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本居宣長について

本居宣長(モトオリ・ノリナガ)
享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5)

18世紀最大の日本古典研究家。
伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。
木綿商の家に生まれるが、医者となる。
医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。
主著は他に『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』、『うひ山ふみ』、『秘本玉くしげ』、『菅笠日記』など。
鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられている。

宣長ミニガイド

◇ 誕生から京都遊学へ

宣長、幼名・富之助は、伊勢国飯高郡松坂本町(三重県松阪市本町)に生まれた。
 父・小津三四右衛門定利。母・勝。
 家は、江戸店持ち商人。木綿などを江戸日本橋大伝馬町で商っていた。
 8歳から手習いを始め、謡曲や貝原益軒の著書などを貪欲に学ぶ。
 だが、「商いのすじにはうとくて、ただ書を読むことをのみ」好んだと述懐するように商売には関心がなかった。
 十代後半の宣長は「京都」に憧れ、「和歌」への関心を深め、『源氏物語』を読み始める。
 行く末を案じた母の勧めで医者となるため、宝暦2年(1752・23歳)3月、京都に行く。
 京都遊学は5年半に及ぶ。まず儒学を堀景山に学ぶ。
 景山は、朱子学の名門に生まれたが、特に歴史書への関心があり、荻生徂徠の学問や、日本古典にも造詣の深く、平曲を好むという一面を有していた。また、契沖(1640~1701)の著作や蔵書を見る伝手があったことは、宣長の学問形成に大きな影響を及ぼす。後年、宣長は契沖の『百人一首改観抄』を読み、「さっそくに目が覚め」たと回想している。この本の出版に尽力したのも景山であった。
 引き続いて、針灸の大家・堀元厚に医書を、高名な小児科医・武川幸順に医術を学ぶ。当時は革新的実証医学である「古医方」と『素問』・『霊枢』を中心とする漢方医学の正統「後世方」(李朱医学)の2系統があったが、宣長の師は「後世方」だった。

◇ 医者を開業する

宝暦7年(1757・28歳)、帰郷して医者を開業し、72歳で没するまで町医者(主に内科・小児科)として働き、生計を立てた。
宣長の基本は、日々の生活の重視。患者が在れば元旦も診察し、往診ははるばる伊勢の宇治まで薬箱をぶら下げ出かけていく。28歳以後は働きづめであった。さすがに63歳の時には、隠居した友人加藤千蔭を羨み、自分は腰の痛いのをさすりながら明け暮れ働いているという手紙を書いている。

 70歳の時、松坂の門人・村上円方に贈った歌。
  家のなり(業)なおこたりそねみやびをの書はよむとも歌はよむ共

 医療も近所、親戚付き合いと言う日常生活をいかにそつなくこなすか。まめやかに努めるかに腐心した。たくさんの記録類は生活のマニュアルであった。そしてもう一つ記録には秘められた意味があった。それは自分の探求という目的のためであった。

◇ 歌会と講釈

 昔、松阪では薄暮の頃を「宣長先生の歌詠み時」と言った。薄暗いので細かい仕事は無理だが、歌なら詠める。定めし先生は歌を思案しているのだろう。この言い回しは、宣長の歌好き、また慎ましい生活をよく伝えている。宣長が詠んだ和歌は生涯に約10,000首。家集を『鈴屋集』という。歌は、宣長の楽しみでもあり、また学問の中でも、歌を特に重視した。
 帰郷してまもなく宝暦8年(1758・29歳)2月、宣長は松阪の歌会「嶺松院歌会」に入会し、同年夏、その会員らを対象に『源氏物語』の講釈を開始する。歌会と古典講釈は、72歳で没するまで継続し、学者としての宣長の活動拠点となる。
 一方、この頃から、日本人本来の世界観や価値観を探求しようと考え、そのためには『古事記』解読が必要であると確信した。

「宣長さんの履歴書」

系図



本居宣長略年譜

本居宣長略年譜


   年月日は旧暦(太陰暦) ※印は一般項目

享保15(1730) 1歳

5月7日

松坂本町に生誕。小津富之助と称する。


 

享保16(1731) 2歳

※4月25日

松坂新町樹敬寺塔頭嶺松院で歌会始まる(一説に再開)。


 

元文2(1737) 8歳

8月 

西村三郎兵衛を師とし、手習いを開始。


 

元文5(1740) 11歳

閏7月23日

父定利、江戸店で没(46歳)。通称を弥四郎と改める。


 

寛保元(1741) 12歳

3月 

名を栄貞と改める。


5月14日

母、弟妹と魚町の別宅に移る。


 

寛保2(1742) 13歳

7月 

吉野水分神社、大峰山などに参詣。


12月16日

半元服。『日記』起筆か。


 

延享元(1744) 15歳

9月 

『神器伝授図』、『職原抄支流』書写。樹敬寺で赤穂義士の話を聞き、帰宅後『赤穂義士伝』を書く。


12月21日

元服。


 

延享2(1745) 16歳

2月 

京都見物。


3月 

『松坂勝覧』起筆。


4月

江戸下向。翌年3月まで大伝馬町にある叔父の店に寄宿。商売見習いか。
 ◇京都への憧れを抱く。


※11月2日

徳川家重9代将軍となる。


 

延享3(1746) 17歳

4月 

江戸から帰る。


5月 

『大日本天下四海画図』起筆。


7月28日

『都考抜書』起筆。


 

延享4(1747) 18歳

11月14日

『和歌の浦』起筆。
 ◇和歌に興味を持ちだす。


 

寛延元(1748) 19歳

4月 

近江、京、大坂見物。


閏10月 

五重相伝を受ける。


11

伊勢の今井田家の養子となる。


 

寛延2(1749) 20歳

9月22日

華丹改め華風と号す。


 

寛延3(1750) 21歳

12月 

今井田家を離縁となる。


 

宝暦元(1751) 22歳

2月28日

義兄定治没(40歳)。


3月 

江戸下向。


7月13日

後始末を終え帰路、富士山に登る。


 

宝暦2(1752) 23歳

正月 

外祖母の御忌参詣に同道し上京。


3月5日

医学修行のため上京。『在京日記』起筆。


3月16日

堀景山に入門、寄宿し儒学を学ぶ。姓を本居に改める。
 ◇この頃、契沖の『百人一首改観抄』を読み、古典研究への眼を開かれる。


 

宝暦3(1753)  24歳

3月から
  4月まで

帰省。


7月22日

堀元厚に入門。医学を学ぶ。


9月9日

通称、弥四郎を健蔵と改める。


 

宝暦4(1754) 25歳

5月1日

武川幸順に入門。医学を学ぶ。


9月 

『日本書紀』購入。


10月10日

武川幸順宅に寄宿。


 

宝暦5(1755)  26歳

3月3日

稚髪し、名を宣長、号を春庵と名乗り医者となる。


 

宝暦6 (1756) 27歳

2月30日

友人・岩崎栄令肥前に帰国。「送藤文輿還肥序」を贈る。大酒で母に叱責される(7月16日付書簡)。


4月19日

帰省。途中、友人草深宅に寄り21日、松坂着。


5月10日

再び松坂出立し上京する。


7月26日

師・堀景山より譲られた『日本書紀』の校合終わる。


7月

『先代旧事本紀』、『古事記』購入。


11

『古今余材抄』10冊書写終わる(宝暦4年3月2日第1冊書写 )。


 

宝暦7(1757)  28歳

3月頃 

上柳敬基宛書簡で「好信楽」で自らの学問方向を説く。


9月19日

堀景山没(70歳)。


10月6日

松坂帰宅。医者を開業する。
 ◇この頃、賀茂真淵の『冠辞考』を読み影響をうける。同書は、6月に書かれ、すぐに印刷され、すぐに松坂にもたらされたことになる。


 

宝暦8(1758) 29歳

2月11日

嶺松院歌会に初出詠。


5月3日

『安波礼弁』起稿。
 
夏、『源氏物語』講釈開始。
 
◇松坂で40年継続する古典講釈の始まり。


 

宝暦9(1759) 30歳

3月4日

『伊勢物語』講釈開講。


12月12日

『伊勢物語』講釈終業。この年、『伊勢物語』関係書の購求書写 多し。この頃、『排蘆小船』執筆か。


 

宝暦10(1760) 31歳

2月20日

菅相寺歌会初会。但し8月で終わる。


9月14日

村田みかと結婚。


12月18日

離婚。


※9月2日 徳川家治10代将軍となる。


 

宝暦11(1761) 32歳  

3月 

『阿毎莵知弁』執筆。


 

宝暦12(1762) 33歳

1月17日

草深たみ(22歳)と結婚。たみ、改名して勝となる。


2月 

自選歌集『石上集』巻1成る。
 ◇「石上」号の使用の一事からも古代への憧憬の念が深まったことが窺える。
 
※『日本書紀通証』(谷川士清著)刊。


 

宝暦13(1763) 34歳

2月3日

長男春庭誕生。


5月25日

賀茂真淵と対面(松坂の一夜)。


6月7日

『紫文要領』執筆。
 またこの頃、『石上私淑言』執筆。賀茂真淵に『万葉集問目』を送り指導を仰ぐ。
 ◇もののあわれを知ることを中心とする文学論を展開しながらも、次第に古代の研究へと移行していく。


※10月4日

荒木田久老等、松坂郊外射和の富山家所蔵の『元暦校本万葉集』を調査する。この頃、曽我蕭白松坂来訪。


 

明和元(1764) 35歳

1月12日

『古事記』を、同月『先代旧事本紀』を共に度会延佳本で校合。


1月18日

『日本書紀』の講釈を開始。


1月21日

遍照寺歌会初会開催。同月、真淵に入門する。
 ◇『古事記』研究に本格的に着手。この頃、既に「鈴屋衣」着用する(名称使用は遙かに遅れる)。


 

明和2(1765) 36歳

8月4日

津の谷川士清に手紙を送る。


10

真淵の書き入れた『古事記』の借覧を願うが、まず万葉からと断られる。


 

明和3(1766) 37歳

7月1日

第1回『源氏物語』講釈全巻終業(開始、宝暦8年夏)。


9月

真淵に呈した『万葉集重載歌及巻の次第』で叱責される。


 

明和4(1767) 38歳

1月14日

次男春村誕生。


5月9日

『古事記伝』巻2(版本巻3)草稿本脱稿。同年、『上代系図』、『古事記雑考』書き終えるか。


 

明和5(1768)  39歳

1月1日

母・恵勝大姉没(64歳)。


4月 

『古事記上巻真淵訓』(『仮字古事記』)書写。


6月

『万葉集問目』再問、既に終わる。
 同年、『草庵集玉箒』前編刊行(刊記は5月)。


 

明和6(1769) 40歳

4月26日

『講後談』起筆。
 
同月、真淵『古事記』下巻借用。


5月6日

賀茂真淵、書簡で宣長の祝詞宣命への着眼を誉める。


10月30日

真淵没(74歳)。知らせは12月4日着。


※この年の松坂町人口9,078人、医者35名。


 

明和7(1770) 41歳

1月12日

長女飛騨誕生。


 

明和8(1771) 42歳

10月9日

『直霊』脱稿。同月、『てにをは紐鏡』刊。


◇この頃から宣長の思想に変化が見える。神の存在を確信したことによるか。
 ※池大雅、松坂訪問。この年、おかげ参り。


 

明和9(1772) 43歳

1月23日

『二十一代集』会読終わる(開始、明和元年5月26日)。


3月5日

吉野、飛鳥旅行に友人5人等と出立。
 
14日帰着(『菅笠日記』)。


※田沼意次老中となる。


 

安永2(1773) 44歳

1月2日

次女美濃誕生。


2月

『天祖都城弁弁』既に成る。四十四歳自画自賛像を描く。この年までの入門者は43名。


 

安永3(1774) 45歳

1月18日

『史記』講釈開始。


2月9日

大阿坂村を訪い先祖の墓に詣る。


10月10日

第2回『源氏物語』講釈全巻終業(開始、明和3年7月26日)。


10月16日

『直霊』講釈開始、11月30日終わる。


この年、『授業門人姓名録』起筆。
 ◇この年の講釈では、『史記』という漢籍、また自著『直霊』講釈が目を引く。
 
※『解体新書』刊行。


 

安永4(1775) 46歳

1月10日

『字音仮字用格』稿既に成る。


9月19日

賀茂真淵著『にひまなび』春庭(13歳)書写。
 ◇春庭の本格的学問への着手。


閏12月

西隣の家を買う。


※『大神宮儀式解』(荒木田経雅著)の稿成る。


 

安永5(1776) 47歳

1月15日

3女能登誕生。
 
同月『字音仮字用格』刊(刊記)。
 
※『雨月物語』(上田秋成著)刊行。


※8月24日

平田篤胤誕生。


※10月8日

須賀直見(35歳)没。


※10月10日

谷川士清(68歳)没。
 ※平賀源内エレキテルの復元に成功する。


 

安永6(1777) 48歳

3月

飯田百頃宛書簡で『古事記伝』の進捗状況と今後の見通 しを語る。


7月20日

田中道麿来訪。初めて対面する。


12月 

『馭戎慨言』草稿既に成る。『答問録』起筆。


※6月10日

加藤宇万伎没。


 

安永7(1778) 49歳

閏7月

『古事記伝』巻17浄書。(『古事記』上巻の注釈終わる。)


 

安永8(1779) 50歳

2月

『万葉古風格』(『詞の玉緒』巻7「古風の部」)、『国歌八論排斥非再評の評』既に成る。


11月5日

『万葉集玉の小琴』脱稿。


※岡山正興、三井高蔭(21歳)入門。殿村安守誕生。
  塙保己一、『群書類従』編纂に着手。


 

安永9(1780) 51歳

1月 

田中道麿再び来訪、門人となる。


3月頃から

「桜」の花押使用。


4月

市川鶴鳴の『まがのひれ』成る。


11月22日

『葛花』を書き『まがのひれ』を論難する。


※3月29日 武川幸順没(56歳)。


 

天明元(1781) 52歳

3月19日

付荒木田尚賢宛書簡で「古事記伝中巻、ようよう近頃清書にかかり申し候、扨々はかどり不申、不堪嘆息候」と執筆のはかどらないことを嘆く。


11月9日

真淵十三回忌開催(『手向草』)。


◇この年、医療収入96両、記録に残る最高額。


 

天明2(1782) 53歳 

3月2日

伊勢前山の花見。同行は門人戒言、稲懸茂穂、三井高蔭、春庭等。荒木田久老等が迎える。


7月15日
   頃から

瘧。その後も体調優れず、天明4年まで講釈など中断する。


8月18日

『天文図説』成る(春庭清書)。


9月11日

『真暦考』脱稿。


12月 

書斎鈴屋竣工


※門人・荒木田尚賢らにより伊勢の林崎文庫復興。西日本大凶作。


 

天明3(1783) 54歳

2月 

『古事記』を村井敬義蔵の古写本で校合。


3月9日

新書斎「鈴屋」で歌会。


※7月7日 浅間山大噴火。諸国で飢饉。


 

天明4(1784) 55歳

6月20日

次男春村、津の小西家養子となる。


6月29日

『漢字三音考』脱稿。


※2月23日 志賀島で金印発見。4月9日 小篠敏来訪。
 
 10月4日 田中道麿没(61歳)。飢饉。特に奥州甚だし。


 

天明5(1785) 56歳

5月 

『詞の玉緒』刊(刊記)。


12月 

『鉗狂人』脱稿。本書が引き金となり上田秋成と激しい論争が始まる(『呵刈葭』)。


◇この年、『玉くしげ別巻』稿成るか。同年の入門者に、松坂の服部中庸、名古屋の横井千秋、遠州の栗田土満がいる。この3人は『古事記伝』に深く関わることになる。服部は『三大考』(『古事記伝』付録)を書き、宣長の古道論を展開し、横井は『古事記伝』の刊行の立役者である。栗田は自分でも写し、版下書きを手伝った。年の暮れより『古事記伝』出版計画が具体化する。


 

天明6(1786) 57歳

10月14日

『古事記伝』巻2版下を名古屋の版木師に送る。


10月23日

『古事記伝』巻19手見せ彫り柏屋から届く。


11月3日

長女飛騨、草深家に嫁ぐ。


◇この年より春庭『古事記伝』版下書き始める。
  同年、『鉗狂人上田秋成評の弁』稿成るか。
 ※夏、小篠敏来訪。この年、帆足長秋来訪、『直毘霊』書写。


 

天明7(1787) 58歳

2月4日

『玉矛百首』刊本出来、届く。


4月14日

真福寺本『古事記』で校合。


10月30日

『国号考』刊。


12

『秘本玉くしげ』稿成る。
 『秘本玉くしげ』、『玉くしげ別巻』を紀州藩に差し出す。


※4月15日

徳川家斉12代将軍となる。


 

天明8(1788) 59歳

5月5日

『宣命抄』抄出。


5月10日

第3回『源氏物語』講釈全巻終業(開始、安永4年1月26日)。


※1月30日京都大火。内裏など焼失。 7月1日荒木田尚賢没(50歳)。


 

寛政元(1789) 60歳

2月3日

宣長六十賀。


3月 

名古屋行き。春庭、大平同行。目的は講義と、『古事記伝』刊行に尽力している横井、鈴木真実らと対面 。版木師・植松有信入門。帰路、鈴鹿山辺の御井、能煩野等探索。


5月29日

『神代正語』稿成る。


※徳川治宝、紀州徳川家10代藩主となる。


 

寛政2(1790) 61歳

4月14日

江戸の安田躬弦来訪。


8月 

六十一歳自画自賛像を描く。


9月

『古事記伝』初帙(巻1~5)刊行。春庭らと上京。天皇の新内裏への行列を拝見する。


※5月、寛政異学の禁。


 

寛政3(1791) 62歳

春頃 

春庭(29歳)眼病にかかる。


2月9日

次女美濃、長井家に嫁ぐ。
 『新古今美濃の家つと』『玉あられ』成る。


5月

『三大考』(服部中庸著)成る。これ以後も訂正を加え、1797年宣長の跋文を添え『古事記伝』付録として刊行。


8月10日

春庭、眼病治療のため尾張国馬嶋明眼院へ行く。


11月10日

春庭帰宅。


 

寛政4(1792) 63歳

閏2月22日

『古事記伝』第2帙(巻6~11)刊行。


3月5日

名古屋行き。


3月27日

帰宅。春庭も同行し、明眼院で再治療し4月23日帰宅。


5月8日

『玉あられ』刊行。


12月3日

紀州侯に仕官(五人扶持)。


※加藤千蔭『万葉集』の注釈を志し、宣長に協力を依頼する。


 

寛政5(1793)  64歳

1月18日

『玉勝間』起稿。


1月24日

『古事記伝』巻34脱稿。『古事記』中巻部分の注が完成。


3月10日

上京。大坂、名古屋を経て4月29日帰宅。各所で講義。京都では芝山持豊卿に対面 する。


9月中旬

『古今集遠鏡』稿本既に成る。『玉勝間』起稿。


 

寛政6(1794)  65歳

3月29日

名古屋行き。同所で講釈をし4月26日帰宅。名古屋門人・鈴木朖も同道するか。


5月17日

遍照寺歌会。鈴木朖出席し、会の様子を漢文で記録する。


10月10日

和歌山に出立。


11月3日

和歌山城で最初の御前講義。


閏11月12日

吹上御殿で最初の清信院への御前講義。


閏11月13日

十人扶持に加増され御針医格となる。


12月4日

帰宅。


◇春庭失明。
 
※殿村安守入門。


 

寛政7(1795)  66歳

2月16日

字を春庵から中衛に改める。


4月23日

春庭針医の修行のため切畑経由で京都に行く。


5月 

石見浜田城主・松平康定侯より駅鈴と歌を頂く。


8月13日

康定侯に対面する。


8月21日

『菅笠日記』刊。


 

寛政8(1796)  67歳

4月6日

『大祓詞後釈』刊。


4月

『馭戎慨言』刊。


7月10日

桑名の宿で松平康定に謁す。


7月

『出雲国造神寿後釈』刊。


9月18日

松平康定侯より依頼された『源氏物語玉の小櫛』の清書に着手。


 

寛政9(1797)  68歳

3月30日

熊本藩校時習館第三代教授高本順、長瀬真幸等を従え来訪。


3月

『美濃の家づと折添』刊(刊記)。


5月

『古事記伝』第3帙(巻1317)、『古今集遠鏡』、『天祖都城弁弁』刊。


8月6日

春庭、京都より帰る。


12月16日

春庭(35歳)、壱岐(17歳)と結婚。


 

寛政10(1798) 69歳

『伊勢二宮瞭瞭弁』(『伊勢二宮さき竹の弁』初稿)稿成る。


6月13日

『古事記伝』44巻脱稿。全巻終業。


7月2日

『家のむかし物語』清書。


9月13日

『古事記伝』終業慶賀歌会挙行。


10月13日

『うひ山ふみ』稿成る。


12月10日

『神代紀髻華山蔭』清書終わる。


 

寛政11(1799) 70歳

1月21日

和歌山に出立。


2月

稲懸大平(44歳)を養子とする。


2月25日

吉野水分神社参詣。


2月28日

帰宅。


3月16日

七十賀を三井の別宅畑屋敷で開く。『訂正古訓古事記』の序を書く。


5月

『源氏物語玉の小櫛』刊行。


 

寛政12(1800) 71歳

1月

文机を大平に譲る。


7月

『遺言書』執筆。


9月17日

山室山に行き墓地の場所を定める。


10月18日

『枕の山』稿成る。


11月20日

和歌山に行く。


 

享和元(1801) 72歳

1月3日

和歌山城内でお流れ頂戴する。


3月1日

和歌山より帰郷。


3月28日

講釈のため上京 


5月23日

妹・宮崎俊没(62歳)。


6月12日

帰宅。


6月下旬

九州肥後国門人帆足長秋、娘の京松坂を訪い『古事記伝』書写 に掛かる。


8月16日

『鈴屋新撰名目目録』起筆。


9月頃

殿村安守、鴨川井特に依頼して宣長の姿を描かせる。


9月18日

発病。


9月29日

早朝没。この時の門人数488名。
 
※門人横井千秋、小篠敏没。宣長没した直後に伴信友の入門願いが届き、没後の門人となる。



宣長を調べる楽しみ

宣長を調べる楽しみ


 
 宣長を調べる醍醐味の一つは、72年の生涯を宣長自身の筆でたどることが出来る点にあります。『日記』の記述は出生前後まで遡り、ほぼ生涯に及び、葬儀についてもその次第を指示する『遺言書』や「碑面下書」などが残ります。
  それを補うものとして日常諸記録や、『家のむかし物語』など家史、『玉勝間』に載る回想記事、そして自画自賛像が伝来します。
  また、興味関心の推移や研究の過程については、覚書や旧蔵書、自筆稿本類が残されています。例えば宝暦10年(1760)頃は、宣長が『冠辞考』を読み『古事記』研究方法を模索していた時期ですが、『本居宣長随筆』や写本、諸記録を見ると『今昔物語』などの中世説話や、『吾妻鏡』、『明月記』などをこの前後集中して読んでいることもわかります。

  次に、一つ一つの事項が孤立しないで関連している点です。
  例えば、『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』寛政2年11月条に、出雲国大庭村の神魂社神主秋上得国の名前が見えます。『古事記』手沢本には対面時の秋上氏の話のメモが貼り付けられ、『本居宣長随筆』では、対面が京都であったことが書かれ、その時の話も整理されて記述されます。また、板本『古事記伝』巻十「おひつぎの考」は、秋上氏の話による加筆です。秋上氏のことは門人横井千秋に宛てた宣長書簡にも見えます。これらのことは、『本居宣長全集』でもある程度までは調べられますが、手沢本などを見ると一層広く深く関係を探ることが出来ます。
  また、特に天明・寛政・享和年間の情報の豊富な点も、調べる楽しみを倍増させます。現在作成中の「本居宣長年譜(HP版)」には、ほぼ毎日の動向が記されます。
  先頃開催された東京古典会(平成14年11月24日)出品の「本居宣長書状 千家清主宛、一幅」の写真をよく見てみましょう。まず、「当夏迄に古事記伝終業仕、生涯の大望成就仕致候、大悦仕候」と書かれていて、『古事記伝』が全巻終業した寛政10年書簡であることが推定されます。またこれを『本居宣長全集』第17巻「書簡集」や、同別巻3「書簡集補遺」で確認すると載っていないので、新出書簡であることがわかります。

  次に、11月6日という日付に注目しましょう。「本居宣長年譜(HP版)」には、「11月6日、千家最上から砂糖漬けと扇3本、千家清主から出雲海苔1包み貰う。」という記事が載り、典拠として「『音信到来帳』第3冊(20-353)」が引かれています。一方、書簡の中には、「扨此度者茂賀美君、御参宮にて御来訪被下久々にて得貴意大慶不斜奉存候、御地御様子も承別而大悦仕候」とか、「名産の海布一包御恵投毎度御懇情不浅」と書かれていて、二つの記事はきちっと符合するのです。
  展示室では保存会の研究員が行ったこのような研究や調査の成果を公開しています。また今後は、このホームページでも報告をしていく予定です。
  さて、宣長資料を散逸させることなく現在に伝えたのは、長男春庭とその子孫たちです。また、松阪には生涯の大半を過ごした家やその宅跡、奥墓など関連史跡も数多く残されています。資料だけでなく史跡も併せ見て頂くと、宣長理解が一層深まると思います。

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