
1,「猩猩」2,「三輪」3,「楊貴妃」4,「東北」(京・東北院)5,「江口」6,「芭蕉」7,「采女」8,「弓八幡」(石清水八幡宮)9,「竹生島」10,「羽衣」11,「龍田」12,「源氏供養」(石山寺)13,「野宮」(嵯峨野)14,「井筒」15,「蟻通」16,「国栖」17,「田村」(清水寺)18,「兼平」19,「頼政」(宇治)20,「高砂」21,「養老」22,「柏崎」23,「桜川」24,「三井寺」(三井寺)25,「百万」(嵯峨野清涼寺釈迦堂)26,「班女」27,「東北」(再習)28,「八島」29,「小塩」(大原)30,「海士」31,「忠度」32,「白楽天」33,「松風」34,「千手」35,「杜若」36,「誓願寺」(誓願寺)37,「葛城」38,「西行桜」(山城国西山)39,「羽衣」(再習)40,「朝長」41,「二人静」42,「白髭」43,「老松」44,「加茂」(下賀茂神社)45,「呉服」46,「小鍛冶」(伏見稲荷)47,「通盛」48,「清経」(京)49,「敦盛」50,「実盛」51,「融」(京、六条)
【謡を習ったことの影響】
「この約五十曲の世界が、十二歳から十五歳の若い頭脳に与えた影響は想像以上のものがあったに違いない。ときに綴れ錦ともいわれるが、その優美な詞章は、抜群の記憶力に恵まれていたかれの語彙をいっそう豊かにし、同時に情感溢れる言語感覚をも養ったことであろう」『本居宣長の生涯』岩田隆著・P22
(C)本居宣長記念館
宣長のまなざし
44歳像は、著述の最中に筆を休めた宣長が満開の桜を眺める姿を描く。筆と硯が執筆途中であることを表し、また落花数片は花が活けられてからしばらくの時間が経過したことを物語る。また、桜を眺めることは少し上に向けられた視線で明らかとなる。破棄された最初の像において視線は真っ直ぐ前を向いているが、これでは視線の行方が定まらず、物思いに耽っているようにも見える。僅かな改変により画題はより明白となっている。
髪は結わずに後ろになでつけたまま垂らし、鈴屋衣を着す。衣のひこは現存する衣とは異なるが、44歳の頃の衣がこのようであったのか、それとも適当に描いたのかは不明。鈴屋衣の下が白の長着1枚であるのも、61歳、72歳像と異なる。姿勢は正座。これが常態であることは、娘ひだの証言で明らかである。
(C)本居宣長記念館
宣長の夢
宣長は秘かな夢があった。百科全書編纂である。
「もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事」(『玉勝間』巻10)で宣長は、
「もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事」(『玉勝間』巻10)で宣長は、
「よろづの木草鳥獣、なにくれもろもろの物の事を、上の代よりひろめ委しく考へて、しるしたる書こそ、あらまほ
しけれ」
と述べ、わが国には平安時代に編纂された『和名抄』だけしかないと嘆く。
これは、あらゆる動植物、またいろいろな物の事を、時代の変遷をも視野に入れて記述した本、つまり百科事典待望論である。
『古事記伝』執筆の時に、考えてもどうしようもなかったのが動植物名だった。知っている人に聞くしかない。実際に、いろいろな人から情報を得るのだが、その苦労の末の、百科事典待望論である。だが実は、それだけではない。
これは、あらゆる動植物、またいろいろな物の事を、時代の変遷をも視野に入れて記述した本、つまり百科事典待望論である。
『古事記伝』執筆の時に、考えてもどうしようもなかったのが動植物名だった。知っている人に聞くしかない。実際に、いろいろな人から情報を得るのだが、その苦労の末の、百科事典待望論である。だが実は、それだけではない。
既に10代の頃から宣長には、類纂趣味とでも言うべきものがあった。知識・情報コレクションだ。京都に関する文献を集めた『都考抜書』、書名を集めた『経籍』、和歌に関する抜書『和歌の浦』と、宣長の学習は事や物の名前、記述を集めることで進んでいった。また『事彙覚書』は、清造翁が「乾坤以下廿二部門に言語事物等を集めたる書」と仮称したように、北斗、天地霊、二十八宿から火葬、宣命の紙の色が宮廷と伊勢神宮、賀茂社でそれぞれ異なること、翻訳の名義に至る様々なことを書き抜き分類している。
その後も宣長は、自家製古語索引『古書類聚抄』全10巻、日本の年号をまとめた『年代記』など研究に必要な参考図書を作成している。
誰かが、古典から現代の本まで調べ、この『和名類聚抄』の代わりとなる本を作ることを願い、また、自分も早くから志だけは持っていたのだが、簡単なことではないので片手間仕事では、実行することも出来ず、今となっては、老い先短いためにもはや無理なので、これからの人のために、提案しておくと言う。
72歳の秋、宣長は最後の力を振り絞るかのように『鈴屋新撰名目目録』の稿を起こした。だが、その一ヶ月後に宣長はこの世を去る。
百科全書編纂という、見果てぬ夢を宣長は生涯をかけて追い続けたのであろうか。
【原文】
「もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事」抄
その後も宣長は、自家製古語索引『古書類聚抄』全10巻、日本の年号をまとめた『年代記』など研究に必要な参考図書を作成している。
誰かが、古典から現代の本まで調べ、この『和名類聚抄』の代わりとなる本を作ることを願い、また、自分も早くから志だけは持っていたのだが、簡単なことではないので片手間仕事では、実行することも出来ず、今となっては、老い先短いためにもはや無理なので、これからの人のために、提案しておくと言う。
72歳の秋、宣長は最後の力を振り絞るかのように『鈴屋新撰名目目録』の稿を起こした。だが、その一ヶ月後に宣長はこの世を去る。
百科全書編纂という、見果てぬ夢を宣長は生涯をかけて追い続けたのであろうか。
【原文】
「もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事」抄
「今いかで古事記書紀万葉集など、すべてふるきふみどもをまづよく考へ、中むかしのふみども、今の世のうつゝの物まで、よく考へ合せて、和名抄のかはりにも用ふべきさまの書を、作り出む人もがな、おのれはやくより、せちに此心ざしあれど、たやすからぬわざにて、物のかたてには、えしも物せず、いまはのこりのよはひも、いとすくなきこゝちすれば、思ひたえにたれば、今より後の人をだにと、いざなひおくになん」
(C)本居宣長記念館
宣長はこわい人か
宣長と会った康定侯は、著作の激しさとは違って、勇ましく頑固そうな気配もなく、重厚な感じで、顔の形や髪型は以前見た画像通りだ、身長は相撲取りくらい高い。年を取ったせいかやせ細っているが、心は大変づしやかであると印象を述べています。
【原文】
「打むかへば筆つきのたけきには似ずてをゝしくこはごはしき気もなく、おもりかにて面やう髪のゆひさまなとは早う見し写し絵にいとよう覚えてたけたちはすまひなどいふばかりなりかし、老たるけにや、やせほそりたれど心肝はいとつしやかなりけり」『伊勢麻宇手能日記』
(C)本居宣長記念館
宣長は酒飲みか
(C)本居宣長記念館
宣長さんは何のお医者さんか
宣長さんは、患者を見る限りでは大人が多いし、どうも内科中心だったようだ。
よく宣長さんは「小児科医」だといわれるのは、医学の先生が武川幸順という有名な小児科医だったからだろう。
また、「小児胎毒丸」とか「家伝あめぐすり」という薬を調合して販売していたことも一因かも知れない。
既に当時から「小児科医・宣長」という見方もあったのだ。
上田秋成の『胆大小心録』(異文)にも「ある人、古事記伝を見て、是は坊主落か、と問はるゝ。いや小児いしやの片店商ひしや、といふたれば」、今の言葉に訳すと、ある人が『古事記伝』を見て、これは僧が書いたのかというので、いや小児科医が学者を兼業しているのじゃと言ったところ、という意味。
「製薬の広告案と処方の覚」という巻子がある。
内容は、
よく宣長さんは「小児科医」だといわれるのは、医学の先生が武川幸順という有名な小児科医だったからだろう。
また、「小児胎毒丸」とか「家伝あめぐすり」という薬を調合して販売していたことも一因かも知れない。
既に当時から「小児科医・宣長」という見方もあったのだ。
上田秋成の『胆大小心録』(異文)にも「ある人、古事記伝を見て、是は坊主落か、と問はるゝ。いや小児いしやの片店商ひしや、といふたれば」、今の言葉に訳すと、ある人が『古事記伝』を見て、これは僧が書いたのかというので、いや小児科医が学者を兼業しているのじゃと言ったところ、という意味。
「製薬の広告案と処方の覚」という巻子がある。
内容は、
- 「【加味】建中飴薬」(春庭筆、宣長加筆。天明3年癸卯正月の日付あり)。
- 「精製六味地黄丸」。
- 「(小児胎毒丸広告)」(木版)。
- 「(むしおさへ広告)」(木版)。
- 「天明三年癸卯十二月製六味丸」。
- 「天明六年丙午八月製六味丸」。
- 「道中薬」。
- 「目掛薬方」。
- 「つうふう薬」。
- 「外科正宗咽喉門金鎖匙」。
- 「(寛政四年五月調合覚)」。
- 「癩病ノ妙薬」。
- 「(薬方覚)」。
- 「(天明四年八月中里新三郎口中薬)」。
- 「抱龍丸」(寛政5年2月の日付あり)。
- 「中里弥五郎地薬」。
- 「(おしゅん調合覚)」。
- 「(与左兵衛に教える浴湯方)」。
- 「(薬方)」。
- 「煉薬」。
ここに集められたのは、宣長が調合した薬や、また宣長考案の薬の覚えのメモだ。中には門人・中里新三郎(常岳)や弟(与左兵衛)、妹(しゅん)のためのものも見え、医療活動の実際を知ることが出来る。それにしても、道中薬と言うから旅行の時の薬、目薬、ハンセン氏病の薬、口の中の薬(うがい薬?)、入浴剤(18)や外科薬(10)と、実にバラエティーに富む。これでは、何医かということは簡単には言えないね。
(C)本居宣長記念館
宣長は真淵の後を追ったか?
柏屋で真淵が伊勢に向かったことを聞いた宣長はその後を追ったのでしょうか。
佐佐木信綱の「松坂の一夜」では町の外れ、垣鼻(カイバナ)村の先まで追いかけたとあります。
ただ、宣長の回想では、
佐佐木信綱の「松坂の一夜」では町の外れ、垣鼻(カイバナ)村の先まで追いかけたとあります。
ただ、宣長の回想では、
「此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へるを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみしくゝちをしかりしを、
かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いといとうれしく、いそぎやどりにまうでて、はじ
めて見え奉りたりき」
とあるだけです。
(C)本居宣長記念館
「宣長版赤穂義士伝」の一節 (「のりながばんあこうぎしでん」のいっせつ)
「くらノ助は子息ヨシカネ(良金)に火鉢を持まいれと言ふ。ヨシカネ不審に思ひ、今四月なるに火鉢のいる事は不審なりと思へ共、まづ持てゆきければ、くらノ助かの連判状をとり出し、引き裂きて焼き捨てたり。ヨシカネ傍らよりこれを見て、立ち出て父に言曰、親人切腹したまへ。其元の心を今や我知りたり。今まではかたき討、といふて城をばわたし、今又命の惜しさに焼捨て逃げん覚悟、今我が親なれども、主人のためには代え難し。今切腹したまへ、介錯せんと云う。返答いかんと云に、クラノ助はわざと云わずして、心をひき見んために、其の言ひ訳為し、而してばなにとすると云へば、ヨシカネ、しからば討ちはなたんと討てかゝる所を、クラノ助たちまち取つて押さへ、今我連判状を焼きしは、もし人の目にもかゝりなば大事の事に及ぶ。又これなくても、誠の侍の心変わることあるべからず。然れば焼き捨てたり。而にこしやくな己めがと云へども、心の内にはあつはれでかしたと思ひけり。」
(原文は片仮名であるが読みやすく変え、漢字も補った。)
(C)本居宣長記念館
宣長を援助してくれた人たち
宣長学の隆盛の一因は、理解者に恵まれたことであろう。
浜田藩主松平康定の外、和歌山藩主徳川治宝、京都では妙法院宮、また公卿では芝山持豊、富小路貞直、日野資枝などは特に宣長を厚遇してくれた。ここでは京都の妙法院宮と公卿の歌を紹介しよう。
妙法院宮は光格天皇の実兄で、当時の京都芸術文化の中心に居られた方であり、自身も絵に書に、また歌や学問に優れていた。この宮に、宣長は『古事記伝』を献上し、また64歳の時には拝謁している。歌は、
いせの海のなぎさを清みすむつる(鶴)の千とせの声を君にきかせむ
芝山持豊(1742~1815)は正二位権大納言にまでなった公家。庶民とも親しく交わり、当時の京都文化の庇護者であった。宣長が、晩年京都へ国学の普及活動のために上った時にも、熱心に迎えている。
寛政11年宣長七十の賀の歌。
「宣長老翁七十の賀に
のぼりこし齢はいまだ七十の末はるかなり千世の坂みち」
宣長の返歌
「千代は経ん君がめぐみの言の葉をかざしにささば老いもかくれて」
また、宣長より贈られた『草庵集玉箒』への返礼に歌を贈っている。
正三位・富小路貞直卿の長歌は巻末を紹介しよう。
「ふるさとの二見のうらの、ふたゝびもさきくいまして、かにかくにのぼりきませと、すがのねのねんごろにのるけふのわかれぢ」(お前の住む伊勢の二見の名のように再び元気で京都に来る日を祈る今日の別れである)
これは、帰郷する宣長に贈った歌である。という高官の貞直に知遇を得たことは、宣長にとって身に余る光栄であった。又、帰郷に際して贈られたこの歌の最後の句を読んだ宣長は感動に打ち震えたであろう。
宣長七十二年の生涯の最後を飾る長歌である。
日野資枝は、従一位の公卿。宣長(72歳)への返歌。
「宣長より「波の下くさ」とよみておくられしかば
わかの浦やちよまつかげのみるふさをだれかはなみの下くさとみむ
従一位(花押)」
宣長が、自分は波の下草のような者ですと卑下したのに対して、和歌の浦の海松房(みるぶさ)のような立派なお前を誰が、名もない下草と見るものか、と詠み返した。
国学の普及を念願していた宣長にとって、最晩年の、京都での公家からの厚遇は、大変嬉しいことであった。
(C)本居宣長記念館