榛原・油屋
橋本稲彦(はしもと・いなひこ)
広島に生まれた。姓源、通称保次郎、中台、稲蔵、稲毘古、号琴廼屋。最初、垂加神道を学ぶが飽きたらず、寛政10年(1798)、松坂を訪れ、1月23日に宣長に入門する。当時の宣長書簡に「且又藝州広島橋本稲蔵と申若者、是于致逗留罷在候、殊外出精いたし申候」(寛政10年5月28日付、千家俊信宛)とある。また「山室山奥墓碑面下書」は稲彦宛書簡の紙背に書かれる。
宣長から目をかけられた反動か、周りの評判はどうもよくなかったようで、某年正月14日付大平宛書簡でも、松坂での自分の評判の悪いことを書き、それでも自信の程を窺わせる(『本居宣長稿本全集』・2-233)。また没後、殿村安守は大平宛書簡で『仏国暦象編』を書いた普門律師を評し、「故稲彦見るやうなげんきな僧」と書いている(文化14年5月付)。著書には村田春海の『時文摘紕』を批判した『非時文摘紕』や、加藤千蔭の『うけらが花』を批判した『非宇気良賀華』などがある。大坂の蛇(クチナワ)坂に葬られたと伝える。
【参考文献】
「宣長門人橋本稲彦の一考察」中澤伸弘『鈴屋学会報』15号。
「文化十四年五月篠斎差出大平宛手翰」吉田悦之『須受能屋』1号。
「山室山奥墓再見」吉田悦之『須受能屋』10号。
橋本経亮(はしもと・つねすけ/つねあきら)
有職故実家。宣長の友人。本姓橘。肥後守。号橘窓、香果堂。父の後を継ぎ京都にある梅宮大社の神官を勤め、また宮中に出仕して非蔵人となる。師は高橋図南、小沢蘆庵。秋成、蒿蹊とも親しくする。著書は『橘窓自語』、『梅窓筆記』等。菩提寺日蓮宗本福寺。
宮中に至る途上も読書にふけり、田畑に落ちて着物を汚しても平気だったと言う話が伝わる。また羽倉敬尚氏は「古いことを好む虫のような人物」と評している(「故実家橋本経亮」)。学問一筋の人物だったようだ。そのため、宣長は横井千秋に紹介するとき次のように忠告している。
(寛政3年正月15日付横井千秋宛書簡)
彼は俗人ではなく、古学に極めて熱心な人であるだけに、挨拶や手紙もぶっきらぼうで、無礼な感じがする。きっとあなたへの手紙でも失礼があるかも知れないが、その点を心得ておいて欲しい。
千秋は宣長の門人ではあるが、尾張徳川家の重臣でもあり身分が高い人だけに宣長も気を揉んだのだろう。
私が梅宮大社を参詣した日、ちょうど、区のお祭りの日であった。境内のイベント会場で配っていた経亮紹介のチラシから。
「橋本経亮(ツネスケ)小伝、此の付近を肥後屋敷と云う。肥後ノ守経亮、此の処に邸宅を構えたるが故なり。経亮。宝暦9年2月ここに生れ、幼少の頃より後桜町天皇の内ノ非蔵人に出仕。初め伊豆ノ守と称し後、肥後ノ守と改称す。有職故実の学に造詣深く、且つ歌道にも秀れたり。文化2年6月10日47歳を以って卒し、当地本福寺に葬る。本照院円妙覚長居士と追い謚さる。辞世に曰く「のがれ得ぬ道とし知ればかねてわがおくつき処定めおきつる」。著書に橘窓自語3巻、梅窓自語2巻、万葉集校異20巻等あり。本居宣長、小沢蘆庵、滝沢馬琴、上田秋成、谷文晁等交友厚く、屡々此所に相会し詩歌をたのしむ。(因に画匠谷文晁筆経亮像は東京国立博物館に蔵す)昭和40年猛夏、艮山記」
経亮が隠岐駅鈴を詠んだ短冊は、今、隠岐国造家の展示室にある。国造が「駅鈴」の題で歌を募った時に応じたのであろう。つまり、寛政2年の遷幸に至るまでの「隠岐駅鈴」を取り巻くグループの一員に経亮も入っていたのである。宣長と駅鈴を結ぶ線がまた一つ引かれた。
橋本経亮の訪問
寛政11年5月8日、京の橋本経亮が、大平、笠因の案内で鈴屋を訪れた。
久しぶりの対面で、歌の贈答があり、酒肴が出た。先生から一杯と経亮が差す 『橋本経亮歌文集』に、
「牛貝吹く頃、松坂稲掛の家に着きたり、此処にて共に来りし田舎人には別れたり、大平と共に出で笠因某と本居翁を訪う
年久に会はざりしかど七十の老とも更に見えずぞありける
返し 宣長
あら玉の年まねらへて橘のかぐはし君にあふが嬉しさ
又返し
末の世の下枝にしあれば立花のいかで昔の香に匂ふべき
といふ程盃持出て食べよと云ふに先づ翁の参りて後とて瓶子とりつれば飲みて玉ふに
古書はよし分かずとも老らくの齢は君にあえんとぞ思ふ
返し 宣長
七十の齢は物の数ならじ千年を経べき君と思へば
傍らに大平のありて盃を巡りながして
早くより慣れこし君も伊せの海にかくて見るめの珍らしき哉
返し
見るめなき我が寄り来しは伊せの海の清き渚のくたもならまし
とて旅宿に帰りしかば夕暮になりたり、大平訪ひ来れり」
とあり、以下大平との贈答、また訪ねてきた殿村安守との贈答歌が記される。経亮は翌日早朝に松坂を出立した。
ところで、「牛貝吹く頃」って何時だろう。普通は丑の刻、午前2時頃からだが、本当なら午後2時頃と考えたいが、わからない。
【参考文献】
経亮の歌文集は、『近世学芸論考-羽倉敬尚論文集-』所収。
柱掛鈴の由緒
「古翁の、床のへにわが掛けてあさよひにいにしへしぬぶ鈴が音のさやさや、とよまれし鈴は、いつしか跡かたもなくなりにしを、あたらしくおもひわたりけるまゝに、近ごろしたしき友達に、其よしかたりて又つくらまほしきよしいひければ、其さまはいかにとねもごろにとはれけるに、其鈴は春庭若かりし時みづからつくりしことなれば、そのさまくはしくかたらひければ、人々都の左様の物つくる者にあつらへてめぐまれける、こよなくうるはしく出来にければいとよろこばしくて、有しさまに朝夕引ならしつゝあかずおもひてよめる、かくこそは 千とせもきかめ とことはに ふりし世かけて しのぶ鈴が音、文政五年午冬本居春庭」
文政5年(1822)春庭60歳。この年の正月22日に長女伊豆が浜田家に嫁いでいる。
ら ん | 宣長さんが作ったの? |
和歌子 | 宣長が考案し、鈴を買ってきて、実際に作ったのは春庭です。 |
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ら ん | どうして36なの? |
和歌子 | 宣長さんは何も言っていませんが、36と言えば、三十六歌仙じゃないかしら。 |
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ら ん | どんな音がするの? |
和歌子 | さやさやという音色だそうです、今も、上手に振るといい音がします。少し手前に引っ張って後の板に当たらないように鳴らすのがコツです。 |
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ら ん | ほんと。いい音がする。 |
和歌子 | 以前、岡村光祥(ミツヨシ)さん千恵子さんご夫婦は、この音色を「秋風が立ちはじめた十月の午後四時ごろの感じ」と表現されました。お二人は全盲ですが素晴らしい聴覚を持っておられます。足立巻一さんの『やちまた』に感銘して松阪に来られました。 でも、この音、宣長さんが聴いた音ではないの。本当の鈴は、形見分けのようにして、一つずつお弟子さんが持っていってしまったのよ。今の鈴は、それを惜しんだ春庭が、友達、これは殿村安守たちらしいけど、に作ってもらったものなの。聯(レン)という後の板は、その時に保存のために作られた物だと思うわ。 |
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ら ん | ところで、どうして鈴なのだろう。 |
和歌子 | さっき引いた宣長の歌に、 「物むつかしきをりをり引なしてそれが音をきけばここちもすがすがしくおもほゆ」 とあります。勉強に疲れた時の気分転換、集中力を高めるのかしら。 |
【注】
「三十六歌仙」
平安時代中期に藤原公任が選んだ、三十六人の優れた歌人、例えば、柿本人麿、紀貫之、また小野小町なども入っている。その後も、後六六撰、中古三十六歌仙が選ばれたり、「西本願寺本三十六人集」や、歌仙絵などのモチーフとなり、和歌だけでなく、美術史でも大きな影響を及ぼした。宣長も寛延2年10月、20歳の時に『三十六歌仙』を写している。
長谷川家
長谷川常雄(は せがわ・つねお)
長谷川元貞( はせがわ・もとさだ)
「長谷川主ハ名ハ元貞、号六有とて、和漢の学者、風流家ニて、拙随筆玄同放言、燕石雑志なとも蔵弄あるよし被仰示、甚なつかしき心地せられ候」(天保11,4/11付安守宛・『【日本大学総合図書館蔵】馬琴書簡集』P135) 蔵印は「六有斎図書記」「六有斎所蔵」「六有図書」。著書は随筆『聞侭之記』(47冊、稿本)。
長谷寺と宣長
宣長が最初にこの寺に参詣したのは、13歳の時である。それから15年、宝暦7年10月4日、京都遊学からの帰途、宣長は三輪明神を経て再び長谷寺に参詣している。この時の参詣は、同行者に叔父・村田清兵衛がいたこともあり、ちょっと大がかりだった。『在京日記』でその様子を見てみよう。
八太(はた)
2009年9月25日(非売品)
★八太の歴史や行事、地図に領土問題などを、項目ごとに分けて写真を多用し紹介しています。
『道中記よりみる八太宿』(資料編)
2009年10月10日(非売品)
★八太(初瀬街道)が記載された道中記の一覧、また、その行程、八太宿にあった旅籠名、さらには、八太宿や近辺の様子を記載
『旅籠の引き札』(初瀬街道を中心として)
2010年8月25日発行(非売品)
★初瀬街道周辺で発行された引き札(宿屋の広告や道中案内図、絵図など)を写真つきで幅広く紹介しています。
『八太のいろんな物語』
2013年1月24日(非売品)
★八太で昔から行われる祭りや講、行事の歴史や、風習、周辺設備の移り変わりを紹介しています。
旅籠・新上屋(しんじょうや)
和歌山街道との分岐点に近いこのあたりには本陣・美濃屋や馬問屋を始め旅宿が何軒もあったらしい。
この旅籠で、宝暦13年5月25日(西暦1763年7月5日)、本居宣長(34歳)と賀茂真淵(67歳)が初めて対面した。
真淵は静岡県浜松の生まれ。当時江戸に住み古典研究の第一人者であった。京都・大和を経て参宮の途中、この宿に数日滞在した。
宣長が宿の近くにあった本屋・柏屋兵助からこのことを聞いたときには、既に出立の後であった。
かねてより真淵を私淑していた宣長は残念に思い、帰りにも泊まられることを期待して待った。
望みはかない宣長は真淵と対面することが出来た。近所の尾張屋太右衛門を引き連れ訪ねた宣長を快く迎えた真淵は、宣長の『古事記』研究のためにはまず『万葉集』を学ぶことを勧め、自分の生涯をかけた『万葉集』研究の成果一切を宣長に伝えることを約束する。
生涯たった一度の対面であったが、国学の歴史の新たな展開がここに始まった。
この日のことを、二人の対面を描いた佐佐木信綱の文章により「松阪の一夜」と呼ぶ。
旅籠は既に無くなってしまったが、場所は「新上屋跡」として、市の史跡指定(昭和28年12月8日)を受け、現在は碑と山桜が植えられている。
服部中庸(はっとり・なかつね)
派手な松坂・質素な和歌山
浜田
播磨の眼科医
『春雨物語』と伊勢
版木
版木師、伊勢へ行く
賀茂真淵は書簡の中で、『万葉考』は京都で印刷することにしたが、夏、秋は腕のいい職人が伊勢暦印刷のために、みな伊勢に行ってしまい、一向仕事がはかどらず、埒があかぬとこぼしている。
【原文・抄】
「万葉巻一二並別記と三冊京判にのぼせ候を、漸板四五枚下し候。夏秋中いせ暦の判の為ほり手の上手は皆いせへ行候よしにて、埒明ぬと申越候」(斎藤信幸宛・明和5年(頃)11月8日付。
版木職人・植松有信(うえまつ・ありのぶ)
板木彫刻料
万国図
これは宣長が上田秋成に言った言葉だ。鈴屋にも諸外国の情報は届いていた。世界地図など誰でも見ていると言った宣長の机の傍には本当に世界地図が置かれていた。
また、『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』という本で宣長は、仏教的な須弥山宇宙論を批判し、「地球」説を養護、「地球の空中にあることは、日月の空に懸れると同じことなり」という。
また、「西洋の人は万国を経歴してよく知れる所」と、見聞の広さは西洋人の方が上であると認める。
また西洋の暦を見ていた可能性も指摘されている。
宣長から見れば、仏教的な世界観や、中華思想は諸外国の前では成り立たない。反対に諸外国のことを知れば、日本の優れた点が分かると考えていた(「おらんだといふ国の学び」『玉勝間』巻7)。
伴信友(ばん・のぶとも)
「檜垣媼図」(ひがきおうなのず)
檜垣媼(ヒガキノオウナ)とは平安時代の歌人で、『後撰集』に歌が載る。また『袋草紙』という和歌にまつわる話を集めた本には、「肥後国遊君檜垣翁、老後落魄者也」とある。
この像の発見は橘南谿著『西遊記』にも載り、中島広足の『檜垣家集補注』にも紹介された。
ただ、宣長は信じていない。どうも変だ。
(『玉勝間』巻8「ふるき物またそのかたをいつはり作る事」)
疋田宇隆(ひきた・うりゅう)
飛騨(ひだ)
日前宮・国懸宮
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「又申上候、梶間氏と申衆、其後とくと様子承り候処、御前甚御機嫌能被為在候条、猶又聴衆之重キ役人衆、甚感シ玉ヒ、講尺ノ仕様、弁ノ分明成ル事、句切等甚宜敷、若キ時よりよくよく仕なれたる様子と相見エたりと、いつれも弥御称美のよし申事也とぞ。或人ノ曰ク人々春庵ノ人品ヲホメタリとも」
平田篤胤(ひらた・あつたね)
深澤(沢)清 (ふかざわ・きよし)
父の証言では、とにかくかっこいい人だったそうで、戦前オートバイなどを乗り回している写真が残っている。
母の話では、明治維新前は武家で、士族、近衛兵をしていたという。
戦時中は満州の関東軍に帯同し、従軍画家として活動したらしい。
当時の作品には、「西原曹長 部隊長救出の図」(奈良県方面で所蔵される)、「空の武士道」(複製:靖国神社 就遊館蔵)がある。
昭和21年(1946年)、大分県別府市に戻り、戦災孤児を引き取る施設「希望の家」を作る。
この頃の作品には、大分県竹田市の西光寺蔵「藤丸警部惨殺の絵」がある。西南の役の一エピソードを描いた作品である。
また、大分刑務所にも女性が繕い物をしている絵があるという。
清画伯の作品は、熊本の実家に3枚が残されている。
このように見てくると、どうやら「松坂の一夜」は、画伯晩年の代表作といってもよさそうだ。
この絵は、当時の本居神社総代・牧戸正平氏が昭和31年8月27日に奉納したのだが、 深澤氏と牧戸さんはどこで出会ったのだろう。
これがきっかけで、すばらしい作品が生まれた。
両氏の出会い、これもまた、「松坂の一夜」であったと言えよう。
以上は、深澤清氏の孫 千尋(ふかざわ・ちひろ)氏から提供された清画伯についての情報に、 若干の推測を加えてまとめたものである。
吹上御殿
和歌山滞在中、宣長は吹上御殿で3日間講釈をしたが、ここは藩主治宝の祖母清信院の屋敷。宣長『寛政六年若山行日記』に当日の記録が載る。御殿そのものは残らない。
吹上寺
ここは、浅野長晟妻・振姫の遺骸を火葬した場所でもある。
今、和歌山城に残る追廻門は、解体修理により朱塗りであったことが判明した。朱の門と言えば東大赤門が有名だが、それと同じようにこの門も御守殿門ではないかとも言われた。やがて裏鬼門説が有力になるが、それはともかく、御守殿とは将軍の娘で三位以上に嫁いだ人を言う。該当するのは、初代藩主浅野幸長(ヨシナガ)の弟で二代藩主長晟(ナガアキラ)の奥方、家康の三女振姫である。振姫の最初の夫は、蒲生秀行。松坂を開府した蒲生氏郷の子である。夫と死別後、蒲生家を出た姫は浅野家に嫁ぐ。やがて藩主の子を生むが産後の肥立ち悪く亡くなった。
追廻門を出ると、扇の芝。和歌山町民の行楽の地であった。
ここから藩の医学館の跡を通ると、吹上寺はもう間近である。
福岡藩士の金印論
藤井高尚(ふじい・たかなお)
不思議
世の中には不思議なことがある。
「天下ノ事、不思議多シ」
これは藤原定家の日記『明月記』正治2年1月29日の一節だが、定家が不思議だと思った人の世だけでなく、自然界にも不思議は多い。
また次のようにも言う。
宣長の言うように、この世には説明の付かないことが多い。
宝暦9年(1759)9月、正月が来たといって町では正月の準備が始まったことがある。
明和7年(1770)7月28日夜、空が赤くなり、やがて白い筋が何本も浮かび上がり、ゆらゆら揺れては消えまた現れしたことがある。今ではオーロラだろうと言われている。
天明8年(1771)4月11日夕方六半時(午後8時過ぎ)、光るものが南の空に現れ、また南の空に消えていった。江戸では、昼ぐらい明るかったという。これは未確認飛行物体か。
怪異と言うのは適当とは思えないが、お蔭参りを松坂で目の当たりにした時も、宣長は、そこに不思議を越えた神意を感じたのかもしれない。
明和8年(1771)には、突然大勢の人が伊勢神宮に参詣するといって歩き出した。その数ざっと200万人。当時の人口3000万人だから15人に1人が伊勢に来たことになる。おかげ参りだ。おかげで松坂の町は参宮客で埋め尽くされた。道を横断することも出来ず、家の軒先で寝ている旅人もいたという。
そんな大規模なものだけではない。宣長の友人で垂加神道家でもあった谷川士清は、自分の原稿を土に埋めて「反故塚」を作ると、玉虫が3日間集まったという。この時、宣長は門人と歌を贈っている。
門人・千家俊信の掌紋(手相)に「建玉」、また「玉」の字が出て、喜んだ俊信は周囲の祝福をうけた。この「掌の玉」一件について宣長は、「そのようなことは、決して人に知られぬように秘密としたほうがよい」と忠告している。
不思議があることは宣長も認める。だが、神秘体験を吹聴し始めると学問の方向もずれるし、またあらぬ誤解を受けると考えたのだろう。宣長は、不思議を見ても、そのことを声高に言う人ではなかった。奇談を楽しむ人でなく、神への畏れを知る人であった。
また、それ以上に宣長にとって不思議なのは、例えば日本語には整然とした法則があることであり、また言葉が集まり妙なる調べとなることであり、また『源氏物語』のような優れた作品があることであった。
宣長が「不思議だ」と思ったことの中には、その後の学問が解決したこともある。だが多くは未だに未解決のままである。
【資料】
- 宝暦9年(1759)9月、「流行正月」があった。 『日録』に、「今月、町々家々正月之儀式ヲナス、或餅ツキ、豆ハヤシ、雑煮等アリ、甚シキ者ハ、門餝、松ヲタツルニ至ル、他国ヨリ段々流行来ルト也」(宣長全集・16-147)とある。「流行正月」は他の年にも、また宣長以外の記録にも散見する。年に2回正月をするのは災害など災厄があった年の一種のお祓いで、悪い年はもう終わった、という意味があるのだとする説もあるが、定かではない。
- 明和7年(1770)7月28日夜、宣長は松坂でオーロラを見ている。 『日記』には、「廿八日、今夜北方有赤気、始四時頃如見甚遠方火事、其後九時頃至而、赤気甚大高而、其中多有白筋立登、其筋或消或現、其赤気漸広而、後及東西上及半天、至八時頃消矣、右之変諸国一同之由後日聞」(宣長全集・16-318)とある。
この変異は宣長も言うように全国的なもので、『武江年表』「七月二十八日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る」とあり、『想山著聞奇集』によれば長崎で、神田茂『日本天文気象史料』によれば京都でも見えたそうで図が載る。現在ではオーロラではないかとされている。(「気候からみた江戸時代」西岡秀雄『図説日本文化の歴史』第9巻月報所載)
富士谷成章と宣長
また、「藤谷成章といひし人の事」(『玉勝間』巻8)ではその他の著作にまで触れている。
「ちかきころ京に、藤谷専右衛門成章といふ人有ける、それがつくれる、かざし抄、あゆひ抄、六運図略などいふふみども見て、おどろかれぬ。それよりさきにも、さる人有とは、ほの聞たりしかど、例の今やうの、かいなでの歌よみならんと、みみもたたざりしを、此ふみどもを見てぞ、しれる人に、あるやうとひしかば、此ちかきほど、みまかりぬと聞て、又おどろかれぬ、そもそも此ごろのうたよみどもは、すこし人にもまさりて、もちいらるゝばかりにもなれば、おのれひとり此道えたるかほして、心やりたかぶるめれど、よめる歌かける文いへる説などをきけば、ひがことのみ多く、みないといまだしきものにて、これはとおぼゆるは、いとかたく、ましてぬけ出たるは、たえてなきよに、この藤谷は、さるたぐひにあらず、又ふるきすぢをとらへて、みだりに高きことのみいふともがらはた、よにおほかるを、さるたぐひにもあらず、万葉よりあなたのことは、いかがあらむ、しらず、六運の弁にいへるおもむきを見るに、古今集よりこなたざまの歌のやうを、よく見しれることは、大かたちかき世に、ならぶ人あらじとぞおぼゆる、北辺集といひて歌の集もあるを、見たるに、よめるうたは、さしもすぐれたりとはなけれど、いまのよの歌よみのやうなる、ひがことは、をさをさ見えずなん有ける、さもあたらしき人の、はやくもうせぬることよ、その子の専右衛門といふも、まだとしわかけれど、心いれて、わざと此道ものすときくは、ちゝの気はひもそはりたらむと、たのもしくおぼゆかし、それが物したる書どもゝ、これかれと、見えしらがふめり」。
【注】
- 富士谷成章(ナリアキラ) 1738~79 国語学者。儒者皆川淇園の弟。実証的研究法で、品詞分類、国語史の時代区分などに優れた業績を上げた。
- 『かざし抄』明和4年刊。文首、語頭にくる語句を「挿頭(カザシ)」と名付けて解説する。
- 『あゆひ抄』安永7年刊。助詞、助動詞、接尾語などを「脚結(アユイ)」と名付けて解説する。
- 『六運図略』国語史の変遷を六つに分けて説明する。写本で伝わる。以上三書は『古今集』以下の歌集から用例を引くので、宣長は「万葉よりあなたのことは、いかがあらむ」
- 富士谷御杖(ミツエ) 1768~1823 父と伯父・淇園の影響を受け、言語の象徴や暗示を重視する、言語倒語説という特異な言語理論を樹立した。
藤原宮御井の歌は殊によろし
『万葉集』巻1からその長歌、また前後の短歌を引いてみよう。
「明日香ノ宮より藤原ノ宮に遷りましし後、志貴ノ皇子の作りませる御歌
51 釆女の袖吹きかへす明日香風京を遠みいたづらに吹く
藤原ノ宮の御井の歌
52 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に 在り立たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日の経(タテ)の 大御門に 青山と 繁さび立てり 畝火の この瑞山は 日の緯(ヨコ)の大御門に 瑞山と
山さびいます 耳無の 青すが山は 背面(ソトモ)の 大御門に 宣(ヨロ)しなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天のみかげ 天知るや 日のみかげの 水こそは 常にあらめ 御井の清水
短歌
53 藤原の 大宮づかへ あれつくや 処女がともは ともしきろかも
右の歌は、作者いまだ詳らかならず」
雄大な歌である。東に香具山、西に畝傍山、北には耳成山、そして雲居遠くに吉野を望む。その藤原の都の聖なる水の井戸を讃える。
「日の経(タテ)・日の緯(ヨコ)」は、東西南北の方角の筆頭、東を経糸で表したもの。陽の東に対し陰の西は緯(ヨコ)糸で表し、下に「日の緯」といっている。『高橋氏文』(『本朝月令』所引)にも東を日竪、西を日横にあてている。ただし成務紀(5年9月)には、東西を日縦、南北を日横としている。(『万葉集釈注』伊藤博)
藤原定家(ふじわらの・さだいえ)
『鈴屋百首歌 一』の奥書の一節に
『排蘆小船』でも
(宣長全集・2-65)
二見の宣長歌碑
普段の食事
仏壇
私が今住んでいる家は、祖父唱阿(ショウア)大徳の隠居所で、仏壇もその時のである。本尊は阿弥陀三尊像で、まん中の阿弥陀仏は座像でみだれ後光が付く。脇侍仏2体立像であった。三尊共に金色に輝き立派な仏像であったが。私が子どもの頃に、岩内(ヨウチ)村(松阪市岩内町)にある岩観音の寺の僧建入さんが、その寺の内仏に欲しいと母に願い出たので、それは有り難いことと、すぐに承諾したので、建入は自分で背負って、そのお寺に移し、庵の本尊としたが、この前、その寺が焼けてしまった。だが、幸いにも中尊だけは残ったが、あとは後光も台座も脇侍の観音、勢至像もみな焼失してしまった。その後、寺は立派に再建された。今の本尊はその焼け残った中尊である。参拝することがあったら心を込めて参拝しないといけない。
神道への尊重が固まった50代においても、家の仏像への思いは格別である。やはり宣長において、家の宗教と仏教批判を同列に扱うことは出来ない。
岩観音は、瑞巌寺。この中尊は、最近まで安置されていた。
「大晦日鏡供覚」では、仏壇への供え方を指示する。
【原文】
「当家の今の家は、唱阿大徳の御隠居にて、仏壇もその時の也、本尊は阿弥陀の三尊にて、中尊は座像、みだれ後光也、脇侍の二尊は立像也き、此三尊いときらきらしく、結構なる仏像なりしが、宣長が童なりし比、岩内村の岩観音の寺の住僧建入といひしが、その寺の内仏にせまほしきよし、恵勝法尼へこひければ、そはよき事とて、すなはちゆるし給ひしかば、建入みづから負て、かの寺へうつして、庵の本尊として有しを、さいつころ寺焼ける時、からうして中尊ばかりを出し奉りて、後光も台座も観音勢至も、みな焼給ひぬとぞ、かの寺は、其後よき庵建たり、今の本尊、かの中尊なるべし、まうでなば心をつけて拝むべし」とある。
「ふみよみ百首抄」
おもしろきふみよむ時は寝ることもものくふこともげにわすれけり
朝夕に物くふほともかたはらにひろげおきてぞ書は読むべき
書よめば千里のよそのことまでもただここにして目に見るごとし
酒のみてうたひまひつゝあそぶより書よむこそはよにたのしけれ
書よめはたえてさひしき事ぞなき人もとひこず酒ものまねど
六月の風にあつとて取いつれはやがてよままくほしき書とも
あつけれと書よむほどはわすられて夏も扇はとらむともせず
けだてよめ心のあぶらさしそへて小夜はふくとも書のともし火
よむ書をしばし枕にかり寝してうしやおぼえず曉のそら
夜昼のただしばらくのいとまをもいたづらにせで書をよむべし
をりをりにあそぶ暇はある人の暇なしとて書読まぬかな
書よめばおほやけばらもたたれけりひとりわらひもせられける哉
世に見えぬめつらしき書えてしあらばよくわきまへよまこといつはり
たのしみはくさぐさあれど世の中に書よむばかりたのしきはなし
よむふみに心うつれば世の間のうきもつらきもしばしわすれつ
障りありて一日一夜もふみ見ねば千年もよまぬこゝちこそすれ
わが齢のこりすくなしいくかへりよめどもあかぬ書はおほきに
玉の緒のながくもがなやよの中にありとある書よみつくすまで
「ふみよみ百首」
1 すかの根の長き春日もみしかきそ書よむ人のうれひなりける
2 ぬるかうちも道ゆくほとも書よまて過るそをしきあたらいとまを
3 おもしろきふみよむ時はぬることもものくふこともけにわすれけり
4 朝夕に物くふほともかたはらにひろけおきてそ書はよむへき
5 くうものはみちてもきゆるはらのうちに長く残るはよめる書なり
6 書よめは倭もろこしむかし今よろつの事をしるそうれしき
7 ふみよめはくはしくそしる天の下ゆかぬ國々よものうみ山
8 書よめは見ぬもろこしの國まても心のうちのものになりつゝ
9 書よめはむかしの人はなかりけりみな今もあるわか共にして
10 花鳥のよにおもしろき色も音もこもりて見きくよむ書のうち
11 ふみよめは心のうちに時わかす花もさきけり月もすみけり
12 書よめは千里のよそのことまてもたゝこゝにして目に見ることし
13 ふみよめは花も紅葉も月雪もいつともわかす見るこゝちして
14 酒のみてうたひまひつゝあそふより書よむこそはよにたのしけれ
15 書よめはたえてひさしき事そなき人もとひこす酒ものまねと
16 ふみよまてなにつれつれなくさまむ春雨のころ秋の長き夜
17 六月の風にあつとて取いつれはやかてよままくほしき書とも
18 あつけれと書よむほとはわすられて夏も扇はとらむともせす
19 うつみ火のもとによるよるおきゐつゝさむさわすれて見る書そよき
20 跡たへて深くふりつむ冬の日もふみ見る道はゆきもさはらす
21 なつむなよふみ見る道に朝霜のとけぬ所はさてもすきゆけ
22 ふみ見るにけはしき道はよきてゆけまたき心の馬つからすな
23 おもしろき山川見つゝゆけはかも書見る道はくるしくもあらす
24 もろもろの書見る道はよるひると千里ゆけとも足もつかれす
25 ゆきゆけはつひにはいたりつくものを書見る道はあしおそくても
26 くらくともほともなく夜は明ぬへし書見る道にやみななけきそ
27 けたてよめ心のあふらさしそへてさよはふくとも書のともし火
28 よむ書をしはし枕にかり寝してうしやおほへす暁のそら
29 よるひるのたゝしはらくのいとまをもいたつらにせて書をよむへし
30 いたつらに過る月日もをしとたにおもはてやふるふみよまぬ人
31 をりをりにあそふいとまはある人のいとまなしとて書よまぬかな
32 よるひるとよめとも書はあかなくによまて世をふる人も有けり
33 書よむをたゝむつかしき事とのみ思ふはよまぬ故にこそあれ
34 書よむをふさわしからぬわさとのみおもふはよまぬゆゑにこそあれ
35 いろはたにえしらぬ人をはかなしと見つゝ書見ぬ人のはかなさ
36 ふみよまぬ人はいろはのもしをたにえしらぬ人になにかことなる
37 大かたはいとまなき身もしはらくのいとましあらは書はよむへし
38 いとまなき人こそあらめいとまある人はなとてか書よまさらん
39 いさよまんと思へはたれもよまるゝを書よむいとまなしといふめり
40 書よむは又たくひなきたのしみをよみ見ぬ人はしらぬ成けり
41 書よめはおほやけはらもたゝれけりひとりわらひも又せられけり
42 佛ふみよめはをかしきことおほみひとりわらひもせられける哉
43 あともなき空言ふみにはかられて身をもあやまつ人のはかなさ
44 むかしよりいつはり書をそらこととさとれる人のなきそあやしき
45 そら言のをしへの書を神のこといつきたふとむ人のおろかさ
46 漢ふみも見れはおかしきふしおほしもののことはりこちたれけれとも
47 から書もこれは言よきからふみと思ひてよめはそこなひもなし
48 いかなれは代々のかしこき人々のそらこと書にまよひ来ぬらん
49 あたこともよめはよむかひある物をいつれの書かよまてすつへき
50 よまねとも倭もろこしもろもろの書をあつめておくもたのしみ
51 世に見えぬめつらしき書えしあらはよくわきまへよまこといつはり
52 いつはりの人まとはしのえせふみも世におほかるをはからぬなゆめ
53 偽の書をつくりて人はかる人はいかなるこゝろなるらむ
54 あちきなくいつはり書を造りいつるあたらいとまに真書よみなて
55 のこりたる名をきくたひにゆかしきはたえて世になき古のふみ
56 ひろはたの神の御代にそくたらより書籍てふものはたてまつける
57 今よりの千年の後やいかならむ出くるふみのかすまさりつゝ
58 たのしみはくさくさあれと世の中に書よむはかりたのしきはなし
59 よむふみに心うつれは世の間のうきもつらきもしはしわすれつ
60 書よめは心にもののかなはぬもうきよのさかと思ひはるけつ
61 世のわさのにこりにそめる人心ふみよむほとはきよくすみけり
62 ふみ見すはよにはしらしな神路山たかくも見えてたかきこゝろは
63 千萬の籍もとしへておことらすよめはよみうるものにそ有ける
64 めつらしくあかさる書は長かれと思ふにはやくをはるわりなさ
65 書はしもつねに明暮よるひるとよめともあかぬものにそ有ける
66 さはりありて一日一夜もふみ見ねは千年もよまぬこゝちこそすれ
67 わかよはひのこりすくなしいくかへりよめともあかぬ書はおほきに
68 玉の緒のなかくもかなやよの中にありとある書よみつくすまて
プレゼント
プレゼントは隠岐の駅鈴
文台 (ぶんだい)
『文通諸子居住処并転達所姓名所書』
この人の名前もある。
「肥後国帆足下総、杉谷三河へ書状出し所、京三条小橋、西国屋吉兵衛、大坂中ノ嶋越中橋肥後蔵屋敷留守居、萱野尚太郎(三百石)」
「江戸南八丁堀五丁メ家主相模屋文次地面ノ内、北八丁堀地蔵橋ノ際○村田平四郎、春海」これは最初、「江戸南八町堀五丁目家主相模屋文次地面ノ内、村田平四郎、春海」とあったが、これでは不充分と書き改めたのだろう。
「京富小路四条上ル町備前屋太介(備前岡山飛脚宿也)、備中宮内(ちん備中迄此方払)○藤井(小膳)長門守へ」
と料金の分担を書いた条もある。どのように料金を知ったのかは不明だが、きっと最初にいくらかかるという連絡が来ているのだろう。
遍照寺
遍照寺歌会(へんじょうじうたかい)
【参考文献】
「鈴木朖の松坂遊学」岩田隆・『文莫』7号。
帆足長秋(ほあし・ながあき)
帆足京(ほあし・みさと)
宣長から将来を嘱望された京であったが、その生涯は余りにも短かった。
文化8年9月8日、夫と家を出て、6年後に長門国(山口県)で客死する。知らせを聞いた父・長秋の歌。
「ふみをしえの十とせまり四とせといふとしのみな月の廿日まり二日の長門国ふたみの浦といふ所にて家のむすめ(三十一歳)京のみまかりけるよしおなし年のはつきの廿日まり五日の日相しれりける人の豊前よりいひおこせたりければよめるうた五つ
京が父従五位下清原真人長秋六十壱歳
ひとり子のしぬると書し玉章をなと初雁のかけて来つらむ
わびしさをおもふ涙の玉くしげふたみのうらの旅のあはれを
時しあらば今一度はなでし子の花咲をりもあらまし物を
いかなれや身を人国にはふりけむつくろひたてし宿のなでしこ
近くあらば詞の露をかけてだによみがへるべきすべもせましを」
【参考文献】
『国学者帆足長秋と京』帆足長秋先生銅像建立期成会。
法幢 (ほうとう)
『日記』に
「同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】」とある。
また、『(今井田)日記』4月1日より5月1日までの間に
「三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス」とある。
蓬莱尚賢『古事記伝』に感動する
「先に借りもたりし古事記伝、つばらに読み侍るに、やそくまおちず(八十隈落ちず)、読みかうがへ(考え)給はするかな、いにしへ今にいたりて、かかるさまに物よみ侍らん人は聞きも侍らず、ことごとかいつけ(書き付け)給はさんには、あやにとほしき世のたからともならんぞかし、こはのちのたどき(方便)になんかへし侍らん、ゆるしたまへよ、かしこ/ひさかた」
と見える。
宝暦13年
この年は宣長にとって重要な年でした。
○は宣長に関する項目。□は一族に関する項目。◆は町の様子など。
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『宝暦咄し』
内容は表題の「宝暦年間」(1751~64)には必ずしも係わらず、それ以後の記事も含む。市街地図なども添えて、宣長が生きた頃の松坂を知る格好の手がかりとなる。
本書を世に紹介した桜井祐吉氏が、「松坂の一夜」の舞台「新上屋」の場所をこの地図で特定したことは有名。また、宣長自身についても「はやり事、奇談」安永元年条に「本居歌の講尺」と書かれている。
【翻字】
『松阪市史』地誌2・『日本都市生活史料集成』4巻。
僕の友達
細井金吾(ほそい・きんご)
名は三千代麻呂、号は涼風亭、東園。槍術、剣術の達人。儒学は亀井南冥門で甘棠館に所属した。国学は最初、小篠敏に学んだ。
『授業門人姓名録』寛政5年条に
「筑前福岡【家中】細井判事、藤三千麻呂【初称金吾】、【細井広沢ノ裔】」 とある。
入門して間もなく没した細井であるが、既に入門以前から交渉はあった。あるいは面識もあった。『古事記伝』初版本巻5には、福岡にある「女嶋」と「両児嶋」という島の話の提供者として、「筑前ノ国人細井氏云」とその名前が明記される。
だが、再版以後は、「筑前国のある人」と細井氏の名は消える。
なぜだろう?
細井平洲と宣長門人
堀景山(ほり・けいざん)
宣長が書いた師のプロフィールは、
堀景山死す
堀景山の書幅が寄贈されました
景山は、『礼記』の一節、
「(君子は貴を辞し賤しきを辞せず、冨を辞し貧しきを辞せざれば、則ち乱は益亡し)故に、君子、其の食をして人に浮(す)ぎしめんや。むしろ人をして食に浮ぎしむ」
を選んでいます。意訳をすると、
「私の給料が少ないのは、私が偉大だということだ。見ろ、下らぬ奴ほど地位が高く俸給も多いじゃないか。君子というのはかくあるべきものさ」
となるでしょうか。
原文はなかなか重い言葉ですが、景山が書くと、その重みは消えて軽やかになります。実に景山らしい撰文です。
二重箱、内箱には「堀景山二行書」、裏には「鐵齋百錬題」と、富岡鐵齋の箱書があり、軸の価値を一層高めています。
半導体結晶の領域では世界的な権威ですが、それに留まらず、IT論や、古代文明、自然哲学と、まさに宣長の言う「好信楽」を地でいくような先生です。
リニューアルオープンした記念館講座室で3月4日に、氏が主宰する
志望塾 寺子屋in松阪
を公開で開講していただき、その時の竣工記念のお祝い、また同月末の先生の退官を記念して、
特別な思いのあるこの軸を、ご寄贈下さったのです。
岩田隆先生の『不尽言』の講義を聴講し、景山の人格に共鳴され、深く関心を寄せられていたのです。
また、京都の人々が景山を評した、
「光を包みたる学者だ」
という表現も、物理学者として光の問題を考え続ける氏の興味を引く要因となったそうです。
堀元厚(ほり・げんこう)
1、『菅笠日記』について その1
「すががさのにっき」と読みます。「すげがさ」ではありません。
自筆稿本題簽「すがゝさの日記」、版本題簽「須我笠の日記」とあります。
また、本文一番最後に「スガヾサ」とルビがあります。 【別称】「吉野の道の日記」(『玉勝間』)
◆ 43歳の宣長
後厄。妻勝32歳、長男春庭10歳、次男春村6歳、長女飛騨3歳。
明和9年(1772)4,5月頃か。5月7日付・谷川士清書簡に、借用を希望することが、また7月晦日付の士清の書簡に、借用の礼と感想が記されているので、帰宅後まもなく執筆されたと考えられる。刊行は、寛政7年(1795)。それまでは写本で流布した。
宣長は「たいした日数の旅ではないので特に準備という程のこともないが、そわそわする」と書いているが、実際は、山間部を行くため、宿と言えば木賃宿。ある程度はお米や味噌なども持参したかもしれない。したがって、かなりの荷物となったはずだ。
宣長自身が持っていた物としては、
『大和国中ひとりあんない』木版1枚。正徳4(1714)刊。宣長書入。大和国(奈良県)の概略図。当時の旅はこの程度の簡単な地図を頼りとしていた。
『和州巡覧記』木版1冊。貝原益軒著。宣長書入。元禄9年(1695・益軒57歳)成立。和州(奈良県)のガイドブック。平明な表現で、地域の特色をよく伝えている。広く普及し、宣長も若い頃から愛読し、簡略だが要所に宣長は書き入れをしている。
「ぬさ袋」宣長使用。袋には宣長の「うけよなほ花の錦にあく神もこころくだきし春のたむけを」の歌が付いている。また『菅笠日記』には「明日たたんとての日はつとめてより麻(ぬさ)をきざみそそくり」とある。ぬさ(幣)は旅の途中、峠や道に祀られている神(道祖神)ささげる物。もとは木綿(ゆう)や麻で作ったが、後世は布や紙が多い。
「このたびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神かみのまにまに」菅原道真『古今集』
「伊勢茶」これは木賃宿に泊まるための、つまり自分たちで飲むお茶でしょう。思いがけず、知り合った人へのプレゼントになりました。(但し、この人との出会いはフィクションだとする説があります) このほかに、雨具、それから手帳や矢立は必携だったはずです。
本陣・美濃屋
本誓寺(東京都江東区清澄3丁目4番)
ここは、江戸に進出した伊勢商人の菩提寺でもあった。村田春海の家もその一つである。春海(1746~1811)は日本橋小舟町の豪商。また、賀茂真淵の高弟。師の宝暦13年の畿内探索にも同行した。つまり新上屋での宣長と真淵の対面にも、同じ建物のどこかにはいたはずだ。あるいは18歳の春海、兄春郷とぶらり出かけていたのだろうか。因みに、後年春海は江戸の十八大通の一人に数えられ、また吉原の丁子屋の遊女丁山(23歳)を身請けし、おすがと名を改め正妻とした通人である。
春海と宣長が対面するのは天明8年(1788)3月10日、西遊紀行の締めくくりに松坂を訪問した時である。真淵の継承者と誰もが認める伊勢の宣長は国学の正統として、師の傍らで学んだことを自負し、宣長何する者ぞという気概を持った春海は江戸派の領袖として国学の発展を担っていく。
また、長井家に嫁いだ宣長次女・美濃の墓もここにあったというが、関東大震災で被災し、その後松阪の来迎寺に移された。現在、同寺に美濃夫妻墓が二つあるのはそのためであると言う。
本の貸し借りの勧め
本の出来るまで
まず原稿を書きます。
次に「版(板)下書」(ハンシタガキ)を書きます。これは、版木(板木とも書きます)に彫るための清書で、薄い紙に書きます。本を出す人は宣長自筆の版下を希望しますが、多忙になると、息子の春庭や、また上手な人に頼みます。ここでも字の誤りがあると本にまで影響しますので慎重に進めます。
「版下書」が出来たら板木職人に送ります。
「版木職人」といえば宣長の場合は植松有信が有名ですが、貰った版下書を桜の一枚板に裏を向けて貼ります。ここで字が逆になるのです。そして書かれた文字がよく見えるように紙を水をつけてこすります。和紙はこの点が便利で、文字の墨を残してきれいに除去できます。
逆さまの墨の字だけが板木に残ったら、いよいよ彫刻です。
まず粗彫りをして、そしてだんだん細かいところを彫ります。
イラストの有信は小槌を振り上げて、ずいぶん乱暴な仕草ですが、これは粗彫りか、または前面彫り直しを命じられて怒っているのかな。
版下書はこうやって消えて、代わりに版木が登場します。
版木が出来たら刷り師が刷ります。
まず校正刷り。それを宣長が見て校正します。
校正を板木職人が直します。文字の訂正などは「埋め木」で直します間違い箇所を削って新しい木埋めるのです。
再校、三校と行われてようやく完成です。
刷りは、最初は薄墨で5部位刷ります。これを一番刷と言います。再版で版木を彫り直すときに使ったりします。版下なら濃くした方がいいと思われるかも知れませんが、文字の細部まで再現するには薄い方がいいのです。それにまだ版木の状態がいいのでこの初刷を使用します。
刷った物を、今度は表紙屋が表紙をつけて製本します。
これで完成です。
本の発行部数 賀茂真淵『万葉考』の場合
これは難問だ。印刷が手作業で行われるので、売れ行きを見ながら一定部数(たとえば30部位ずつ)印刷することが出来る。今のように機械を動かすのだと、何部刷ると言うことがはっきりしているのとは随分違う。本屋がよほどきちんとした記録を残さない限り正確な発行部数はつかめない。
僅かにわかる例を一つ。
賀茂真淵の主著『万葉考』1、2と別記は、初版は300部、内200をまず刷り、残り100を続いて刷った。
【原文・抄】
「万葉考一二と其別記、漸く出来此節すらせ先弐百部今日までに終而休み、又近日百部もすらせ候はん」(栗田土満宛賀茂真淵書簡・明和6年9月23日)
この前の『冠辞考』は、初版の数はもっと少なかったはずだ。それが松坂までやってきて宣長の目に触れる、奇跡に近いことだ。
本箱
本町(ほんまち)
本屋・柏屋
本屋・藪屋勘兵衛(やぶや・かんべい)
本を返すときの注意
横井は宣長の弟子とは言っても、尾張徳川家の重臣でもある。そんな人にもきちんと注意する。「千秋はよい師に恵まれたと言うべきであろう」とは、宣長研究第一人者・岩田隆氏の評だ。
【原文】
「尚々、乍序申上候、物ヲ借リ申候而、返し申候ヲ返却ト申候ハ、人ノ許より我方へ返し候を受取候とて御返却被下ト書申候事也、然ルを人ノ許ヘ返ストテ返却仕候ト書申候ハ失礼也、人ノ許ヘハ返上返呈ナト書ベキ也、返却は我方ヘ返したる時ニ云詞也、右ハ甚以失礼憚多奉存候ヘ共、御心得のため、不顧失礼申上候、多罪多罪」(横井千秋宛宣長書簡 寛政4年6月26日付)