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本居宣長について

本居宣長(モトオリ・ノリナガ)
享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5)

18世紀最大の日本古典研究家。
伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。
木綿商の家に生まれるが、医者となる。
医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。
主著は他に『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』、『うひ山ふみ』、『秘本玉くしげ』、『菅笠日記』など。
鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられている。

宣長ミニガイド

◇ 誕生から京都遊学へ

宣長、幼名・富之助は、伊勢国飯高郡松坂本町(三重県松阪市本町)に生まれた。
 父・小津三四右衛門定利。母・勝。
 家は、江戸店持ち商人。木綿などを江戸日本橋大伝馬町で商っていた。
 8歳から手習いを始め、謡曲や貝原益軒の著書などを貪欲に学ぶ。
 だが、「商いのすじにはうとくて、ただ書を読むことをのみ」好んだと述懐するように商売には関心がなかった。
 十代後半の宣長は「京都」に憧れ、「和歌」への関心を深め、『源氏物語』を読み始める。
 行く末を案じた母の勧めで医者となるため、宝暦2年(1752・23歳)3月、京都に行く。
 京都遊学は5年半に及ぶ。まず儒学を堀景山に学ぶ。
 景山は、朱子学の名門に生まれたが、特に歴史書への関心があり、荻生徂徠の学問や、日本古典にも造詣の深く、平曲を好むという一面を有していた。また、契沖(1640~1701)の著作や蔵書を見る伝手があったことは、宣長の学問形成に大きな影響を及ぼす。後年、宣長は契沖の『百人一首改観抄』を読み、「さっそくに目が覚め」たと回想している。この本の出版に尽力したのも景山であった。
 引き続いて、針灸の大家・堀元厚に医書を、高名な小児科医・武川幸順に医術を学ぶ。当時は革新的実証医学である「古医方」と『素問』・『霊枢』を中心とする漢方医学の正統「後世方」(李朱医学)の2系統があったが、宣長の師は「後世方」だった。

◇ 医者を開業する

宝暦7年(1757・28歳)、帰郷して医者を開業し、72歳で没するまで町医者(主に内科・小児科)として働き、生計を立てた。
 宣長の基本は、日々の生活の重視。患者が在れば元旦も診察し、往診ははるばる伊勢の宇治まで薬箱をぶら下げ出かけていく。28歳以後は働きづめであった。さすがに63歳の時には、隠居した友人加藤千蔭を羨み、自分は腰の痛いのをさすりながら明け暮れ働いているという手紙を書いている。

 70歳の時、松坂の門人・村上円方に贈った歌。
  家のなり(業)なおこたりそねみやびをの書はよむとも歌はよむ共

 医療も近所、親戚付き合いと言う日常生活をいかにそつなくこなすか。まめやかに努めるかに腐心した。たくさんの記録類は生活のマニュアルであった。そしてもう一つ記録には秘められた意味があった。それは自分の探求という目的のためであった。

◇ 歌会と講釈

 昔、松阪では薄暮の頃を「宣長先生の歌詠み時」と言った。薄暗いので細かい仕事は無理だが、歌なら詠める。定めし先生は歌を思案しているのだろう。この言い回しは、宣長の歌好き、また慎ましい生活をよく伝えている。宣長が詠んだ和歌は生涯に約10,000首。家集を『鈴屋集』という。歌は、宣長の楽しみでもあり、また学問の中でも、歌を特に重視した。
 帰郷してまもなく宝暦8年(1758・29歳)2月、宣長は松阪の歌会「嶺松院歌会」に入会し、同年夏、その会員らを対象に『源氏物語』の講釈を開始する。歌会と古典講釈は、72歳で没するまで継続し、学者としての宣長の活動拠点となる。
 一方、この頃から、日本人本来の世界観や価値観を探求しようと考え、そのためには『古事記』解読が必要であると確信した。
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