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解説項目索引【は~ほ】

榛原・油屋

 長谷街道の往還に宣長が利用したと言われているのが榛原の油屋である。伊勢本街道と長谷街道の分岐点にあるこの旅籠は今も往時の姿を留めている。大平の『餌袋日記』には、帰路の時のことだが、宿屋のざわめきが細かく書かれている。

  たくさんの宿泊者がいて、茶を運ぶ女に、手をたたいてお茶を所望しても「アイー」と返事している。そのうちたすき掛けの女がもってきてくれるので、軽口をたたくと、向こうも負けてはいない、笑いながら言い返す。さすがに慣れたものだ。それにしても、大和の国の言葉は伊勢国に比べると雅やかだなあ、と感心する大平であった。

  「この宿れる家は、ことにあまたの旅人を宿す家にて、そのあるじすとて、かなたこなたと若き女どもの物など持てありくもらうがはし、茶などのまむとて、手うちならせば、はるかにこゑうちあはせて、あいとしりながにいらふるもをかしう、やがてたすきうちやりて持ていでたるに、猿楽ことなどいへば、うちわらひつつ、まけじといひしらふず、かかるわざにのみなれたるなるべし、大かた大和の国はあやしき菜摘むしづの女、薪こる山がつといへど、物いひぞいとみやびたりける、わがいせの国などくらべ思へばいときたなし、さりとてはたなまなまにまねびいはんは中々なり」。
                     油屋の中。宣長もここに泊まったのだろうか     
 
                  油屋の全景 向かって左手に「本居宣長公宿泊」の木札
 
                     「本居宣長公宿泊、和州はいはらあぶらや」
(C)本居宣長記念館

橋本稲彦(はしもと・いなひこ)

 天明元年(1781)~文化6年(1809)6月15日。享年29歳。
 広島に生まれた。姓源、通称保次郎、中台、稲蔵、稲毘古、号琴廼屋。最初、垂加神道を学ぶが飽きたらず、寛政10年(1798)、松坂を訪れ、1月23日に宣長に入門する。当時の宣長書簡に「且又藝州広島橋本稲蔵と申若者、是于致逗留罷在候、殊外出精いたし申候」(寛政10年5月28日付、千家俊信宛)とある。また「山室山奥墓碑面下書」は稲彦宛書簡の紙背に書かれる。

 宣長から目をかけられた反動か、周りの評判はどうもよくなかったようで、某年正月14日付大平宛書簡でも、松坂での自分の評判の悪いことを書き、それでも自信の程を窺わせる(『本居宣長稿本全集』・2-233)。また没後、殿村安守は大平宛書簡で『仏国暦象編』を書いた普門律師を評し、「故稲彦見るやうなげんきな僧」と書いている(文化14年5月付)。著書には村田春海の『時文摘紕』を批判した『非時文摘紕』や、加藤千蔭の『うけらが花』を批判した『非宇気良賀華』などがある。大坂の蛇(クチナワ)坂に葬られたと伝える。

【参考文献】
「宣長門人橋本稲彦の一考察」中澤伸弘『鈴屋学会報』15号。
「文化十四年五月篠斎差出大平宛手翰」吉田悦之『須受能屋』1号。
「山室山奥墓再見」吉田悦之『須受能屋』10号。
(C)本居宣長記念館

橋本経亮(はしもと・つねすけ/つねあきら)

 宝暦5年(1755)2月3日~文化2年(1805)6月20日(※異説あり)。享年51歳。  
 有職故実家。宣長の友人。本姓橘。肥後守。号橘窓、香果堂。父の後を継ぎ京都にある梅宮大社の神官を勤め、また宮中に出仕して非蔵人となる。師は高橋図南、小沢蘆庵。秋成、蒿蹊とも親しくする。著書は『橘窓自語』、『梅窓筆記』等。菩提寺日蓮宗本福寺。
 宮中に至る途上も読書にふけり、田畑に落ちて着物を汚しても平気だったと言う話が伝わる。また羽倉敬尚氏は「古いことを好む虫のような人物」と評している(「故実家橋本経亮」)。学問一筋の人物だったようだ。そのため、宣長は横井千秋に紹介するとき次のように忠告している。
「右橋本ハ俗人ナラズ、古学篤志ノ人ニ而、甚厚情ノ仁ニ御座候、夫故対面ノ節之挨拶、並文通文言などは一向つや無之、あまりもぎどう成ルと申方ニ御座候、定而彼方より返書参り可申候、兼而左様御心得可被成候、返事参候節、文言あまり麁略成ル義と思召候御義も御座可有哉と、兼申上候」
          (寛政3年正月15日付横井千秋宛書簡)
【大意】
 彼は俗人ではなく、古学に極めて熱心な人であるだけに、挨拶や手紙もぶっきらぼうで、無礼な感じがする。きっとあなたへの手紙でも失礼があるかも知れないが、その点を心得ておいて欲しい。

 千秋は宣長の門人ではあるが、尾張徳川家の重臣でもあり身分が高い人だけに宣長も気を揉んだのだろう。
 私が梅宮大社を参詣した日、ちょうど、区のお祭りの日であった。境内のイベント会場で配っていた経亮紹介のチラシから。  

   「橋本経亮(ツネスケ)小伝、此の付近を肥後屋敷と云う。肥後ノ守経亮、此の処に邸宅を構えたるが故なり。経亮。宝暦9年2月ここに生れ、幼少の頃より後桜町天皇の内ノ非蔵人に出仕。初め伊豆ノ守と称し後、肥後ノ守と改称す。有職故実の学に造詣深く、且つ歌道にも秀れたり。文化2年6月10日47歳を以って卒し、当地本福寺に葬る。本照院円妙覚長居士と追い謚さる。辞世に曰く「のがれ得ぬ道とし知ればかねてわがおくつき処定めおきつる」。著書に橘窓自語3巻、梅窓自語2巻、万葉集校異20巻等あり。本居宣長、小沢蘆庵、滝沢馬琴、上田秋成、谷文晁等交友厚く、屡々此所に相会し詩歌をたのしむ。(因に画匠谷文晁筆経亮像は東京国立博物館に蔵す)昭和40年猛夏、艮山記」

 「此付近」は漠然としている。このチラシは、鳥居入って右手の所で配っていたのだが、果たしていかが。
 経亮が隠岐駅鈴を詠んだ短冊は、今、隠岐国造家の展示室にある。国造が「駅鈴」の題で歌を募った時に応じたのであろう。つまり、寛政2年の遷幸に至るまでの「隠岐駅鈴」を取り巻くグループの一員に経亮も入っていたのである。宣長と駅鈴を結ぶ線がまた一つ引かれた。
(C)本居宣長記念館

橋本経亮の訪問

 来訪者が友人だとお酒の出るときもある。

 寛政11年5月8日、京の橋本経亮が、大平、笠因の案内で鈴屋を訪れた。
 久しぶりの対面で、歌の贈答があり、酒肴が出た。先生から一杯と経亮が差す 『橋本経亮歌文集』に、

 「牛貝吹く頃、松坂稲掛の家に着きたり、此処にて共に来りし田舎人には別れたり、大平と共に出で笠因某と本居翁を訪う
 年久に会はざりしかど七十の老とも更に見えずぞありける
   返し                     宣長
 あら玉の年まねらへて橘のかぐはし君にあふが嬉しさ
   又返し
 末の世の下枝にしあれば立花のいかで昔の香に匂ふべき
といふ程盃持出て食べよと云ふに先づ翁の参りて後とて瓶子とりつれば飲みて玉ふに
  古書はよし分かずとも老らくの齢は君にあえんとぞ思ふ
   返し                     宣長
 七十の齢は物の数ならじ千年を経べき君と思へば
傍らに大平のありて盃を巡りながして
 早くより慣れこし君も伊せの海にかくて見るめの珍らしき哉
   返し
 見るめなき我が寄り来しは伊せの海の清き渚のくたもならまし
とて旅宿に帰りしかば夕暮になりたり、大平訪ひ来れり」

とあり、以下大平との贈答、また訪ねてきた殿村安守との贈答歌が記される。経亮は翌日早朝に松坂を出立した。

 ところで、「牛貝吹く頃」って何時だろう。普通は丑の刻、午前2時頃からだが、本当なら午後2時頃と考えたいが、わからない。

【参考文献】
 経亮の歌文集は、『近世学芸論考-羽倉敬尚論文集-』所収。
(C)本居宣長記念館

柱掛鈴の由緒

 柱掛鈴の聯の裏に、春庭の文(妻・壱岐の代筆)が貼り付けてある。

 「古翁の、床のへにわが掛けてあさよひにいにしへしぬぶ鈴が音のさやさや、とよまれし鈴は、いつしか跡かたもなくなりにしを、あたらしくおもひわたりけるまゝに、近ごろしたしき友達に、其よしかたりて又つくらまほしきよしいひければ、其さまはいかにとねもごろにとはれけるに、其鈴は春庭若かりし時みづからつくりしことなれば、そのさまくはしくかたらひければ、人々都の左様の物つくる者にあつらへてめぐまれける、こよなくうるはしく出来にければいとよろこばしくて、有しさまに朝夕引ならしつゝあかずおもひてよめる、かくこそは 千とせもきかめ とことはに ふりし世かけて しのぶ鈴が音、文政五年午冬本居春庭」

 文政5年(1822)春庭60歳。この年の正月22日に長女伊豆が浜田家に嫁いでいる。
(C)本居宣長記念館

柱掛鈴

           「柱掛鈴」部分

らんさんと和歌子さんの会話

ら ん

宣長さんが作ったの?

和歌子

宣長が考案し、鈴を買ってきて、実際に作ったのは春庭です。

 

 

ら ん

どうして36なの?

和歌子

宣長さんは何も言っていませんが、36と言えば、三十六歌仙じゃないかしら。

 

 

ら ん

どんな音がするの?

和歌子

さやさやという音色だそうです、今も、上手に振るといい音がします。少し手前に引っ張って後の板に当たらないように鳴らすのがコツです。

 

 

suzu_oto

 

 

ら ん

ほんと。いい音がする。

和歌子

以前、岡村光祥(ミツヨシ)さん千恵子さんご夫婦は、この音色を「秋風が立ちはじめた十月の午後四時ごろの感じ」と表現されました。お二人は全盲ですが素晴らしい聴覚を持っておられます。足立巻一さんの『やちまた』に感銘して松阪に来られました。  でも、この音、宣長さんが聴いた音ではないの。本当の鈴は、形見分けのようにして、一つずつお弟子さんが持っていってしまったのよ。今の鈴は、それを惜しんだ春庭が、友達、これは殿村安守たちらしいけど、に作ってもらったものなの。聯(レン)という後の板は、その時に保存のために作られた物だと思うわ。

 

 

ら ん

ところで、どうして鈴なのだろう。

和歌子

さっき引いた宣長の歌に、 「物むつかしきをりをり引なしてそれが音をきけばここちもすがすがしくおもほゆ」 とあります。勉強に疲れた時の気分転換、集中力を高めるのかしら。


【注】
 「三十六歌仙」
  平安時代中期に藤原公任が選んだ、三十六人の優れた歌人、例えば、柿本人麿、紀貫之、また小野小町なども入っている。その後も、後六六撰、中古三十六歌仙が選ばれたり、「西本願寺本三十六人集」や、歌仙絵などのモチーフとなり、和歌だけでなく、美術史でも大きな影響を及ぼした。宣長も寛延2年10月、20歳の時に『三十六歌仙』を写している。
(C)本居宣長記念館

長谷川家

 魚町1丁目。小泉家並び。屋号・丹波屋。木綿商。今も東京で繊維商社を経営する。長谷川家はもと本家と東家からなっていた。4代目の時その弟2人がそれぞれ南家亀屋、西家戎屋を起こし、南家の2代目が宣長門人・長谷川常雄である。本家6代目・治郎兵衛邦淑(宗閑。文化14年没。66歳)も宣長門人だがあまり有名でない。宗閑の孫が8代目・元貞(宗貞、六有斎。安政5年没。63歳)、その曾孫が定矩(宗真、可同。大正14年没。58歳)、その後元収(宗福)、雅清(13代)と続いている。可同は俳人、また趣味人として知られ、特に餅のコレクションを納めた「餅舎」(モチノヤ)を造り、また『餅百珍』を出版した。
   
(C)本居宣長記念館

長谷川常雄(は せがわ・つねお)

 宝暦7年(1757)~文化8年(1811)。享年55歳。通称新二郎、また武右衛門。実は、豪商中里新三郎の長男。安永2年11月9日に大手町にあった豪商長谷川家南家の養子となる。

  絵の中では一番若い。大平が7.8歳の頃からの遊び友達で、明和9年の吉野飛鳥行きにも同行し、『菅笠日記』には中里常雄の名前で出ている。第2回『源氏物語』講釈を聴講。熱心な門人だった。

  常雄が継いだ長谷川家は、今も残る豪商長谷川家の別家。同家はもと本家と東家からなっていた。四代目の時、その弟二人がそれぞれ南家亀屋、西家戎屋を起こし、南家の二代目が宣長門人長谷川常雄である。

  この絵の原本「明和年間本居社中歌仙像」は常雄が所持していた。彼が描かせたのかもしれない。
ら ん
常雄の顔は正確かもしれないね。依頼者とぜんぜん違う顔、描かないもんね。
(C)本居宣長記念館

長谷川元貞( はせがわ・もとさだ)

 寛政8年(1796)~安政5年(1858)4月4日。享年63歳。江戸後期の松坂富商。店は江戸大伝馬町の木綿商丹波屋、その8代目当主。通称治郎兵衛、字禎卿、号梅窓、六有斎。家を環翠亭と号す。文雅を好み、歌は本居春庭、茶は千認得斎、玄々斎、書は市河米庵、巻菱湖に学び、密教、俳諧、漢詩に通ず。本居家を庇護し、交友は頼山陽、中島宗隠、梅辻春樵、貫名海屋等、広く逸事に富む。蔵書家でもあり、豊宮崎文庫に『類聚国史』『台記』、林崎文庫に『古事記伝』等献納。『春雨物語』所蔵でも知られる。また、馬琴書簡に、所蔵する『東雅』を長谷川が買うとの知らせを歓び、次のように言う。
  「長谷川主ハ名ハ元貞、号六有とて、和漢の学者、風流家ニて、拙随筆玄同放言、燕石雑志なとも蔵弄あるよし被仰示、甚なつかしき心地せられ候」(天保11,4/11付安守宛・『【日本大学総合図書館蔵】馬琴書簡集』P135)  蔵印は「六有斎図書記」「六有斎所蔵」「六有図書」。著書は随筆『聞侭之記』(47冊、稿本)。
(C)本居宣長記念館

長谷寺と宣長

 『源氏物語』や『枕草子』など、しばしば古典文学の舞台となった大和国長谷寺。
  宣長が最初にこの寺に参詣したのは、13歳の時である。それから15年、宝暦7年10月4日、京都遊学からの帰途、宣長は三輪明神を経て再び長谷寺に参詣している。この時の参詣は、同行者に叔父・村田清兵衛がいたこともあり、ちょっと大がかりだった。『在京日記』でその様子を見てみよう。
 「午の時まへに初瀬につく。宿屋に入てしばしやすみ、さてあるじして、開帳のこと寺へ申しにやる、あすなりては、道のつもりよろしからねば、けふよりと思ふに、不成就日なれば、申の時よりと頼まる、そもそも村田氏、としごとにこの御寺の開帳し奉らるゝ、いとたふときこと也、此寺の開帳と申すは、一七日間也、初一日は、脇に立給ふ天照太神、春日明神の像をもおがませ侍る、料は金七両弐歩也ける、雨やゝふり出ぬ、この初瀬の里は、はつせ川のながれ、人家のうらを流れ侍る、この家のとなりに水車有にや、いとかしがましきに、川水のひびきあひて、雨つようふるやうなれば、せうし(障子)あけてみればさしもふらず、申の時にや、御寺よりあないあれば、宿りをいでてまふず、むかしおさなかりし程にまふてたりしことは有しかと、はかばかしくも覚えず、はじめてにことならず、いとめづらし、山のたたづまひ、堂々坊舎などのさま、いとうるはしくえにかきたらんやうに見あけらる、いにしへより此観音は、かはらず人の信じ奉りて、古今多くまふで、はんせう(繁盛)なる御仏なり、門を入りて、廊のくれはしをのぼり、本堂にまうづ、僧衆出て、はや法事はじまりたり、ときやう(読経)、たらに(陀羅尼)、行道、何くれとやや長し、里人、此寺の所化などまうでこみたり、願主の座はみな人のおがむ所に、ことさらにあたらしきうすべり二ひら敷たり、さて御とちやうのさがる程、いとたう(ママ)とし、よのつねの帳は上へあくるを、これは下へおろす也、御仏はいと大きにて、いみじうたふとし、さてなをしばし法事あり、大きなる板の御札をとうでてあたふ、屋どのあるじ、とりつきてもてく、脇士へそなへし神酒など、いだしおろしていただかせたり、雨やゝつよくふり出たり、さて御堂を出て、もとのくれはしをくだり、やどりにかへりやすみぬ、女の出来て臥具を出したるに、ふとんのみにてよぎなかりければ、よぎをいだせといはせたれば、よぎとは何のことにやとてしらず、よぎとはよぎの事よとわらふ、やゝ心得て、ながののことなめりとて、よぎもてきたり、こゝはむげにゐなかともいふまじきに、かく近き物の名のかはるもおかし、後につくづくと思へば、此地によきの天神と申すがいまそかれば、此名をさけて、よぎをながのとむかしよりいひかへりたることにもあるらん、しらず、初瀬川の水音すみて、よもすがらいとど夢もむすびがたし」
 とある 。当時の開帳の様子や、宿屋のことなどがよく分かる。それにしても開帳料の7両2分とは、随分高額だ。当時の松坂商人の経済力がしのばれる。

 長谷寺は、村田家に限らず他の松坂の豪商からも崇拝された。江戸でも有数の紙商であった本町の小津清左衛門家の『小津商店由来』には、「(五代目小津清左衛門道冲は)信仰心頗ぶる篤く自から一石一字の法華経を写し堀坂山の頂上に埋め、碑を建てゝ堀坂山より吹き来る大乗の真風を以て郷土の五欲の熱を醒こと祈り、(略)又大和長谷寺観世音に永代開帳料を寄進し」とあり、「(六代目小津清左衛門道慧は)宝暦四甲戌年〈一七五四〉三月大和長谷寺観音堂へ大香炉を寄進」(『松阪市史』・12-272)したことが記される。因みに。長谷寺に大香炉を寄進した道慧の子、7代目・小津長保が寄進したのが。松坂岡寺山継松寺の韓天寿銘文の香炉である。

 ところで、『在京日記』のこの日の記述には、「いとたふとき」という言葉が2回出る。この15年後、43歳の『菅笠日記』の旅の途次、同寺に参詣したときにもやはり「いともたふとくて」と宣長は感慨を記す。この『菅笠日記』の記述について、「『菅笠日記』菅見」杉戸清彬(『新日本古典文学大系月報』79)に次の指摘がある。
 「吉野への途次、宣長一行は長谷寺に立ち寄った。そしてその本尊に詣でた時の様子を、宣長は「人もをがめば。われもふしをがむ。」と版本に書いている。いかにも他人様次第という印象があり、些か気にかかる言い方と感じていた。ところが、その後自筆稿本を見たところ、この部分、もとは「いともたふとくてふしをがみ奉る」とあったものを縦の二重線で消し、その右傍に版本の本文となった改訂を施していることがわかった。このもとの本文であれば何の不自然さも感じなかったと思う。(略)右のような例を見ると、仏像への崇敬の念を示す類の文言を、宣長は意識的に消し去っていると言ってもよいと思う」

 さて、古典研究を存分に積んだ宣長の目には、長谷寺の名所はどこもかしこもうさんくさい。極めつけは玉葛の庵や墓だ。おいおい。玉葛は『源氏物語』の登場人物だぞ、架空の人の家や墓とは、呆れて物も云えない。
                         長谷寺前、伊勢辻 茶店
                           長谷寺の回廊
(C)本居宣長記念館

八太(はた)

 波多とも書きます。現在の津市一志町にある地名です。「波多の横山」は八太の南西に位置する山です。
 宣長が『菅笠日記』の旅で通った「八太」について、飯田良樹氏が研究を次の四冊にまとめられました。
     
『八太の昔むかし物語り』
 2009年9月25日(非売品)
 ★八太の歴史や行事、地図に領土問題などを、項目ごとに分けて写真を多用し紹介しています。

『道中記よりみる八太宿』(資料編)
 2009年10月10日(非売品)
 ★八太(初瀬街道)が記載された道中記の一覧、また、その行程、八太宿にあった旅籠名、さらには、八太宿や近辺の様子を記載
  した書物を紹介しています。

『旅籠の引き札』(初瀬街道を中心として)
 2010年8月25日発行(非売品)
 ★初瀬街道周辺で発行された引き札(宿屋の広告や道中案内図、絵図など)を写真つきで幅広く紹介しています。

『八太のいろんな物語』
 2013年1月24日(非売品)
 ★八太で昔から行われる祭りや講、行事の歴史や、風習、周辺設備の移り変わりを紹介しています。
(C)本居宣長記念館

旅籠・新上屋(しんじょうや)

 新上屋は、日野町、参宮街道沿いにあった旅籠。魚町の宣長宅からは徒歩約8分。
 和歌山街道との分岐点に近いこのあたりには本陣・美濃屋や馬問屋を始め旅宿が何軒もあったらしい。

 この旅籠で、宝暦13年5月25日(西暦1763年7月5日)、本居宣長(34歳)と賀茂真淵(67歳)が初めて対面した。
 真淵は静岡県浜松の生まれ。当時江戸に住み古典研究の第一人者であった。京都・大和を経て参宮の途中、この宿に数日滞在した。
 宣長が宿の近くにあった本屋・柏屋兵助からこのことを聞いたときには、既に出立の後であった。
 かねてより真淵を私淑していた宣長は残念に思い、帰りにも泊まられることを期待して待った。
 望みはかない宣長は真淵と対面することが出来た。近所の尾張屋太右衛門を引き連れ訪ねた宣長を快く迎えた真淵は、宣長の『古事記』研究のためにはまず『万葉集』を学ぶことを勧め、自分の生涯をかけた『万葉集』研究の成果一切を宣長に伝えることを約束する。
 生涯たった一度の対面であったが、国学の歴史の新たな展開がここに始まった。
 この日のことを、二人の対面を描いた佐佐木信綱の文章により「松阪の一夜」と呼ぶ。

 旅籠は既に無くなってしまったが、場所は「新上屋跡」として、市の史跡指定(昭和28年12月8日)を受け、現在は碑と山桜が植えられている。
(C)本居宣長記念館

服部中庸(はっとり・なかつね)

 宝暦7年(1757)7月16日~文政7年(1824)3月14日。松坂殿町、通称鷹部屋に住す。紀州藩士。本姓、源。通称、義内。号は楓蔭。水月。箕田水月とも称する。天明5年、宣長に入門。歌の添削や講釈を聴講する。また『三大考』を執筆し、宣長により『古事記伝』巻17の付録として載せられる。紀州藩と宣長のパイプ役も果たし、『玉くしげ』献上は一説に中庸の働きか。祖父、時保も宣長門人。師没後、平田篤胤に与して、大平らの歌文を中心とする一派とは一線を画す。また、晩年には京都で医者を開いたこともある。 
                         「松坂地図」の「鷹部屋」
(C)本居宣長記念館

派手な松坂・質素な和歌山

 和歌山の城下は質実剛健を尊ぶ、質素な町で、町としての格式が備わってきたのは宣長が仕えた10代藩主治宝(ハルトミ)以降だという。それでも、大平の手紙を見ると、庭の樹を楽しむのは700、800石以上の人で、1,000石取以上の侍の生活水準が、松坂で言えば江戸店持ちの暮らし振りと同じ程度だった。
(C)本居宣長記念館

花を活ける宣長

 前田青邨画伯が、瓶に桜を活けている宣長を描いているよ。
 
                         『改造』昭和18、7月号口絵  
(C)本居宣長記念館

浜田

                       「大日本天下四海画図」部分 浜田・大社 
 島根県浜田市は、松坂から転封した古田重治が築城して開いた町である。  古田に従い松坂から移った人の子孫もまだ現存すると聞く。
 慶安元年(1648)、古田家騒動で古田家が2代で断絶した後、三次の浅野家、津和野の亀井家が在番し、同2年松平周防家が入国する。以後5代続き、宝暦9年本多中務大輔家が入国。3代続くが年数は僅かに10年程。明和6年再び松平周防守家支配となり4代、竹島事件の後、天保7年3月、奥州棚倉に転封され、替わりに館林から松平右近将監家が入国した。

 今も町の中に残る城跡は、小高い森を歩いているようで、石垣などはあまり目に付かない。天守閣跡などに僅かに城があったのだと偲ばせる雰囲気が残るだけである。

 【浜田に関する参考文献】
 『ふるさとを築いたひとびと-浜田藩追懐の碑人物伝-』浜田市教育委員会。
 『竹島事件史-会津屋八右衛門』藤原芳男編・浜田市観光協会、会津屋八右衛門顕彰会。
 『浜田市の文化財』浜田市教育委員会、浜田市文化財愛護会。
(C)本居宣長記念館

播磨の眼科医

 春庭の目を診た播磨の眼科医とは、谷川良順清茂、良益光泰、良正高陳三兄弟の一人であろう。谷川家は、享保11年、良順猶満以来、現在の兵庫県加東郡社町屋度に住した。猶満の孫が先の三兄弟である。針術による眼科治療で優れ、寛政6年から3年をかけて一条良暉の姉で後桃園天皇女御恭礼門院御局頭梅田の濃内障を治療した。同7年には正親町一位のも療治し、京都でも有名であった。また先祖がかつて住した大坂へも3人が交代で春秋の出張していた。春庭を診たのが誰かは分からないが、この3人の1人であることは間違いなかろう。
 またこの谷川は、上田秋成の目も治して見事片方の目が開いた。「自像付記」に、「歳伍十七左眼失明、六十五又及右眼、僥倖逢神医、得左明」とある。谷川家には今も秋成の礼状や妙法院宮真仁親王の和歌色紙などが残る。

 【参考文献】
 『谷川家蔵上田秋成資料集』・京都大学国語国文資料叢書。

(C)本居宣長記念館

『春雨物語』と伊勢

 「桜山文庫本の旧蔵者・書写者は正住弘美である。伊勢下中ノ郷の人で、弘道・隼人とも称し、足代弘訓の門で、画や茶をよくした。慶応四年没、六十一歳。桜山文庫本からの転写本である漆山本が天保十四年に写されているから、この桜山文庫本は、弘美の三十六歳以前の筆写にかかる。また、西荘文庫本の旧蔵者(筆写は傭書)は、長谷川元貞と小津桂窓。ともに松坂の素封家で、本居春庭の門。元貞は、通称源右衛門、号六有。安政五年歿、六十三歳。桂窓も、安政五年の歿。さらに、漆山本の旧蔵者(筆写者)竹内弥左衛門は、竹内恭通、号南淵。伊勢桑名の人。足代弘訓・本居春庭・本居大平らに学んだ。嘉永五年没。六十九歳。漆山本を書写したのは六十歳の折ということになる。桜山文庫本は、同門または同学の伊勢の人の間で写されていったわけである。黒川春村の『古物語類字鈔』に、「春雨物語 勢州松坂駅 長谷川某所蔵に、古巻軸一巻ありと、或人いへり。いかなる物かたづぬべし」とある「長谷川某」は、長谷川元貞の所持本(西荘文庫本)が、桜山文庫本からの写しであり、秋成自筆本からの書写でないとすれば、元貞とは別の人物と考えるべきであろうか。また、馬琴の『近世物之本江戸作者部類』の「雲府館天歩」の条に記すように、桂窓が秋成自筆本を見て、それを写させたというのも、疑問である。因みに、『近世物之本江戸作者部類』は、天保五年の成稿で、年次の明らかな漆山本の書写より、九年前の言である。」
 (『上田秋成全集』第8巻解題、長島弘明執筆、中央公論社、1993年8月刊。P503)

(C)本居宣長記念館

版木

 版木で印刷することを「桜にのぼす」と言ったりするが、日本では、版木の材料は桜、それも山桜が最も良いとされてきた。
 桜の木は緻密で墨の含み具合が良く、掘るときは柔らかく、時が経つにつれて硬くなる。版木の保存は場所をとるが、比較的扱いも簡単で、印刷する技術も単純なため、今でも材料と技術が揃えば、再度使用ができそうな程だ。
 宣長の主要著作の版木は、植松有信が彫った。宣長著作はロングセラーが多かったので、その版木は、明治初年まで使用された。
 桜を焚き火に使う馬鹿はいない、と言い、また桜をこよなく愛した宣長さんだが、著作刊行という、いわば自分の分身を造るときに、また桜の力を借りたのだ。
                         『古事記伝』一之巻 版木
                         『古事記伝』一之巻 版木
(C)本居宣長記念館

版木師、伊勢へ行く

 御師が全国の檀家に配る「伊勢暦」は大変な部数が印刷された。そのために、他の出版物への影響も及ぼした。
 賀茂真淵は書簡の中で、『万葉考』は京都で印刷することにしたが、夏、秋は腕のいい職人が伊勢暦印刷のために、みな伊勢に行ってしまい、一向仕事がはかどらず、埒があかぬとこぼしている。

【原文・抄】
 「万葉巻一二並別記と三冊京判にのぼせ候を、漸板四五枚下し候。夏秋中いせ暦の判の為ほり手の上手は皆いせへ行候よしにて、埒明ぬと申越候」(斎藤信幸宛・明和5年(頃)11月8日付。
(C)本居宣長記念館

版木職人・植松有信(うえまつ・ありのぶ)

 宝暦8年(1758)~文化10年(1813)6月20日。享年56歳。父が浪人したために名古屋で板木師を職業としていたが、『古事記伝』の刊行に関わってからは、宣長学に傾倒し、寛政元年(1789)、本居宣長が名古屋に来た時に入門し、板木職人として宣長著作の多くに関わる。また、松坂や和歌山滞在中の宣長の下に来訪し勉学に勤しむ。師が没した時には山室山奥墓で7日間奉仕、『山室日記』はその時の記録。また『古事記伝』の版下を書き、『詞の八衢』に跋文を寄せる。門人の一人、小林茂岳を養子として迎える。墓所は名古屋市平和公園内称名院墓地。

                        版木職人・植松有信像(部分)
(C)本居宣長記念館

板木彫刻料

 寛政9年8月8日付・大平差出有信宛書簡の段に

「玉の小櫛の一の巻は本文四十丁、序四丁、二の巻は六十三丁、合せて百七丁であり、その彫刻料として二十二両一分の手形を浜田侯から両人(高蔭と大平か)が受取ったので、これを有信に送るということである。端数はあとで清算するとあるが、これで見ると一丁の彫刻料は二分強である。表紙外題などの彫刻料を考えると、大体一丁が二分の彫刻料と考えてよいであろう」(『植松有信』P209)とある。
(C)本居宣長記念館

万国図

 「万国の図を見たることを、めつらしげにことごとしくいへるもをかし」

 これは宣長が上田秋成に言った言葉だ。鈴屋にも諸外国の情報は届いていた。世界地図など誰でも見ていると言った宣長の机の傍には本当に世界地図が置かれていた。

 また、『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』という本で宣長は、仏教的な須弥山宇宙論を批判し、「地球」説を養護、「地球の空中にあることは、日月の空に懸れると同じことなり」という。
 また、「西洋の人は万国を経歴してよく知れる所」と、見聞の広さは西洋人の方が上であると認める。
 また西洋の暦を見ていた可能性も指摘されている。

 宣長から見れば、仏教的な世界観や、中華思想は諸外国の前では成り立たない。反対に諸外国のことを知れば、日本の優れた点が分かると考えていた(「おらんだといふ国の学び」『玉勝間』巻7)。
(C)本居宣長記念館

伴信友(ばん・のぶとも)

 宣長没後の門人。
 安永2年(1773)2月25日~弘化3年(1846)10月14日。若狭国(福井県)小浜藩士・山岸惟智の子として生まれる。幼名、惟徳(コレノリ)。通称、州五郎。号、特(コトイ)。天明6年(1786)、江戸詰藩士・伴信当(ノブマサ)の養子となる。同8年江戸下向。文化3年(1806)家督を継ぎ、文政4年(1821)、長男・信近に家督を譲る。

 国学は、享和元年、村田春門を通じて宣長に入門を願ったが師の没した後で叶わず、没後の門人とされた。以後、大平に質し研鑽に励む。
 「述べて作らず信じて古を好む」態度で特に考証面で業績を残す。但し生前刊行された本は僅かで学派の伸展には及ばなかった。平田篤胤とも最初は親しく交わったが後に決別した。
 著書は、その後の宣長研究の基礎資料となる『鈴屋翁略年譜』、『日本書紀』は漢心に毒されているという説などを展開する『日本書紀考』、大友皇子は正式即位していたという『長等の山風』のほか、随筆『比古婆衣』(ヒコバエ)、『史籍年表』、『鎮魂論』など。

(C)本居宣長記念館

「檜垣媼図」(ひがきおうなのず)

 天明2年(1782)4月8日、肥後国岩戸山霊巌洞の嶺から発見され「檜垣媼像」。入れ物には「檜垣女形自作」と刻されていた。
 檜垣媼(ヒガキノオウナ)とは平安時代の歌人で、『後撰集』に歌が載る。また『袋草紙』という和歌にまつわる話を集めた本には、「肥後国遊君檜垣翁、老後落魄者也」とある。
 この像の発見は橘南谿著『西遊記』にも載り、中島広足の『檜垣家集補注』にも紹介された。
 ただ、宣長は信じていない。どうも変だ。

  「檜垣媼が、みづからきざみたる、ちひさき木の像(カタ)の、肥後国の、わすれたり、何とかいふところより、ちかく堀出たる、うつし
  とて、こゝかしこに写しつたへて、ひろまりたる、これはた、出たる本を尋ぬるに、たしかなるやうにきこゆれど、なほ心得ぬこと有
  て、うたがはしくなむ、すべてかうやうのたぐひ、今はゆくりかにはうけがたきわざ也、心すべし」
    (『玉勝間』巻8「ふるき物またそのかたをいつはり作る事」)

 もちろん今はこんなものを信じる人はいない。
 偽物を作り学界を混乱させる手合いは今も昔も多いが、藤貞幹はその代表格だ。天明、寛政年間、新しい発見の続く中で、これはよい、これはダメと、確かな目で峻別したのも宣長の大きな功績である。
(C)本居宣長記念館

疋田宇隆(ひきた・うりゅう)

 生没年未詳。『平安人物志』の文政5年(1822)版、文政13年(1830)版、天保9年(1838)版に名前が確認できることから、天保9年頃までは存命していたと思われる。京都の絵師。字不溢。号吐月堂。
 文政5年に松坂を訪れ「本居春庭六十歳像」を描いているが、その他の動向については不明な点が多い。記念館の所蔵資料としては他に、『烏の図』、『孫悟空の図』等がある。
                          「本居春庭六十歳像」
 
                             『烏の図』
 
                            『孫悟空の図』
(C)本居宣長記念館

飛騨(ひだ)

 明和7年(1770)正月12日~嘉永2年(1849)正月4日。享年80歳。宣長長女。宣長は「飛弾」と書く。天明6年(1786)11月7日、17歳で母の実家である草深氏、玄鑑に嫁す。翌年12月長男・俊蔵が生まれるが、寛政2年(1790)2月に4歳で死去。同年11月、長女・通を生む。寛政4年2月から離縁話が持ち上がり、同8年春正式に離縁。後、寛政9年正月に四日市の素封家で地士・高尾九兵衛の後妻となり、2男4女を生む。宣長の子どもの中で最後まで存命。後継者の絶えた本居家に高尾家の後継である孫の信郷を入れ、本居家の存続を計る。法名は知覚貞鏡信女。

 【参考文献】
 「本居宣長と高尾家」岡本勝『鈴屋学会報』10号。
(C)本居宣長記念館

日前宮・国懸宮

 かしこさは 伊勢の神垣 へだてなく
            これも天照る 日のくまの宮  宣長

  和歌山市秋月、鬱蒼とした森に囲まれる日前宮・国懸宮(ヒノクマノミヤ・クニカカスノミヤ)は伊勢神宮と並び称せられる神社。
  「古神道を知るには、書物を読むよりもこの森にくるといい」『街道をゆく』司馬遼太郎。

  日前宮・国懸宮は、天の岩戸開きの時に作られた一番最初の鏡(岩戸開きで実際使われたのは二番目の鏡で、こちらは伊勢神宮に祀られる)と、矛の鏡が祀られている。
  『延喜式』では名神大社に列し、のち紀伊国一宮となるが、戦国時代に災厄に遭い、豊臣秀吉に所領を没収されるなど一時は衰亡する。だが、紀州徳川家初代頼宣により社領が寄進され、しだいに旧観に復した。境内の西側に日前宮、東側に国懸宮があり共に南面する。現在の社殿は大正15年(1926)に改修されたものだが、往時の遺制をそのまま伝えたもので入母屋造平入り、縁勾欄のない土間造の特殊な構造となっている。
  神主は、天孫降臨以来、紀国造家が勤めた。宣長が和歌山に行った時、紀国造家は75代俊庸(26歳)。大変熱心な宣長の教え子だったが身分が高かったために『授業門人姓名録』には名前が出ていない。ただ大平が使っていた本にだけ名前が出ているのは、すすんで宣長の門人たらんとした俊庸の意志を汲んで、大平か内遠が、後に補入したと考えられる。俊庸は、飛鳥井家四男で国造家を嗣いだ。名は三冬、通称式部、麻積主。日前宮、国懸宮の宮司を勤め、文政8年(1825)2月11日に没した。享年57歳。

  宣長は、この神社に参詣し、享和元年(1801)には、御前講釈に必要な『古語拾遺』を借りている。日前宮の事を記す『古語拾遺』を、その地を治める藩主に講釈した宣長の思いは格別だったようで、感動を長歌に詠んでいる。
  この神社の壮大な境内地や社殿は写真では伝えにくいので、『紀伊国名所図会』から採録することにする。この図の上には宣長の歌が書かれている。
   








『紀伊国名所図会』
「日前宮・国懸宮」

(C)本居宣長記念館

評判上々、御前講釈

             らん
             和歌子

ら ん

紀州藩主への宣長さんの講釈の評判はどうだったのでしょう。

和歌子

梶間吾平という城内で世話をしてくれた役人が語った所によると、御前(藩主)の御機嫌はよかった(つまり満足して居られた)そうです。
  一緒に聴講した、藩の重臣たちも大変感心して、講釈の仕方、理路整然とした所、またメリハリの効いた点など大変上手く、若いときから講釈をしていると言うだけのことはあると、皆口を揃えて誉めて居られたということだ。またある人は、春庵(宣長)の人物を誉めて居られたとのことです。
  これは寛政6年、和歌山での講釈の評判を服部中庸に報じたものです。日付もありませんが、閏11月19日頃と推定されています。『【復刻】本居宣長翁書簡集』(昭和45年4月4日・本居宣長自筆稿本刊行会)にも影印が出ていますが、全集では省略しています。自筆とするのに疑問が残ったのでしょう。

ら ん

では誰の筆?

和歌子

大平だと思います。


【原文】
 「又申上候、梶間氏と申衆、其後とくと様子承り候処、御前甚御機嫌能被為在候条、猶又聴衆之重キ役人衆、甚感シ玉ヒ、講尺ノ仕様、弁ノ分明成ル事、句切等甚宜敷、若キ時よりよくよく仕なれたる様子と相見エたりと、いつれも弥御称美のよし申事也とぞ。或人ノ曰ク人々春庵ノ人品ヲホメタリとも」 
(C)本居宣長記念館

平田篤胤(ひらた・あつたね)

 厚胤(平田篤胤・没後の門人)
 安永5年(1776)8月24日~天保14年(1843)閏9月11日。秋田藩士の子として生まれるが、20歳の時に脱藩して江戸に出て、苦学の末、平田篤隠(アツヤス)の養子となる。宣長最晩年の弟子と称するが、実はその名を知ったのは宣長没後2年後であった。宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判する『呵妄書』を執筆して学界デビューをし、その後、門人を集め講筵を開き、また旺盛に著作を執筆する。中でも「霊」の行方を説いた『霊能真柱』は、師の宣長の方法とは異なる本文の改ざんを行い、宣長説とは別の説を立て、波紋を呼んだ。文政6年(1823)上京し、著書を朝廷に献じ、また和歌山に大平を訪い、松坂に春庭を訪ね奥墓に参詣する。この時春庭から、鴨川井特が描いた『本居宣長七十二歳像』や、使用した筆を貰った。自学普及のため尾張藩や水戸藩に接近したが、天保12年(1841)年、著作が幕府の忌むところとなり、著述差し止め、国元帰還を命じられた。国では秋田藩に仕官するが、失意の内に没した。
(C)本居宣長記念館

深澤(沢)清 (ふかざわ・きよし)

明治38年(1905年)~昭和34年(1959年)頃(享年54歳位) 東京生まれ。(出身は九州大分か)

父の証言では、とにかくかっこいい人だったそうで、戦前オートバイなどを乗り回している写真が残っている。
母の話では、明治維新前は武家で、士族、近衛兵をしていたという。
戦時中は満州の関東軍に帯同し、従軍画家として活動したらしい。
当時の作品には、「西原曹長 部隊長救出の図」(奈良県方面で所蔵される)、「空の武士道」(複製:靖国神社 就遊館蔵)がある。
昭和21年(1946年)、大分県別府市に戻り、戦災孤児を引き取る施設「希望の家」を作る。
この頃の作品には、大分県竹田市の西光寺蔵「藤丸警部惨殺の絵」がある。西南の役の一エピソードを描いた作品である。
また、大分刑務所にも女性が繕い物をしている絵があるという。

清画伯の作品は、熊本の実家に3枚が残されている。

このように見てくると、どうやら「松坂の一夜」は、画伯晩年の代表作といってもよさそうだ。
この絵は、当時の本居神社総代・牧戸正平氏が昭和31年8月27日に奉納したのだが、 深澤氏と牧戸さんはどこで出会ったのだろう。
これがきっかけで、すばらしい作品が生まれた。
両氏の出会い、これもまた、「松坂の一夜」であったと言えよう。

 以上は、深澤清氏の孫 千尋(ふかざわ・ちひろ)氏から提供された清画伯についての情報に、 若干の推測を加えてまとめたものである。
(C)本居宣長記念館

吹上御殿

 歴代の和歌山藩主は、隠居をした後は、城外に屋敷を設けて清遊し、楽しんだ。
 和歌山滞在中、宣長は吹上御殿で3日間講釈をしたが、ここは藩主治宝の祖母清信院の屋敷。宣長『寛政六年若山行日記』に当日の記録が載る。御殿そのものは残らない。

   ○閏11月12日、4ツ時(午前10時頃)より吹上御殿に行き清信院に『源氏物語』若紫巻講釈。20枚余読む。四切り。夜、『古
    今集』俳諧部講釈。藩主妹備(ノブ)姫、御医師、御役人も同席聴聞する。食事は二汁七菜。お菓子は二回出て、干菓子と
    餅菓子を戴く。また短冊箱、銀子3枚、折(干菓子、御茶)を拝領する。老女の気遣いで、今日は寒いからと綿子1枚を戴く。
    同道した大平にも食事、菓子と金300疋を拝領する。

 清信院は、実は賀茂真淵の門人。宣長が清信院に講釈した吹上御殿も、他の御殿同様、今は影も形もない。
 紀州藩の御殿で唯一残っているのが養翠園。治宝が作り、邸内には表千家9代家元了々斎の二畳台目の茶室実際庵が遺されている。

 好学の藩主治宝は、藩士の子弟の教育を義務化し、医学館、江戸明教館、松坂学問所を開設しました。町も立派になりました。また、宣長を召し抱え、表千家や楽家を庇護し、仁井田好古や大平を登用し史書を編纂させた。『古事記伝』題字や、表千家の総門はいずれも治宝から拝領品。和歌の浦に不老橋を造ったのもこの藩主である。
(C)本居宣長記念館

吹上寺

 和歌山に移り住んだ本居大平一族の菩提寺となったのが臨済宗妙心寺派吹上寺(和歌山市男野芝丁)である。寺の辺りは、江戸の昔は「眺望真妙」「松樹鬱蒼」の地で、炎暑の折には涼風を求めてやってくる人を「羲皇上人」(泰平の逸民)となった気持ちにさせると書かれている。
 ここは、浅野長晟妻・振姫の遺骸を火葬した場所でもある。

 今、和歌山城に残る追廻門は、解体修理により朱塗りであったことが判明した。朱の門と言えば東大赤門が有名だが、それと同じようにこの門も御守殿門ではないかとも言われた。やがて裏鬼門説が有力になるが、それはともかく、御守殿とは将軍の娘で三位以上に嫁いだ人を言う。該当するのは、初代藩主浅野幸長(ヨシナガ)の弟で二代藩主長晟(ナガアキラ)の奥方、家康の三女振姫である。振姫の最初の夫は、蒲生秀行。松坂を開府した蒲生氏郷の子である。夫と死別後、蒲生家を出た姫は浅野家に嫁ぐ。やがて藩主の子を生むが産後の肥立ち悪く亡くなった。
 追廻門を出ると、扇の芝。和歌山町民の行楽の地であった。

  「春雨の降ごとにみどりの色まさりてさながら青地の紙を張れりともいふべく、うらうらと和暖なる日近きあたりの童部ども招くとな
  しに寄合ひ菓子屯食等をとり出て野遊びのまねす」

と『紀伊国名所図会』に書かれている。
  ここから藩の医学館の跡を通ると、吹上寺はもう間近である。
(C)本居宣長記念館

福岡藩士の金印論

 南冥の『金印弁』の外、藩校・東学の竹田定良は『金印議』を、また、藩儒・村山広は『後漢書金印記』を執筆した。これらの著述を写して勉強したのが、宣長の高弟であり、やがて日本考古学の先駆者となる青柳種信(アオヤギ・タネノブ)である。金印発見時には19歳。藩での身分も低く、また当時江戸で勉学中であったため直接は「金印発見」には関わらなかったが、文化9年(1812)7月、測量のために筑前に入った伊能忠敬(イノウ・タダタカ)の案内役を務めた種信は、その求めに応じて自著『後漢金印略考』、『宗像宮略記』を贈っている。
(C)本居宣長記念館

藤井高尚(ふじい・たかなお)

 明和元年(1764)~天保11年(1840)8月15日。備中国(岡山県)吉備津神社社家に生まれる。幼名、忠之丞、通称、小膳、号、松屋。少年時代、備中笠岡の小寺清先に国学を習い、また京都の栂井一室に和歌を習った。寛政5年(1793)宣長に入門し、松坂にも赴き研鑽する。宣長没後は、京都、城戸千楯の塾「鐸屋」でも講釈するなど、鈴屋門の中心的存在となった。著書は『伊勢物語新釈』、『消息文例』、『松の落葉』など。
 

(C)本居宣長記念館

不思議

 宣長は、人間知恵の限界ということをよく口にする。

 世の中には不思議なことがある。
 「天下ノ事、不思議多シ」
  これは藤原定家の日記『明月記』正治2年1月29日の一節だが、定家が不思議だと思った人の世だけでなく、自然界にも不思議は多い。

 「されば此天地も万物も、いひもてゆけばことごとく奇異からずといふことなく、こゝに至ては、かの聖人といへ共、その然る所以の理は、いかに共窮め知ることあたはず、是をもて、人の智は限りありて小きことをさとるべく、又神の御しはざの、限なく妙なる物なる事をもさとるべし」

これは『葛花』の一節だ。

  また次のようにも言う。

 「すべて儒者は、世ノ中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞと心得たり。儒者のみにもあらず、から心ののぞこらぬ、近き世の神学者といふものはた、みな同じことぞ。そもそもあやしき事をば、まことそらごとをとはず、すべて信ぜぬは、一わたりはかしこきやうなれども、中々のさかしらにて、人の智(サトリ)はかぎり有て、及ばぬところ多きことを、えさとらで、よろづの理リを、おのがさとりもて、ことごとく知(シリ)つくすべき物と思へる、からごゝろのひがこと也。すべて世ノ中のことはりは、かぎりもなきものにて、さらに人のみじかき智(サトリ)もて、しりつくすべきわざにあらざれば、神代の事あやしとて、凡人(タダビト)のいかでかはたやすくはかりいはん」(『玉勝間』巻5「熊沢氏が神典を論へる事」)
 このような態度を「不可知論」と言ったりする。

  宣長の言うように、この世には説明の付かないことが多い。
  宝暦9年(1759)9月、正月が来たといって町では正月の準備が始まったことがある。
  明和7年(1770)7月28日夜、空が赤くなり、やがて白い筋が何本も浮かび上がり、ゆらゆら揺れては消えまた現れしたことがある。今ではオーロラだろうと言われている。
  天明8年(1771)4月11日夕方六半時(午後8時過ぎ)、光るものが南の空に現れ、また南の空に消えていった。江戸では、昼ぐらい明るかったという。これは未確認飛行物体か。
  怪異と言うのは適当とは思えないが、お蔭参りを松坂で目の当たりにした時も、宣長は、そこに不思議を越えた神意を感じたのかもしれない。
  明和8年(1771)には、突然大勢の人が伊勢神宮に参詣するといって歩き出した。その数ざっと200万人。当時の人口3000万人だから15人に1人が伊勢に来たことになる。おかげ参りだ。おかげで松坂の町は参宮客で埋め尽くされた。道を横断することも出来ず、家の軒先で寝ている旅人もいたという。
  そんな大規模なものだけではない。宣長の友人で垂加神道家でもあった谷川士清は、自分の原稿を土に埋めて「反故塚」を作ると、玉虫が3日間集まったという。この時、宣長は門人と歌を贈っている。
  門人・千家俊信の掌紋(手相)に「建玉」、また「玉」の字が出て、喜んだ俊信は周囲の祝福をうけた。この「掌の玉」一件について宣長は、「そのようなことは、決して人に知られぬように秘密としたほうがよい」と忠告している。

   不思議があることは宣長も認める。だが、神秘体験を吹聴し始めると学問の方向もずれるし、またあらぬ誤解を受けると考えたのだろう。宣長は、不思議を見ても、そのことを声高に言う人ではなかった。奇談を楽しむ人でなく、神への畏れを知る人であった。

   また、それ以上に宣長にとって不思議なのは、例えば日本語には整然とした法則があることであり、また言葉が集まり妙なる調べとなることであり、また『源氏物語』のような優れた作品があることであった。
  宣長が「不思議だ」と思ったことの中には、その後の学問が解決したこともある。だが多くは未だに未解決のままである。


 【資料】
  1. 宝暦9年(1759)9月、「流行正月」があった。 『日録』に、「今月、町々家々正月之儀式ヲナス、或餅ツキ、豆ハヤシ、雑煮等アリ、甚シキ者ハ、門餝、松ヲタツルニ至ル、他国ヨリ段々流行来ルト也」(宣長全集・16-147)とある。「流行正月」は他の年にも、また宣長以外の記録にも散見する。年に2回正月をするのは災害など災厄があった年の一種のお祓いで、悪い年はもう終わった、という意味があるのだとする説もあるが、定かではない。
  2. 明和7年(1770)7月28日夜、宣長は松坂でオーロラを見ている。 『日記』には、「廿八日、今夜北方有赤気、始四時頃如見甚遠方火事、其後九時頃至而、赤気甚大高而、其中多有白筋立登、其筋或消或現、其赤気漸広而、後及東西上及半天、至八時頃消矣、右之変諸国一同之由後日聞」(宣長全集・16-318)とある。
       この変異は宣長も言うように全国的なもので、『武江年表』「七月二十八日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る」とあり、『想山著聞奇集』によれば長崎で、神田茂『日本天文気象史料』によれば京都でも見えたそうで図が載る。現在ではオーロラではないかとされている。(「気候からみた江戸時代」西岡秀雄『図説日本文化の歴史』第9巻月報所載)
3.天明8年(1771)4月11日夕方六半時(午後8時過ぎ)、南方の空に怪異星を見る。
  『日記』によると「十一日、今夕六半時有光物、自南方昇収南方、忽光輝忽消、故其形状無慥見之人、其光映一天
  之霞甚光明、其光之間、比雷光稍緩、雖然 無慥見之間、忽消焉、後日聞之、近国皆同時也、京江戸等亦同」(宣長
  全集・16-420)とあり、また『増訂武江年表』には「四月十一日夜、戌刻、光り物飛ぶ。昼の如し」とある。暮六
  半、戌の刻は午後8時を廻った位であろうか。
(C)本居宣長記念館

富士山

                        「宣長が描いた富士山の絵」
                           東海道から眺めた富士山
(C)本居宣長記念館

富士谷成章と宣長

 宣長さんが高く評価した同時代の学者に「富士谷成章」がいる。直接の交渉はなかったが、その著作『あゆひ抄』を読んで次のような感想を述べている。

 「 あゆひ抄、甚宜出来候物也、大方近世コレホドニ雅言ヲ手ニ入候人ハ世ニアルマジク覚申候、但悉ク新作ノ名目ヲ以テ説候故、大抵ノ人ハ早速聞エ申間敷候、新名目、甚珍敷奇僻ニワタリ候也、されど皇国ノ言語ハ、凡テ活用甚精緻ナル物ナレバ、是ヲクハシク説ントスルニハ、許多ノ名目ヲ立テザレバ、説キがたき事也、サレバ右ノ新奇ノ名目モ実ニハ難ズベキ事ニモ候ハズ」(天明4年10月付、蓬莱尚賢宛書簡)

  また、「藤谷成章といひし人の事」(『玉勝間』巻8)ではその他の著作にまで触れている。

 「ちかきころ京に、藤谷専右衛門成章といふ人有ける、それがつくれる、かざし抄、あゆひ抄、六運図略などいふふみども見て、おどろかれぬ。それよりさきにも、さる人有とは、ほの聞たりしかど、例の今やうの、かいなでの歌よみならんと、みみもたたざりしを、此ふみどもを見てぞ、しれる人に、あるやうとひしかば、此ちかきほど、みまかりぬと聞て、又おどろかれぬ、そもそも此ごろのうたよみどもは、すこし人にもまさりて、もちいらるゝばかりにもなれば、おのれひとり此道えたるかほして、心やりたかぶるめれど、よめる歌かける文いへる説などをきけば、ひがことのみ多く、みないといまだしきものにて、これはとおぼゆるは、いとかたく、ましてぬけ出たるは、たえてなきよに、この藤谷は、さるたぐひにあらず、又ふるきすぢをとらへて、みだりに高きことのみいふともがらはた、よにおほかるを、さるたぐひにもあらず、万葉よりあなたのことは、いかがあらむ、しらず、六運の弁にいへるおもむきを見るに、古今集よりこなたざまの歌のやうを、よく見しれることは、大かたちかき世に、ならぶ人あらじとぞおぼゆる、北辺集といひて歌の集もあるを、見たるに、よめるうたは、さしもすぐれたりとはなけれど、いまのよの歌よみのやうなる、ひがことは、をさをさ見えずなん有ける、さもあたらしき人の、はやくもうせぬることよ、その子の専右衛門といふも、まだとしわかけれど、心いれて、わざと此道ものすときくは、ちゝの気はひもそはりたらむと、たのもしくおぼゆかし、それが物したる書どもゝ、これかれと、見えしらがふめり」。

 【注】
  • 富士谷成章(ナリアキラ) 1738~79 国語学者。儒者皆川淇園の弟。実証的研究法で、品詞分類、国語史の時代区分などに優れた業績を上げた。
  • 『かざし抄』明和4年刊。文首、語頭にくる語句を「挿頭(カザシ)」と名付けて解説する。
  • 『あゆひ抄』安永7年刊。助詞、助動詞、接尾語などを「脚結(アユイ)」と名付けて解説する。
  • 『六運図略』国語史の変遷を六つに分けて説明する。写本で伝わる。以上三書は『古今集』以下の歌集から用例を引くので、宣長は「万葉よりあなたのことは、いかがあらむ」
  • 富士谷御杖(ミツエ) 1768~1823 父と伯父・淇園の影響を受け、言語の象徴や暗示を重視する、言語倒語説という特異な言語理論を樹立した。
(C)本居宣長記念館

藤原宮御井の歌は殊によろし

 藤原宮跡周辺を歩く宣長には、師・真淵の言葉が思い起こされていたであろう。 「長歌は万葉までにて絶たり、古今はいふにもたらず、其後なるは見むもさまたげ也、是は人麻呂ぞ先は抜群也、されど藤原宮御井歌などは、人まろ同時ながら事のいひなしことにて、殊によろし」(賀茂真淵差出宣長宛、明和3年9月16日付)

   『万葉集』巻1からその長歌、また前後の短歌を引いてみよう。

  「明日香ノ宮より藤原ノ宮に遷りましし後、志貴ノ皇子の作りませる御歌
  51 釆女の袖吹きかへす明日香風京を遠みいたづらに吹く

   藤原ノ宮の御井の歌
  52 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に 在り立たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日の経(タテ)の 大御門に 青山と 繁さび立てり 畝火の この瑞山は 日の緯(ヨコ)の大御門に 瑞山と

  山さびいます 耳無の 青すが山は 背面(ソトモ)の 大御門に 宣(ヨロ)しなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天のみかげ 天知るや 日のみかげの 水こそは  常にあらめ 御井の清水

   短歌
  53 藤原の 大宮づかへ あれつくや 処女がともは ともしきろかも  
  右の歌は、作者いまだ詳らかならず」

  雄大な歌である。東に香具山、西に畝傍山、北には耳成山、そして雲居遠くに吉野を望む。その藤原の都の聖なる水の井戸を讃える。
  「日の経(タテ)・日の緯(ヨコ)」は、東西南北の方角の筆頭、東を経糸で表したもの。陽の東に対し陰の西は緯(ヨコ)糸で表し、下に「日の緯」といっている。『高橋氏文』(『本朝月令』所引)にも東を日竪、西を日横にあてている。ただし成務紀(5年9月)には、東西を日縦、南北を日横としている。(『万葉集釈注』伊藤博)
(C)本居宣長記念館

藤原定家(ふじわらの・さだいえ)

 応保2年(1162)~仁治2年(1241)8月20日。後鳥羽院に認められ和歌所寄人、『新古今集』選者となる。承久の乱直前には後鳥羽院から退けられるが『新勅撰和歌集』を編纂し中世を代表する歌人であり、古典を校訂し後世に伝えた人でもある。宣長が歌人の中でも最も尊んだ。次に引くのは24歳の時の文章だが心酔の様子がよく分かる。

  『鈴屋百首歌 一』の奥書の一節に
「扨も名所の歌は、よみかたき物にて有ける、一首ことに案しわつらふに付ても、かのより所とせる京極黄門の御百首をつらつら見侍るに、よにめてたき物にてそ有りける、他人のをよはぬ所いよいよ見え侍る、まことに此道の聖人にておはしける、あふくへしあふくへし、やつかれ年ころことに、彼卿の御歌を、又なき物とたうとひ侍るうへ、いよいよあふき奉る心まし侍る、宝暦五年乙亥八月十六日、清蕣庵艸。おはりの御津浜松の歌も、かの黄門の、まちこひしむかしを忍ひ給ひし歌の、あまりに哀におかしく侍りし上、かつは百首いつれも、かのあとをしたひならひ侍るといふこゝろにて、つゝけ侍りし也」(本居全集・20-124)
「おはり(終わり)の御津浜松の歌云々」は、『鈴屋百首歌 一』最後の「御津浜松、いにしへの形見久しく見し跡も又しのはるゝ御津の浜松」が、直接には『新拾遺和歌集』「名所百首歌をたてまつりけるに、前中納言定家、待恋ひしむかしは今も忍はれてかたみ久しきみつの浜松」をもとに、また間接的にはこの百首歌の手本が定家であったことを示唆している。

  『排蘆小船』でも
「(定家は)コトニ歌モ父ヨリモナヲスグレテ、他人ノ及バヌ処ヲヨミイデ玉フユヘニ、天下コゾツテアフグ事ナラビナシ、マコトニ古今独歩ノ人ニテ、末代マデ此道ノ師範トアフグモコトハリ也、予又此卿ヲ以テ、詠歌ノ規範トシ、遠ク歌道ノ師トアフグ処也」
 (宣長全集・2-65)
 父俊成よりも歌が優れ、古今独歩の人だ。私も歌を詠む時の手本とし、和歌を考える時の師として尊重している、と言う。

  また「俊成卿定家卿などの歌をあしくいひなす事」(『玉勝間』巻12)で、最近『万葉集』を尊敬する者たちが俊成や定家など軽視することがあるが、とんでもない思い上がりで、その者たちがいくらがんばっても足元にも及ばぬ と言う。
(C)本居宣長記念館

二見の宣長歌碑

 二見興玉神社の祀られる伊勢市二見浦(ふたみがうら)。
 伊勢湾に注ぐ五十鈴川河口に位置し、神宮の御塩殿(みしおどの)や夫婦岩で有名。
 二見浦は、日本最初の公認海水浴場(1881年開設)でもある。
海水浴客こそ少なくなったが、白砂と松の景勝地で、今も散策する人は多い。

 二見浦と言えば朝日だが、この構図を有名するのに一役買ったのが宣長の歌だという。

      二見浦に朝日の出たるに富士の山の見えたる絵に

    赤根さす 日影と富士の 白雪と 二見の浦の 朝明けのそら

寛政3年(宣長62歳)の歌である。


 その美しい二見の松林の一等地に、宣長の歌碑がある。
歌は、寛政12年にやはり二見浦の絵の賛として詠まれた。

    かはらじな 波はこゆとも 二見がた 妹背の岩の かたき契りは

 大きな自然石にそのままに刻まれていて味わいはあるが、 歌を判読することは困難。だが下にちゃんと解説板が置かれている。
 場所は、賓日館(ひんじつかん)のすぐ前なので探しやすい。

 賓日館は、明治20年(1887年)に、皇族や要人の宿泊施設として建設された。
 現在は資料館として公開している。
 建築は贅をこらし、また蛙の手すりの階段など細部も楽しい。
 見学のあとは宣長歌碑をお訪ね下さい。

  
(C)本居宣長記念館

普段の食事

 普段の食事は一汁一菜、つまり吸い物とおかず一品でよろしい、と言うのが宣長の考え方。

 「つねの饌(ケ)は、羮(アツモノ)一つ、菜(アハセ)にて止べし、しなじな数多ければ、これかれにまぎれて、美きものももはらならねば、さしもめでたくおぼえず、但し他の饗饌は、数すくなくてはさうざうしきこゝちす、あまり多きも、中々めでたからずおぼゆ、数おほくつもりて後々は、うるさくあきたくなるなり、たゞ羮は品をかへて、数おほきもよろし、さて昔はすべて、あつものといひしを、近き世には、始の一つを、汁といひ、次に出すを、二の汁といひて、その余をば、汁とはいはず、吸物といひて、しるとすひ物とは、別なる如し、又いはゆる菜をば、昔はあはせといへり、清少納言枕冊子などに見ゆ、又伊勢神宮の書に、まはりとあるは、伊勢の言歟、此国の今も山里人など、まはりといふ所あり」「(饌)又」『玉勝間』巻14

 なお、前段「饌」には「饌(ケ)をつくりとゝのふるを、俗に料理といひ、それよりうつりて、そのつくりとゝへたる饌(ケ)をさしても、料理といひ、御料理を下さる、結構なる料理などいふ、みな饌(ケ)をいへり」とある。
 因みに宣長は「一日に四五合の飯を食ひ、十里の道を行クことは」(『葛花』)と書いている。これが当時の成人男子の平均であろうか。
 
(C)本居宣長記念館

仏壇

 仏壇について『別本家の昔物語』(55歳)に次のように書いてある。

 私が今住んでいる家は、祖父唱阿(ショウア)大徳の隠居所で、仏壇もその時のである。本尊は阿弥陀三尊像で、まん中の阿弥陀仏は座像でみだれ後光が付く。脇侍仏2体立像であった。三尊共に金色に輝き立派な仏像であったが。私が子どもの頃に、岩内(ヨウチ)村(松阪市岩内町)にある岩観音の寺の僧建入さんが、その寺の内仏に欲しいと母に願い出たので、それは有り難いことと、すぐに承諾したので、建入は自分で背負って、そのお寺に移し、庵の本尊としたが、この前、その寺が焼けてしまった。だが、幸いにも中尊だけは残ったが、あとは後光も台座も脇侍の観音、勢至像もみな焼失してしまった。その後、寺は立派に再建された。今の本尊はその焼け残った中尊である。参拝することがあったら心を込めて参拝しないといけない。

 神道への尊重が固まった50代においても、家の仏像への思いは格別である。やはり宣長において、家の宗教と仏教批判を同列に扱うことは出来ない。
 岩観音は、瑞巌寺。この中尊は、最近まで安置されていた。
 「大晦日鏡供覚」では、仏壇への供え方を指示する。

【原文】
 「当家の今の家は、唱阿大徳の御隠居にて、仏壇もその時の也、本尊は阿弥陀の三尊にて、中尊は座像、みだれ後光也、脇侍の二尊は立像也き、此三尊いときらきらしく、結構なる仏像なりしが、宣長が童なりし比、岩内村の岩観音の寺の住僧建入といひしが、その寺の内仏にせまほしきよし、恵勝法尼へこひければ、そはよき事とて、すなはちゆるし給ひしかば、建入みづから負て、かの寺へうつして、庵の本尊として有しを、さいつころ寺焼ける時、からうして中尊ばかりを出し奉りて、後光も台座も観音勢至も、みな焼給ひぬとぞ、かの寺は、其後よき庵建たり、今の本尊、かの中尊なるべし、まうでなば心をつけて拝むべし」とある。
                             「仏壇」
(C)本居宣長記念館

「ふみよみ百首抄」

 亡くなる前年に詠んだ、読む楽しみ、書斎に揃える楽しみなど、本にまつわる諸々の楽しみを歌う。「百首」と言うが、実際は68首。その中から何首か引きました。()内は説明です。
寝(ヌ)るがうちも道ゆくほども書よまで過るぞをしきあたらいとまを
(寝るのも、道を歩くのも時間がもったいない。本を読みたい。)

 おもしろきふみよむ時は寝ることもものくふこともげにわすれけり
(面白い本を読む時は寝食を忘れる。)

 朝夕に物くふほともかたはらにひろげおきてぞ書は読むべき
(食事の時でも本が読みたい。)

 書よめば千里のよそのことまでもただここにして目に見るごとし
(本を読むと遠く離れた場所のことまで居ながらにして見ている気持ちになる。)

 酒のみてうたひまひつゝあそぶより書よむこそはよにたのしけれ
(酒飲んで騒ぐより本を読む方が楽しい。)

 書よめはたえてさひしき事ぞなき人もとひこず酒ものまねど
(本を読むと来訪者が無くても酒を飲まなくても寂しいことはない。 )

 六月の風にあつとて取いつれはやがてよままくほしき書とも
 あつけれと書よむほどはわすられて夏も扇はとらむともせず
(暑いので団扇の代わりにと本を取ったら、読みたいと思っていた本で暑さを忘れて読んでしまった。夏も扇は要らないよ。)

 けだてよめ心のあぶらさしそへて小夜はふくとも書のともし火
(灯火に油を注ぐように夜が更けてもがんばって読め。 )

 よむ書をしばし枕にかり寝してうしやおぼえず曉のそら
(本を読もうと思っていたが、それを枕にうたた寝したらいつの間にか朝になっていた。)

 夜昼のただしばらくのいとまをもいたづらにせで書をよむべし
(夜でも昼でも僅かの時間でも本を読まなければいけない。)

 をりをりにあそぶ暇はある人の暇なしとて書読まぬかな
(遊ぶ暇があるのに本を読む暇がないとは何事だ。)

 書よめばおほやけばらもたたれけりひとりわらひもせられける哉
(本を読むと義憤に駆られることもあるし一人笑いが出てくることもある。)

 世に見えぬめつらしき書えてしあらばよくわきまへよまこといつはり
(あまり珍しい本を見たらちょっとは警戒しろよ。)

 たのしみはくさぐさあれど世の中に書よむばかりたのしきはなし
(本を読む程楽しいことはない。)

 よむふみに心うつれば世の間のうきもつらきもしばしわすれつ
(本を読み出すとつらいこともしばし忘れる。)

 障りありて一日一夜もふみ見ねば千年もよまぬこゝちこそすれ
(用事で一日一夜本を読まなくても、随分読んでないような気がする。 )

 わが齢のこりすくなしいくかへりよめどもあかぬ書はおほきに
(あと何年生きられるだろう。読んでも飽きることがない本が多いのに。)

 玉の緒のながくもがなやよの中にありとある書よみつくすまで
(人の寿命がもっと長ければいいのに。世の中にあるすべての本を読み尽くすまで。)
(C)本居宣長記念館

「ふみよみ百首」

 『鈴屋集』巻9(宣長全集・15-162)に載る。天理図書館に第一次草稿が、また第二次草稿が寛政12年庚申『詠稿十八』(宣長全集・15-503)には「ふみよみ百首」の題で収められる。順番が異なり(第一次草稿と二次草稿とも小異あり)、加筆訂正もある。全68首。

 書よむうへの事ともくさぐさ思ひつゝけける歌とも古風にはあらねとこゝについつ

1 すかの根の長き春日もみしかきそ書よむ人のうれひなりける

2 ぬるかうちも道ゆくほとも書よまて過るそをしきあたらいとまを

3 おもしろきふみよむ時はぬることもものくふこともけにわすれけり

4 朝夕に物くふほともかたはらにひろけおきてそ書はよむへき

5 くうものはみちてもきゆるはらのうちに長く残るはよめる書なり

6 書よめは倭もろこしむかし今よろつの事をしるそうれしき

7 ふみよめはくはしくそしる天の下ゆかぬ國々よものうみ山

8 書よめは見ぬもろこしの國まても心のうちのものになりつゝ

9 書よめはむかしの人はなかりけりみな今もあるわか共にして

10 花鳥のよにおもしろき色も音もこもりて見きくよむ書のうち

11 ふみよめは心のうちに時わかす花もさきけり月もすみけり

12 書よめは千里のよそのことまてもたゝこゝにして目に見ることし

13 ふみよめは花も紅葉も月雪もいつともわかす見るこゝちして

14 酒のみてうたひまひつゝあそふより書よむこそはよにたのしけれ

15 書よめはたえてひさしき事そなき人もとひこす酒ものまねと

16 ふみよまてなにつれつれなくさまむ春雨のころ秋の長き夜

17 六月の風にあつとて取いつれはやかてよままくほしき書とも

18 あつけれと書よむほとはわすられて夏も扇はとらむともせす

19 うつみ火のもとによるよるおきゐつゝさむさわすれて見る書そよき

20 跡たへて深くふりつむ冬の日もふみ見る道はゆきもさはらす

21 なつむなよふみ見る道に朝霜のとけぬ所はさてもすきゆけ

22 ふみ見るにけはしき道はよきてゆけまたき心の馬つからすな

23 おもしろき山川見つゝゆけはかも書見る道はくるしくもあらす

24 もろもろの書見る道はよるひると千里ゆけとも足もつかれす

25 ゆきゆけはつひにはいたりつくものを書見る道はあしおそくても

26 くらくともほともなく夜は明ぬへし書見る道にやみななけきそ

27 けたてよめ心のあふらさしそへてさよはふくとも書のともし火

28 よむ書をしはし枕にかり寝してうしやおほへす暁のそら

29 よるひるのたゝしはらくのいとまをもいたつらにせて書をよむへし

30 いたつらに過る月日もをしとたにおもはてやふるふみよまぬ人

31 をりをりにあそふいとまはある人のいとまなしとて書よまぬかな

32 よるひるとよめとも書はあかなくによまて世をふる人も有けり

33 書よむをたゝむつかしき事とのみ思ふはよまぬ故にこそあれ

34 書よむをふさわしからぬわさとのみおもふはよまぬゆゑにこそあれ

35 いろはたにえしらぬ人をはかなしと見つゝ書見ぬ人のはかなさ

36 ふみよまぬ人はいろはのもしをたにえしらぬ人になにかことなる

37 大かたはいとまなき身もしはらくのいとましあらは書はよむへし

38 いとまなき人こそあらめいとまある人はなとてか書よまさらん

39 いさよまんと思へはたれもよまるゝを書よむいとまなしといふめり

40 書よむは又たくひなきたのしみをよみ見ぬ人はしらぬ成けり

41 書よめはおほやけはらもたゝれけりひとりわらひも又せられけり

42 佛ふみよめはをかしきことおほみひとりわらひもせられける哉

43 あともなき空言ふみにはかられて身をもあやまつ人のはかなさ

44 むかしよりいつはり書をそらこととさとれる人のなきそあやしき

45 そら言のをしへの書を神のこといつきたふとむ人のおろかさ

46 漢ふみも見れはおかしきふしおほしもののことはりこちたれけれとも

47 から書もこれは言よきからふみと思ひてよめはそこなひもなし

48 いかなれは代々のかしこき人々のそらこと書にまよひ来ぬらん

49 あたこともよめはよむかひある物をいつれの書かよまてすつへき

50 よまねとも倭もろこしもろもろの書をあつめておくもたのしみ

51 世に見えぬめつらしき書えしあらはよくわきまへよまこといつはり

52 いつはりの人まとはしのえせふみも世におほかるをはからぬなゆめ

53 偽の書をつくりて人はかる人はいかなるこゝろなるらむ

54 あちきなくいつはり書を造りいつるあたらいとまに真書よみなて

55 のこりたる名をきくたひにゆかしきはたえて世になき古のふみ

56 ひろはたの神の御代にそくたらより書籍てふものはたてまつける

57 今よりの千年の後やいかならむ出くるふみのかすまさりつゝ

58 たのしみはくさくさあれと世の中に書よむはかりたのしきはなし

59 よむふみに心うつれは世の間のうきもつらきもしはしわすれつ

60 書よめは心にもののかなはぬもうきよのさかと思ひはるけつ

61 世のわさのにこりにそめる人心ふみよむほとはきよくすみけり

62 ふみ見すはよにはしらしな神路山たかくも見えてたかきこゝろは

63 千萬の籍もとしへておことらすよめはよみうるものにそ有ける

64 めつらしくあかさる書は長かれと思ふにはやくをはるわりなさ

65 書はしもつねに明暮よるひるとよめともあかぬものにそ有ける

66 さはりありて一日一夜もふみ見ねは千年もよまぬこゝちこそすれ

67 わかよはひのこりすくなしいくかへりよめともあかぬ書はおほきに

 68 玉の緒のなかくもかなやよの中にありとある書よみつくすまて
 
(C)本居宣長記念館

プレゼント

 宣長は「玩物喪志」とはまったく縁遠い人であった。だから「好事家」ではない。
 物を集めないと、やはり好事家にはなれない。大館高門、木村蒹葭堂はその世界の大物だ。また谷川士清もちょっとそんな傾向がある。

 宣長は、知識欲は旺盛だが、物への執着心はほとんどなかった。本も、借りて読めばいい。必要なら写したらいいと言う考え方であった。記録を見ると、駅鈴形の硯など珍しい物もたくさん貰ったようだが、残念ながら残っている物はごく僅かである。
 一番大事にしていた、賀茂真淵先生の書簡でも、懇望する人にはプレゼントしている。
 またプレゼントとはちょっと違うが、神社への寄進も行った。一つが自著『古事記伝』の奉納である。また梅の木も寄進した記録が残っている。
 
(C)本居宣長記念館

プレゼントは隠岐の駅鈴

 寛政7年(1795)8月13日、石見浜田(今の島根県浜田市)藩主松平康定侯は参宮の途中松坂に泊り、本陣美濃屋に宣長を招き『源氏物語』の講釈を聞いた。

 主君の来訪に先立って家臣小篠敏は、主君の命で「駅鈴」と

 「かみつ世をかけつゝしぬ ぶ鈴の屋のいすずの数にいらまくほしも
                            康定」

 と書いた色紙を持参した。宣長が鈴が好きなことを聞いた康定からの心尽くしのプレゼントである。

  同年5月3日付栗田土満宛大平書簡には、

  「石州小篠大記翁も此度主君周防守内々御用ニて本居先生源氏物語之説とも委細精学仕可参由被仰付八九日迄逗留之積リニ御座候。本居へも珍敷古鈴御贈り被成候而御詠も御添被成候事ニ御座候/と御名あり目出度事ニ奉存候。大記翁も年齢相応より壮健ニて日々出精有之候」 (「小篠敏伝攷」『中村幸彦著述集』第12巻)とある。

 「古鈴」は「駅鈴」のことである。「八九日」は八九月の誤りであろう。

                             「駅鈴」
(C)本居宣長記念館

文台 (ぶんだい)

 文台とは、書物や硯を置く台で、歌会などの時には短冊や懐紙をのせる。会席の中心、象徴となる台。俳諧の世界では「文台引下ろせば則反古」(『三冊子』「赤双紙」)という名文句もある。
 神宮杉製。寸法、縦33.0cm、横60.4cm、高12.4cm。伊勢神宮、内宮神官・荒木田経雅から贈られた。板の裏に

 「此文おきは五十鈴宮のへの山に生たる木もてつくらせたるなりとてあらきたの経雅神主の許より心さしおくられたる也、
   こひのめはよるとふ杉のこの板に言霊ちはふ神もよらさね、宣長」

と由来と歌を書く。

 歌は天明3年の詠。「こひのむ」とは祈願すること。祈願すると神様が来てくださるという神宮杉、その木で造った文台に、言霊の神も集まってください、と言う歌だ。書斎新造のお祝いかな。
 

(C)本居宣長記念館

『文通諸子居住処并転達所姓名所書』

 2冊残る。1冊は、横井千秋書簡の紙背を利用。起筆年代不明。2冊目は、「寛政十一年未五月廿二日」と起筆の日が表紙にある。これは宣長のアドレス帳だが、ただのアドレス帳ではない。例えば「越後国高田下紺屋町、倉石笹屋宗右衛門」ここまでなら普通のアドレス帳だが、その後がある。「右ヘ状出し所、京東洞院御池下ル町、金津屋安兵衛」、これが転達所だ。越後に直接書簡を送ることは、郵政局や宅急便のない時代、難しい。そこで、確実に便があるところにまず送り、そこから転送(転達)してもらうのだ。

 この人の名前もある。
「肥後国帆足下総、杉谷三河へ書状出し所、京三条小橋、西国屋吉兵衛、大坂中ノ嶋越中橋肥後蔵屋敷留守居、萱野尚太郎(三百石)」
「江戸南八丁堀五丁メ家主相模屋文次地面ノ内、北八丁堀地蔵橋ノ際○村田平四郎、春海」これは最初、「江戸南八町堀五丁目家主相模屋文次地面ノ内、村田平四郎、春海」とあったが、これでは不充分と書き改めたのだろう。
 
 また、
「京富小路四条上ル町備前屋太介(備前岡山飛脚宿也)、備中宮内(ちん備中迄此方払)○藤井(小膳)長門守へ」
と料金の分担を書いた条もある。どのように料金を知ったのかは不明だが、きっと最初にいくらかかるという連絡が来ているのだろう。
(C)本居宣長記念館

遍照寺

 松坂矢川村(松阪市京町)。今の松阪駅前交差点(ベルタウン角)あたりにあった。 来迎寺の末寺で、もとは十王堂と言った。「十王」とは、冥土で死者の罪を裁く10人の判官。特に閻魔(えんま)王だけを指す場合もある。
 延享2年(1745)、宣長が編纂した『松坂勝覧』には、「矢川町、来迎寺下、本尊十王、七月十六日夜参詣多シ、盆ノ灯籠ヲ多クハ当寺ニ納ム」とある。
 延享4年(1747)、名を遍照寺と改める。松坂の文化人のサロンとも言うべき場所で、宣長もここを会場に遍照寺歌会を開いた。その後、明治6年に廃寺となり、境内にあった芭蕉の句碑も来迎寺に移された。魚町宣長宅から約15分。

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遍照寺歌会(へんじょうじうたかい)

 嶺松院歌会と共に宣長の活動母体となった歌会。初会は宝暦14年(1764)1月21日。『日記』に「廿一日、晴天○遍照寺和歌会始興行」、『石上稿』に「正ノ廿一、遍照寺兼、春雪、此会今日始而興行」とある。遍照寺は十王堂とも云い松坂町矢川の天台律宗来迎寺(松阪白粉町)末寺(廃寺)。今のJR松阪駅近く、松阪駅前交差点(ベルタウン角)にあった。会の定日は17日(『石上稿』)。会員は嶺松寺会と共通する人が多い。宣長は、天明八年までは出詠歌が『石上稿』に載る。寛政年間は同8年を除いてはあまり振るわず、宣長の参加も月見会や須賀直見追悼歌会、また遠来の客を迎えた時などに限られる。従っていつを終焉とするかは難しい。会の様子は、後年ながら寛政6年(1794)5月17日、松坂訪問中の鈴木朖の文に詳しい。『遍照寺月次和歌集』は第2帖~第7帖、明和3年正月17日から寛政12年7月17日が残る。但し、第7帖には寛政12年に錯簡があり、享和元年と推定される3月妙楽寺花見会、八月十五夜兼題が載る。また『於遍照寺、本居先生御門第月並和歌会詠留、天明四年甲辰正月』(殿村道応筆)1冊がある。

 【参考文献】
「鈴木朖の松坂遊学」岩田隆・『文莫』7号。
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帆足長秋(ほあし・ながあき)

 宝暦7年(1757)~文政5年(1822)。肥後国山鹿郡(熊本県山鹿市)久原村の天目一神社の神主。天明6年(1786)に初めて松坂来訪。寛政3年(1791)東行の途中、往復二回寄る。この時は、杉谷彝(スギタニ・ツネ)も同伴した。寛政10年(1798)にも、また享和元年(1801)にも松坂を訪れる。

 松坂では専ら宣長の著書を写した。その写本は散逸したが、奥書だけは記録が残っている。それを見ると、宣長全集を全部写しているのではと思う程、膨大な量である。
 それを九州に持って帰り、多くの人に貸し、宣長の学問を普及するのに功績があった。
 京を連れてきたのは、享和元年に来訪時で、この時は妻も同伴した。京15歳も父を手伝い『古事記伝』を写す。

 『盈嚢集』は帆足長秋が寛政3年(1791)松坂を訪問した時の歌を中心とする紀行文。1冊。写 本。当時の松坂を知る上で貴重な本である。
     「従五位下行下総守 清原真人長秋之墓」  
     「帆足長秋、京先生像」 (山鹿市立博物館前)
     長秋、京親子が書写した『古事記伝』44冊
 『古事記伝』巻3(右)は長秋筆写、巻28(左)は京筆写
帆足本『古事記伝』の表紙裏には帆足下総の名前入り文書が使用される
  『盈嚢集』帆足長秋紀行文。松坂訪問記事あり。1冊。
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帆足京(ほあし・みさと)

 天明7年(1787)12月22日~文化14年(1817)6月20日。享年31歳。
 宣長から将来を嘱望された京であったが、その生涯は余りにも短かった。
 文化8年9月8日、夫と家を出て、6年後に長門国(山口県)で客死する。知らせを聞いた父・長秋の歌。

 「ふみをしえの十とせまり四とせといふとしのみな月の廿日まり二日の長門国ふたみの浦といふ所にて家のむすめ(三十一歳)京のみまかりけるよしおなし年のはつきの廿日まり五日の日相しれりける人の豊前よりいひおこせたりければよめるうた五つ  
                 京が父従五位下清原真人長秋六十壱歳
 ひとり子のしぬると書し玉章をなと初雁のかけて来つらむ
 わびしさをおもふ涙の玉くしげふたみのうらの旅のあはれを
 時しあらば今一度はなでし子の花咲をりもあらまし物を
 いかなれや身を人国にはふりけむつくろひたてし宿のなでしこ
 近くあらば詞の露をかけてだによみがへるべきすべもせましを」

【参考文献】
『国学者帆足長秋と京』帆足長秋先生銅像建立期成会。
         「従五位下長秋之女京墓」  
     「帆足長秋、京先生像」 (山鹿市立博物館前)
     長秋、京親子が書写した『古事記伝』44冊
 『古事記伝』巻3(右)は長秋筆写、巻28(左)は京筆写
帆足本『古事記伝』の表紙裏には帆足下総の名前入り文書が使用される









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方角

                             「駅鈴」
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法幢 (ほうとう)

 今井田家養子時代の歌の師。和歌における最初の師でもある。宇治(伊勢市)中ノ地蔵にあった宗安寺の住職。宗安寺は浄土宗、現在廃寺。法幢は天明元年11月2日入寂。法名は中興十一世紅蓮社謙誉法幢上人随阿泰善和尚(『三村竹清集』7-26)。添削詠草1巻2冊が残る。

   『日記』に
 「同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】」とある。

  また、『(今井田)日記』4月1日より5月1日までの間に
「三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス」とある。
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蓬莱尚賢『古事記伝』に感動する

 安永2年(1773)付、荒木田尚賢書簡に

「先に借りもたりし古事記伝、つばらに読み侍るに、やそくまおちず(八十隈落ちず)、読みかうがへ(考え)給はするかな、いにしへ今にいたりて、かかるさまに物よみ侍らん人は聞きも侍らず、ことごとかいつけ(書き付け)給はさんには、あやにとほしき世のたからともならんぞかし、こはのちのたどき(方便)になんかへし侍らん、ゆるしたまへよ、かしこ/ひさかた」
と見える。

 お借りした『古事記伝』を念入りに読みましたが、漏らすことなく考証されたことに感心しています。今に至るまで、古典の注釈で、こんなに詳しく考えたという話は聞いたことがない。このように徹底して注を付けてくれたら、尊い世の宝となるでしょうと絶賛する。
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宝暦13年

 宝暦13年(1763)癸未。宣長34歳。妻勝23歳。母59歳。
 この年は宣長にとって重要な年でした。
  ○は宣長に関する項目。□は一族に関する項目。◆は町の様子など。

1月1日 
御厨神社、八雲神社、山神社に初詣。新年挨拶。読書始に『古今集』序を読む。
1月2日
早朝、町奉行に年始。朝食後、屋敷町の年始。大年寄村田彦左衛門から触があり、町年寄善六に代わり本町荒木九兵衛(九右衛門)がその職を預かる。
1月9日
津から年始の挨拶、酒肴届く。
1月12日
嶺松院歌会。年始初会。
1月16日
年始開講、『源氏物語』講釈、「幻巻」の内より。
1月22日
『源氏物語』講釈、「幻巻」終わる。
1月25日
嶺松院歌会。
2月3日
巳の刻前、勝、津の実家で男児(春庭)出生。
 
2月4日
津に使いを送り熨し餅を届ける。
2月6日
初午。
2月7日
村田元固三十三回忌。
2月8日
『弘安源氏論議』書写。
 ☆奥書「宝暦十三年癸未二月八日 舜庵本居宣長(花押)」。墨付27丁。
2月9日
七夜祝いのため村田親次を同伴し津の草深に行く。酒、鰹節、産着等を持参する。名前を健蔵と付け、酉の刻半帰る。
2月11日
嶺松院歌会。会頭を務める。
2月14日
母、参宮。姉おふさ(貞雲公)、妹おとは(於登波)同伴する。山田では御木曳きが行われる。
2月17日
『源氏物語』を校合する。母、参宮より帰る。
 ☆『源氏物語湖月抄』手沢本奥書「宝暦十三年癸未二月十七日一本校合終業 本居宣長(花押)」。
2月21日
朝、栄昌、おきん、津の岡氏女2名と西国巡礼に出る。帰着は5月21日。
2月25日
嶺松院歌会。
2月
『井蛙抄』5冊、『七部抄』7冊、『新題林集』16冊を購求する。
 ☆『宝暦二年以後購求謄写書籍』「未ノ二月、一、井蛙抄 五 五匁二分、同 一、七部抄 七 八匁三分、同 一、新題林集 十六 廿五匁」。
2月
小津次郎右衛門妻であった栄昌が魚町の帳面から本居家の帳面 の末に名前を移す。山田で御木曳きが行われた。真乗院第一世門主審誉和尚が隠居した。
 ☆栄昌はその後本居家で世話をするか。明和6年1月2日没したときには法樹院で葬儀が行われた。
3月6日
『源氏物語』講釈、「紅梅巻」が終わる。
3月11日
嶺松院歌会。
3月12日
村田清兵衛、妻、息子長五郎上京する。
3月13日
小津清右衛門、中村伊右衛門と景徳寺に参詣。阿坂山で宣長歌を詠む。
3月20日
音曲停止のお触れが出る。後日、将軍の次男が没したと聞く。
3月25日
嶺松院歌会。樹敬寺法樹院に滞在中の京都の歌人・澄月と歌を贈答する。謹慎が解かれる。
3月26日
小津道有、江戸より帰る。
3月
『耳底記』3冊、『難題百首』1冊を購求する。山室妙楽寺、久米村柳福寺で回向がある。小阿坂の景徳寺で入仏供養がある。
 ☆『宝暦二年以後購求謄写書籍』「同(未ノ)二月、一、耳底記 三 二匁五分/一、難題百首 一 一匁三分」。
「百首歌」後半57首を詠む。前半は宝暦9年春に詠む。完了は12月13日。
 ☆「同九年己卯春詠百首【夜虫以下同十三年癸未春詠之】」。宝暦13年12月13日条参照。
4月1日
おとは、古森善右衛門同伴で西国巡礼に出発。前回途中で中止したのでその後を廻る。京都から村田清兵衛も同行する。
 ☆おとはは母の妹。帰着は5月12日。
4月10日
夜丑の刻に地震。
4月11日
嶺松院歌会。
4月20日
稲懸十助道孝(棟隆の父)没。この頃宣長も追悼の歌を送る。
4月23日
勝、春庭を連れ帰宅する。
4月25日
嶺松院歌会。
4月
『黄葉集』6冊を購求する。
 ☆『宝暦二年以後購求謄写書籍』「四月 一、黄葉集 六 四匁五分」。
5月1日
春庭祝い。蒸し物を配る。津の草深には奈良晒を添えて遣わす。
5月3日
『霊元院御集 秋冬部』を書写する。
☆奥書「右霊元帝御集秋冬部謹書写終業時宝暦十三年癸未五月三日 舜庵本居宣長(花押)」(『大人百五十年祭記念』森田利吉写)
 ☆奥書「霊元帝御製集全部者前鈴屋翁自筆之写本ニ而秋冬之此一冊者文政十一年子年十一月七日後鈴屋翁死去之後同年十二月為遺物被贈吾方珍書也 永久可秘蔵 辻岡椎舎信道(花押)」。
5月5日
春庭、初節句。夜祝い客を招く。客、隠居家小津孫左衛門、村田与兵衛、七左衛門、手代、出入りの者等。
5月8日
隠居家小津英昌江戸に下向する。
5月9日
堀蘭澤、河原崎周庵、参宮の途中来訪す。
 ☆『日記』「(九日)京都堀正大夫、河原崎周庵同伴参宮、被立寄」。
5月11日
嶺松院歌会。
5月12日
堀蘭澤、河原崎周庵来訪一宿。おとは、古森善右衛門西国巡礼より帰る。
5月21日
栄昌、おきん等、西国巡礼から帰る。
5月25日
嶺松院歌会。松坂の旅宿新上屋にて始めて賀茂真淵に対面。
 
5月26日
春庭(健蔵)百十日祝。浜田瑞雪没、享年87歳。
 ☆『日記』「廿六日、雨天 ○健蔵神参箸揃、【百十日者廿四日也、因為精進日今日祝】夕飯客、栄昌公、貞雲公、於金殿【不参】、於登波殿也 ○浜田瑞雪死 八十七歳」。客の、栄昌は小津定治唱阿の四女おりん、貞雲は母姉おふさ、於金は小津定治唱阿の五女きん、於登波は母妹おとはである。2月14日条参照。瑞雪は宣長の弓の師。
5月29日
利秀善尼一周忌取越法事。夕、『源氏物語』講釈、「竹川巻」終る。
 ☆『日記』「(略)今夕竹川巻講釈終」。
この頃
初瀬山奉納月輪院勧進に歌を詠む。
6月7日
『紫文要領』上下2巻の稿成る。
 
6月11日
嶺松院歌会。
6月25日
嶺松院歌会。
6月
『宮川歌合』1冊、『みもすそ川歌合』1冊を購求する。
 ☆『宝暦二年以後購求謄写書籍』「六月、一、宮川歌合 一 八分、一、みもすそ川歌合 一 八分」。
6月
この頃、初めて「古体」の歌10首(春2・夏1・秋2・冬2・恋3)を詠む。
6月
賀茂真淵に書簡と『万葉集』の質問、また初めて詠んだ古風歌を送り、添削と入門の許諾を請う。
 ☆賀茂真淵差出12月16日付書簡「六月之芳書到来、如御示此度邂逅之接芝、致大慶候故云々」。
6月
隠居家小津英昌の江戸伝馬町木綿店、不仕合につき店仕舞する。
7月6日
嶺松院歌会。
7月8日
煤払い。
7月22日
勝、春庭、津に行く。
7月24日
宮崎俊(大口に嫁した妹)、来る。
7月25日
嶺松院歌会。
7月30日
知遊、瓦町にあった浜田瑞雪の庵に移り、10月28日まで住む。
8月10日
『源氏物語年だての図』起筆か。
8月11日
嶺松院歌会。
8月15日
来迎寺覚性院にて月見和歌会興行。
8月22日
夕、『源氏物語』講釈、「橋姫巻」終わる。
8月25日
嶺松院歌会。
9月1日
「百首歌」詠始める。勝、春庭津から帰る。
9月11日
嶺松院歌会。
9月18日
村田清兵衛剃髪、法名宗善。
9月24日
清九郎、江戸より帰る。
9月25日
嶺松院歌会。
9月
『夫木鈔』36冊を購求する。
 ☆『宝暦二年以後購求謄写書籍』「九月 一、夫木鈔 卅六冊 七拾二匁」。
10月4日
山田の祠官橋村正身、荒木田久老等6名が、松坂郊外の射和村富山家に所蔵される『元暦校本万葉集』を調査に行う。
 
10月7日
年忌墓参。
10月上旬
新川井町で芝居が始まる。
10月11日
嶺松院歌会。
10月25日
嶺松院歌会。
10月28日
知遊、岸江村に移居。
10月29日
『源氏物語』講釈、「椎本巻」終わる。
10月30日
嶺松院会にて先住亮雄七回忌追善臨時和歌会。出詠、宣長、小津正啓、中津光多、稲懸棟隆、円義、邦教。
11月
『順徳院御百首』1冊を購求する。
 ☆『宝暦二年以後購求謄写書籍』「順徳院御百首 一」。同書では、11月11書写の『時代不同歌合』の前に記されている。
11月2日
山薬師境内で相撲興行。
11月11日
嶺松院歌会。『時代不同歌合』書写する。
 ☆『宝暦二年以後購求謄写書籍』「同(十一月)一、時代不同歌合 一 写」。『時代不同歌合』奥書「宝暦十三年癸未十一月十一日 本居宣長(花押)」。尚、本書がこの花押の初見である。
11月13日
新川井町の芝居が終わる。
11月14日
草深東仙、入来一宿。
11月17日
冬至。
11月25日
嶺松院歌会。
11月26日
『師兼千首』書写する。
 ☆奥書「右師兼卿千首本多有題而無歌者焉憾恨無量宜求全本再書写之巳 宝暦十三年十一月廿六日 舜庵本居宣長(花押)」。
11月27日
京都で天皇御即位が行われる。江戸から酒井雅楽頭上洛すると後日聞く。
11月28日
津、岡氏老母死去。岡藤左衛門眉山の母か。
11月29日
岡氏葬儀で母勝、津に行く。
12月3日
草深玄周、納采。
12月5日
煤払い。
12月9日
夕、『源氏物語』講釈、年内終業。「百首歌」詠み終わる。
12月11日
嶺松院歌会。新古歌合。
12月12日
草深玄周納采の祝いと寒中見舞いを兼ねて使いを出す。
12月13日
『実隆公百首、道堅尭空名所百首、後柏原院実隆公御百首、実隆公四文字題百首』を書写する。「百首歌」(宝暦9年春始め)後半57首詠終わる。
☆『隆公四文字題百首』奥書「宝暦十三年癸未十二月十三日夜写于燈下」。墨付49丁。
 ☆『鈴屋百首歌』第2冊「右百首未十二月十三日夜詠畢」。
12月16日
賀茂真淵、宣長宛書簡を執筆。入門の許諾を伝える。書簡は加筆した『万葉集問目』第1冊と村田伝蔵の書簡を添えて送られる。真淵より入門手続きを任された村田伝蔵も、真淵書簡に添える宣長宛書簡執筆。
 
12月28日
同月16日付賀茂真淵の入門許諾書簡到着する。
 ☆『日記』「(廿八日)去五月、江戸岡部衛士賀茂県居真淵当所一宿之節、始対面、其後状通入門、今日有許諾之返事」。
同月
『長明道之記』1冊、『頼政家集』1冊、『常徳院義尚集』1冊を購求する。
 ☆『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十二月 一、長明道之記 一 一匁/同 一、頼政家集 一 一匁/一、常徳院義尚集 一 一匁」。
同年
『源氏物語年紀考』、『手枕』、『石上私淑言』巻1、2、3の稿(未定稿)成るか。
 
同年詠として『石上稿』に191首載せる。他に百首歌を一度、百首歌の末57首、源氏巻名21首、総計369首を詠む(『石上稿』)。同集に載る「源氏物語巻名かくし題」の末に「以上廿二帖歌数廿一首此次来年可詠之」とあるが果 たさず終わったようである。
同年
稲懸常松(8歳、後の大平)、徳力明通を師とし手習いを始める。
 ☆『藤垣内翁略年譜』
この年の米価は25、26俵。銭4貫文余。
(C)本居宣長記念館

『宝暦咄し』

 森壺仙著。随筆。1冊。文化8年2月自序。但し、文政11年まで加筆。壺仙の目を通して見た松坂の風俗誌。
 内容は表題の「宝暦年間」(1751~64)には必ずしも係わらず、それ以後の記事も含む。市街地図なども添えて、宣長が生きた頃の松坂を知る格好の手がかりとなる。
 本書を世に紹介した桜井祐吉氏が、「松坂の一夜」の舞台「新上屋」の場所をこの地図で特定したことは有名。また、宣長自身についても「はやり事、奇談」安永元年条に「本居歌の講尺」と書かれている。

【翻字】
『松阪市史』地誌2・『日本都市生活史料集成』4巻。
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僕の友達

 「余性也僻、常非同好知音不交也。是以微躯生於江門而交罕、遊于江門唯遠方二三子、所謂和歌山篠斎、南海黙老、松坂桂窓名久足、是己約個三才子、毎見余戯墨編相喜評定之干余以問当否為娯楽」『南総里見八犬伝』第9輯下套下引
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細井金吾(ほそい・きんご)

 宝暦4年(1754・一説に3年)~寛政7年(1795)8月1日。享年41(一説に42)歳。
 名は三千代麻呂、号は涼風亭、東園。槍術、剣術の達人。儒学は亀井南冥門で甘棠館に所属した。国学は最初、小篠敏に学んだ。
『授業門人姓名録』寛政5年条に
「筑前福岡【家中】細井判事、藤三千麻呂【初称金吾】、【細井広沢ノ裔】」 とある。

 入門して間もなく没した細井であるが、既に入門以前から交渉はあった。あるいは面識もあった。『古事記伝』初版本巻5には、福岡にある「女嶋」と「両児嶋」という島の話の提供者として、「筑前ノ国人細井氏云」とその名前が明記される。

 だが、再版以後は、「筑前国のある人」と細井氏の名は消える。
 なぜだろう?
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 細井平洲と宣長門人

 細井平洲(1728~1801)は、儒学者。尾張国知多郡平島村の豪農の家に生まれる。 儒学を学び、米沢藩主・上杉鷹山(ヨウザン)に仕え藩校創設に尽力、藩士はもちろん 農村にも講じた。その話を聞いた尾張藩から招かれ、ここでも藩校明倫堂や各所で講 義を行い藩政改革に貢献した。

 『新修名古屋市史』には、
「平洲の講話は村方秩序の危機に対応して、上への順応 を説くものではあったが、為政者の責任と、その許にあって絶対服従による安心至福 の道を説くその内容は、人々の心を強く打つものがあった。起宿本陣の加藤磯足は平 洲に入門して講釈を聞き、感激して平洲を招いて講釈の場を提供した。海東郡木田村では、土地の有力者大館高門らが中心になって平洲を招いている。平洲の教諭は、村役人や豪農商にとって村内における対立・矛盾を緩和し、乱れた風俗や秩序を再建するものとして歓迎されたのである」と記されている。

 このように、宣長門人にも平洲の心酔者がいたことは注目されてよい。
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 堀景山(ほり・けいざん)

 元禄元年(1688)~宝暦7年(1757)9月19日。享年70歳。
 宣長が書いた師のプロフィールは、
「先生、姓堀、諱正超、字君燕、俗称禎助、林道春門人堀正意之後、蘭皐先生之男、代々芸州儒官也、家在綾小路室町西、禄二百石、先生、宝暦七年丁丑九月十九日没、七十歳」(『本居氏系図』)。
 ここに書かれたように、諱、正超、字、君燕、俗称、禎助。曾祖父は林道春門人・堀正意(杏庵)である。父は蘭皐。代々、芸州(広島)浅野家の儒官であったが京都住を許され、京都綾小路室町西に住む(ある説では、宣長が紀州家に召し抱えられたときに松坂住を願ったのも師の例が頭にあったのではという)。禄は200石。

 宝暦2年(1752)3月に宣長は入門し、同月19日から、同4年10月10日に武川幸順宅に移るまで寄宿する。景山は、樋口宗武と計って『百人一首改観抄』を刊行したという話も伝わるほど、日本古典にも造詣が深く、宣長の『日本書紀』も景山から伝与された本である。またやはり手沢本『春秋左氏伝』も景山説を丹念に写したものである。景山先生は歴史好きというのもあるかも知れないが、面白くて読んでいたとも言えなくはない。文学説を始め影響は大きかった。著書は随筆『不尽言』、これは最近、岩波書店「新日本古典文学大系」で簡単に読むことが出来るようになった。また『楽教訳解』と言う本があったと本居清造翁は伝えるが所在不明。

 【参考文献】
 『堀景山伝考』高橋俊和・和泉書院(2017年2月15日)
     「本居宣長修学の地」碑(堀景山宅跡)
       「本居宣長先生修学之地」側面
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堀景山死す

 景山死去の日、宣長の『在京日記』には、

「さてしも予かいせくたりも、節供過とかねてさためをきしかとも、景山先生、春よりのわつらひはかはかしからて、此程はいとおもくなり給日にたれは、見すて奉りてはいかゝ下らんと思へは、しはしのはし侍る、やうやう大切に成給て、十九日のあさの暁につゐにゆかをかへて身まかり給ひぬ、としはことし七十になん成り給ひぬる、みな人のおしみ奉ることいはんかたなし、門人ひそかに議して、良靖先生と諡したり」
とある。弟子から慕われたのだ。

  9月22日、夜明け前より堀景山葬儀が南禅寺帰雲院で執り行われる。儒家の式で丁重な葬儀が終わったのは暮れ近くであった。折しも、景山が愛してやまなかった紅葉が見事で門弟皆が涙にくれた。その後も墓参の時には紅葉を折り手向け、哀悼の詩を捧げた。

 また、藩主浅野宗恒の命で堀南雲(南湖の男・北堀家)が「宝暦丁丑七年季秋中旬、安芸守侍従源朝臣宗恒建石以銘」と記した「忠靖先生之碑」碑文を撰した(「弘洲雨屋虫干集」)。
 「忠靖先生之碑、継踵百世之師以諭導、研精万巻之書而教誨、◎(ビ)々励怠、逞々興廃、嗚呼哀哉、永訣難再、報之無日、茫々大交◎(石に鬼)、秋霜共消、名伝海内、展如之人、斯文風慨、忠哉靖哉、徳音安在、嗚呼哀哉、歎惜無已、聊以此告正超之霊、宝暦丁丑七年季秋中旬、安芸守侍従源朝臣宗恒建石以銘」。「従姪(原文は人偏)正◎奉藩命」。
           「帰雲院」表札
            「景山の墓」
景山先生の墓は小さい。
表には「景山堀氏正超之墓」とある。
         
         「忠靖先生の碑」部分



(C)本居宣長記念館

堀景山の書幅が寄贈されました

 このたび、志村史夫氏から、堀景山の書幅が寄贈されました。
 景山は、『礼記』の一節、
「(君子は貴を辞し賤しきを辞せず、冨を辞し貧しきを辞せざれば、則ち乱は益亡し)故に、君子、其の食をして人に浮(す)ぎしめんや。むしろ人をして食に浮ぎしむ」
を選んでいます。意訳をすると、
「私の給料が少ないのは、私が偉大だということだ。見ろ、下らぬ奴ほど地位が高く俸給も多いじゃないか。君子というのはかくあるべきものさ」
 となるでしょうか。

 景山の学問や生活態度は、宣長の人格形成に計り知れない影響を及ぼしたことはよく知られています。
 原文はなかなか重い言葉ですが、景山が書くと、その重みは消えて軽やかになります。実に景山らしい撰文です。
  二重箱、内箱には「堀景山二行書」、裏には「鐵齋百錬題」と、富岡鐵齋の箱書があり、軸の価値を一層高めています。
 ご寄贈下さった志村氏は、静岡理工科大学教授(現在・名誉教授)、ノースカロライナ州立大学併任教授です。
 半導体結晶の領域では世界的な権威ですが、それに留まらず、IT論や、古代文明、自然哲学と、まさに宣長の言う「好信楽」を地でいくような先生です。
 リニューアルオープンした記念館講座室で3月4日に、氏が主宰する
 志望塾 寺子屋in松阪
を公開で開講していただき、その時の竣工記念のお祝い、また同月末の先生の退官を記念して、
特別な思いのあるこの軸を、ご寄贈下さったのです。
 志村氏と景山の出会いは、学問の本格的なスタートとなる大学一年生の時に遡ります。
 岩田隆先生の『不尽言』の講義を聴講し、景山の人格に共鳴され、深く関心を寄せられていたのです。
 また、京都の人々が景山を評した、
「光を包みたる学者だ」
 という表現も、物理学者として光の問題を考え続ける氏の興味を引く要因となったそうです。
 今回の寄贈により、記念館の景山書幅は、合計4幅となりました。
                            堀景山の書幅 
(C)本居宣長記念館

堀元厚(ほり・げんこう)

 貞享4年(1686)~宝暦4年(1754)1月24日。享年69歳。『在京日記』宝暦3年7月条に「廿二日、入門干堀元厚氏。而聞医書講説」とある。元厚は後世派の医者。著書に『医案啓蒙』、『医学須知』、『医門丘垤集』がある。『医案啓蒙』はカルテの書き方、『医学須知』は『素問』『霊枢』『八十一難経』からの抜粋抄録である。
 神沢杜口は「又右に記す堀元厚は、予が俳友にて、交り親しかりし、俳名は釣雪(テウセツ)と云り。京都の学医にて、書生たる者之へたよらざるは無し、京師の学校の如し、療用は辞して講説而已なり。」(『翁草』)と言う。

 元厚は後世派の中でも劉張医方派に属した。この派は日本では曲直瀬玄朔門の饗庭東庵によって提唱され味岡三伯、小川朔庵と受け継がれ元厚に至った。派の説としては、五運六気説、陰陽五行説、臓腑経絡説等を説く。
 また「コレラノ人々ハ皆、自ラ刀圭ヲ取テ人ヲ療治セルニ非ズ。但、素難ヨリ宋元明ノ医書ヲ講ズルヲ業トセリ」(『閑散余録』)とあり、実際の治療でなく、医書講釈を仕事としていた。

 同7月26日から堀元厚の講釈開始。「堀元厚先生講釈始、毎朝、霊枢及局方発揮也、二七四九之日夕、素問、運気論、ソカイ(泝カイ)集也」(『在京日記』)。『霊枢』以下いずれも後世派の読む基本書であった。『国書人名辞典』に拠れば、本姓、菅原。名、貞忠。字、元厚。号、北渚、釣雪。法号、青雲院延空貞喜居士。山城山科西山村の人。医は小川朔庵に学び、京で業とした。一雪に学んで俳諧を能し、能も嗜み「能火消」と称された。墓、誓願寺。
(C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その1

◆ 書  名

 「すががさのにっき」と読みます。「すげがさ」ではありません。
  自筆稿本題簽「すがゝさの日記」、版本題簽「須我笠の日記」とあります。
 また、本文一番最後に「スガヾサ」とルビがあります。 【別称】「吉野の道の日記」(『玉勝間』)

◆ 43歳の宣長

  後厄。妻勝32歳、長男春庭10歳、次男春村6歳、長女飛騨3歳。

◆ 本書の成立年

  明和9年(1772)4,5月頃か。5月7日付・谷川士清書簡に、借用を希望することが、また7月晦日付の士清の書簡に、借用の礼と感想が記されているので、帰宅後まもなく執筆されたと考えられる。刊行は、寛政7年(1795)。それまでは写本で流布した。

◆ 旅の持参品

 宣長は「たいした日数の旅ではないので特に準備という程のこともないが、そわそわする」と書いているが、実際は、山間部を行くため、宿と言えば木賃宿。ある程度はお米や味噌なども持参したかもしれない。したがって、かなりの荷物となったはずだ。
 宣長自身が持っていた物としては、

 『大和国中ひとりあんない』木版1枚。正徳4(1714)刊。宣長書入。大和国(奈良県)の概略図。当時の旅はこの程度の簡単な地図を頼りとしていた。

 『和州巡覧記』木版1冊。貝原益軒著。宣長書入。元禄9年(1695・益軒57歳)成立。和州(奈良県)のガイドブック。平明な表現で、地域の特色をよく伝えている。広く普及し、宣長も若い頃から愛読し、簡略だが要所に宣長は書き入れをしている。

 「ぬさ袋」宣長使用。袋には宣長の「うけよなほ花の錦にあく神もこころくだきし春のたむけを」の歌が付いている。また『菅笠日記』には「明日たたんとての日はつとめてより麻(ぬさ)をきざみそそくり」とある。ぬさ(幣)は旅の途中、峠や道に祀られている神(道祖神)ささげる物。もとは木綿(ゆう)や麻で作ったが、後世は布や紙が多い。
 「このたびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神かみのまにまに」菅原道真『古今集』

  「伊勢茶」これは木賃宿に泊まるための、つまり自分たちで飲むお茶でしょう。思いがけず、知り合った人へのプレゼントになりました。(但し、この人との出会いはフィクションだとする説があります) このほかに、雨具、それから手帳や矢立は必携だったはずです。
                  『大和国中ひとりあんない』 『和州巡覧記』 「ぬさ袋」 
(C)本居宣長記念館

本陣・美濃屋

 松坂中町、参宮街道に面してあった。主人は鈴幣(すずき)庄右衛門。尾張の国からやってきて、元和8年に鍵屋十郎太夫の跡を継ぎ本陣御用を仰せつけられた。この本陣に、寛政7年(1795)8月、浜田藩主・松平康定が宿泊し、宣長も拝謁した。脇の小路を「美濃屋小路」と呼ぶ。今は石柱だけが残る。
(C)本居宣長記念館

本誓寺(東京都江東区清澄3丁目4番)

 宣長の家の江戸に於ける菩提寺。父や義兄もここに眠る。寺は新しくなり今も残るが、墓もその伝承も残らない。

 ここは、江戸に進出した伊勢商人の菩提寺でもあった。村田春海の家もその一つである。春海(1746~1811)は日本橋小舟町の豪商。また、賀茂真淵の高弟。師の宝暦13年の畿内探索にも同行した。つまり新上屋での宣長と真淵の対面にも、同じ建物のどこかにはいたはずだ。あるいは18歳の春海、兄春郷とぶらり出かけていたのだろうか。因みに、後年春海は江戸の十八大通の一人に数えられ、また吉原の丁子屋の遊女丁山(23歳)を身請けし、おすがと名を改め正妻とした通人である。

 春海と宣長が対面するのは天明8年(1788)3月10日、西遊紀行の締めくくりに松坂を訪問した時である。真淵の継承者と誰もが認める伊勢の宣長は国学の正統として、師の傍らで学んだことを自負し、宣長何する者ぞという気概を持った春海は江戸派の領袖として国学の発展を担っていく。

  また、長井家に嫁いだ宣長次女・美濃の墓もここにあったというが、関東大震災で被災し、その後松阪の来迎寺に移された。現在、同寺に美濃夫妻墓が二つあるのはそのためであると言う。
          現在の本誓寺風景       
             本誓寺本堂       
        村田春海の墓(東京都指定旧跡)      










(C)本居宣長記念館

本の貸し借りの勧め

 学問の世界を開かれたものにするために、宣長は積極的に本の貸し借りを行った。あまりつきあいがない人でも分け隔てはしない。だから、秘蔵して見せないのは「心ぎたな」いと批判した。但し、貸し借りと言っても宣長の場合は対象は全国だ。今と違って郵便も電話も無い。送ったが途中で紛失した、また相手が死んで返ってこないなどアクシデントも当然ながら生じた。それへの対策も含めて宣長は次のように「本の貸し借りを勧める」

  「めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見
  せもし写させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、
  いといと心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也、たゞしえがたきふみを、遠くたよりあしき国などへかしや
  りたるに、あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどして、つひにその書かへらずなる事
  あるは、いと心うきわざ也、さればとほきさかひよりかりたらむふみは、道のほどのことをもよくしたゝめ、又人
  の命は、にはかなることもはかりがたき物にしあれば、なからむ後にも、はふらさず、たしかにかへすべく、おき
  ておくべきわざ也、すべて人の書をかりたらむには、すみやかに見て、かへすべきわざなるを、久しくとゞめおく
  は、心なし、さるは書のみにもあらず、人にかりたる物は、何も何も同じことなるうちに、いかなればにか、書は
  ことに、用なくなりてのちも、なほざりにうちすておきて、久しくかへさぬ人の、よに多き物ぞかし」
     (『玉勝間』巻1「古書どもの事、五」)

 また、借りた本の扱いへの注意も忘れない。

  「人にかりたる本に、すでによみたるさかひに、をりめつくるは、いと心なきしわざなり、本にをりめつけたる
  は、なほるよなきものぞかし」『玉勝間』巻1。「古書どもの事、六」。

 俗に言う「ロバの耳」。
 本のネットワーク確立、これも真淵、宣長の国学を広く浸透させる力となった。
 学者は「孤」では無くなった。
(C)本居宣長記念館

本の出来るまで

 宣長の頃の本は、整版本、木版本と言い、板木に裏字で凸に彫ります。今の版画と仕組みは同じです。

 まず原稿を書きます。
 次に「版(板)下書」(ハンシタガキ)を書きます。これは、版木(板木とも書きます)に彫るための清書で、薄い紙に書きます。本を出す人は宣長自筆の版下を希望しますが、多忙になると、息子の春庭や、また上手な人に頼みます。ここでも字の誤りがあると本にまで影響しますので慎重に進めます。

 「版下書」が出来たら板木職人に送ります。
 「版木職人」といえば宣長の場合は植松有信が有名ですが、貰った版下書を桜の一枚板に裏を向けて貼ります。ここで字が逆になるのです。そして書かれた文字がよく見えるように紙を水をつけてこすります。和紙はこの点が便利で、文字の墨を残してきれいに除去できます。
 逆さまの墨の字だけが板木に残ったら、いよいよ彫刻です。
 まず粗彫りをして、そしてだんだん細かいところを彫ります。
 イラストの有信は小槌を振り上げて、ずいぶん乱暴な仕草ですが、これは粗彫りか、または前面彫り直しを命じられて怒っているのかな。
 版下書はこうやって消えて、代わりに版木が登場します。

 版木が出来たら刷り師が刷ります。
 まず校正刷り。それを宣長が見て校正します。
 校正を板木職人が直します。文字の訂正などは「埋め木」で直します間違い箇所を削って新しい木埋めるのです。
 再校、三校と行われてようやく完成です。

 刷りは、最初は薄墨で5部位刷ります。これを一番刷と言います。再版で版木を彫り直すときに使ったりします。版下なら濃くした方がいいと思われるかも知れませんが、文字の細部まで再現するには薄い方がいいのです。それにまだ版木の状態がいいのでこの初刷を使用します。
 刷った物を、今度は表紙屋が表紙をつけて製本します。
 これで完成です。 
(C)本居宣長記念館

本の発行部数 賀茂真淵『万葉考』の場合

 当時の本はいったい何冊刷ったのだろう。
 これは難問だ。印刷が手作業で行われるので、売れ行きを見ながら一定部数(たとえば30部位ずつ)印刷することが出来る。今のように機械を動かすのだと、何部刷ると言うことがはっきりしているのとは随分違う。本屋がよほどきちんとした記録を残さない限り正確な発行部数はつかめない。
 僅かにわかる例を一つ。
 賀茂真淵の主著『万葉考』1、2と別記は、初版は300部、内200をまず刷り、残り100を続いて刷った。

【原文・抄】
「万葉考一二と其別記、漸く出来此節すらせ先弐百部今日までに終而休み、又近日百部もすらせ候はん」(栗田土満宛賀茂真淵書簡・明和6年9月23日)

 この前の『冠辞考』は、初版の数はもっと少なかったはずだ。それが松坂までやってきて宣長の目に触れる、奇跡に近いことだ。
(C)本居宣長記念館

本箱

 宣長の蔵書は、少し大きな本箱(「大」と呼ぶ)が一つと、これの半分位のものが12箱、それと『源氏物語(湖月抄)』、『宇津保物語』等の専用箱等があった。

 12箱は慳貪箱(ケンドンバコ)で、蓋を開けると上下2段に分かれ、本が横積みされる。
 例えば、「婀」の箱の大きさは、奥行31cm、幅22.4cm、高さ69cm。他も大体同じだ。
 蓋のつまみの下にはラベルが貼ってあり、

   「婀、瑳、豫、秘、邇、登、黎、怡、図、婁、賦、微」

 という漢字が一文字ずつ書かれる。全部並べると、
 「あさよひにとりいずるふみ(朝宵に取り出る書)」 だ。

 当時の本はこのように横積みされることが多い。そこで、本の下、小口と言うところに書名が書かれることが多い。これは持ち主が書く。だから宣長の本には、印刷した版本でも「小口書」(コグチガキ)は宣長自筆となる。小口に指をかけてみることが多いので、自然、よく読む本は小口が汚れる。『二十一代集』がそのよい例だ。

                        『二十一代集』本箱と小口書       
                        「婀」のラベル(宣長自筆) 
(C)本居宣長記念館

本町(ほんまち)

 宣長の生まれた町。すぐ近くには三井家、また小津清左衛門家など豪商が軒を並べる。『松坂権輿雑集』に「近郷より木綿を買求関東に運送する屋多し、但惣町中より諸国江(へ)運送木綿凡八万反、年によりて十万反」とある。また、『宝暦咄』に「其比は大橋を渡り本町へ行けば、向イ合せに琴をたんずる音して誠ニ本町ヘ入たる様ニ覚ヘ、其外町々所々琴を弾する音する」とある。
(C)本居宣長記念館

本屋・柏屋

 『宝暦咄し』には、「本屋は藪屋勘兵衛壱軒也」とある。松坂に本屋さんは一軒だけしかなかったのだろうか。そんなことはない。柏屋兵助、文海堂がある。大平の親戚に当たる家で、宣長の本を扱うことで全国的にも有名になった本屋だ。暖簾は池大雅、扁額は韓天寿であったと伝える。魚町宣長宅から約8分。

  賀茂真淵が新上屋に泊まっているよ、と宣長に教えたのはここの主人だという(佐佐木信綱説)。安永5年(1776)、宣長の『字音仮字用格』を田丸屋正蔵と刊行して以後、多くの宣長本の出版に関係する。
  本屋としては後発だ。最初、松坂には藪屋と言う本屋があり、それに次いで開店したのだろう。うがった見方をすると、『宝暦咄し』の著者、壺仙の得意とする俳書は藪屋しか扱っていなかったか。
  柏屋の営業拡張の資料と思われるものがある。天明7年(1787)の土地の売買証文だ。売り手は尾張屋十郎兵衛後家、買い手は柏屋である。
  尾張屋?
  そう、「松阪の一夜」で同席した尾張屋太右衛門の実家らしい。間口5間というから結構広い。代金は100両。下世話な話だが宣長の医者の年収位だ。

 【資料】
 「永代売渡申家屋敷証文之事/一、日野町上ノ町西側表口五間半裏行町並/我等所持之家屋鋪並二間ニ三間之土蔵一ヶ所、九尺ニ二間半之土蔵一ヶ所其外建物共貴殿へ代金百両テ売渡、則金子慥受取申所実正也、然上は右屋敷ニ付諸親類ハ不及申横合より横妨申者無御座候、万一何に六ヶ敷義出来候共当人並加判之者何事迄も罷出貴殿へ少茂御苦労掛申間敷候、為後日の仍而売券状如件、天明六年丙午十月/売主尾張屋十郎兵衛後家(印)/五人組薮屋庄兵衛(印)/同白塚屋太郎兵衛(印)/同鳥谷屋三郎衛門(印)/柏屋兵助殿」『資料集録』(山田勘蔵自筆稿本)より再録。所蔵者不明。

 柏屋の場所は、山田勘蔵先生の「松阪新上屋の話」に地図が出る。今の岩井たばこ店あたりである。
   
(C)本居宣長記念館

本屋・藪屋勘兵衛(やぶや・かんべい)

 松坂の本屋さんで最初に名前が上がるのが「藪屋勘兵衛」である。
『宝暦咄し』に「本屋は藪屋勘兵衛壱軒也」とあるが、これは著者・森壺仙の目に叶った本屋と言うことだろうか、それとも宝暦初期、柏屋登場以前の話であろうか。
 宣長の処女出版となった、『草庵集玉箒』(ソウアンシュウタマバハキ)も藪屋の刊行である。
 その時の経費に関する証文が残っている。

「借用申金子之事、合金拾三両貳歩也、但シ無利息、
 右者、此度草庵集玉箒与申書物板行仕候ニ付、板木為彫代ト、借用申所実正也、右金子之儀、板行出来書物売弘メ次第当子ノ極月より来ル寅ノ極月迄ニ不残右之金子無相違返弁皆済可致候、万一右金子相滞申候はば、玉箒板行不残相渡シ少茂御損掛ケ申間敷候、為後日之仍一札如件、日野町薮屋勘兵衛(印)
  明和五年子七月
 本居春庵殿
 田丸屋十介殿
 田丸屋正蔵殿」

 今の自費出版である。列記されるのは、春庵は宣長、十介は稲懸棟隆、正蔵は須賀直見である。藪屋はその後は『詞の玉緒』や『漢字三音考』には柏屋と名を連ねるが、積極的には宣長著作出版はしていない。
 藪屋の衰亡は早かった。やはり『宝暦咄し』「断絶之家」日野町に、「尾張屋太右衛門」と共に「藪屋勘兵衛」の名前も出ている。

(C)本居宣長記念館

本を返すときの注意

 宣長さんは、本を返してきた横井千秋の書簡に「返却」とあるのを見とがめて、注意しています。本を返すときの手紙で「返却」ということばを使うのは、貸し手であって、借り手が使うことは失礼だ。この場合は「返上」とか「返呈」を使いましょうと諭す。
 横井は宣長の弟子とは言っても、尾張徳川家の重臣でもある。そんな人にもきちんと注意する。「千秋はよい師に恵まれたと言うべきであろう」とは、宣長研究第一人者・岩田隆氏の評だ。

【原文】
「尚々、乍序申上候、物ヲ借リ申候而、返し申候ヲ返却ト申候ハ、人ノ許より我方へ返し候を受取候とて御返却被下ト書申候事也、然ルを人ノ許ヘ返ストテ返却仕候ト書申候ハ失礼也、人ノ許ヘハ返上返呈ナト書ベキ也、返却は我方ヘ返したる時ニ云詞也、右ハ甚以失礼憚多奉存候ヘ共、御心得のため、不顧失礼申上候、多罪多罪」(横井千秋宛宣長書簡 寛政4年6月26日付)
(C)本居宣長記念館
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